【文春砲】“福島復興の顔”東電元副社長懺悔告白

久しぶりにブログ記事を書きます。
内容は「軍人の道は一本道」とはそぐわないかもしれません。

四月の初めのこと
いきなり衝撃的な動画が飛び込んできました。

さらにネット上の記事でも話題になりました。
被災者と男女の関係に 東電の元副社長が語る交際とその後のトラブル

東電副社長で初代福島復興本社代表でもあった石崎芳行氏が
男女関係をもっていた被災地運動家女性から5000万を要求され
東京電力(の福島担当特別顧問)を退任したというニュースです。

文春砲の当該記事によると・・・

「この半年間、悩み続けてきました。恐怖で眠れないこともありましたし、
どうしたら死ねるのかという考えも頭をよぎりました。
ただ文春から取材の連絡がきた時に決心しました。
もう洗いざらいお話しようと。
そのために昨日、会社に退職願を提出しました。
会社や家族、被災地の方々にご迷惑をかけてしまい。本当に申し訳ない気持ちで
一杯です。」という書き出しで

以下のことが書かれていました。

  • 東電元副社長(元復興本社代表・福島特別顧問)石崎芳行氏が、被災地の運動家女性と不適切な関係であることを認め、東電に退職願を自ら提出した。
  • 彼女とは互いに恋愛関係でもあった時期もあったが、石崎氏から距離を置くようになり、それで関係が悪化していった。
  • 彼女から「口止め料、精神的慰謝料5000万で手を打ちましょう」「未来永劫を考えたら安いお値段」「私の一言ですべてが公になります」などというメッセンジャー(Facebookのメッセージ機能)が来た。
  • 彼女は石崎芳行氏に「私に対する賠償を認めるよう東電に指示してほしい」と言ったこともある。
  • 石崎芳行氏がいかに東電副社長の権力をもってしても賠償ルールを変えるのは無理。
    →石崎氏が彼女主催の講演会に出席すること(事実制服姿で出席している)、
    →石崎氏から電力関連団体に働きかけて、彼女に講演してもらうようにした。
    →石崎芳行氏が「電気新聞」記者に対し、彼女を取材し、原稿料を規定いっぱいの100万ほど支払うよう依頼。
    →石崎氏は彼女が出版に携わった放射線に関する小冊子を購入するよう、福島の企業や電気事業連合会に協力をもちかけた。

  • 彼女は「東電の姿勢や石崎の被災地に関わる姿勢を世に問うて欲しい」と文春の取材で答えている。
  • 記事の出た四月初めには、Twitterでも、Youtubeでも
    「パヨク運動家にやられた東電副社長」「ハニトラにひっかかった」などという反応が多かったです。

    私も最初は、どちらかというと石崎氏と関係を持った女性の方が酷いと思っていたものでした。
    ゆすりではないか?と。
    5000万円を要求するとは、いくら何でも不倫清算にしても高すぎると、いろんな人と話したものです。

    私は、次第に石崎氏に「口止め料、精神的慰謝料5000万で手を打ちましょう」とメッセンジャーを送った彼女の意図とは何だろう。
    石崎芳行氏とその女性との関係は、男女関係のもつれだけでは終わらせられないと思うようになりました。
    なぜなら、石崎芳行氏は、彼女や彼女の周囲の人間関係を利用し、東電主導の福島復興活動のアピールをしていたから。

    本当は「男女関係のもつれ」で終わらせてはいけないのではないでしょうか。
    私は、石崎芳行氏に対するイメージは、
    「人当たりがいい人」
    「どんなところでも東電の制服を着て被災者の輪に加わる努力をするひと」と思っていました。

    軍人という方々が軍服を着ることは、軍組織に対して忠実であるということを意味していると、 洪 思翊(こうしよく)中将の大東亜戦争敗戦の時の言葉から学びました。

    大東亜戦争で敗戦側となった洪 思翊中将。
    朝鮮半島に日本の陸軍中将という立場を捨てて帰り、指揮官として活躍できるチャンスさえあった。
    それも捨てて戦争犯罪者として絞首刑を受けたのはなぜなのか。
    その答えが
    「自分はまだ制服を着ている。この制服を着ている限り、私はこの制服に忠実でありたい。従って、朝鮮半島に帰り独立運動に加担するなどということを考えない」
    と部下に話したという逸話を思い出しました。

    戦後の日本企業が、軍組織を模倣している部分も多々あると感じていた私は、
    ご自身も制服に「東京電力福島復興本社代表」の腕章をつけてJビレッジで生活され、
    東電が実施する復興推進活動に参加する社員に対しても、
    「必ず制服で行くように」命令していた石崎芳行氏に関する今回の記事は、
    「東電側が率先して男女関係のもつれで終わらせたい」ことだったのではないかと思えてなりませんでした。

    石崎芳行氏の福島に及ぼした影響がどのようなものか。功罪含めて、誰か明らかにしてほしいと思っていました。
    それは石崎芳行氏個人の問題ではなく、東京電力の問題でもあるはずです。
    石崎芳行さんは東電の制服着用にこだわり、社員にも制服着用で福島に来るように命令していたのだから。

    石崎芳行氏は、誠実な人柄を武器にして、被災地の復興活動を推進する立場でした。
    マスコミにもそのようにアピールしていました。
    例えば、この記事。

    「東電は許せない。しかし・・・」

    私はこれを読んだとき、ニコニコ動画の東電原子力定例会見での東電の情報隠しを見ているせいか
    非常に違和感を感じました。
    石崎氏は東電寄りの被災者を利用し、自身の東電広報の経験、東京電力福島復興本社代表という立場を利用し、東電に都合のよい報道を大きくさせて
    都合の悪い報道を流させないようにしているのではと思えてなりませんでした。

    最近、2013年ぐらいの東電原子力定例会見でも姿が見られた
    朝日新聞の青木美希氏がこの本を上梓されました。

    石崎芳行氏や東電が登場しない部分で、このような悲劇が起きていたのか。
    被災地における深刻な人間関係崩壊の悲劇。
    十分な賠償をされないために自殺をされた方々。
    本来は福島地元マスコミが、先頭立って東電を追求すべきであるのに、そのような記事がない。
    原子力定例会見でも福島地元マスコミたちはあまり質問をしないのが通常。

    今のところ、石崎芳行氏の件は「男女関係のもつれ」以上に発展していないのが残念なところです。

    私には力不足すぎるけれど、
    自分がインターネット上で見た情報をつなぎ合わせてブログ記事にすることで、
    石崎芳行氏の件について「男女関係もつれ」だけ風化させず、
    これまで加害企業として何をしてきたのかを明らかにするよい機会と捉えたいです。

