【資料】山下奉文大将「最後の言葉」

山下大将の項目をwikipediaで見たところ、

その遺言の全文を見るのが中々難しいらしいです。

こちらには、『山下奉文の追憶:三十年祭に際して』(山下九三夫 1976.2)の所在がある奈良県立図書情報館などで見られると書かれていますが。
『山下奉文の追憶:三十年祭に際して』については、図書館系であれば、東京・九段下の昭和館内図書室でも見られます。

少し山下奉文に興味を持ちだしたひとが資料に当たろうとしても
中々難しいことは確かだと思います。

 そこで、今回は栗原賀久(よしひさ)著『運命の山下兵団』1974年版の最後部分に掲載されている、特別収録版を全文ご紹介したいと思います。
 栗原氏は、山下奉文大将が第14方面(フィリピン・ルソン島)軍司令官時代の中佐参謀。
 彼は陸大を出ていないので、参謀長武藤章中将から実地で参謀教育を受けながら、慣れない参謀業務をしたという方。
 そのことで、山下・武藤将軍を上官として生涯忘れたことはなかったのです。
 この栗原氏が、山下大将の嗣子(兄の4男。山下大将には子供がいなかった)九三夫氏の諒解を得て、再版にあたり掲載したものです。

 初版は、1950(昭和25)年。

★まだ日本が「独立」してない時の出版だった

「山下奉文大将の遺言」とは、山下大将が処刑される昭和21(1946)年2月23日午前3時直前に、
付き添いの教誨師森田正覚さんに対して語ったものです(森田教誨師はこれを口述筆記した)

なお、森田正覚教誨師の書物にも遺書が掲載されています。
用語が栗原氏のものと齟齬があります。
森田正覚氏の著書はこちらです。(1981年出版)

章姫個人の解釈や意見・感想は一切載せず、資料紹介したいです。

昭和20年11月ぐらい。
マニラ裁判中の写真
(私の知る限り最後の写真)

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 私の不注意と天性が暗愚であった為、全軍の指揮統率を誤り何物にも代え難い御子息或いは夢にも忘れ得ない御夫君を多数殺しました事は、
誠に申訳のない次第であります。
 激しい苦悩の為心身転倒せる私には衷心より御詫び申上げる言葉を見出し得ないのであります。
 かつて、皆さん方の最愛の将兵諸君の指揮官であった”山下奉文”は峻厳なる法の裁きを受けて死刑台上に上らんとしているものであります。
 アメリカ初代大統領ジョウジ・ワシントンの誕生祝賀記念日に独房を出て刑の執行を受けるということは、偶然の一致ではありますが
 誠に奇しき因縁と云わねばなりません。
 謝罪の言葉を知らない私は、今や私の死によって、私に背負わされた一切の罪を贖う時が参ったのであります。
 もとより私は単なる私一個の死によってすべての罪悪が清算されるであろうというような安易な気持ちを持っているものではありません。

 全人類の歴史の上に拭うべからざる数々の汚点を残した私は、
 私の生命が絶たれるという機械的な死によって
 相殺されるとは思わないのであります。
 絶えず死と直面していた私にとりましては、
 死ということは極めて造作のないことであります。

 私は大命によって降伏した時、
 日本武士道の精神によるなれば当然自刃すべきでありました。
 事実、私はキアンガンで、あるいはバギオで、かつてのシンガポールの敗将パーシバル将軍列席の下に降伏調印をした時に自刃しようと決意しました。

 然し其の度に私の利己主義を思いとどまらせましたのは、まだ終戦を知らないかつての部下たちでありました。
 
 私が死を否定することによって、桜町(キアンガン)を中心として玉砕を決意していた部下たちを、無益な死から解放し、祖国に帰すことができたのであります。
(私が何故自決をしなかったかということは、ついている森田教誨師に質問され詳しく説明いたしたところであります)
 
 私は武士が死すべきときに、死処を得ないで恥を忍んで生きなければならないことがどんなに苦しいものであるかということをしみじみと体験いたしました。

 此の事より推して、生きて日本を再建しなければならない皆様方が
 戦犯で処刑される者よりどれだけ苦しいかということが、私にはよく分かるのであります。
 もし私が戦犯でなかったなら、皆さんから、たとえいかなる辱めを受けましょうとも
 自然の死が訪れてまいりますまで、生きて贖罪する苦難の道を歩んだでありましょう。

