丸亀護国神社

丸亀にも護国神社があることを事前に知っていたので、
レンタサイクルにて必死に探したところ

ありました。
丸亀市民会館のあたりに、ひっそりと。

いかつい表情の狛犬が迎えてくれました。
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境内はこのような感じです。

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善通寺の護国神社と比べてこじんまりとしていますが・・・。
寂しい感じがします。
お詣りする人も私以外にいなかったです。

現代の感覚からすれば、善通寺の立派で静謐な護国神社にばかり
目が行きがちで、丸亀の護国神社については、移転話まで出ている
らしいぐらい、結構マイナーな神社かと思います。
そして、なぜ香川県には、護国神社が二つも存在しているのだろうかという疑問を持ちました。

調べてみると

大東亜戦争敗戦後、占領軍の方針で護国神社は一県一社と
され、丸亀の護国神社は廃絶されるところでした。

しかし、善通寺護国神社(讃岐宮)宮司・矢原高幸氏が努力したので
丸亀の護国神社も、あくまで讃岐宮「別宮」として存続が認められた
と、知りました。

さらに、戦前から「月次祭」も、善通寺だけでなく丸亀でも、
絶え間なく続けられているとのこと。
移転話が丸亀市議会で出ているようですが、どうか移転などしないで
神社の改修費用などに充ててほしいところです。
ここには、かつて伝統ある歩兵第十二連隊が存在し、
香川県内のもう一つの軍都であったということは事実ですから。

参考文献:綾 忠男(讃岐宮香川県護国神社総代・丸亀護国神社奉賛会会長)「讃岐宮香川県護国神社別宮・丸亀護国神社(旧歩兵第十二連隊忠魂堂)の推移と現状」(『歩兵第十二連隊百十年祭記念誌ー思出之記』1985(昭和60)年9月)

ネット上の情報ではなかなかでてこない情報を今回、こうして知ることができてよかったです。
まだまだ歴史については、ネット上だけでなく、書物を紐解いてみることが必要だと感じさせられました。

なお、今の私では、レンタサイクルを飛ばしてさらっとその土地の名所を探すというのは難しいです。
骨折が治りきらないから。
実は、骨が付ききっていないのです。
筋肉を痩せさせないために、ギブスではなく、固定をして、
ある程度くっつき始めた頃に固定を外し、リハビリをしています。

なので、踵の骨がずれたりしないよう、だからと言って、全く動かないのもいけないので、日常生活の制限はあまり儲けず、無理せず
リハビリにはこまめに通う生活を続けています。
おそらく自転車には乗れないでしょう。
踵に力が入らないから。
ここは辛抱強く「待つ」しかないですね。

この後、原田熊吉中将のお墓のある寺院をレンタサイクルを飛ばして
探して、なんとか見つけることができました。
骨折前に見つけてお参りすることができて本当に良かったです。
ごく普通のお墓だったので、おそらく他の墓参者からは
「なんだか怪しい人が来ている」と思われていたかと思います。

丸亀中学の剛球投手

原田熊吉中将は、明治21(1888)年8月に、丸亀の餅屋の次男として生まれました。
貧しい餅屋で、夜明け前から餅つきの手伝いをしながら、学校には遅刻をしないようにと
駆け足で通うような少年でした。
そんな中、(旧制)丸亀中学校に進学してから野球を始められたようです。
この旧制丸亀中学校は、今は香川県立丸亀高等学校となっていて、文武両道の伝統校です。
校内には入れませんでしたが、旧制中学校の頃の校舎を移築したものは
遠くからですが、写真に撮ることができました。
レトロですね・・・。せめてここだけでも入れたらなあと思いましたが、
外観だけ撮影できたので、とりあえず良しとしたいものです。
(駐車場のようなところがあって、そこから頑張って撮影しました・・・)

丸亀高校記念館

横からは

丸亀高校記念館2

さて、原田熊吉中将は、どのポジションでご活躍されていたのでしょうか?
ポジションは、何と、「投手」でした。
私は身体の大きな方なので、捕手ではないかとイメージをしていましたが
(私は野球詳しくないです)
そういうわけではないようです。

原田中将が中学時代に野球を始めた頃(日露戦争の頃?)、ようやく野手もグローブを持つように
なったらしいですが、それまでは何と、素手で!速球を受け止めていたとか。
捕手もまた、キャッチャーマスクとミットは持っていたものの、胸に当てるプロテクターは
なかったとのこと。

