「子どもを何とかしろ」という声が聞こえた(坂本弁護士一家殺害事件)

中川智正被告が一番語るのが辛かった事件が、坂本弁護士一家殺害事件と思います。
中川智正さんにとっては、
オウム真理教に出家して2か月後に加担した殺人事件だったのだから。
坂本弁護士一家殺害事件について法廷で証言をし始めたのが、
2000年7月の自身の公判でした。
(「朝日新聞」2000年7月28日朝刊)

坂本弁護士一家殺害の謀議の場で、教祖の指示は何という言葉だったのでしょう。
例えば、岡﨑一明さんは「ポア」という言葉を教祖が使ったといい、
それに対して、教祖は「ポアなんて言ってません!」と言い返していました。
※この件に関する動画は、青沼陽一郎氏作成の動画が詳しいです。



中川智正被告の証言によると
殺害を意味する宗教用語の「ポア」ではなく
「やる」などという直接的な言葉で指示した
ということでした。
これは他の被告とは異なることでした。

さらに、坂本弁護士の息子さんだけではなく、妻の都子(さとこ)さんを殺害したことも
認めました。

事件については、
「二日前に実行犯らが松本被告の部屋に集められ、
教団を批判する記事を掲載していた週刊誌『サンデー毎日』の当時の編集長を
教祖と村井秀夫幹部が話し合った結果殺害する計画になった」

しかし、編集長が家に帰らないという話が出た時に
教祖が突然「坂本弁護士はどうだ」と言ったことで
殺害対象が坂本弁護士に変わったと主張しました。

坂本弁護士の名前が出た理由については
「説明がなかった」とのこと。

犯行の状況については、村井秀夫幹部が都子さんの首を絞めていたのを見て
「けい動脈を押さえなければ」と自分から言い、
村井秀夫が「代わってくれ」と答えたため
柔道の絞め技を使って首を絞めたと供述。
「私が絞めている間に奥さんが亡くなった可能性が高いと思う」と。

この2000年7月の公判の時以上に中川智正被告自身が落ち着きを失ってしまったのが
2001年3月9日の麻原第187回公判でした。
(「朝日新聞」2001年3月28日朝刊)

殺害場面に関する尋問の際、異様に興奮し、何度も証言台に突っ伏してしまいました。
法廷イラストはこちら。

証言によれば、共犯者の一番後ろから寝室に入った中川智正被告は、
他の共犯者が一斉に坂本弁護士に攻撃するのを
しばらく室内でぼうぜんと立ったまま眺めていたと。

すると、足元で、幼児が泣き始めました。
そのとき、中川智正被告には「子供を何とかしろ
という声が聞こえたといいます。
それは仲間の誰かが叫んだのではなく、
自分の心臓の中からの声」だと思ったと。
その後、隣で奥さんを攻撃していた「村井さん」の首の絞め方が十分ではないのが
分かったので、思わず「けい動脈!けい動脈!」と口走りました。
自分が過去世で『麻原尊師』にけい動脈を絞められて殺された記憶が
あり、それには宗教的意味合いがあると考え

「村井さん」に代わって柔道の技で奥さんの首を絞めたーーーというのでした。

この話は捜査段階ではなかったと検察側が追及

「そう主張するのは、自分の責任能力を争って軽くしようと考えているからではないか?」

それを言われてますます中川智正被告は興奮。
「たしかに書いてない。
検事さんはその話をしたとき、
笑って聞いてくれなかったじゃありませんか


そう言って、それまでも何度もメガネを外して、
証言台に顔を伏せるようにしていた中川智正被告は
そこに突っ伏して、長い時間、何も話そうとはしなかったとのことでした

さらに「朝日新聞」2002年4月20日朝刊。

この前日19日に、自身の公判において坂本弁護士事件関係の最後の被告人質問がありました。
その時にも「おわびのしようがない」と証言台に突っ伏して泣きだしました。

「自分の中には『教祖』松本智津夫(麻原彰晃)被告の想念が入り込んで来て、
自分は教祖と一緒にいるいう
笑い出したいような歓喜を感じた』」とまで供述。

なぜ事件に関与したのかの問いには

「一言で言えば、麻原氏の意識と自分の区別ができなかったから

「自首という発想はなかったが、
麻原氏がしろといったらしたし、死ねといったら死んでいた」と語りました。
この日の供述中、中川智正被告はずっと泣き続け、興奮し続けていたようですが、
たった一度、涙で途切れたのは。

オウム真理教被害者の会の一員として活動していた自分の母親が
事件後も息子の関与を知らずに、坂本弁護士一家の墓参りをしていることを
最後に語ったとき、ただ一度だけでした。

「遺族ははりつけにしてほしい、言っているというが、返す言葉はない」と
謝罪の言葉を語ってしばらく泣いた後、

それでも以後教祖の側近でいて事件に関与し続けた心境を聞かれると
中川被告は
怒られるのは嫌だったが、そばにいることが無条件にうれしかった
と「教祖」への思いを繰り返して泣き続けるという様子でした。

おそらく2002年の最後の被告人質問の時は、
中川さん自身がすべてありのままに語る覚悟で供述していたのだと思います。
特に神秘体験について。
言葉にするだけで自分自身何を語っているのか分からなくなるのを分かったうえで
壊れた姿を法廷で晒してまでも、神秘体験についてこだわって話していたことが
わかります。
これは、最初に新聞記事を読まなかったから、
私は分かったような気持ちになっているのだと思います。
これまで、私も中川さんの神秘体験を読んできています。



自分の母親が、自分の殺害した人物の墓参りをしているところは
泣かないで話すことが出来ていたけど、
自分の「心臓の中の声」について語るとなると
興奮状態になってしまっている姿がよくわかります。

当時の「朝日新聞」記事では、
「中川被告は自分のためにしか泣いてないのではないか」と書かれています。
それは、当然かと思います。
まさか、「巫病」「感応性精神病」「解離性精神障害」であるとは
新聞記者も、読者もわからない。
何で中川被告はこんなに興奮しているのだろうという
不思議な気持ちになったのではないでしょうか。

教祖との関わりは過去世からとも感じていたことも
宗教に疎い傍聴席の存在がないかのように
泣きながら言葉を探して語る姿。
これもまた、一つの人間の姿なのだ、と。
とりあえずでしか、理解できないです。
ここで、中川智正さんの中では
母親<教祖(過去世)と
教祖の存在が自分の中で親よりも大きいと考えていたことも
また、事実だったのでした。
坂本弁護士事件関連の新聞記事は、毎日新聞より、朝日新聞
(降幡賢一記者)の記事が詳細でした。

出典:降幡賢一『オウム法廷13』



毎日新聞社会部:『検察側立証すべて終了―オウム「教祖」法廷全記録〈7〉』

殺害目的はなかった公証役場事務長拉致事件

地下鉄サリン事件の遠因とも評価されている公証役場事務長拉致監禁致死事件。
アンソニー・トゥ博士は、麻酔剤「チオペンタール」を中川智正被告が被害者に注射したこの事件を
一種の科学テロだとも書かれています。(126頁)