 兵は国の大事にして死生の地、存亡の道なり、察せざるべからず、と孫子もいったように兵はまさしく凶器であり、大きな罪悪でありました。
 この戦争を防止するため、私はあらゆる努力を払いました。
 しかし、悲しいかな私の微力よくこれを阻止できなかったことは、まことに慙愧に堪えない次第であります。

 マレーの侵略、シンガポールの攻略、国民の地を沸かせただけに
 おそらく皆さんは、私を生粋の侵略主義者、軍国主義者の最たる者と目しておられるでしょうが、それは当然であります。
 
 私も一身を軍職に捧げた職業軍人であります。
 今さら何をかこれに加えましょうか。

 しかし、私も軍人であるとともに、一面日本国民としての意識もまた相当強く動いておりました。

 亡国と死者は永久に再生はないのであります。

 兵事はいにしえより、明君賢将の深く慎み、警むるところでありました。

 一部少数者がひとり事を断じて、国民大衆を多く殺傷し、残れる者を今日のごとく塗炭の苦しみに陥れたことは等しく軍部の専断であり、
 国民諸君の怨嗟ことごとく、我等に集中すると思うとき、私は正に、断腸の思いがするのであります。

 ポツダム宣言により、日本が賢明ならざる目論見によって日本帝国を滅亡に導いた軍閥指導者は一掃され、
 民意によって選ばれた指導者により、平和国家としての再建が急がれるでしょうが、前途いよいよ多事多難なることが想像されます。

 建設への道に安易なる道はありません。

 軍部よりの圧力によったものとは言え、あらゆる困苦と欠乏に堪えたあの戦争十ヵ年の体験は、必ずや諸君に何者かを与えるに違いないと思います。
 新日本建設には、私たちのような過去の遺物軍人、或いは阿諛追従せる無節操なる政治家、侵略戦争に合理的基礎を与えんとした御用学者などを
 断じて参加させてはなりません。

 恐らく、占領軍の政策をして何らかの方法がとられるのでありましょうが、
 まさに死につかんとする私は、日本の前途を思うのあまり、一言申し添えたいと思うのであります。
 
 踏まれても、叩かれても強い繁殖力をもった雑草は、春が来れば芽を吹きます。
 国ことごとく破れて山河のみとなった日本にも、旺盛なる発展の意志を持った日本の皆様は再び文化の香り高い日本を
 あの1863年の丁独戦争(注:ドイツ対デンマークの戦争)によって、豊穣なシュレスウィヒ、ホルスタイン両州を奪われたデンマークが、再び武を用うることを
 断念し、不毛の国土を世界に冠たる欧州随一の文化国家に作り上げたようにー
 建設されるであろうことを信じて疑いません。

 私ども亡国の徒は、衷心からの懺悔とともに異国の地下から、日本の復興を祈念いたします。

 新たに軍国主義者どもを追放し、自ら主体的立場に代わられた日本国民諸君、
 荒らされた戦禍の中から雄々しく立ち上がって頂き度い、
 それが又私の念願であります。私は朴訥なる軍人であります。

 今や死の関頭に立って万感交々至り謝罪と共に言語の形式を以て申し述べたいのでありますが、
 武将の常として従来多くを語らず寡言実行の習癖を加うるに言語又豊富でありませんので、之を表現することが出来ないことを残念に思います。

 私の刑の執行は、刻々に迫ってまいりました。
 もう、40分しかありません。
 この40分という時間が、
 私にとっていかに貴重なものであるか、
 死刑囚以外には恐らくこの気持ちの分かる人はないでしょう・・。
 私は森田教誨師と語ることによって、何時かは伝わるであろう時を思い、皆さんに伝えていただくことにいたします。

 聞いて頂き度い・・・・

 其の第一は、義務の履行ということであります。

 この言葉は古代から幾千の賢哲により言い古された言葉であります。そしてまた、此の事程ほど実践に困難を伴うことはないのであります。
 また、このことなくしては民主主義的共同社会は成り立たないのであります。
 他から制約され強制されるところのものでなく、自己立法的に内心より湧き出づるところのものでなくてはなりません。
 
 束縛の鉄鎖から急に解放されるであろう皆さんが、この徳目を行使される時に思いを致すとき、
 聊か危惧の念が起こって来るのであり、私は何回この言葉を部下将兵に語ったことでしょうか。