    【加筆】「文学博士」渡辺錠太郎

    年末といえば・・・
    シスター渡辺和子さんが亡くなられて一年がたちました。
    早いものです。
    昨年年明けの岡山で執り行われたお葬式に行きたかったけど残念でした。

    というわけで

    久しぶりに渡邉錠太郎大将ネタです。

    EPSON MFP image

    以前のブログで、少し書いていたのですが、躓いてしまいました。

    文学博士。

    その文章に加筆修正したいと思います。

    先日、私のTwitter友のねがらく(@etaenaldoutei)さんが
    旭川に旅行に行かれました。
    その時のTweetです。


    私は、ねがらくさんが旭川に旅行に行かれたのが羨ましくてなりませんでした。
    私も旭川に行けたら、絶対に「北鎮記念館」に行くぞと
    新たに行きたい場所に加えました。

    ねがらく(@etaenaldoutei)さんからの教示です。

    それでよかったのか・・・。
    いや、もしかしたらあの渡辺錠太郎大将のこと、もっと深い意味があったのではないか?
    と思いましたが、まあ、ここでは置いておきます。
    おそらくそんな意味かというところまでは、なんとか私も理解はできました。
    渡辺錠太郎大将についていくのは難しいことです。

    ところで、渡辺大将は、「文学博士」とあだ名されていました・・・。

    これは褒め言葉と思いますか?

    私は、渡辺さんが、陸軍部内で「敬遠」されていたことを示すエピソードではないかと思っています。

    渡辺さんは、とにかく「学ぶことが大好き」でした。
    強制されて学ぶということがなかったようです。

    軍人としての俸給の何割かを、丸善への支払いに充てていたといわれるのは
    有名なエピソードであります。

    ふつうは、飲み会でのネタだったりするほうが、人間として魅力があるように
    とらえられがちなのですが、その辺のネタはあまりないようです。

    それよりも、どのような環境の中においても並外れた学習意欲を生涯持ちづづけた「天才」という意味で
    「文学博士」とあだ名されるに至ったようです。

    多分、こんなニュアンスで・・・。

    勉強なんてするよりも大切なことだってあるしぃー
    ただでさえ、堅苦しい軍人生活から離れてもまだ、勉強するってエライよねー
    でもマネしたくないし、あまり近寄りたくない・・・

    私も、無理に勉強して知識を誇示するのは嫌だと思っています。

    好きなことが勉強で、ある分野を(誰が何と言おうと)追求している姿は好きです。

    渡辺大将の場合は、本当に趣味が勉強と言える人だったのだと思います。

    渡辺大将は、本当の学者のような勉強はしていなかったと思いますが、
    戦史や航空、気象、ドイツ、国際関係に関して、マスコミのいう事をうのみにせず
    関係書籍を丸善で探しまくり、いつでも勉強するという体制をとっておられたようです。
    その縁で、学者の友人も多かったようです。

    渡辺大将に関する勉強ネタは、このようなものがあります

    • 4歳の頃、菅原道真の話を聞いて感動し、家中に「天神」の文字を書きつらねて
      家族を困らせた
    • 農家兼タバコ屋に生まれたため、家業の手伝いが終わった夜に勉強してたら夜更かししてしまった。
    • 家業のため、中学に進学できなかった渡辺さんは、
       中学に進学した友達の教科書を一年遅れで全部貰い、それをマスターした。
    • 大好きな勉強を続けるためにどうしたらよいか考えた結果、陸軍士官学校に合格することだと思い立った。
    • 徴兵適齢(20歳)を迎えた渡辺さんは、陸軍士官学校の願書を提出しにいったところ、役所の担当者から
      「中学も出ていない者が、陸軍士官学校を受験するなどとんでもない!」
      と言われ、(愛知県岩倉町)町長からじきじきに訓戒を受けた。

      それでもあきらめず受験したら、第三師団(在名古屋)の受験者中トップ合格だった!

      これで、華々しく「郷土の誇り」として、陸軍士官学校に入学できると思いきや、
      家族からも親戚からも「家業を見捨てるのか!」と言われ、
      送別会さえも開いてもらえなかったとか。

      能力ある故に、「はみだし者」とされる苦しみに直面していたのでした。

      同様な苦しみは、形を変えて、娘の和子さんもご経験なさったとのこと。

      によると・・・

      昭和20年代に、当時の女性としては珍しく、
      上智大学に勤務しながら、上智大学大学院を卒業なさった和子さんは、
      思うことがあって、修道女になられました。(30歳ぐらいの時)

      多分、修道院側も、大学などを経営しているので、和子さんのような方を
      将来の経営者兼教育者として頑張ってもらいたいと期待し、
      修道院に入ってからすぐに、アメリカに派遣され、そこでなんと
      博士号を取得して岡山にあるノートルダム清心女子大学教授要員として戻ったところ、

      誰一人として喜んで迎えてくれる人がいなかったとか!

      「博士さんのくせに、ふきんのたたみ方もわからないのですか!」
      と嫌みを言う姉妹(修道女)はあっても。

      修道院も、軍隊もなんだか「人間の集う場」なのだと考えさせられました!

    香川県文書館の危機

    香川県文書館所蔵資料が廃棄の危機!

    今日たまたまネット上でみたこの記事にショックを受けました。
    毎日新聞2017年11月8日朝刊より

    香川県文書館所蔵資料のうち1万5000冊が廃棄の危機に直面しているとのこと。

    これって・・・。
    香川県はもともと軍都だったから、大切な戦史研究の資料が失われるってことでは・・・?
    と思い読み進めてみると

    ここより記事を引用 ———————————————————–

    香川県立文書館(高松市)に保管される歴史公文書約2万6000冊のうち、

    軍歴など太平洋戦争関係の資料を含む約1万5000冊が、
    県条例に基づき廃棄対象にされていることが分かった。

    「将来的に評価が上がる可能性がある」と懸念した専門職員の機転で保管を継続しているが、市民が閲覧できない状態になっている。
    識者は「公文書を守るための条例なのに、専門知識のある職員が残すべきだと考える歴史公文書を残せないのはおかしい」と指摘する。

    県条例で「重要といえず」
     香川県は公文書管理法施行(2011年)を受け、13年に県公文書管理条例を制定。
    県の行政文書は保存期間(内容に応じ1年未満~30年間)満了後、
    「歴史資料として重要」と判断されたものは特定歴史公文書として文書館に移管し、
    それ以外は廃棄しなければならないと定めた。