丸亀中学校の野球伝説には

「試合の時、長身、1メートル80センチの原田投手は、第1球にストレートの剛球を投げ、
捕手佐久間がその球を腹でウーンと受け止めた。それを見て敵は肝を縮め恐れをなした」

というのがあるとか。

実際捕手であった佐久間氏は
「なんぼ僕でも、あいつ(原田中将)の剛球を腹で受けたら一発で参ってしまう。
第1球をワンバウンドで投げるように打ち合わせをしていた。それでも敵の肝を奪うのには
十分効果があった」とも話していたらしい。

さらに、原田中将は、野球部だけではなく、剣道部にも入っており、野球部で捕手をするとき
剣道の防具の胴着を腹につけて、投手の速球を腹で受け止めていたという話もあるとか。

原田中将は、ラジオの野球放送で早慶戦を熱心に聞いていたとのことですが、
原田中将の息子さんたちには、少し不思議だったようです。
子供に厳しい人でよく、子供達は拳骨を食らってお母さん(原田中将の奥様)に泣きついて
いたようでしたから。
子供心に、「あのおっかないお父さんが、ラジオを熱心に、楽しそうに聞いてるなんて・・・」と
思われたのでしょう。
また、原田中将にとっては、仕事から解放された一時の楽しみだったのでしょう。

この逸話は、小津豊氏「父と野球」というエッセイ
『ずいひつ 遍路宿選集 第1集』(ずいひつ遍路宿の会 平成14年)所収より。
「小津豊」さんとは、どうやら、原田熊吉中将の三男らしい・・・。

なぜなら、田中日淳編『日本の戦争ーBC級戦犯60年目の遺書』の282頁に
原田中将の家族宛遺書が掲載されていますが、その中で、豊さんは三番目に
名前があります。

話を小津豊氏のエッセイに戻しまして

この「父と野球」の中には、「原田熊吉」と書かれたのは一箇所だけ。
あとは「陸軍の軍人だった父が」「父は太平洋戦争で亡くなった」とのみ記されているので
なかなか、原田熊吉陸軍中将のことだとわかるのは難しかったです。
おそらく「わかる人にはわかる」という思いで、「小津豊氏」は書かれたのかもしれません。

軍都・善通寺

善通寺と兵器庫

私が今回是非撮影したかった写真です。

ちょうど善通寺の塔と、陸軍第十一師団兵器庫が入った写真。
やっと撮影できました。

このアングルの写真が撮れて嬉しかったです。

弘法大師ゆかりの善通寺と、陸軍第十一師団のレンガ建築が一緒に
写ってるのが個人的にツボだったのです。

そのほか、善通寺には私が今回回りきれないほどの
陸軍関係施設(自衛隊施設も含む)があるように、軍関係に興味がある人にとっては
あちこち目移りしてしまうほどの街でした。

時間を気にしないで心ゆくまで見物したかったのですが、
現実は・・・午後4時には高松方面の電車に乗らないといけない。
それまでにどれだけ回れるか。

私はよく、旅行に行くと、現地の博物館的な場所の受付の方といろいろ
話してしまって、肝心なところを見そびれてしまうことがあります。
今回はそうならないように・・・と思っていたのですが。
なかなか難しかったです。

そんななかでも、ここには行きました。

「香川県護国神社」

香川県護国神社

別名「讃岐宮」と言われている神社です。
こちらの神社の境内に、「先賢堂」なる香川の偉人をお祀りした場があるらしいです。

さらにこの「先賢堂」に原田熊吉・陸軍中将がお祀りされていたことを、
この本より知りました。

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茶園義男『BC級戦犯・チャンギー絞首台―ドキュメント』(紀尾井書房 1983)

護国神社に旅行前に問い合わせてみたところ、「先賢堂」は境内にありますが、
その方がお祀りされているかどうか・・・という回答でした。
先の大戦で殉じられた方は全てお祀りしていますよ、と。

私のような者からのこうした問い合わせ、かなりレアだったのではないかと思います。

今度は直接護国神社の社務所に行き、先賢堂はどちらですか?と聞いたら

「ああ、先日問い合わせられた方ですね」と。

すっかり印象に残られたようでした。

「先賢堂とは、乃木神社のことです」

乃木神社

この讃岐宮には初代善通寺第11師団長であった乃木希典大将を
祀った神社もあるのですが、それが「先賢堂」をも兼ねていたとは!