 峻厳(しゅんげん)なる上下服従の関係にあり、抵抗干犯を許されなかった軍隊に於てさえ、絶えずこのことを言わざるを得なかったほど、
 道義は著しく退廃していたのであります。
 甚だ遺憾な事ではありますが、今度の戦争におきましては私の麾下部隊将兵が悉く自己の果すべき義務を完全に遂行したとは云い難いのであります。
 他律的な義務に於てさえこの通りでありますから、一切の羈絆(きはん:人の行動を拘束し、妨げとなるもの)を脱した国民諸君のまさに為すべき自律的義務
 の遂行にあたっては、いささか難色があるのではないかと懸念されるのであります。

 旧軍人と同じ教育を受けた国民諸君の一部にあっては、突如開顕された大いなる自由に眩惑されたあまり、他人との連関ある人間としての義務の履行に怠惰で
 ありはしないかということを恐れるものであります。

 自由なる社会におきましては、自らの意志により社会人として、否、教養ある
 世界人としての高貴なる人間の義務を遂行する道徳的判断力を養成していただきたいのであります。

 此の倫理性の欠如ということが信を世界に失い、醜を万世に残すに至った戦犯容疑者を多数出だすに至った根本原因であると思うのであります。

 この人類共通の道徳的判断力を養成し、自己の責任において義務を履行するという国民になって頂き度いのであります。

 諸君は今彼の地に依存することなく自らの道を切り開いていかなければならない運命を背負わされているのであります。
 何人と雖も此の責任を回避し、自らひとり安易な方法を選ぶことは許されないのであります。ここに於てこそ世界永遠の平和が可能になるのであります。

 第二に、科学教育の振興に重点を置いて頂き度いのであります。

 現代に於ける日本科学の水準は、極く一部のものを除いては世界の水準から相去る事極めて遠いものがあるということは、
 何人も否定することの出来ない厳然たる事実であります。 
 一度海外に出た人なら、第一に気のつくことは、日本人全体の非科学的生活であります。
 
 合理性を持たない排他的な日本精神で真理を探究しようと企てることは宛も木によって魚を求めんとするが如きであります。
 
 我々は、資材と科学の欠陥を補うために汲々としたのであります。
 
 我々は、優秀なる米軍を喰いとめるために、百万金にてもあがない得ない国民の肉体を肉弾としてぶっつけることによって勝利を得ようとしたのであります。
 
 必殺肉弾攻撃体当たりなど、戦慄すべき凡ゆる方法が生れました。
 わずかに飛行機の機動性を得んがためには、防衛装置をほとんど無視して飛行士を生命の危険に曝さざるを得なかったほど、戦争に必要なものが欠けて
いたのであります。
 我々は、資材と科学の貧困を人間の肉体をもって補わんとする前古未曾有の
 過失を犯したのであります。この一事をもってしても、我々職業軍人はその罪、万死に値するものがあるのであります。

 今の心境と、降伏当時との心境には大いなる変化があるのでありますが、

 ニュービリビットの収容所に向う途中、米軍トラックの上で「ヤンク」の記者ロバート・マクミラン君が「日本敗戦の根本的理由は何か」と質問された時、
 重要かつ根本的な理由を述べんとするに先立って、今迄骨身にこたえた憤懣と熾烈な要求が終戦と共に他の要求に置き換えられ、
 漸く潜在意識の中に押込められていたものが突如意識の中に浮び上り、思わず知らず飛び出した言葉は
 「科学(サイエンス)」でありました。

 敗因はこれのみではありませんが重大原因の中の一つであったことは紛れもない事実であります。

 若し将来不吉なことではありますが戦争が起ったと仮定するならば、恐らく日本の取った愚かしい戦争手段等は痴人の夢の昔語りと化し、
 短時間内に戦争の終結を見る恐るべき科学兵器が使用されるであることが想像されるのであります。
 戦争の惨禍をしみじみと骨髄に徹して味うた全日本人は否全世界の人類は、この恐るべき戦争回避に心根を打込むに違いありません。
 又このことが人間に課せられた重大な義務であります。

 あの広島・長崎に投下された原子爆弾は恐怖にみちたものであり、
 それは長い人間虐殺の歴史に於て、かつて斯くも多数の人間が生命を大規模に、然も一瞬の中に奪われたことはなかったのであります。

 獄中にあって研究の余地はありませんでしたが、恐らくこの原子兵器を防禦し得る兵器はこの物質界に於て発見されないであろうと思うのであります。
 
 過去に於ては、如何なる攻撃手段に対しても、それに対する防禦は可能であると言われておりました。実際このことは未だに真実であります。
 過去の戦争を全く時代遅れの戦争に化し去った
 この恐るべき原子爆弾を落してやろうというような意志を起こさせないような国家を創造する以外には手はないのであります。