     これを受け、書類を保管する県担当部署と同館は、14年度の条例施行までに約1年間かけ、
    過去に県から移管された約2万6000冊を点検。
    このうち、軍歴関係書類や農地転用に関する書類などを含む約1万5000冊は、
    「個人に関わる内容などで『重要な政策決定の過程が記録されている』とはいえず、特定歴史公文書には当たらない」と結論付け、
    廃棄対象に決めた。

     しかし、廃棄対象文書を改めて確認した同館の専門職員から
    「軽々しく廃棄することはできない」との意見が出たことから、「再審査中」の扱いで保管を継続している。
    同館の嶋田典人・主任専門職員は「軍歴関係書類などは当事者にとって大切な資料。
    長期的に見れば『石』が『玉』になる可能性もある」と説明する。

    【渡辺暢】

    ——————————————————————————-

    私は2年前に香川県に旅行しました。
    なぜ香川県を旅行先に選んだのか?というと

    軍都だったからーーーーでした。

    以前の記事:「軍都・善通寺
         :「丸亀護国神社

    特に善通寺に存在していた第11師団は、日露戦争以来の日本の精強師団でした。

    現在でも「乃木資料館」として残されている第11師団司令部玄関(陸上自衛隊善通寺駐屯地資料館)

    階段の途中の窓がステキです。

    庭にはヘリコプターもあり、身近に感じられます(私は兵器詳しくないです。誰か教えてください)

    シベリア出兵でも活躍し
    第一次上海事変(1932、昭和7)でも活躍し、
    支那事変で名古屋歩兵第八連隊が、苦闘し連隊長(大佐)戦死という事態になるほど、
    陸軍参謀本部が想定していたよりもはるかに精強である支那軍に苦しめられていた時に
    この善通寺・第11師団は
    「何とか頑張ってくれ」と急遽動員され、日本の期待を一身に背負って出兵した師団だったのです。
    平時の訓練や県民からなる兵士同士もまとまりをもち、軍紀も保たれていた「虎の子」兵団でした。

    この部分の参考文献:
    阿羅健一『日中戦争は中国の侵略で始まった』

    おそらく、その時代の資料もこの廃棄資料とされたなかに含まれているはずです。
    そのような資料がようやく「玉」になろうかとしている時に
    なぜこんなことが起こるのでしょう・・・。

    専門職員がいないから

    大学院で法制史や、そこから地道な戦史研究を続けているような人が
    育っていないから。

    もしかしたらオーバードクターでいるはずです。
    ワーキングプアな立場に苦しみながら。
    大学の非常勤講師のポストさえももらえずひっそりとしている人が
    いるはずです。

    そういう人を日本は国として、大切にしてこなかった。
    歴史を学ぶことが大切とか、愛国とか言っているわりには
    個別の事象を地道に研究してきている人を結果として貶めたから。

    私は以前、長南政義さんの日露戦争の講演を聴きにいきました。

    長南氏がこの本を出版されたとき、読み通せる自信はなかったけれど

    薄っぺらい言説を雑誌で流すような方ではないと思ったから。

    でも労働している人間がこの本を読もうとしても疲れて頭に入らず(( ノД`)シクシク…)

    ちょうど長南氏が、著書をもとに講演されるというので
    分厚いこの著書を抱えて、講演を聴きにいきました。

    長南氏の講演を聴くにあたって、著書のどのあたりのことを話しているのか
    付箋を貼りながらついていきました。

    それだけでも、かなり頭を使いましたw
    でも久しぶりに気持ち良い頭の使い方が出来た感じがしました。

    それぐらい、私もそうですが
    「何がいいたいのかさっさと教えろ!」な見方で、書物に接してはいなかったか。
    読みやすい、簡単さ、とっつきやすさ(これがアジテーション的なものだったりもする)で歴史を見てはいないか。

    私は、以前「田母神論文」が出たとき、これで、少しは戦史研究にも光が当たるように
    なればいいな
    (特に保守と自称している人たちが、文書館や博物館に足を運ぶようになるならば、
    きっと歴史を学ぶことがブームとなり、資料が大切にされるだろう)と
    期待していました。

    しかしながらーーー。

    事態は、より扇動的になっていったのではないか。
    簡略化、単純化された書物。それに売れるために工夫されたどぎついタイトルのついた表紙
    ブームとなった「田母神論文」に似たような書物が流行で出版されるようになる一方で、
    丹念に史料を読み込んで時間をかけて著された書物に光が当てられることはなかったと思います。

    (最近の室町時代ブームは、個人的に「嬉しい」ものです。
    まだちゃんと読んでいないけど、

    例えば神谷町のツタヤまで買いに行き、
    となりの空いている?スターバックスで時間を忘れて読み込む、ということをいつかやってみたいです
    →呉座勇一氏『応仁の乱』の時は、神谷町ツタヤで購入はしたけれど、隣のスターバックス・コーヒーが混んでいてできなかった。)

    それはさておき

    価値を見極められる人が不在のまま、重要な資料が廃棄されてしまう。
    これでは、深い部分を知ろうとしたくとも、知ることができない。

    正しいか、正しくないかだけでない。
    グレーゾーンの部分を直視し、自分の思い込みを超えてみようとしながら
    史料に接そうという人は、Twitterには多くいますが、
    全体的には少数派だと思います。

    もしかしたら、「廃棄対象文書を改めて確認した同館の専門職員」の方の歴史の見方は
    私とは異なるかもしれません。
    それでも本当は一向にかまわないと思います。
    史料を見たいときに見せてくれるように環境を整えてくれるならば

    読みたい人に対しては誰でも読めるように、活字にしてくださったり、
    その人なりの解釈でいいから、資料の評価文を載せた史料集にまとめるのは
    地道で気の遠くなる仕事です

    そのようにしてまとめられた史料集は
    どんな思想信条、歴史の知識のあるなしであっても
    読みたいと望む人には「公平に」開かれているものだからです。

    ある人は、注釈が違っていると指摘もします。
    またある人は、この史料を編纂した人が「左巻き」ではないか、と批判した文章を
    書くでしょう。
    またまたあるひとは、史料を読んで「やはり戦争や軍のない世の中になれば」と結論づけるかもしれません。

    でもそれでいいのです。
    史料を最初に解釈した人が正しいのではなく、読み手が変わると次々と別の解釈が無限に現れるものですから。

    今、ここで香川県文書館の史料が廃棄されてしまうことは、
    知りたい人の自由さえも奪うのではありませんか。

    そんなことに危機感を感じました。

    深大寺参拝中にはじめて知った陸軍大臣

    本日、久しぶりにパワースポット巡りに行きました。
    明日以降寒くなるらしいということと、明日がまだ休みだからというところで

    「今行かなきゃ、いつ行く?」となったからです。

    本当にお金のない私は、新幹線にのってどこかいくというのが難しかったのと
    定期が都内23区まであるので、
    深大寺ぐらいだったら片道数百円で行けるかも、と思い行先に選びました。