しかし、わかりにくい・・・。

原田熊吉中将が、讃岐宮の「先賢堂」に合祀されたのは
昭和49(1974)年2月23日だったとか。

最初に祀られたのは、景行天皇の皇子神櫛王命で
原田中将は103番目です。

それでも、ほんの少し原田熊吉中将を知ることができて
嬉しかったです。

次は、茶園義男『BC級戦犯・チャンギー絞首台―ドキュメント』(紀尾井書房 1983)に
掲載されていた、「原田熊吉命御事歴」をご紹介します。

約3万円で香川県を旅してきました。

久しぶりの更新です。

毎日が生活のための仕事に追われていると
なかなか旅行ができないものです。
さらに時間もお金もないし・・・。

でも急に思い立って、約3万円で香川県まで旅行に行きました。
♪((O(*・ω・*)O))♪ワクワク

高松港のモニュメント

旅費は、楽天トラベルを使って約3万円
(往復航空券と高松市内ホテル代金)
※現地での交通費は含まないです。

なぜ香川県に行きたかったのか?

善通寺と高松に行ってみたかったからです。
これまで私は、四国には行ったことがありませんでした。

善通寺は、陸軍関係の建築物がたくさんあるから。
高松市内は、うどん屋めぐりができるかなと・・・。

で、一泊二日でどれだけ回れたのか、ざっくりと説明したいと思います。

高松空港から高松市内に約1時間ほどで到着しました。
朝一番の羽田発に搭乗したので、高松市内に到着したのが午前10時頃でした。

そこからJR予讃線に乗り、約1時間ぐらい揺られて
善通寺で降りました。

まず向かった先は

「旧善通寺偕行社」です。

善通寺偕行社

以前は、郷土資料館だったようですが、
今はかふぇが併設された展示会場のようなものとなっていました。

私はまずここの受付の方に、とても親切にしていただきました。

多分、内部の細かいところを興味深く見学していたり、受付にある
「旧善通寺偕行社整備検討委員会」の資料などを見ていたからだと思います。

そして、「みちくさ遍路ー善通寺88箇所めぐり」という書物までいただきました。
よく読むと、駆け足旅ではとうていいけない、感じられないような魅力がたくさん
紹介されていました。
時間とお金にゆとりがあったらなあ・・・と思いました。

偕行社でしばらく時間を使ってしまったので、レンタサイクルを借りに行き、
(香川県の旅はレンタサイクルを使うと効率が良いようです)
それで香川県護国神社→善通寺→乃木資料館と回りました。

もう午後3時半ぐらいとなってしまいました。
高松方面の帰りの電車が気になるところです・・・(本数が少ない)。

丸亀にもどうしても行きたい!
そう思い、丸亀方面に速く移動するため特急運賃を奮発しました。
(各駅の旅を楽しもうとしても、時間との戦いのため、時にはそうした
出費も覚悟しないとならない。貧乏はつらい!)

丸亀についてからは、もうお城にはいけないので、写真を撮るだけにとどめ
なんとか丸亀発17時台の電車に乗りたいと思い、ここでもレンタサイクルを
借りました。

丸亀城

丸亀城

丸亀で行きたかった場所にもいけたし、かなり疲れたので、高松市に帰りました。

翌日は、もっぱら高松市内観光でした。
高松空港発最終便に間に合うように、市内を出るリミットは17時。
それまでどれだけ回れるかと思いながら。

屋島

屋島からの眺め

あとで知ったところでは廃墟と心霊スポットが多く残る場所でもあるけど
見晴らしは良かったです。
瀬戸内海を直で観られたのがよかったです。

カトリック桜町教会。

カトリック桜町教会

聖堂の建築に興味があったので以前から行きたかったところです。
キリシタン殉教がらみの話もあるようです。

栗林公園

栗林公園

そしてうどん屋さんめぐり。
私は元来、大食ではないけれど、小さいサイズのものを選ぶようにしていたので、
多分高松市内滞在中に5店ぐらいは回れました。
どこも美味しかったです。