 敗戦の将の胸をぞくぞくと打つ悲しい思い出は、我に優れた科学的素養と科学兵器が十分にあったならば、
 たとえ破れたりとはいえ斯くも多くの将兵を殺さずに、平和への光り輝く祖国へ再建の礎石として送還することが出来たであろうという事であります。
 
 私がこの期に臨んで申上げる科学とは人類を破壊に導く為の科学ではなく、未利用資源の開発、
 或いは生活を豊富にすることが平和的な意味に於て人類をあらゆる不幸と困窮から解放する為の手段としての科学であります。
 
 第三に申し上げたい事は、殊に女子の教育であります。
 伝うる所によれば日本女性は従来の封建的桎梏(しっこく)から解放され、参政権の大いなる特典が与えられたそうでありますが、
 現代日本婦人は西欧諸国の婦人に比べると聊か遜色があるように思うのですが、これは私の長い間の交際見聞に基く経験的事実であります。
 
 日本婦人の自由は、自ら戦い取ったものでなく、占領軍の厚意ある贈与でしかないという所に危惧の念が生ずるのであります。
 贈与というものは往々にして送り主の意を尊重するの余り、直ちに実用化されないで鑑賞化されやすいのであります。
 
 従順と貞節、これは日本婦人の最高道徳であり、日本軍人のそれと何等変る所のものではありませんでした。
 
 この去勢された徳を具現して自己を主張しない人を貞女と呼び、忠勇な軍人と賛美してきました。
 そこには何等行動の自由或は、自律性を持ったものではありませんでした。
 皆さんは旧殻を速やかに脱し、より高い教養を身に付け、従来の婦徳の一部を内に含んで、
 然も自ら行動し得る新しい日本婦人となって頂き度いと思うのであります。 
 平和の原動力は婦人の心の中にあります。
 皆さん!皆さんが新に獲得されました自由を有効適切に発揮してください。
 自由は誰からも侵され奪われるものではありません。皆さんがそれを捨てようとするときにのみ消滅するのであります。
 
 皆さんは自由なる婦人として、世界の婦人と手を繋いで婦人独自の能力を発揮してください。
 もしそうでないならば与えられたすべての特権は無意味なものと化するに違いありません。
 
 最後にもう一つ婦人に申し上げ度い事は、皆さんは既に母であり、又母となるべき方々であります。
 母としての責任の中に、次代の人間教育という重大な本務の存ずることを切実に認識して頂き度いのであります。
 
 私は常に現代教育が学校から始まっていたという事実に対して大きな不満を覚えていたのであります。
 幼時に於ける教育の最も適当なる場所は家庭であり、最も適当なる教師は母であります。真の意味の教育は皆さんによって適当な素地が培われるのであります。
 若し皆さんがつまらない女であるとの誹りを望まれないならならば、皆さんの全精力を傾けて子女の教育に当って頂き度いのであります。
 然も私の言う教育は幼稚園或いは小学校入学時をもって始まるのではありません。可愛い赤ちゃんに新しい生命を与える哺乳開始の時を以て、
 始められなければならないのであります。
 愛児をしっかと抱きしめ乳房を哺ませた時、何物も味わうことができない感情は母親のみの味わいうる特権であります。
 愛児の生命の泉としてこの母親はすべての愛情を惜しみなく与えなければなりません。
 単なる乳房は他の女でも与えられようし又動物でも与えられようし代用品を以ってしても変えられます。
 併し母の愛に代わるものはないのであります。
 母は子供の生命を保持することだけを考えるだけでは十分ではないのであります。
 
 彼が大人となった時、自己の生命を保持しあらゆる感情に耐え忍び、平和を好み、
 協調を愛し人類に寄与する強い意志を持った人間に育成しなければならないのであります。
 皆さんが子供に乳房を哺ませた時の恍惚感を単なる動物的感情に止めることなく、
 更に智的な高貴な感情にまで高めなければなりません。母親の体内を駈け廻る愛情は乳房からこんこんと乳児の体内に移入されるでしょう。
 