    私はこれまで、深大寺には行ったことありませんでした。

    深大寺へ向かうには、京王線調布か、三鷹からバスに乗る必要があります。
    調べてみると、三鷹から出ているバス(小田急)は本数が少ないです。
    調布から乗る方が本数多いです。
    (あと吉祥寺というのもある)

    行きは京王線調布から京王バスにて行きました。

    参道を歩くと、水車がありました。

    なんだかワクワクしてきました。

    お蕎麦とお土産店もたくさんありました。
    このあたりから、なんだか混雑してきました。
    おそらく、私と同じように、「今日ならまだ温かいから」という理由でしょう。
    なぜか犬を連れている人たちもいました(地元?)

    本堂はこんな感じ。

    近くに佛具がありました。
    蓮の形をしています。

    すごく秋を感じました。

    と、その時、「忠魂碑」というのが目に入りました。

    見ると、「陸軍大臣楠瀬幸彦」という揮毫
    (左の碑です)

    誰それ・・・

    いつぐらいの方・・・?

    お隣の「日露戦争戦捷」の山県有朋さん(長州)はおなじみですが・・・。

    誰だろう、今まで本当に聞いたことない方だ。

    調べてみると

    楠瀬幸彦
    (1858年4月28日(安政5年 3月15日) – 1927年3月20日)は、日本陸軍の軍人、陸軍大臣。最終階級は陸軍中将

    とありました。

    土佐藩士の子供として生まれ、海南学校→陸軍幼年学校→陸軍士官学校というルートで
    陸軍軍人となられたかた。

    これって山下奉文大将と同じじゃないか!

    ただし山下大将は、「四国の小村の平民の子」だから、おそらく楠瀬幸彦(くすのせ ゆきひこ)さんの方が
    出自が高かったと思います。

    この楠瀬幸彦さん。
    なぜ陸軍大臣にまで出世できたのか。
    大臣にまでなられたのに、あまり知られていない(私だけかも?)のか?

    楠瀬幸彦さんが陸軍大臣になられたのは
    1913年の第一次山本権兵衛内閣(海軍)において、
    軍部大臣現役武官制がいったん廃止なり、今後は予備役まで軍部大臣(陸軍大臣と海軍大臣)になれるようにし、
    政党の軍部に対する影響力を強めようとしたときでした。
    当時は、大日本帝国憲法があっても事実上元老と言われる人たちが政治に大きな影響を与えていたことに対して不満が増大し
    第一次護憲運動まで発展したのでした。

    この第一次憲政擁護運動の時の立役者だった尾崎行雄は

    「彼等(元老)は常に口を開けば、直ちに忠愛を唱へ、
    恰も忠君愛国は自分の一手専売の如く唱へてありまするが、
    其為すところを見れば、常に玉座の蔭に隠れて政敵を狙撃するが如き挙動を執って居るのである。
    彼等は玉座を以て胸壁となし、詔勅を以て弾丸に代へて政敵を倒さんとするものではないか」

    (『大日本憲政史』)と言っていました。

    陸軍としては、山県有朋元帥など長州閥が猛反対したが
    山本権兵衛内閣の陸軍大臣・木越安綱中将がそれを押し切り
    内閣として軍部大臣現役武官制のいったん廃止を了承したのでした。
    山本権兵衛内閣が倒閣するや、後任の陸軍大臣として白羽の矢が立ったのが
    この楠瀬幸彦さんでした。

    楠瀬幸彦さんは陸軍大臣になられて1年もたたず1914年4月に辞任し休職してしまいます。
    おそらく相当な陸軍部内の人間関係に疲れてしまったのでしょうか。

    何だか、今日深大寺に参拝しただけなのですが、楠瀬幸彦さんというあまり目立たない大臣に出会えたことで、
    第一次憲政擁護運動の頃がどういう時代だったのか、またまた勉強してみたくなり、興味の幅が増えました。

    こういう小さな旅を通して、興味の幅を自分の中で広げていくような気持ちは
    ずっと持ち続けたいと思います。
    考え方が固定されないように。

    【資料】山下奉文大将「最後の言葉」

    山下大将の項目をwikipediaで見たところ、

    その遺言の全文を見るのが中々難しいらしいです。

    こちらには、『山下奉文の追憶:三十年祭に際して』(山下九三夫 1976.2)の所在がある奈良県立図書情報館などで見られると書かれていますが。
    『山下奉文の追憶:三十年祭に際して』については、図書館系であれば、東京・九段下の昭和館内図書室でも見られます。

    少し山下奉文に興味を持ちだしたひとが資料に当たろうとしても
    中々難しいことは確かだと思います。

     そこで、今回は栗原賀久(よしひさ)著『運命の山下兵団』1974年版の最後部分に掲載されている、特別収録版を全文ご紹介したいと思います。
     栗原氏は、山下奉文大将が第14方面(フィリピン・ルソン島)軍司令官時代の中佐参謀。
     彼は陸大を出ていないので、参謀長武藤章中将から実地で参謀教育を受けながら、慣れない参謀業務をしたという方。
     そのことで、山下・武藤将軍を上官として生涯忘れたことはなかったのです。
     この栗原氏が、山下大将の嗣子(兄の4男。山下大将には子供がいなかった)九三夫氏の諒解を得て、再版にあたり掲載したものです。

     初版は、1950(昭和25)年。

    ★まだ日本が「独立」してない時の出版だった

    「山下奉文大将の遺言」とは、山下大将が処刑される昭和21(1946)年2月23日午前3時直前に、
    付き添いの教誨師森田正覚さんに対して語ったものです(森田教誨師はこれを口述筆記した)

    なお、森田正覚教誨師の書物にも遺書が掲載されています。
    用語が栗原氏のものと齟齬があります。
    森田正覚氏の著書はこちらです。(1981年出版)

    章姫個人の解釈や意見・感想は一切載せず、資料紹介したいです。

    昭和20年11月ぐらい。
    マニラ裁判中の写真
    (私の知る限り最後の写真)