公証役場事務長の妹はオウム真理教の信者であったが、脱会しようとして教団から逃亡しました。
教団は「信徒となったのに義務を果たさないので追及するため」に、
兄である仮谷清志氏を誘拐し、妹の居場所を突き止めようとしました。

東京で仮谷氏を誘拐した井上嘉浩、中川智正らは東京から上九一色村へ車で運んだが
仮谷さんを死亡させてしまったというものです。

これは「対話本」に興味深い記述があります。

トゥ博士:「なぜ妹さんの住所を聞き出すために、その兄を誘拐したのですか。
      本人が教団を嫌になったのに、なぜ強引に探し出すのですか」
中川:「その妹は、教団の信徒となったのに義務を果たさないので、
            それを追及するだけのことでした。


トゥ博士が「脱走者を連れ戻すのは教団として当然の話であり、まったく悪いと思っていない」
と中川が答えたことに驚いておられました。

私も改めて驚いた箇所でもありますが、
中川智正さんが特別手配者になったのは、1995年5月12日、
愛知で脱走者を連れ戻すため住居侵入をしようとしたという事件だったのを思い出しました。

中川智正さんだけではなく、教団附属病院に所属する医師たちはこうした脱走信徒を拉致監禁するために
医師の立場を使って麻酔薬を注射したりしていたり、死亡した信徒を火葬まで管理するというような
ことをしていたようです。
「読売新聞」1995年6月8日朝刊によれば、
教団では入信の際に、葬儀は麻原彰晃(本名:松本智津夫)に任せるという趣旨の誓約書もとっていたと
あることから、死亡診断書の作成をしていただろうこともうかがえます。



「読売新聞」1995年5月15日の記事では
教団附属病院所属の医師たちのほとんどが逮捕もしくは指名手配中だと
出身大学まで一覧表にし、彼らは、諜報省のメンバー(井上嘉浩など)と協力し、
教団の非合法活動を支えてきたと見られていると報道していました。

結局は逮捕され医師免許を返上したのは、中川智正と林郁夫のみでした。
(あと出所後に医師免許はく奪者が一名。
その元信者は医師免許を所持していたが、医院附属ではなかった)

教団附属医院は、東京都中野区にありました。
ついでに、あまり知られていないことですが、
中川智正さんは何と「中野区民」だったのでした。
(中川智正さん本人もどこに住民票があるのか分かっていなかったと思います。
本人は7年間富士山麓で生活していたつもりでいたかもしれませんが、
附属医院開設の時に顧問として名前を出す際に住民票が移されてしまっていたのでしょう)
・・・となると、中川智正さんは28年間「東京都民」だったということですかね?

逮捕後、「反省を形にするため」「死刑になるのでもういらない
(麻原第249回公判、2003年2月27日)ということで
自分から医師免許を国に返上したときの手続きで、
初めて中川智正さんの住民票が中野区に登録されていたことが分かったのでした。

本人はおそらくどこに住んでいてもいいという考えでしたが、
医師免許を返上するにあたり折衝に当たったのが、中野北保健所でした。
実家のある岡山市のご両親と連絡をとり、両親が面会の際に本人直筆で署名させて
国に提出したのでした。
中川智正医師免許返上をきっかけに、
オウム真理教附属医院を廃院にすることが出来たのでした。



中野北保健所の職員だった方の貴重な手記です。
医院開設の際も、オウム真理教らしく、提出書類が不備なのを棚に上げて権利を主張してきて
結局開院に至ることとなるし、施設内部も到底医院とは言えない不清潔なものであったこと、
保健所から東京都、厚生省まで書類を上げたりすることに数か月
(中川さん免許返上にしても本人は6月に返上していると言っているけど、
結局国が返上を認めたのは8月。これは書類のやりとりや審査に時間がかかったため。
厚生省の不手際を補うかのような現場の中野北保健所の職員さんたちのマスコミ対応と
国との煩雑な書類のやりとりを乗り切ったチーム力は素晴らしいと思いました。)

話を「対話本」の仮谷さん拉致事件に戻しまして

トゥ博士:「どういう風に仮谷氏に注射して殺したのですか」
中川「これは殺人ではありませんよ。誘拐事件でした。
   裁判の判決結論でも殺人事件ではなく誘拐事件と言っています。」

トゥ博士:「麻酔剤を多く打ちすぎたことによる過失死でしたね」
中川:「違います。多く注射しすぎたのではなく、麻酔の状態が長すぎたのです
   一度に多く注射するのは殺人行為です。
   通常の量を使っていたのですが、麻酔の時間が伸びてしまったのです。
   そのために体内に大量のチオペンタールナトリウムが蓄積し、
   仮谷さんは副作用が起こりやすい状態となり
   その時に私がそばにいなかったために亡くなりました」

この時の中川智正さんは少しムキになって語ったようでした。

さて、この仮谷清志さん拉致監禁致死事件について、教祖の裁判などでは
中川智正さん自身はどのような答え方をしていたのでしょうか。

麻原第166回裁判(2000年9月7日)での証言
(出典は、毎日新聞社会部『名称変更で存続を図る―オウム「教祖」法廷全記録〈6〉2001年。
こちらには、教祖公判142-179回までの記述が掲載されています)



検察官:「拉致事件に関与しましたね」
中川:「はい」
検察官:「いつでしたか」
中川:「平成7(1995)年2月28日の夕方です」
検察官:「車内に仮谷さんを連れ込んだ時、仮谷さんはケガしていましたね」
中川:「頭というか額を打撲して、切れて出血していた。3センチぐらいの傷でした」
検察官:「車を出発させてからどうしたのか」
中川:「仮谷さんのふくらはぎに麻酔薬を打った」
検察官:「何という薬だったのか」
中川:「ケラタール」 
検察官:「通常の量か」
中川:「170ミリグラムぐらい。体重を50キロほどと見積もったので若干少ないかな、という程度」
検察官:「薬を打ったらどうなったのか」
中川:「1分で目の焦点が合わなくなり、2、3分で眠った」
検察官:「それから何かしたか」
中川:「点滴を打った。チオペンタールも投与した」
検察官:「井上嘉浩(被告)が新たな車を借りて戻ってきたときはどうしたか」
中川:「その時使っていたワゴン車と同じ車種だったので、別の車を用意するために出て行った」
検察官:「同じ車種だと、どうなる?」
中川:「目立つという事だった」
検察官:「警察に対して?」
中川:「そういうこともあったかもしれない」
検察官:「仮谷さんの容体はどうだったのか」
中川「息を吸い込んだまま吐かなくなった」
検察官:「何か処置したか」
中川:「体を横向きにしたら呼吸を始めた」