 将来の教育の諸分化は、母親の中に未分化の状態として溶解存在しなければなりません。
 幼児に対する細心の注意は悉く教育の本源でなければなりません。巧まざる母の技巧は教育的技術にまで進展するでしょう。
 こんな言葉が適当か、どうか、専門家でない私には分りませんが、私はこれを『乳房教育』とでも云い度いのであります。
 どうかこの解りきった単純にして平凡な言葉を皆さんの心の中に止めてくださいますよう、これが皆さんの子供を奪った私の最後の言葉であります。

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堀栄三氏『大本営参謀の情報戦記』と一井唯史氏(元東電社員)のFacebook記事の並行読み

最近、軍組織と企業組織が似ているなと感じることが
多く(特に東京電力についてTwitterでつぶやいている)
今一度読み返してみたいと思う本がこの本です。

著者は堀栄三(1913-1995)氏。
この方は、東京陸軍幼年学校→陸軍士官学校(46期)→陸軍大学校(56期)を経て

※陸軍大学校とは、今でいう大学とは全く違うものです。
陸軍の高等教育機関で、少佐になるまでに入学できなければいけないという制限のもと
全国の部隊から優秀者が受験してくるところでした。
1回で入れた人(武藤章中将)もいれば、2回、3回受験も当たり前で
最後の受験でも失敗に終わってしまえば、
「せいぜいがんばって大佐になれればいいか」ぐらいの考えになるものらしいです。
つまりは陸大を出ていないと、中央部での勤務機会や
将官への途はほぼ閉ざされるらしいです。
失敗に終わった軍人のなかで、それなら部隊勤務に精を出そうとか
憲兵科に方向転換する人もいました。

いきなり大本営(参謀本部第二部)に配属されました(陸軍少佐・1943年)
30歳。

今の日本企業社会においては、ようやく難しい仕事も任せてみようと思われるぐらいかと
思います(もちろん大企業の正社員さまや、中央官庁の官僚という前提)。

当時の参謀本部では毎朝戦況報告会を行うこととなっていて
ここには、参謀総長(大将)や大臣も出席することもあったようですが
当時は次長(中将)が出席することもあったとか。
そういう偉い人が出席するとなると

「富永恭次陸軍次官が出席したときは、二重三重となってテーブルを取り巻いていた
周囲の者がさっと道をあけて、(富永)次官は地図の広げてある大テーブルの傍に立ち
あたりの周囲が一変して緊張した」

ぐらいだったことです。

堀栄三(当時少佐)は、ソ連担当の第五課に勤務してわずか二週間たらずで
いきなり有末精三第二部長(少将)から

「堀参謀は明日からソ連戦況の説明をやれ!」と無茶ぶりされました。

堀少佐はとても困惑され、
「まだソ連については詳しい地名も覚えていないので、もう少し暇をくれませんか」

恐る恐る正直な返事をした途端

「何を!そんな奴は参謀の資格はない!」というや否や、
起こった有末部長は堀の参謀懸章をひっぱった

(この写真の左側の編み込みのようなものが参謀懸章といいます。
これを上司に引っ張られたのでした)

無惨にも懸章は肩の部分の止め金が外れて、もう少しで引きちぎられそうになった。
情けないが、堀は
(※この著書内では堀栄三氏は、「堀」と称している。これはご自身でさえも客観的にみたいとする意志によるもの)
いまそれを引き受ける自信はまったくなかった。
大本営とは陸軍の俊才が集まるところであった。
俊才とはこんなときに、わかった顔をして引き受けるのだろうか。
目から鼻に抜ける人間が天下の俊才というのだろうか。
嘘でも丸めて本当のようにしゃべるのが大本営参謀であろうか。
しかし、どうもそうらしい

とにかく、じっくり型の堀は生れて初めて大勢の前で面罵された。
いずれにしても堀には、あのときあの返事しかできなかった。
出世街道をひた走りに進んできた有末部長のような幕僚型の人物とは、
こういうタイプの人物をいうのだろうか。」

「誰が、どのような手続きをしたのか、若輩参謀には皆目わからなかったが、
その翌々日、堀は電光石火の人事で第六課(米英課)に替えられてしまった。
(中略)挙句の果てに落第のような形で第六課にきてしまった。
いよいよ、米軍と真正面に取り組む情報の舞台に立たされたのであった。
迷惑だったのは、落第生を拾った第六課長杉田一次大佐だったはずだ。
実務型というか、実践型というか、人を育てて、その能力を出させるような使い方をする課長であった。」