    ——————————————————————————–

     私の不注意と天性が暗愚であった為、全軍の指揮統率を誤り何物にも代え難い御子息或いは夢にも忘れ得ない御夫君を多数殺しました事は、
    誠に申訳のない次第であります。
     激しい苦悩の為心身転倒せる私には衷心より御詫び申上げる言葉を見出し得ないのであります。
     かつて、皆さん方の最愛の将兵諸君の指揮官であった”山下奉文”は峻厳なる法の裁きを受けて死刑台上に上らんとしているものであります。
     アメリカ初代大統領ジョウジ・ワシントンの誕生祝賀記念日に独房を出て刑の執行を受けるということは、偶然の一致ではありますが
     誠に奇しき因縁と云わねばなりません。
     謝罪の言葉を知らない私は、今や私の死によって、私に背負わされた一切の罪を贖う時が参ったのであります。
     もとより私は単なる私一個の死によってすべての罪悪が清算されるであろうというような安易な気持ちを持っているものではありません。

     全人類の歴史の上に拭うべからざる数々の汚点を残した私は、
     私の生命が絶たれるという機械的な死によって
     相殺されるとは思わないのであります。
     絶えず死と直面していた私にとりましては、
     死ということは極めて造作のないことであります。

     私は大命によって降伏した時、
     日本武士道の精神によるなれば当然自刃すべきでありました。
     事実、私はキアンガンで、あるいはバギオで、かつてのシンガポールの敗将パーシバル将軍列席の下に降伏調印をした時に自刃しようと決意しました。

     然し其の度に私の利己主義を思いとどまらせましたのは、まだ終戦を知らないかつての部下たちでありました。
     
     私が死を否定することによって、桜町(キアンガン)を中心として玉砕を決意していた部下たちを、無益な死から解放し、祖国に帰すことができたのであります。
    (私が何故自決をしなかったかということは、ついている森田教誨師に質問され詳しく説明いたしたところであります)
     
     私は武士が死すべきときに、死処を得ないで恥を忍んで生きなければならないことがどんなに苦しいものであるかということをしみじみと体験いたしました。

     此の事より推して、生きて日本を再建しなければならない皆様方が
     戦犯で処刑される者よりどれだけ苦しいかということが、私にはよく分かるのであります。
     もし私が戦犯でなかったなら、皆さんから、たとえいかなる辱めを受けましょうとも
     自然の死が訪れてまいりますまで、生きて贖罪する苦難の道を歩んだでありましょう。

     兵は国の大事にして死生の地、存亡の道なり、察せざるべからず、と孫子もいったように兵はまさしく凶器であり、大きな罪悪でありました。
     この戦争を防止するため、私はあらゆる努力を払いました。
     しかし、悲しいかな私の微力よくこれを阻止できなかったことは、まことに慙愧に堪えない次第であります。

     マレーの侵略、シンガポールの攻略、国民の地を沸かせただけに
     おそらく皆さんは、私を生粋の侵略主義者、軍国主義者の最たる者と目しておられるでしょうが、それは当然であります。
     
     私も一身を軍職に捧げた職業軍人であります。
     今さら何をかこれに加えましょうか。

     しかし、私も軍人であるとともに、一面日本国民としての意識もまた相当強く動いておりました。

     亡国と死者は永久に再生はないのであります。

     兵事はいにしえより、明君賢将の深く慎み、警むるところでありました。

     一部少数者がひとり事を断じて、国民大衆を多く殺傷し、残れる者を今日のごとく塗炭の苦しみに陥れたことは等しく軍部の専断であり、
     国民諸君の怨嗟ことごとく、我等に集中すると思うとき、私は正に、断腸の思いがするのであります。

     ポツダム宣言により、日本が賢明ならざる目論見によって日本帝国を滅亡に導いた軍閥指導者は一掃され、
     民意によって選ばれた指導者により、平和国家としての再建が急がれるでしょうが、前途いよいよ多事多難なることが想像されます。

     建設への道に安易なる道はありません。

     軍部よりの圧力によったものとは言え、あらゆる困苦と欠乏に堪えたあの戦争十ヵ年の体験は、必ずや諸君に何者かを与えるに違いないと思います。
     新日本建設には、私たちのような過去の遺物軍人、或いは阿諛追従せる無節操なる政治家、侵略戦争に合理的基礎を与えんとした御用学者などを
     断じて参加させてはなりません。

     恐らく、占領軍の政策をして何らかの方法がとられるのでありましょうが、
     まさに死につかんとする私は、日本の前途を思うのあまり、一言申し添えたいと思うのであります。
     
     踏まれても、叩かれても強い繁殖力をもった雑草は、春が来れば芽を吹きます。
     国ことごとく破れて山河のみとなった日本にも、旺盛なる発展の意志を持った日本の皆様は再び文化の香り高い日本を
     あの1863年の丁独戦争(注:ドイツ対デンマークの戦争)によって、豊穣なシュレスウィヒ、ホルスタイン両州を奪われたデンマークが、再び武を用うることを
     断念し、不毛の国土を世界に冠たる欧州随一の文化国家に作り上げたようにー
     建設されるであろうことを信じて疑いません。

     私ども亡国の徒は、衷心からの懺悔とともに異国の地下から、日本の復興を祈念いたします。

     新たに軍国主義者どもを追放し、自ら主体的立場に代わられた日本国民諸君、
     荒らされた戦禍の中から雄々しく立ち上がって頂き度い、
     それが又私の念願であります。私は朴訥なる軍人であります。

     今や死の関頭に立って万感交々至り謝罪と共に言語の形式を以て申し述べたいのでありますが、
     武将の常として従来多くを語らず寡言実行の習癖を加うるに言語又豊富でありませんので、之を表現することが出来ないことを残念に思います。

     私の刑の執行は、刻々に迫ってまいりました。
     もう、40分しかありません。
     この40分という時間が、
     私にとっていかに貴重なものであるか、
     死刑囚以外には恐らくこの気持ちの分かる人はないでしょう・・。
     私は森田教誨師と語ることによって、何時かは伝わるであろう時を思い、皆さんに伝えていただくことにいたします。

     聞いて頂き度い・・・・

     其の第一は、義務の履行ということであります。

     この言葉は古代から幾千の賢哲により言い古された言葉であります。そしてまた、此の事程ほど実践に困難を伴うことはないのであります。
     また、このことなくしては民主主義的共同社会は成り立たないのであります。
     他から制約され強制されるところのものでなく、自己立法的に内心より湧き出づるところのものでなくてはなりません。
     
     束縛の鉄鎖から急に解放されるであろう皆さんが、この徳目を行使される時に思いを致すとき、
     聊か危惧の念が起こって来るのであり、私は何回この言葉を部下将兵に語ったことでしょうか。