中川智正被告らは上九一色村につくと、治療省トップ林郁夫(当時服役囚)の部屋に仮谷さんを連れていった。
教団を脱会した仮谷さんの妹の居場所を聞き出そうと、
ナルコ(麻酔をかけて半覚醒状態にして情報を聞き出すこと)をかけてほしいと依頼したとのこと。
このあたりの話をしている時の中川智正被告は、肩を回すなどして落ち着きがなかった様子でした。
検察官:「仮谷さんへの睡眠薬の投与量は医者としてどう思うか」
中川:「当時は教団内で非常にたくさん使っていて、多いとは思わなかった。
勉強不足で非常に申し訳ない


※この証言より、当時の教団脱会者や戒律を破った者などの処置に医師免許を信者は
薬物を多用しすぎて、医療行為をすること自体にも麻痺していたことがうかがえます。

検察官:「投与の目的は」
中川:監禁するためです」

検察官:「林郁夫は何か話していたか」
中川:「『多かったですか』と聞いたら、『そんなもんじゃないでしょう』と」
検察官:「ナルコで仮谷さんの妹さんの居場所は分かったのか」
中川:「聞き出せなかった」

検察官:「目覚めたら、また投与すると」
中川:「まあ、そうです。指示があれば帰し、なければ眠らせる。村井(秀夫)さんが
『帰せないかな』といっているのを聞いた。自分もそう思いました。」
検察官:「本当に帰せると思ったの?」
中川:「それは私が決めることではないし・・・」

検察官:「ニューナルコって何ですか」
中川:「頭部に電気を流し、記憶を消す方法です。村井さんは、『帰しても、警察で問題にならないか』と」
検察官:「で、結果は?」

中川:「村井さんは、『やはり帰せない』と
検察官:「村井は、「塩化カリウムを注射してはどうか』と話したが」
中川:「殺害するためと思いました
『(事件の時に来ていた服は)早く燃やした方がいい』とも言われました」

検察官:「村井は戻って来てから何か話しましたか」
中川:「仮谷さんを殺すということで、男性信者に首を絞めさせる、と」

検察官:「どうして麻原の指示と思ったのか」

中川:「村井さんの言っていた話が最初言っていたことから変わったからです

ここで、中川被告は、男性信者を誰か連れてくるよう井上嘉浩被告に電話で伝えるため、仮谷さんのそばから離れたことを
話しました。

検察官:「戻るとどうなっていましたか」
中川:「(仮谷さんは)亡くなっていました。何が起こったのかと、脈を見ました」
検察官:「死因は窒息」
中川:「そうです、(原因は)麻酔薬です」

この次(第167回、2000年9月8日)の麻原公判では、
時期を遡り、滝本弁護士殺害未遂事件に関する尋問でしたが、

ここで、検察側証人として出廷した中川被告は林郁夫被告について、こんな風に表現しています。

麻原弁護人:「(滝本弁護士殺害にあたり)林さんを連れて行こうと思った理由は」
中川:「何となく不安があった。
試験の時にお守りを持っていくのと同じで、いてくれると安心する
また、(実行役の女性が誤ってサリンを吸ったときに)私が治療したら怒られると思った」
麻原弁護人:「なぜそう思ったのか」
中川:「私は麻原さんから女性に甘いと言われ、
女性に治療をして楽しんでいる
と見られていた」

結局この事件の時には林郁夫被告とは合流に失敗しています。

当時、麻原は林郁夫が信徒の拉致に失敗していることを挙げ、
中川に『あいつは心が弱いから積極的に使え』と言っていました。

中川智正さんと林郁夫さん、教団内において、同じ医師同士の関係ですが、
中川智正さんは、研修医途中で教団に出家しているため、医療技術に自信が今一つもてなかったようです。
心臓外科医としてのキャリアを持つ林郁夫さんの医療技術を信頼し、頼っていたことがわかります。

ぞのような中川智正さんの医療技術を未熟と感じた林郁夫さんは、
教団内でも麻酔薬の大量投与による信徒死亡例があるにも関わらず、
中川に情報共有しようとはしなかったこと、
仮谷さん事件でも責任を中川智正さんに押し付ける傾向があるらしく、
中川智正さんは
治療省の人間に聞いてほしい。
林さんがしていたこと、事実が明らかになる。
仮谷さんが狭心症を患っていると知って不安になって中川が林に相談した時、林は「大丈夫でしょう」といったから
ナルコを始めた、林さんが心臓の専門家だから信頼したのに
」という内容の不満を漏らしました。
(このあたりの記述は、降幡賢一『オウム法廷』12)



中川智正さんは坂本弁護士一家殺害事件での殺人経験
教祖や村井に買われてしまったのだと思います。
それが教団内での序列にも影響していたのでしょう。

なお、殺人経験の面では、青山弁護士や遠藤誠一さんは教団に大切にされていたので、
殺人現場に行かない人だったと、中川智正被告は答えています。
(この部分は、麻原第166回公判)
中川智正さん自身は、殺人経験が教団に買われたため、
その後の事件でも使われてしまっていたことを自分でも意識はしていたけれど、
やはり殺人行為は嫌だったということがわかります。

中川智正さんは、教団附属医院顧問の肩書はあれど、
他の医師免許を持つ信徒でさえ、何をしているのかわからないことが多々あったようでした。
「くったくのない、子供ような明るさがある人でした。
でも何をやっているのか私たちにも分かりませんでした。
時々、『借りていくね』と注射器をもっていったことはありましたが、
何に使うかもわからないし、特別なワークがあるんだろうな
と思っていました」
とは、元信者の言葉です。(出典:『週刊文春』1995年8月17-24)

仮谷清志さん拉致監禁致死事件を裁判の記述で改めてみると、
最初は拉致して居場所を聞き出すことで精一杯なところに、
突然、麻原の意を受けた村井の一声で
殺害するという方向に転換したことが分かりました


私が1995年のこの事件を当時テレビや新聞で見た時には、オウム真理教の恐ろしさ、カルト宗教の恐怖さを
まず第一に感じたものでした。
自分は絶対にカルトには関わらない自信をもってテレビ番組を見ていたことを思い出します。

それから23年経った今、こうして毎日新聞社会部の公判を読み直すと、
オウム真理教の計画の立て方の行き当たりばったりさに目がいってしまいます。
それは、まるでどこかの企業での人使い(直接手を下す殺人までには至っていないけど)
の酷さによる自殺事件や労働トラブルを想起させるものです。