章姫にとってはこの堀栄三氏の書物は、何度も読み返している本でもありますが、
今回久しぶりにひも解いてみて
いろいろと考えさせられました。

最近、Twitterでつぶやくことが多くなった東京電力との共通点が
まず二つ、見出せます。

ひとつは、パワハラが常態化していること。

もっとも堀栄三氏も、陸軍幼年学校(今でいうほぼ中学生ぐらい)から陸軍生活を
しているのだから、殴られるのは当たり前だろうと思うかもしれない。
陸軍の下士官世界での暴力はいろんな本で知ることもできるから
意外に思うかもしれない。
それを知らない堀氏でもあるまいに。
(陸軍士官学校を出ると、部隊に配属されるので、
そこで少しは下士官との接触もあるはずだから)

その堀栄三氏をして、これまで受けたであろう暴力・暴言を吹き飛ばすほど
有末精三参謀本部第二部長から振るわれた暴力が心身共にこたえるものであったこと。

電通社員で過労自殺された高橋まつりさんは、女子力がないことや、仕事が遅いことなどを上司に言われ続けたことをTweetされていましたが、

大本営の参謀本部での堀栄三氏や、東電の一井唯史氏が受けたパワハラというのは
やはり電通とは違うように思います。
陸軍も東電も、安全管理が第一の組織だから。

堀栄三氏も一井唯史氏も、
安全管理第一のために正直に答えり、行動しようとしたところ、
いきなり上司からの暴力・暴言があった。
頭ごなしに怒鳴られ、「なぜわからないのか?」とさえも聴いてもらえなかったところ。

ふたつは、(当時の陸軍は戦争中というのもあるが)
適性を無視した人事異動が激しかったこと。
一井唯史氏が東京電力の「無茶ぶり」な異動、組織改編と似ているように
思うのは私だけだろうか。

おそらく堀栄三氏は、「ソ連関係の情報参謀として落第」し、めでたく米英課へ異動し
そこで、よき課長・杉田一次大佐に恵まれたようだが。
一井唯史氏(東京電力)の場合もFacebookの311関連投稿から該当箇所を引用すると。

「◯賠償の第一陣として
賠償の第一陣として「産業補償協議 第8グループ」への異動辞令をもらいました
勤務地は東京都内です。
(中略)
自分が何をするのかわかりませんでした
とにかく被災企業との協議は一般個人の賠償に比べてかなり難しい業務になるだろうと予想しました
配属先が研修所だということもあり、そこから東北や関東の賠償の事業所に出張したり、
被災企業に赴いて協議を行うのだろうかと色々な想像をしました。
自分も含めて賠償業務に出た社員は会社の中では一軍ではありませんでした
賠償担当となったからには中核者になろう、もう電気事業には戻らないで30年は続くだろう賠償に身を置こう、
定年の時に賠償がようやく一段落して良かったと思えたらいいのではないか、そう考えました」
(2011年9月のこと)

「よくわからない形ばかりの研修の後、福島に請求書の書き方の応援に行き、ほとんど見たことがない一般個人の請求書を見ながら説明しました
この手の無茶振りは東京電力ではよくある話です」

一井唯史氏(東電)も堀栄三氏(陸軍)も、ご自身の立場を「一軍落ち」と思いながらも
新しい職務に意味を見出そうとされておられます。、

賠償業務が30年以上も続くと考え、その分野の第一人者たらんとされた一井唯史氏(東電)ですが、
与えられた場所、権限は以下の通り。

「研修所となっている元東電学園(全寮制の高校)の教室には電話機が用意されていました
マネージャーから説明がありました
「皆さんにやっていただく仕事は審査結果にご納得をいただけない被災企業からの問い合わせ対応です。担当地域は全エリアです。」
「謝罪をして審査結果にご納得をしていただけるまでご説明をしていただきます。
協議グループではありますが、皆さんには審査内容や審査金額を変更する権限がありません。」

その後どのように職務が変わっていったのかは、こちらに詳しいです。

「平成23年9月~平成25年6月末までの約2年の間、法人部門の賠償業務に携わりました。
2つのグループでグループを代表する役職を歴任した後、
平成25年2月18日~平成25年6月末までの約半年の間、
法人部門の賠償組織を代表し基準の責任権限を有する産業補償総括グループ基準運用チーム6名のメンバーとして、
複雑で難易度の高い賠償案件の相談を受けて賠償可否の判断や方向性の指南を行い、
法人賠償11グループ約450名を統括する重要なチームで賠償の指南役を務めました。」

研修所が新しい職場となってから、平成25年6月までの約二年間に
権限なしの謝り部隊(被災された企業様担当)
→二回のグループ変更(事実上の職務変更)
→法人賠償業務の指南役と、