これらを公共交通機関だけではとてもじゃないけど回れないので
日焼けをしながらレンタサイクルで回りました。

なんだかお腹いっぱいな、一泊二日の旅でした。

翌日は月曜日でしたが、しっかり有給をとって体を休めました。

人ごみ避けてプチ旅行@小田原

GW真っ只中ですね。
GWに入るや、実は日頃の疲れがどっとでて
昨日までは結構だるかったのです。

でも、Twitterで緑を見に行ったりしている写真などをみて

「気分転換しに行きたい」と思いたちました。

でも、どこも混んでいそうだ・・・。

そこで、私は今回は「小田原」を選びました。

そういえば、小田原城の近くには「御感の藤」(ぎょかんのふじ)という
素晴らしい藤棚があり、おそらく今見ごろだろう・・・。

小田原市ホームページ

「御感の藤」とは、まだ幼かった大正天皇(当時は皇太子)が、
当時、小田原にもあった御用邸でお過ごしのさい、この藤の花の下に
召馬が駆け込み、花を散らしたのをご覧になり
「見事な花に心なきことよ」と感嘆されたことから
そのように名付けられたとのことです。

小田原という地は、明治時代以降、温暖な気候と美しい景観から、
政財界の人たちの別荘地としての側面を持つようになったのです。

本当は今年の三月ぐらいに、閑院宮さま関連の展示が行われていたのも
見に行きたかったです(疲れていていけなかった)。

今回、私はまず「御感の藤」を見に行きました。

デジカメを持っていくのを忘れたので、iPhone6Plusのカメラより。

御感の藤

その後、多分鎌倉ほどではないにせよ、人混みがすごいだろうなと
思ったので、どこか静かそうなところはないかと考えて
今回は、一度小田原駅に戻り、箱根登山鉄道線に乗り二駅の
「風祭(かざまつり)」で降りました。

駅前の鈴廣博物館に心ひかれながら、逆方向に歩きました。
坂も、普段歩きなれてない私には、疲れました。

でも、こちら方面に来る人はいないようで
とても静かな雰囲気の中、登って行くと
徳川家康の息子・松平信康の位牌がある萬松院があり、
そこからさらに坂がきつくなりました。

荻窪用水途中の藤

下をみると、荻窪用水が見えてきました。

荻窪用水

この用水は、江戸時代に作られた用水路です。
水がきれいです。

ここをしばらくいくと

円形のため池のようなものが・・・。

山縣水道

これが

「山縣水道水源池」です。

山県有朋が、自分の別荘「古稀庵」に私設の水道を引いたものだと
いうことです。
私設にしてはすごい!

なお、山縣有朋は、京都の別荘「無鄰菴」にも琵琶湖疏水を引き込んでいます。
山縣有朋が庭園に心血を注いでいたのがわかります。

・・・ここ風祭には初めて来たけれど、とりあえず歩けば
山縣有朋さんの別荘「古稀庵」まではたどり着くことができる。

古稀庵

そうすれば、登山鉄道「箱根板橋」まではすぐだ。
(私は以前、山縣有朋さんの別荘までいったことがあります。この別荘は
日曜日以外は入れない。残念ながら今回も入れなかったのですが
一つ、山縣有朋さんについても知ることができてよかったと思っています)

円形のため池から古稀庵までどれぐらいかかるのか?
よくわからないまま、適当に途中の風景も写真に撮りました。

相模湾を望む

見晴らしがよいですね。

しかも観光客は私以外にいない!

なんだかとっても贅沢な気持ちになりました。

山縣有朋さんという人は政治家として、人気もあったとはいえないし
たくさん恨みを買ってもいるし、多分、今も当時も、
「とっつきにくい人」かもしれない。

そんな山縣有朋さんを軍人としても政治家としても尊敬していたのが

渡辺錠太郎大将です。

EPSON MFP image

EPSON MFP image

副官として近侍していたのが大きいと思います。

武藤章さんも、山縣有朋さんのような「スキのない軍人」ならば
政治家になれると評していました。
軍人が政治家になるのは、実は向かないんだよ、とは
実は、元自衛官の方々からも聞きます。
民間の泥臭い部分とは別のところで鍛えてしまっているからなのか?

武藤章さんも、陸軍省軍務局長時代に、元陸軍大将などが政治家に担ぎ上げられるのを
どうもよく思っていなかったようです。
陸軍出身者で総理大臣になった方が、いずれも短期で終わっていること。
政治家としての処し方が陸軍という組織で動くときとは違うことを
体として理解できずに動いてしまったため結果として本人もその取り巻き連も
怪我をしてしまったことを反省しなければならないと思っていたようです。

そんなことをつらつら考えながら、機会があれば山縣有朋元帥のことも
勉強してみたいなと思いながら、再び小田原に着きました。
疲れたので、小田急線に乗って爆睡していました。

三越で品物を買うな!