毎日、我が国の組織のどこかであるようなことでは・・・。
当初の計画が倒れて、それを埋めるために人を酷使し、組織も人も破滅に至る。

だから、中川智正さんの証言を読んで、
中川さんが冷酷とも曖昧模糊だとも思えなくなっている自分がいます。

自分自身もまた、組織の歯車として、派遣社員としていくつかの企業の末端に連なり、
日々人間扱いされないことに慣れてしまっているから。

オウム真理教は、我が国全体よりも20年先を行っていたのではないか?と

中川智正さんと、私との絶対的な違いとは・・・

麻原第180回公判(2001年1月11日)
(こちらは、毎日新聞社会部『検察側立証すべて終了―オウム「教祖」法廷全記録〈7〉2002年)

弁護人:「仮谷さんの呼吸が止まっていたことに気づいた時、何が異常だと思いましたか」
中川:「私は人が死んだとき、わかるんです
あれ、おかしいな。誰かなと思っていたんですが、仮谷さんが亡くなっていたのです。」
弁護人:「どういう感じですか」
中川:「光が床に降ってくるんです
その時は別の信者と話していて、仮谷さんが亡くなったとは思っていなかったので、あれとおもったのです」

この感覚が私にはない、ということです。

これが、のちに佐々木雄司先生らによって
「感応性精神病」「巫病」と判定され、
信仰と科学の谷間に陥ってしまった一人の人間の姿なのだと、
とりあえず受け止めておきます。

4年ぶりの尋問再開(地下鉄サリン事件)

松本サリン事件について、正確に語りだした中川智正被告。
黙秘をしていた地下鉄サリン事件についても、
麻原第184回公判(2001年2月9日)以降、証言を始めました。

当時の朝日新聞では、このような取り上げ方でした。

かなり大きい。
法廷イラスト入りでした。
しかし、この日の傍聴者は33名

捜査段階では、中川智正さんは
「サリンは地下鉄に使われると知っていた」と認め、
サリンの原料ジフロについても
「教団がそれまでに作ったサリンや中間生成物を1995年1月に処分した時に
もったいなく思い、自分が保管した」と供述していました。

朝日新聞のタイトルには「4年ぶりの尋問再開」とあるように
麻原第24回公判(1997年1月31日)に検察側証人として出廷したときには
中川智正被告は黙秘を続けていました。

ただ、この日、「井上嘉浩さんとは仲は良かったのですか?」と問われた時
よかったと思います。入信して初めてできた知り合いです。
ステージ的には井上くんがかなり上でしたが、ちょこちょこ話をしました。

とは答えたものの、その後は、問いかけには答えず
両手を太ももの上に置き、こわばったように動かなくなってしまいました

麻原弁護人から
「しつこいですが、ジフロを上九一色村に持ってきたひとは」
「保管したのは井上さんであることを否定できますか」
にも
「ふーん」とうなったきり返事をせず、しまいには
「ちょっと勘弁してください」と言い出す感じで、黙秘を続けていました。



それから4年・・・。
中川智正被告は地下鉄サリン事件において
サリンの生成と袋詰めに関与したことを法廷で初めて認めました

中川:(1995年3月)18日夕、村井(秀夫元幹部、故人)さんが私の部屋に来て
『これからサリンを作る』と言いました。
検察官:「その使用目的は」
中川:「聞いていません」
検察官:「生成に着手したのはいつか」
中川「19日夕方だったと思います」
(サリンは19時から20時ぐらいに完成し、村井の指示でビニール袋に詰めたとのこと)
検察官:「何袋作ったのか」
中川:「10個前後です。」
検察官:「個数は誰が決めたのか」
中川:「遠藤(誠一)さんです。」
検察官:「出来上がったサリンはどうしたのか」
中川:「遠藤さんがどこかへ持って行った」

検察官:「(中川が)逮捕された後、しばらくしてから話をするようになった。本当に反省したから真実を供述したのではないのか」
中川:「自分は死ねばいいと思っていただけで、正確に言わなくてもいいやと思っていた
(サリンの使用目的について)私はそうした事柄を教えてもらえる立場になかったと言いたかったが、
捜査員から『知っているはずだ』と言われた

麻原第191回公判(2001年4月6日)においては

弁護人:「1995年3月18日にサリン生成を始めたが、あなた(中川)と遠藤が中心か」
中川:「評価は任せます。そう言われても仕方がない」
弁護人:「前年に松本サリン事件があり、1995年1月1日に読売新聞でサリンの記事が出た。
だからもう発覚を恐れてつくらないことになったのではないか」

中川:「そうです。ぼくはそう思っていた」
弁護人:「サリン生成は教団の方針に反するのでは」

中川:「教団に一貫した方針はない。だから方針に反しているとも思わない
弁護人:「サリンをつくることを上層部は考えていたのか」

中川:「あの、考えたから作ってしまって、まいてしまった」

弁護人:「サリンの使用目的だが、捜査調書では村井から『地下鉄にまく」と聞いたことになっている。
あなたにとっては重要な問題だ。なぜ事実に反した調書に署名したのか。」
中川:「たくさんの人が亡くなっているし、結果は争いがない。ごちゃごちゃいうつもりはなかった
(中略)
弁護人:「松本サリン事件で騒がれた後なのに、また作る気になったのか」
中川:「つくりたいか、つくりたくないかと言われれば、つくりたくない。
    好きではない。でも指示があればやる

麻原第194回公判(2001年5月10日)においては

弁護人:「地下鉄サリン事件が起きたと、どこで知ったの?」
中川:「3月20日の昼頃。第6サティアンの2階で。人が何人も死んだと聞いた。
自分が生成に関与したサリンだと気づいた。教団の仕業だということも分かった。」

弁護人:「知った時の気持ちは」

中川:「一言でなかなか言えない。知った時点でですか。
もちろん遺族の方、知り合いの方は嘆くだろうとは考えた」

弁護人:「今はどう思う」

中川:「やっぱり、やってはいけないことだろうと思います。」
弁護人:「なんだよそれ、当たり前のことでしょう」(苦笑)

中川被告はしばらくうつむいて、苦悩しているような様子を見せたあとで

「そうですね。それ以外、何をしても償えない。
亡くなった人を生き返らせればいいのだけど、私にはできない
責任の取り方は結局そこに行きつきます。
私が起訴された事件だけで24人もの人が亡くなっている。
関係した事件ではもっと多い。
私がのうのうといきていること自体、まずい。いけないことだと思います

そして、麻原第193回・194回公判において、朝日新聞の降幡賢一記者によると



中川被告は、これまでかばっていた共犯者、
特に井上嘉浩被告に対して告発姿勢に出るようになりました。

どうしてこれまでかばっていたのか。
「捜査当時は地下鉄サリン事件の殺人容疑で、4,50名の仲間が逮捕されていた。
僕は死刑になるか獄死するからいいが、
僕がサリンをつくったことを認めることで彼らは関係ないことを証明したかった。
そしてその後、僕は黙秘するつもりだった」
とのことでした。