     峻厳(しゅんげん)なる上下服従の関係にあり、抵抗干犯を許されなかった軍隊に於てさえ、絶えずこのことを言わざるを得なかったほど、
     道義は著しく退廃していたのであります。
     甚だ遺憾な事ではありますが、今度の戦争におきましては私の麾下部隊将兵が悉く自己の果すべき義務を完全に遂行したとは云い難いのであります。
     他律的な義務に於てさえこの通りでありますから、一切の羈絆(きはん:人の行動を拘束し、妨げとなるもの)を脱した国民諸君のまさに為すべき自律的義務
     の遂行にあたっては、いささか難色があるのではないかと懸念されるのであります。

     旧軍人と同じ教育を受けた国民諸君の一部にあっては、突如開顕された大いなる自由に眩惑されたあまり、他人との連関ある人間としての義務の履行に怠惰で
     ありはしないかということを恐れるものであります。

     自由なる社会におきましては、自らの意志により社会人として、否、教養ある
     世界人としての高貴なる人間の義務を遂行する道徳的判断力を養成していただきたいのであります。

     此の倫理性の欠如ということが信を世界に失い、醜を万世に残すに至った戦犯容疑者を多数出だすに至った根本原因であると思うのであります。

     この人類共通の道徳的判断力を養成し、自己の責任において義務を履行するという国民になって頂き度いのであります。

     諸君は今彼の地に依存することなく自らの道を切り開いていかなければならない運命を背負わされているのであります。
     何人と雖も此の責任を回避し、自らひとり安易な方法を選ぶことは許されないのであります。ここに於てこそ世界永遠の平和が可能になるのであります。

     第二に、科学教育の振興に重点を置いて頂き度いのであります。

     現代に於ける日本科学の水準は、極く一部のものを除いては世界の水準から相去る事極めて遠いものがあるということは、
     何人も否定することの出来ない厳然たる事実であります。 
     一度海外に出た人なら、第一に気のつくことは、日本人全体の非科学的生活であります。
     
     合理性を持たない排他的な日本精神で真理を探究しようと企てることは宛も木によって魚を求めんとするが如きであります。
     
     我々は、資材と科学の欠陥を補うために汲々としたのであります。
     
     我々は、優秀なる米軍を喰いとめるために、百万金にてもあがない得ない国民の肉体を肉弾としてぶっつけることによって勝利を得ようとしたのであります。
     
     必殺肉弾攻撃体当たりなど、戦慄すべき凡ゆる方法が生れました。
     わずかに飛行機の機動性を得んがためには、防衛装置をほとんど無視して飛行士を生命の危険に曝さざるを得なかったほど、戦争に必要なものが欠けて
    いたのであります。
     我々は、資材と科学の貧困を人間の肉体をもって補わんとする前古未曾有の
     過失を犯したのであります。この一事をもってしても、我々職業軍人はその罪、万死に値するものがあるのであります。

     今の心境と、降伏当時との心境には大いなる変化があるのでありますが、

     ニュービリビットの収容所に向う途中、米軍トラックの上で「ヤンク」の記者ロバート・マクミラン君が「日本敗戦の根本的理由は何か」と質問された時、
     重要かつ根本的な理由を述べんとするに先立って、今迄骨身にこたえた憤懣と熾烈な要求が終戦と共に他の要求に置き換えられ、
     漸く潜在意識の中に押込められていたものが突如意識の中に浮び上り、思わず知らず飛び出した言葉は
     「科学(サイエンス)」でありました。

     敗因はこれのみではありませんが重大原因の中の一つであったことは紛れもない事実であります。

     若し将来不吉なことではありますが戦争が起ったと仮定するならば、恐らく日本の取った愚かしい戦争手段等は痴人の夢の昔語りと化し、
     短時間内に戦争の終結を見る恐るべき科学兵器が使用されるであることが想像されるのであります。
     戦争の惨禍をしみじみと骨髄に徹して味うた全日本人は否全世界の人類は、この恐るべき戦争回避に心根を打込むに違いありません。
     又このことが人間に課せられた重大な義務であります。

     あの広島・長崎に投下された原子爆弾は恐怖にみちたものであり、
     それは長い人間虐殺の歴史に於て、かつて斯くも多数の人間が生命を大規模に、然も一瞬の中に奪われたことはなかったのであります。

     獄中にあって研究の余地はありませんでしたが、恐らくこの原子兵器を防禦し得る兵器はこの物質界に於て発見されないであろうと思うのであります。
     
     過去に於ては、如何なる攻撃手段に対しても、それに対する防禦は可能であると言われておりました。実際このことは未だに真実であります。
     過去の戦争を全く時代遅れの戦争に化し去った
     この恐るべき原子爆弾を落してやろうというような意志を起こさせないような国家を創造する以外には手はないのであります。

     敗戦の将の胸をぞくぞくと打つ悲しい思い出は、我に優れた科学的素養と科学兵器が十分にあったならば、
     たとえ破れたりとはいえ斯くも多くの将兵を殺さずに、平和への光り輝く祖国へ再建の礎石として送還することが出来たであろうという事であります。
     
     私がこの期に臨んで申上げる科学とは人類を破壊に導く為の科学ではなく、未利用資源の開発、
     或いは生活を豊富にすることが平和的な意味に於て人類をあらゆる不幸と困窮から解放する為の手段としての科学であります。
     
     第三に申し上げたい事は、殊に女子の教育であります。
     伝うる所によれば日本女性は従来の封建的桎梏(しっこく)から解放され、参政権の大いなる特典が与えられたそうでありますが、
     現代日本婦人は西欧諸国の婦人に比べると聊か遜色があるように思うのですが、これは私の長い間の交際見聞に基く経験的事実であります。
     
     日本婦人の自由は、自ら戦い取ったものでなく、占領軍の厚意ある贈与でしかないという所に危惧の念が生ずるのであります。
     贈与というものは往々にして送り主の意を尊重するの余り、直ちに実用化されないで鑑賞化されやすいのであります。
     
     従順と貞節、これは日本婦人の最高道徳であり、日本軍人のそれと何等変る所のものではありませんでした。
     
     この去勢された徳を具現して自己を主張しない人を貞女と呼び、忠勇な軍人と賛美してきました。
     そこには何等行動の自由或は、自律性を持ったものではありませんでした。
     皆さんは旧殻を速やかに脱し、より高い教養を身に付け、従来の婦徳の一部を内に含んで、
     然も自ら行動し得る新しい日本婦人となって頂き度いと思うのであります。 
     平和の原動力は婦人の心の中にあります。
     皆さん!皆さんが新に獲得されました自由を有効適切に発揮してください。
     自由は誰からも侵され奪われるものではありません。皆さんがそれを捨てようとするときにのみ消滅するのであります。
     