この言葉
ちょうど昭和初期頃、陸軍省軍事課長(大佐)ぐらいの
山下奉文さんが、家族に言っていた言葉です。

に

山下さんは、財閥が大嫌いだったようです・・・。
そんなところが、あの二・二六事件の時に青年将校に同情的だったとして
誤解される原因でもありますが・・・。

山下さんは、自宅での夕食の時にも、よく
「栄耀栄華している大金持ちがいる一方で、今日も食べる米もない人々のいる
今の日本は、何とか改革しなければならぬ」
と話していたとか。

さらに贈り物なども、お金持ちには持っていかない人だったけど、
出入りの大工さんや職人さんを大切にしていたとは、
義妹・永山勝子さんがいうところです。

岡田啓介内閣の陸軍大臣を事務的に補佐する要職にありながら
貧富の格差問題に目を向け、財閥はもっと国のために奉仕すべきだと
いう考えを持ち、周囲に話していたのが
この人の興味深いところでもあります。

山下さん自身が、少年時代から貧乏であり(お父さんが小学校教師から医師に転職)
さらに、妻の父が陸軍少将をリストラされたことや、実の兄が海軍を辞めて開業医に
なったものの志半ばで病死するということで、自身が公務員(陸軍軍人)という
安定した職業についていながら、軍人(公務員)以外の職業の大変さを
肌で痛いほど感じていたということが大きいと思います。

→以前のエントリーはこちら

そんなことが昭和初期当時の政策に少しでも活かされていたら・・・
山下さんという人を、陸軍大将まで栄進した「勝ち組」の側面だけで
見ないで、現在にもこのような考えの方がいてくれたら・・・と思うのは
私だけではないでしょう。

財閥こそは国のためにという山下さんの考え方は
シンガポール攻略戦時の日誌にも
このようにかかれています。

「(昭和17年1月)5日 (中略)
14時頃イポーに着く、華僑の女学校に入る。これも寄付金により建てるものなりと。
彼らが公共のために資金を出すことは日本人に比して甚だ大なり。
日本の金持ち共は参考にすべきなり」

出典:

現在なら、山下さんは「三越でモノを買うな」と言われるでしょうか?
私は、言わないような気がします。
現在の三越は、伊勢丹などと合併したり、店舗をいくつも閉鎖させたり
新宿の三越のように業態変換(アルコットとして)させて、ロフトや
大規模書店を2フロアに入れたりしても、なかなか業績が振るわないらしいです。
写真は日本橋三越で、かっこいい建築物ですが
維持するのも大変だろうと案じています。

以前なら、私自身が若かったのもあるかも!?ですが
新宿のデパートに行けるということが、楽しみで嬉しかったりしたのですが、
今では、新宿には行くものの、見慣れていた店舗が撤退してしまい
代わりに某大規模洋品店や、大型家電量販店が入るようになってしまい
寂しく思います。
それ以上に、何も東京に行かなくとも、郊外の大型スーパーでもいいやという
気持ちになります。
そう、三浦展『ファスト風土化する日本ー郊外化とその病理』のように。

そんな今の状況を、山下将軍は何と言われるのでしょう・・・。
お聞きしたいです。
「大型店のせいで商店街が潰れたと同情するのはやめにしたい」
などとは言わないと、勝手に思います。

私自身も値段とか利便さを求めて郊外大型店についつい
行ってしまうんですが・・・。
同情以上の深刻さが背景にあるように思えてならないのです・・・。
商店街にノスタルジーとかは私自身感じません。
シャッターが次々降ろされたあとに、少ない資金で
カフェなどを持たれて、バイトを雇い、地域新聞に広告を出して
いつも綱渡りで頑張っている商店街の新しい店舗を見ると
すごいと思いますが、それでも私自身がゆとりがないため
立ち寄る、というより覗くぐらいが関の山です。

また、大型店に関しては、確かに外観はきれいだし、便利ではあるけど業績が悪ければいつでも撤退するよ
という建物のような感じを持っています。そう、以前グアムで買い物をした免税店のように。