しかし、この2001年以降は
地下鉄サリン事件の提案者は実は井上嘉浩被告だったとまでいうようになりました。
「それは事件後サリンのことや、ジフロのことも井上嘉浩被告が言っていたので、井上が事件を提案したのかと思った」
そして、井上嘉浩さんが中川さんに
マンちゃん(村井秀夫)なんて、なんにもしていないんだよ
私が犯行には車が必要だといったのに、
マンちゃんは新幹線で帰ってくればいい、というくらいだったので、
車を使うように言ったのも私(井上)だ」と。
このときすでに、サリン事件実行犯・林泰男被告も、
同様の提案を井上が言っていたと裁判で証言していたので、
中川被告としてはもう自分がかばわなくてもいいだろうと
思うようになったのかもしれません。

この中川被告の証言も、井上嘉浩被告の裁判に与えたインパクトは大きかったと思います。

また、村井秀夫さんの教団内の権力は大きかったけれど、
実行力がなく部下任せ
実現不可能なことを命令するので、部下からみて無責任な人だということも言われるようになります。
井上嘉浩さんが村井秀夫さんを、
本人がいないところでは
「マンちゃん」
(村井のホーリーネームが「マンジュシュリー・ミトラ」より)
と呼んでいたあたりは、あまり知られていないところかと思います。

2016年、すでに中川智正・井上嘉浩さんとも、確定死刑囚となっていたときに
中川智正さんが書いた論文によれば、
サリンの原料ジフロの原料は、村井秀夫さんの指示で井上嘉浩さんが保管。
中川智正さんとしては、嘘をついたのは、まだVX事件が発覚していなかったからとのことでした。

井上嘉浩さんは自分に不利な事を自分からは言わないと思われたので、中川さんは

自分ががサリンをつくるために隠し持ったこととして、
上九一色村の教団施設のクーラーボックスに放置したことにしたと。
そして、それはそのまま裁判として確定しました。

その後、中川智正被告本人の裁判となったときにはすでにVX事件が発覚していた後だったので、
法廷で実は井上嘉浩さんがサリンの原料ジフロを持っていたことを話すことにしたと
書かれています。
朝日新聞の降幡賢一記者や毎日新聞社会部の記者がいうような
「オウム真理教幹部内の美学」があったかどうかについては
この論文からはうかがえないのですが、
それは化学論文の雑誌に掲載するもののため
人間の気持ちなどは極力排して書くものとして、気持ちの面は書かないよう努めたのでしょう。

中川智正「当事者が初めて明かす サリン事件の一つの真相」(『現代化学』2016年8月号)


松本で「魔法使いをまく」と指示を受けた(松本サリン事件)

中川智正被告が、初めて麻原公判で松本サリン事件の指示者が
教祖と村井秀夫幹部であったことを語ったのは、
第179回公判(2000年12月21日)でした。

1994年6月20日頃、第6サティアンの「尊師の部屋」で話し合いがあり、
その場いたのは教祖のほか、村井秀夫、新実智光、遠藤誠一・中川智正被告でした。

中川被告は、
「麻原氏から話がありました。松本で『魔法使いをまく』という趣旨です。
教団内で製造したサリンのことです。」
さらに
「村井さんが、『裁判所に昼間(サリンを)まく』といいました」
検察官は、謀議の内容を丹念にたずねていく・・・。

※結局この時裁判所に昼間撒く予定が、時間にルーズな村井秀夫のために
夕方にずれ込み、宿舎近くに撒くこととなった。
村井秀夫の時間のルーズさは「マンジュシュリー(村井のホーリーネーム)タイム」
と言われるほどだったと

松本被告(麻原彰晃)は、噴霧車を使ってサリンをまくことを認識していたか
それは、もちろんです
中川被告は証言台に乗せた手に力を込めて、はっきりと答えました

出典:毎日新聞社会部『名称変更で存続を図る―オウム「教祖」法廷全記録6

毎日新聞の法廷絵師さんは細かいところまで書いているなと思いました。
本当はこのシーンではないのですが。

私は読売新聞の絵師の書いたのは下手だと思いました。
中川智正さんが靴ではなくビーチサンダル?のようなものを
履いているような描き方をしていたのです。
それはないだろうと思いました。

なお、このころの中川さんは、かなり毎日のように裁判に出ていたため
かなり精神的にも疲労困憊状態だったのではと思います。
それでも裁判を休むことはなく出てきていました。
なぜ疲労困憊か。
それは、一番最後の記述を読んで、「お察しください」
きっと、この部分を正確にテレビ放送は出来ないでしょう。
では裁判に戻ります。

松本サリン事件については、麻原公判第184回でも
(2001年2月9日)
中川被告は弁護側証人として出廷しています。
この時にも再度、中川被告からみてサリンの効果がどうなのかを
麻原弁護人から質問されています。
「松本サリン事件の時もサリンの効果が弱いのが前提だったのか」と。

中川「そうです。
   滝本太郎弁護士サリン襲撃事件でも効かなかったのは皆知っていた。
   新実(智光)さんは分かっていなかったかもしれないが」

6月20日頃の「尊師の部屋」での謀議では何のために招集をかけられたのかと問われ、
中川「よく分からない」
弁護人「目的もなく、たまたま集まって、松本でサリンをまくことになったのか」
中川「わかりませんね」

その後、中川被告が準備したサリンの解毒剤の形状や商品名について弁護人が細かく質問すると、
阿部文洋裁判長が、
「これ以上細かいことを聞かなくていいでしょう」と諭し、
弁護人が「成分が表示されていないものがあるのではと言っている」と声を荒げると
阿部文洋裁判長は、「だからどうだっていうの?」と苦笑する場面もありました。

麻原公判第186回(2001年2月9日)においても弁護側証人出廷した中川被告に対して

弁護人「サリンの毒性について、村井さんは何か話していましたか」
中川「何も言っていません」

弁護人「池田大作(創価学会名誉会長)襲撃事件では1回目が600グラム、2回目が3キロ。
どうして、松本サリン事件では20リットルなんですかね」
中川「明確なことはいえないが、サリンの拡散を考えたら、これでも少ないかなと思いました。
屋外で拡散した場合ですが」

中川被告は腰に手を当てて宙をにらみ、記憶を一つ一つ思い起こしながら話し続ける。

弁護人「中川さんやってくれと、村井さんは話したの」
中川「あんたがやるんだ、という感じで選択の余地はなかった
弁護人「実行の指令は」
中川「94年6月26日に、自分の部屋に村井さんが来て、一言『実行する』と。
場所も聞いていません。明日やる・・・という感じで


弁護人「遠藤誠一さんとレンタカーを借りに行きましたよね。下見もしたでしょう」
中川「警察署や裁判所を見ました。ぐるっと回った感じで、
   お城は国宝だと分かりましたね」

弁護人「検察の調書に注入作業中に関して
   『サリン中毒になるのではと気が狂いそうになった』とある」
中川「クシティガルバ(土谷)棟の中で注入作業をしたが、
   狭くて背中を曲げての作業だったので、なんでこんなことをしなければならないのか、
   作業が嫌になったので狂いそうに思った」