この文章だけでもどれだけ東京電力が原子力事故対応だけでなく、賠償業務においてもまた
場当たり的であったかが読み取れます。

一方、陸軍は
堀栄三氏が異動となった米英課は、米英と戦争をしているのだから
さぞ、重要な職務なので、情報集めのための準備が十分にあったのでは思うのが、おそらく世界の常識だと思います。
しかし、米英課は、
「これが戦争の真正面の敵である米英に対する情報の担当課かと疑われるほど粗末であった。
杉田大佐は、(中略)泥縄式という言葉をあちらこちらで使っているが、
この人事や第二部の改編の目まぐるしさは、泥縄の見本のようなもので、(中略)
底流を見つめると、日本の国策を決定するための基礎となる最重要な世界情勢判断の甘さが大本営自身をも翻弄していたことがわかる。
その挙句、大本営は周章狼狽する。打つ手が後手後手になっていく。
そのツケは当然ながら、第一線部隊が血をもって払わなければならなくなる。」

この文章は、本当に、戦争に負けたあと、原子力の事故まで起こした21世紀の我が国において、
失敗の本質はいまだ変わっていないし、それにさえ気づかないふりをしようと
していることを、深く、深く教えてくれます。

今回は、Facebookなどで記事を拝見している一井唯史氏(元東電社員・原子力事故賠償)の文章と並行しながら、
堀栄三氏の『大本営参謀の情報戦記』の一部を読んでみました。
改めて、堀栄三氏の言われていることは、現在日本においてもまだ「新しい」ことに
残念ながら気づかされました。

武藤章中将著「山下奉文小伝」

山下奉文大将に関する伝記で最も古いものは
おそらく沖修二『山下奉文』(山下奉文記念会編 1958)だと思います。

しかし、その元となった伝記があることは
あまり知られてないかもしれません。

フランク・リール『山下裁判〈上〉』 (1952年)に掲載されている
武藤章中将が山下裁判の時に弁護団(フランク・リール大尉たち)のために書いた短い伝記が一番古いものだと思います。
※書物になった時の文章は、武藤が書いた文章が英訳されて、フランク・リール大尉が書物にしたものとなり、
その後日本で許されて出版される際に訳者となった下島連氏が和訳したものです。
よって武藤章中将が裁判の時に書いた時の文言とは相違もあるかもしれません。
けれど、文章が上手いと評判の武藤中将らしさ?が私には伝わるように思います。

武藤章中将の「山下奉文小伝」には、少年時代の山下さんに関する記述があります。

私はこの文章を読んでいたので、「杉の大杉」に行く時に、この文章が頭に浮かんできて、目にする風景を重ね合わせて楽しんでいました。

例えばJR大杉駅前の川を見ながら、こんなところで少年時代の山下さんは水遊びしていたのかな?とか。

JR大杉駅(土讃線)駅舎です。

大杉駅舎

すぐに穴内川(あないがわ)が流れてます。澄んでます。

穴井川

ここが旧邸跡です。

山下奉文旧邸跡

旧邸跡を見ながら、お祖父さんとの菊作りのやりとりはここだったのか?とか妄想していました。

杉の大杉(八坂神社)近くの美空ひばりの碑

美空ひばりの碑

その文章はこんな書き出しでした。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 山下奉文は、1885年12月8日四国のある小村の質朴な田舎医者の子として平民の家に生まれた。
その村は吉野川の上流の盆地にあって、四国の背骨として島の中央を走っている峨々たる山に取り囲まれていた。
 げに幼児こそは大人の父である。
誕生の場所と幼年時代は、未来の将軍の人格と性格の形成に大きな関係を持った。
近代文明の騒音から遮断された山間地方の孤立した静けさに抱かれて、少年奉文はのびのびした、健康な平和的な若者に成長した。
ー青竹を割ったような気質、開け放し、率直、勤勉、直情径行、これらは彼の今日の性格の基礎をなすものである。
 
 周囲の山は濃い緑の草木におおわれ、その間を無数の水晶のように澄んだきらきら輝く小川が縫っていた。
村人たちは世間擦れのした、金銭慾旺盛な都市住民のずるさやたくらみが全くなく、素朴で親切な、満足しきった人々だった。
実に奉文はその形成期をこの自然美と調和の環境、平和と満足の中ですごしたのである。
 山下奉文はのんきな、健康な、肉体的にも精神的にも敏活な少年だった。
彼はひまさえあれば、山や野原を歩きまわっていた。そのために両親と教師、特に教師はいくぶん心配したほどだった。
 