     皆さんは自由なる婦人として、世界の婦人と手を繋いで婦人独自の能力を発揮してください。
     もしそうでないならば与えられたすべての特権は無意味なものと化するに違いありません。
     
     最後にもう一つ婦人に申し上げ度い事は、皆さんは既に母であり、又母となるべき方々であります。
     母としての責任の中に、次代の人間教育という重大な本務の存ずることを切実に認識して頂き度いのであります。
     
     私は常に現代教育が学校から始まっていたという事実に対して大きな不満を覚えていたのであります。
     幼時に於ける教育の最も適当なる場所は家庭であり、最も適当なる教師は母であります。真の意味の教育は皆さんによって適当な素地が培われるのであります。
     若し皆さんがつまらない女であるとの誹りを望まれないならならば、皆さんの全精力を傾けて子女の教育に当って頂き度いのであります。
     然も私の言う教育は幼稚園或いは小学校入学時をもって始まるのではありません。可愛い赤ちゃんに新しい生命を与える哺乳開始の時を以て、
     始められなければならないのであります。
     愛児をしっかと抱きしめ乳房を哺ませた時、何物も味わうことができない感情は母親のみの味わいうる特権であります。
     愛児の生命の泉としてこの母親はすべての愛情を惜しみなく与えなければなりません。
     単なる乳房は他の女でも与えられようし又動物でも与えられようし代用品を以ってしても変えられます。
     併し母の愛に代わるものはないのであります。
     母は子供の生命を保持することだけを考えるだけでは十分ではないのであります。
     
     彼が大人となった時、自己の生命を保持しあらゆる感情に耐え忍び、平和を好み、
     協調を愛し人類に寄与する強い意志を持った人間に育成しなければならないのであります。
     皆さんが子供に乳房を哺ませた時の恍惚感を単なる動物的感情に止めることなく、
     更に智的な高貴な感情にまで高めなければなりません。母親の体内を駈け廻る愛情は乳房からこんこんと乳児の体内に移入されるでしょう。
     
     将来の教育の諸分化は、母親の中に未分化の状態として溶解存在しなければなりません。
     幼児に対する細心の注意は悉く教育の本源でなければなりません。巧まざる母の技巧は教育的技術にまで進展するでしょう。
     こんな言葉が適当か、どうか、専門家でない私には分りませんが、私はこれを『乳房教育』とでも云い度いのであります。
     どうかこの解りきった単純にして平凡な言葉を皆さんの心の中に止めてくださいますよう、これが皆さんの子供を奪った私の最後の言葉であります。

    ——————————————————————————–

    堀栄三氏『大本営参謀の情報戦記』と一井唯史氏(元東電社員)のFacebook記事の並行読み

    最近、軍組織と企業組織が似ているなと感じることが
    多く(特に東京電力についてTwitterでつぶやいている)
    今一度読み返してみたいと思う本がこの本です。

    著者は堀栄三(1913-1995)氏。
    この方は、東京陸軍幼年学校→陸軍士官学校(46期)→陸軍大学校(56期)を経て

    ※陸軍大学校とは、今でいう大学とは全く違うものです。
    陸軍の高等教育機関で、少佐になるまでに入学できなければいけないという制限のもと
    全国の部隊から優秀者が受験してくるところでした。
    1回で入れた人(武藤章中将)もいれば、2回、3回受験も当たり前で
    最後の受験でも失敗に終わってしまえば、
    「せいぜいがんばって大佐になれればいいか」ぐらいの考えになるものらしいです。
    つまりは陸大を出ていないと、中央部での勤務機会や
    将官への途はほぼ閉ざされるらしいです。
    失敗に終わった軍人のなかで、それなら部隊勤務に精を出そうとか
    憲兵科に方向転換する人もいました。

    いきなり大本営(参謀本部第二部)に配属されました(陸軍少佐・1943年)
    30歳。

    今の日本企業社会においては、ようやく難しい仕事も任せてみようと思われるぐらいかと
    思います(もちろん大企業の正社員さまや、中央官庁の官僚という前提)。

    当時の参謀本部では毎朝戦況報告会を行うこととなっていて
    ここには、参謀総長(大将)や大臣も出席することもあったようですが
    当時は次長(中将)が出席することもあったとか。
    そういう偉い人が出席するとなると

    「富永恭次陸軍次官が出席したときは、二重三重となってテーブルを取り巻いていた
    周囲の者がさっと道をあけて、(富永)次官は地図の広げてある大テーブルの傍に立ち
    あたりの周囲が一変して緊張した」

    ぐらいだったことです。

    堀栄三(当時少佐)は、ソ連担当の第五課に勤務してわずか二週間たらずで
    いきなり有末精三第二部長(少将)から

    「堀参謀は明日からソ連戦況の説明をやれ!」と無茶ぶりされました。

    堀少佐はとても困惑され、
    「まだソ連については詳しい地名も覚えていないので、もう少し暇をくれませんか」

    恐る恐る正直な返事をした途端

    「何を!そんな奴は参謀の資格はない!」というや否や、
    起こった有末部長は堀の参謀懸章をひっぱった

    (この写真の左側の編み込みのようなものが参謀懸章といいます。
    これを上司に引っ張られたのでした)

    無惨にも懸章は肩の部分の止め金が外れて、もう少しで引きちぎられそうになった。
    情けないが、堀は
    (※この著書内では堀栄三氏は、「堀」と称している。これはご自身でさえも客観的にみたいとする意志によるもの)
    いまそれを引き受ける自信はまったくなかった。
    大本営とは陸軍の俊才が集まるところであった。
    俊才とはこんなときに、わかった顔をして引き受けるのだろうか。
    目から鼻に抜ける人間が天下の俊才というのだろうか。
    嘘でも丸めて本当のようにしゃべるのが大本営参謀であろうか。
    しかし、どうもそうらしい

    とにかく、じっくり型の堀は生れて初めて大勢の前で面罵された。
    いずれにしても堀には、あのときあの返事しかできなかった。
    出世街道をひた走りに進んできた有末部長のような幕僚型の人物とは、
    こういうタイプの人物をいうのだろうか。」

    「誰が、どのような手続きをしたのか、若輩参謀には皆目わからなかったが、
    その翌々日、堀は電光石火の人事で第六課(米英課)に替えられてしまった。
    (中略)挙句の果てに落第のような形で第六課にきてしまった。
    いよいよ、米軍と真正面に取り組む情報の舞台に立たされたのであった。
    迷惑だったのは、落第生を拾った第六課長杉田一次大佐だったはずだ。
    実務型というか、実践型というか、人を育てて、その能力を出させるような使い方をする課長であった。」