弁護人「『狂いそう』の意味が違うのか」
中川「慎重にやったが、死ぬとは思っていなかった。
   検事が補足して、そう書いたが、訂正を申し入れることはしなかった」

弁護人「警察調書ではサリンの『致死性」に言及していない。検察調書では『非常に危険なガスで死ぬ』となっているが」
中川「検察段階で否定したが、検事は書いてくれなかった」
(中略)
弁護人「自分に不利にならないか」
中川「自分のことはあまり考えていなかった」

弁護人「あなたの『自分の死』にかかわる心理について聞きたい」
中川「サリンの致死性で私の刑が決まるとは思っていない。
これだけの事件を起こしたのだから、自分は長生きしようとは思わない
分かって頂けるでしょうね。生死にこだわっていない」

当時は、中川智正さんとしては「サリンの毒性は弱い」と認識していたのに
その調書は、
専門知識もない検察官が、死傷者が多数出たことからのイメージから作成し
サリンを吸えば死ぬという前提で作ったもので
自分は検察官から調書の作成を急いでいるから迎合しただけ
」とのことでした。

さらに「サリンをまけば周辺住民が大勢死亡することは十分に分かっていた」という供述についても
「全く自分としては言っていないけど、検事が書いた」とし、
教祖の指示であることだけは確かだと答えるのみでした。

松本にサリンをまいたあとのことを質問された際(麻原第189回公判)
弁護人「噴霧が終わり、帰る途中で会話は」
中川「全然ない。僕は噴霧車がついてきているか見てたけど、途中で眠ったり起きたりしていた。」

弁護人「重大な犯罪を終えたという緊迫感は」
中川「あんなことになるとは思っていなかった。他の人はほとんど寝ていました」

弁護人「予防薬、防護服を準備し、噴霧車の消毒をしている。しかしあなたは十分危険だ、とまでは
考えなかったという。そこが非常に分かりにくい。
事件の目的について『尊師の宗教的思い付きとしかいいようがない』と答えているが
漠然としている。
中川:「理詰めだけでいうと、『殺そうと思っていた』と思われてもしょうがない。
警察はそういう立場で調書つくるんですよね。僕も立場を変えてみると、あいつら何なんだという理屈も分かる
ただ、私たちの認識は事前にああでもない、こうでもないということがあって、それで事件になった。
理屈を超えた心理的な問題などがあると思う

さらに麻原第199回公判(2001年6月21日)には

弁護人「松本サリンの調書では『サリン中毒になりはしないかと怖くて気が狂いそうになった』とある。
気が狂うというのは強い表現だが、当時の状況と結びつかないのでは」
中川「結びついた。事件は1994年6月27日ですよね。家族の誕生日と近いので。
29日は私の故郷の岡山が空襲にあった日。
毎年この時期は同じことを考える。
自分は噴霧車に乗ってマスクをつけてサリンを注入して、
何をしているんだろうと、思ったんです。分かりますか?


弁護人「毒性が怖くて気が狂うということではないのか。」
中川「そうではない。気が狂うという表現はしたが、検事はそれが怖かったからと
受け止めたのだろう」

弁護人「どうして検事に正直に言わなかったのか」
中川「関係のある人の話をしたくなかった。
   もうひとつ、その時のことだが、サリンが光ってみえた。きらきらと

ここで、中川智正さん自身が、初めて松本サリン事件中に自分の中でサリンが光って見えたことを証言しました。
自分の裁判よりも、教祖の裁判で弁護側証人として出廷した時に語ったのが初めてでした。

中川智正さん自身の第97回裁判(2002年9月12日)ではかなり詳細に表現しています。
こちらの記述は
降幡賢一『オウム法廷13 極刑』(朝日文庫 2004)

「それほど注入は困難でないと思っていました。ところがバランスが悪くて、作業が進まない。
 村井さんは噴霧車を、注入の手間とか、何も考えずに作ったんだなとか、
 クシティガルバ(土谷)棟でサリンを詰めろと言われたのも、それを全く考えていないとか
 そういうことを考えていると腹が立ってきた。
 今度はイライラしてきて、丁寧に作業をやっているが全然進まない。
 叫んで、じゃまくさいと言って止めたくなるような感じ。
 何で自分がこんな作業をしなくてはいけないのか。
 私の苦労を村井さんはわかっているのかと。
 狭いプレハブの天井とトラックに張り付いてサリンを入れている。
 自分はいったい何をしているのか、という感じです。」

 そのころ毒ガスを撒くが、知人や家族の誕生日があって、
 あの人どうしているのかなという考えが出てくる一方で
 自分は何でこんな作業をしているんだと思った。
 で・・・まあ、あったことをお話しますが、・・・光が降ってきた。上から
 天井の方から光が降ってくるということがあって・・・。
・・・・あったことをそのままいうが、
注入しているサリンがピカピカ光って見えて、ものすごくきれいに見えた
 スーパーサリンでサリンを移すときに、
 一つは噴霧車の上でメスシリンダーを引っ張っているとき
 自分がその中に吸い込まれていくようでした。

 麻原氏が修法したお供物が光って見えたと話したが、そんなふうに見えた。

 先ほどの、自分はなんでこんなことをという意識があるが、
 一方で光って見えて、これはすごいという意識があって・・・
 狂気の世界だなと思いました

 作業は何でという意識でやっている一方、光で、これは何なんだろうと、
 それは突っ込んでいきたいような感覚でした
 それは麻原氏が起こしているんだと思っていました

・・・ここまで書いてみて、私には分かりませんでした。
実際きちんと毎日新聞社会部や朝日新聞の書物などに当ってみてほしいところです。

新聞記事では扱いは小さめでした。
さらに中川智正さん自身も、裁判以外の場では語ろうとはしない部分でもありました。

精神科の聞きかじりでは、
おそらく、自分の中では受け止めきれない何かに直面した時に
光が出てくることで自分の心を遮断する。分離する。
こういうのが「解離性××」といわれるのか、という風に私は理解しました。

参考:東京都立松沢病院

解離性障害については、病院で診断されてもさらに慎重になるしかない
まだ精神科的にも解明が追い付いてない部分になると思います。
(私の見た限りですが、「解離性障害」と診断を受けた人のご家族に話を聴いたとき
病院ではそういいますが、別の病院ではそこまで言われていないので
簡単にはそうとは言い切れないと明言はしていませんでした。
病院、医師によって診断基準がまちまちで、さらに
精神科医と患者の関係にもよる部分が多い部分だからでしょう。

松沢病院はその点では進んでいるのかもしれません。

テレビではオウム真理教関連番組制作する際に、
こういうことまでは視聴者には考えさせないのだろうと思います。
クレームが怖いからか。

なので、テレビや通り一遍の本だけでは満足できなければ
毎日新聞社会部か、朝日新聞の書物に当たるのが、
今のところ一番詳細な情報に接することになると思います。
裁判記録は公開される見通しもないですし。

♪マハリークマハーリタ♪

この謎めいた呪文から始まるオープニングテーマソングで有名な
昭和のアニメ「魔法使いサリー」です。

サリンは教団内では『魔法使い』『サリーちゃん』と呼ばれ、
中川智正さん自身が、教祖や信者の前でその歌を歌って見せたことがきっかけで
「サリーちゃん」「魔法」という隠語になったようです。
(麻原第180回公判、2001年1月11日)


このことが麻原裁判中に検察側証人として出廷した中川智正被告に再度問われたのが
麻原第162回公判(2000年6月23日)のことでした。
教団内で初めてサリンが製造されたのは、当時は1993年11月とされていましたが、
実際は、1993年8月のことでした。

出典:中川智正「当事者が初めて明かすサリン事件の一つの真相」(『現代化学』(548))2016年



この中川智正さんが2016年に書いたときは、すでに確定死刑囚となっていたからでしょう。
中川智正さんなりの当時の正確な認識を記しています。

1992年の末、教団はサリンの大量生産を企てました
この計画は、社会に対してはもちろん、教団内部に対しても極秘でした。
私(中川智正)は、当初この計画にかかわっていませんでしたが、
内容を知りうる立場でした。
責任者は、故・村井秀夫氏と上祐史浩氏で
二人の指示のもと実務を担ったのは、大学院で化学を専攻した土谷正実氏でした。
彼はまず実験室規模でのサリンの製造を試みました。
化学薬品の入手については、教団の生物兵器の開発をしていた遠藤誠一氏が
便宜を図りました」

と。

これは、私の見た限りでは、
裁判中だけではなく、
中川智正さんの『対話本』でも
アンソニー・トゥ『サリン事件』でも記されていません。




中川智正さんは教団内でサリンの大量製造については知る立場
(教祖側近となったのが1990年)
ではあったが、当初の計画にはかかわっていなかったということでした。
しかし、オウム事件裁判中においては
土谷正実さんがサリン製造に成功したのは、医師だった中川智正さんが協力者だった
と認識されていました。
中川智正さん自身も、「どうせ自分は死刑になるからなあなあでいい」という気持ちから
検事がそう書きたいならどうぞ、と書かせてしまったらしく、
中川智正さん自身が裁判で正確に話す気持ちになったときに
齟齬が出てきて混乱させてしまう結果ともなっています。
これはサリン事件に限ったことではなく、
中川智正さんが関わった事件ほとんどがそうでした。

さて、中川智正さんはサリンその存在をいつ知ったのか。
麻原公判第162回(2000年6月23日)
出典:「朝日新聞」2000年6月24日朝刊
毎日新聞社会部『名称変更で存続図るーオウム「教祖」全記録6

神経剤という言葉を、中川智正さん自身は小学校高学年には知っていました。
子供用の軍事関係の本で、7トンまけば山手線内が壊滅するという内容でした。
なお、ほぼ同じ内容を村井秀夫さんも知っていたとのことでした。

中川智正被告は、その一種であるサリンについての殺傷能力自体に疑問をもっていました。
「土谷(正実)くんは、作っている場所のすぐ横で寝起きをしていた
異状も出ていなかったからです。」と答えています。

1993年秋以降、サリン製造の現場でもかなりいい加減な管理をしたのに、体調不良を
起こす程度だったことや、池田大作・創価学会名誉会長を襲撃した時に
散布を担当した教団幹部が一時重症に陥ったのは
大量に巣一献でしまっただけでなく、予防薬の投与を間違った、その相乗効果と
わかったと強調し、
その後、滝本太郎弁護士サリン襲撃事件、松本サリン事件までに
教団のサリン製造量が増えたのも、その効果が弱かったからだとのことでした。
また、1994年1月のロシアツアーで、村井秀夫幹部がロシア科学アカデミーの幹部と接触し
化学式が同じでも毒性の強弱が数千倍異なる2種類のサリンがあることを聞いたとのことです。

この時の中川智正被告は、「殺意」以外のことについては
感情の起伏をみせずに、スラスラと語ったとのこと。
「殺意」を否認する話になると、中川智正被告は大きなため息をついたり
肩を上下させたりして、途端に落ち着かなくなるということでした。

この日の二日前に、中川智正被告自身の公判があったときに
裁判長から「端的に聞くが、作れと言われたのは人を殺すための毒ガスではなかったのか」
と突っ込まれて絶句してしまったとのことです。

当時の毎日新聞記者からはそのような様子を
「法廷では都合の悪い質問には『覚えていない』と答える一方、
医師の経験をもとに先生が生徒に教えるように化学知識を披露する
地下鉄サリンなど11事件に問われながら厳刑を覚悟しているようには見えなかった」
と書いています。

私も当時この様子を朝日新聞、毎日新聞で読んだならば
同じように感じました。

しかし、中川智正さんという人を調べていくと、
少し違うようにも思えてきました。
まず、化学知識が豊富で、それを披露するというところは、
(元)医師だからというのではない、ことです。
これは「対話本」の226頁

アンソニー・トゥ博士への最期の手紙の中に
「医学知識はともかく、私の化学知識は不足したので、ずい分勉強しました」


これはVX事件の論文についてのことですが、

中川智正さん自身は、「医師として化学知識を披露」と書かれるのは
正確ではないということをどこかで言いたかったのではないでしょうか。

確かに素人からすれば、医学部は理系学部の中でもっとも難関であり、
理系教科はすべて出来るぐらいにみているから、
中川智正さんの経歴から「医師だからこその化学知識」と思ってしまいます。
医学部に入るには化学を学ぶ必要はありますが、
化学だけをやるわけでないのが医学部だと思います。

中川智正さん自身は化学知識もあったと思いますが、
教団のワークでサリン製造にいきなり関わり
学んだことを懸命に(感情をいれないでいい部分なので)
淡々と、しかし丁寧に詳細に話しただけではないでしょうか。

さらに、
中川智正さん自身は「自分は逮捕された時点で、死刑以外にはあり得ない」と
何度も語っているのだけど、
それがまだ裁判中では伝わっていなかったようです。

最後に、この教団では出家が早かった人の方が発言権が高かったことを
考えると、中川智正さんや土谷正実さんたち製造組よりももっと責任がある人が
いるのではないかと思います。

その人たちについて、中川智正さんが「ジャムセッション」10号(2016年12月)
に書いた部分を引用します。

「率直に言えば、今後、教団が何を言い始めるのか、何をやるのか
分かったものではありません。とは言え、教団の人たちの大半は、
社会の中で宗教だけをやって生計を立てていきたいというのが本音です」
彼らが組織として大量殺人を起こす可能性は低いと思います。
(中略)
教団の漂流。これが私の心配する今の教団の危険性やあやうさです。