    章姫にとってはこの堀栄三氏の書物は、何度も読み返している本でもありますが、
    今回久しぶりにひも解いてみて
    いろいろと考えさせられました。

    最近、Twitterでつぶやくことが多くなった東京電力との共通点が
    まず二つ、見出せます。

    ひとつは、パワハラが常態化していること。

    もっとも堀栄三氏も、陸軍幼年学校(今でいうほぼ中学生ぐらい)から陸軍生活を
    しているのだから、殴られるのは当たり前だろうと思うかもしれない。
    陸軍の下士官世界での暴力はいろんな本で知ることもできるから
    意外に思うかもしれない。
    それを知らない堀氏でもあるまいに。
    (陸軍士官学校を出ると、部隊に配属されるので、
    そこで少しは下士官との接触もあるはずだから)

    その堀栄三氏をして、これまで受けたであろう暴力・暴言を吹き飛ばすほど
    有末精三参謀本部第二部長から振るわれた暴力が心身共にこたえるものであったこと。

    電通社員で過労自殺された高橋まつりさんは、女子力がないことや、仕事が遅いことなどを上司に言われ続けたことをTweetされていましたが、

    大本営の参謀本部での堀栄三氏や、東電の一井唯史氏が受けたパワハラというのは
    やはり電通とは違うように思います。
    陸軍も東電も、安全管理が第一の組織だから。

    堀栄三氏も一井唯史氏も、
    安全管理第一のために正直に答えり、行動しようとしたところ、
    いきなり上司からの暴力・暴言があった。
    頭ごなしに怒鳴られ、「なぜわからないのか?」とさえも聴いてもらえなかったところ。

    ふたつは、(当時の陸軍は戦争中というのもあるが)
    適性を無視した人事異動が激しかったこと。
    一井唯史氏が東京電力の「無茶ぶり」な異動、組織改編と似ているように
    思うのは私だけだろうか。

    おそらく堀栄三氏は、「ソ連関係の情報参謀として落第」し、めでたく米英課へ異動し
    そこで、よき課長・杉田一次大佐に恵まれたようだが。
    一井唯史氏(東京電力)の場合もFacebookの311関連投稿から該当箇所を引用すると。

    「◯賠償の第一陣として
    賠償の第一陣として「産業補償協議 第8グループ」への異動辞令をもらいました
    勤務地は東京都内です。
    (中略)
    自分が何をするのかわかりませんでした
    とにかく被災企業との協議は一般個人の賠償に比べてかなり難しい業務になるだろうと予想しました
    配属先が研修所だということもあり、そこから東北や関東の賠償の事業所に出張したり、
    被災企業に赴いて協議を行うのだろうかと色々な想像をしました。
    自分も含めて賠償業務に出た社員は会社の中では一軍ではありませんでした
    賠償担当となったからには中核者になろう、もう電気事業には戻らないで30年は続くだろう賠償に身を置こう、
    定年の時に賠償がようやく一段落して良かったと思えたらいいのではないか、そう考えました」
    (2011年9月のこと)

    「よくわからない形ばかりの研修の後、福島に請求書の書き方の応援に行き、ほとんど見たことがない一般個人の請求書を見ながら説明しました
    この手の無茶振りは東京電力ではよくある話です」

    一井唯史氏(東電)も堀栄三氏(陸軍)も、ご自身の立場を「一軍落ち」と思いながらも
    新しい職務に意味を見出そうとされておられます。、

    賠償業務が30年以上も続くと考え、その分野の第一人者たらんとされた一井唯史氏(東電)ですが、
    与えられた場所、権限は以下の通り。

    「研修所となっている元東電学園(全寮制の高校)の教室には電話機が用意されていました
    マネージャーから説明がありました
    「皆さんにやっていただく仕事は審査結果にご納得をいただけない被災企業からの問い合わせ対応です。担当地域は全エリアです。」
    「謝罪をして審査結果にご納得をしていただけるまでご説明をしていただきます。
    協議グループではありますが、皆さんには審査内容や審査金額を変更する権限がありません。」

    その後どのように職務が変わっていったのかは、こちらに詳しいです。

    「平成23年9月~平成25年6月末までの約2年の間、法人部門の賠償業務に携わりました。
    2つのグループでグループを代表する役職を歴任した後、
    平成25年2月18日~平成25年6月末までの約半年の間、
    法人部門の賠償組織を代表し基準の責任権限を有する産業補償総括グループ基準運用チーム6名のメンバーとして、
    複雑で難易度の高い賠償案件の相談を受けて賠償可否の判断や方向性の指南を行い、
    法人賠償11グループ約450名を統括する重要なチームで賠償の指南役を務めました。」

    研修所が新しい職場となってから、平成25年6月までの約二年間に
    権限なしの謝り部隊(被災された企業様担当)
    →二回のグループ変更(事実上の職務変更)
    →法人賠償業務の指南役と、

    この文章だけでもどれだけ東京電力が原子力事故対応だけでなく、賠償業務においてもまた
    場当たり的であったかが読み取れます。

    一方、陸軍は
    堀栄三氏が異動となった米英課は、米英と戦争をしているのだから
    さぞ、重要な職務なので、情報集めのための準備が十分にあったのでは思うのが、おそらく世界の常識だと思います。
    しかし、米英課は、
    「これが戦争の真正面の敵である米英に対する情報の担当課かと疑われるほど粗末であった。
    杉田大佐は、(中略)泥縄式という言葉をあちらこちらで使っているが、
    この人事や第二部の改編の目まぐるしさは、泥縄の見本のようなもので、(中略)
    底流を見つめると、日本の国策を決定するための基礎となる最重要な世界情勢判断の甘さが大本営自身をも翻弄していたことがわかる。
    その挙句、大本営は周章狼狽する。打つ手が後手後手になっていく。
    そのツケは当然ながら、第一線部隊が血をもって払わなければならなくなる。」

    この文章は、本当に、戦争に負けたあと、原子力の事故まで起こした21世紀の我が国において、
    失敗の本質はいまだ変わっていないし、それにさえ気づかないふりをしようと
    していることを、深く、深く教えてくれます。

    今回は、Facebookなどで記事を拝見している一井唯史氏(元東電社員・原子力事故賠償)の文章と並行しながら、
    堀栄三氏の『大本営参謀の情報戦記』の一部を読んでみました。
    改めて、堀栄三氏の言われていることは、現在日本においてもまだ「新しい」ことに
    残念ながら気づかされました。