日本の歴史、世界の歴史に汚点として残ることをした

1999年に入っても
中川智正被告は相変わらず証言しようとはしませんでした。

麻原の第103回法廷(1999年1月14日)に出廷した際に
麻原弁護人側から
「世間はあなたの気持ちを理解していない。分かってもらえないのは寂しいとは思わないか」
といわれた時
中川智正さんは
それは分かっていないでしょうね
両手をひざにのせ、天井を見上げ続けたまま。

その時教祖も、口をすぼめて目を閉じて、うつむいたままでした。

なお、中川被告のあとに出廷した遠藤誠一被告は、明確に
「松本被告がサリン噴霧を指示した」と、
麻原が直接松本サリン事件時に、弟子に直接指示を出していたことを初めて証言しました。

遠藤誠一さんと中川智正さんでは、
後に、確定死刑囚になったあとも沈黙をしていた遠藤誠一さんに対して
逆に拘置所内において論文を発表したりとアクティブだった中川智正さんの姿から

中川智正さんの方が先に教祖のサリン事件関与に関して証言し始めたように思えるかもしれませんが、

裁判内においての証言は、遠藤誠一さんの方が先であったのは
意外かもしれません。

2000年2月3日の中川智正公判において、VX襲撃事件の被害者・永岡弘行さんが検察側証人として出廷しました。
自分が犯した事件について「時期が来たら話す」としか言わない中川智正被告に対して
生ある限り、今日ただいまから事実を述べていただきたい。
誰が見ても、後悔の念がにじみ出ていると思える態度でそうしてほしい。
前途ある青年が、二度とあのような大罪を犯すことのないよう
現役の信者に、それは間違っている、というひとことを中川くんが残してほしい

という言葉に対しても、

中川智正被告は、ずっとうつむいたままで、時に泣き出しそうな表情でした。

この日に、永岡弘行さんは被告に対する被害者としての処罰感情を主に聞かれました。
オウム真理教家族の会(旧・被害者の会)の会員として、ともに息子を奪回するために
活動をしてきた中川智正被告のご両親を思うと、
正直、こうしてほしいと申し上げることはできない」といい、
永岡弘行さんを襲撃するために使った注射器にVXを注入したのが中川智正被告だと判明したときに
まず、中川被告の母親から電話を貰ったが、お母さんは私が電話に出た途端
何も言えなくなり泣くばかりだったとも証言しています。

裁判の休憩が終わり、再開したときに、少し遅れて入ってきた中川智正被告を見た永岡さんは、
思わずその顔を見ると、
中川智正被告が永岡さんの目を見てそっと会釈しているのが分かったと。

なんでこの子が、この青年が」とたまらなくなったとのことでした。
(以上、「朝日新聞」2000年2月4日朝刊)

その一月後、2000年3月末でした
中川智正被告の心変わりがあったのは。

地下鉄サリン事件について、いつもより詳細に語ろうとする姿勢を見せた中川智正被告に対して
どうせ自分は死刑と、なげやりになって調書の内容はどうでもいいと思った」といったあなたが
なぜ今詳細に語ろうとするのか、心境の変化があったのかと聞かれると

「自分が死刑になっても償いができる性質のものでない。
ものすごく大きな事件、
日本の歴史、世界の歴史に汚点として残ることをした、と少しずつ分かってきた。

これで自分の人生は終わり、どうでもいい、という感覚が消え
生存したい、というのではないが、残りの人生をちゃんとやらなきゃいけないと思うようになった
(以上、「朝日新聞」2000年3月31日朝刊)
おそらくこの裁判の時であったと思いますが、

青沼陽一郎『私が見た21の死刑判決』(文春新書)の中に詳細な内容もあります。



これについては、故・中川智正氏、被告時代の苦悩(その2)
でも引用していますが、
今回も再引用したいと思います。

「家族や友人から、きちんと話した方がいいというアドバイス、
あるいは法廷で証言する最後の機会がこの時であるという進言を弁護人から受けたことがあった。」
と言い、
「それと・・・私事ではあるんですが、実は最近、親戚が増えたんです」
・・・私は子供をつくれないけど、身内に子供を生んだものがいるんです。
その子は私が何をしたかを知らない。
おそらく一生会うことはないでしょう。
むしろ会わないほうがいい・・・。
だけど何十年か経って、身内の私のことを考えて
『この人はいったい何を考えてこんなことをしたのかな?』と理解されないのでは
残念な気がしたんです。
言っていること、わかってもらえます?
自分が死刑なるとわかってて、
人間の世界が終われば、別の世界に転生すればいいと思ってた。
でも私が居るいないに関係なく、
この世界は増えて、続いていくんだな。
きちんとしないといけないな、そう思ったんです。
あと、麻原氏の念というか、想念を感じることが一時あったが、
それがなくなった


中川智正被告はその後、一転して発言をするようになります。
すると教祖はどういう態度をするようになったでしょうか。

麻原第161回公判(2000年6月22日)において
麻原はこのような不規則発言をしています。

お前の大好きなブッダを」
「お前、やめろ」
「麻原彰晃、松本智津夫はお前の父親」
「脚力は強いんだ


以前であれば、黙り込んでしまっていた中川智正さんでしたが、
はっきりと不愉快な態度を見せています。

阿部文洋裁判長は、そんな中川智正さんに対して
「何も聞かなかったことにしましょう」と声をかけました。

この麻原被告の態度にも変化がありました。
これまでは「どうせ中川くんは話さないから」と思っていたから
口をすぼめていたのでしたが、
中川智正さんまで話すようになってから
必死になって止めようと、
お前の父親は俺だとか言い出すあたりは、
きっと麻原は不規則発言をしながら、法廷の内容を理解していたのではないか
と思えてなりません。

中川智正さん自身も、この2000年の心境の変化が大きかったと思います。

死刑が確定しているのに論文を拘置所から発表するなどの行為に
つながっていくのではないでしょうか。
中川智正さんのしたこと自体
「日本の歴史、世界の歴史に汚点」

自分は死刑になるけど、その後も世界は続くのだ。

だからこそ、自分は自分のしたことについて、
出来る限り正確に語っていきたいと。

中川智正さんの論文発表については賛否両論でることは
おそらく中川智正さん自身が「想定の範囲内」だったと思います。

事件の内容を語ることに意欲的だったのはなぜだったのか。
死刑執行後に出版することにこだわったのはなぜだったのか。

中川智正さんとしては
第一に、「自分が確実に死刑執行されて罪を償うこと」
第二に、「死刑執行前に自分のしたことを正確に書き残すこと」
と決めていたからではないでしょうか。
こうした自身の身の処し方をみても、2000年3月末というのは
大きな意味を持つのかと思います。
しかし、麻原の想念が入らなくなったと自覚してからも
苦悩はさらに続くこととなります。