   彼の祖父は、素晴らしい菊を作っていて、毎年適当な季節に、最も優秀な品種の芽をつんで、よく地ならしした苗床に丁寧に植えた。
毎朝、自分で若芽に水をやり、細心に観察するのが、老人の仕事だった。ある年例によって芽を摘んで植えたが、根がつかなかった。

・・・不思議なことに、さし芽は次から次へと枯れた。
菊作りの名人は途方にくれてある朝、早く出て行くと、
孫が立入禁止の畑で、残っている芽を一つ一つ引っこ抜いては根を調べ、植えなおしているではないか。

 物も言えないほど驚いた老人は、すぐそれをやめさせ、この乱暴な行為を厳しく叱責した。ところが返事はこうだった。

「お爺さんは芽に水をやると根が出るとおっしゃいました。僕は毎朝根が出るのを待っていたのです」

  祖父は孫の澄んだ、ビクともしない目を見つめた。
それから、おだやかな態度で気に入っている品種の芽を彼に与えて、この自然児に、実験を続けさせた。
この公明正大さと知的好奇心はいつも同僚や競争者から際立っている彼の特徴だった。
 
  少年奉文は、自然を愛することを学び、自然も、また彼に多くのことを教えたとは言え、
彼は勉強を顧みなかったので、村の小学校で好成績をあげることができなかった。
彼の優しい母親は非常に心配した。
そして、祖母は時々少年を自分の室へ呼んで長々といましめた。しかし、その効果はなかった。
奉文は落第したことはなかったが、一度も優等賞をもらえなかった。
しかし、この田舎少年が、村から四十二キロ離れた町の中学校へやられると、成績が急に良くなって、
学年が終わった時、彼は誇らしげに帽子に優等生のメダルをつけて家へ帰った。
母親は非常に安心した。祖母はかわいい孫をうれし涙で迎えた。
(中略)
山下奉文大将の人柄と性格は、彼の天性、彼の教育と鍛錬、彼の軍人としての閲歴の綜合的産物である。

山下大将の性格を分析するにあたって自然の基本的法則であり、
彼の少年時代、青年時代の山と川と林に示されている調和と秩序を見逃すことはできない。
不和と貪慾は大将が最も憎んだ人性であり、
彼の同胞の中で、彼ほど飾り気や気取りがなく、世俗的野心にわずらわされなかった者は少ない。
・・・人間に対する深い信頼感は純粋で善良な人のみが持つ特質で、
この人物の広い心と高潔な性格に触れる幸運な機会を持った者は、たちまち、この真理を発見する。」

裁判中で、かつ抑留中なのに、武藤章中将はよくこの文章(中略部分は山下大将の軍歴)をかけたなあと思います。
ただでさえ裁判で疲れているのに、文章を書くというのは・・・。どれだけメンタル強い人なのだと
改めて思います。
そして、この内容をきちんと山下大将本人から聞き出して物語にするという文章力、
当時52歳だった武藤章中将の仕事力はすごいものだったと思います。

日本一の大杉「杉の大スギ」

明けましておめでとうございます
本年もどうぞよろしくお願いします

なかなかブログ更新できないですが
書ける時は書こうと思います

さて、私は昨年のある日ですが
ついに行きたかったところの一つ
「杉の大杉」(高知県大豊町)に行ってきました。

なかなか高知県まで行くというのは、費用的にも日程的にも
難しいものがありますが
3万ほど(行き帰り新幹線と岡山泊ホテルの1泊2日)で
またも行ってきました。

まずは新幹線で岡山に行き、岡山⇄大杉は特急にての移動
(これが8,000円以上かかります。
それならば、東京⇄高知間のビジネスパックでもいいんじゃない?と
言われましたが、結局岡山に泊まることにしました。)
かなりタイトな旅でした

まだ香川県の旅についても中途半端なままなのに・・・。
こちらはまた後日にします。

JR大杉駅前に降り立ち、橋を渡ると大杉ハイヤーさんがありましたので
まずそこに向かいました。
運転手さんに、
「山下奉文旧邸跡」と「杉の大杉」を何とか一度に回りたいとお願いしたら
快く応じてくれました。
徒歩ではいけない距離ですから・・・。
なので、歩いたのは杉の大杉」からJR大杉駅(1キロ弱)までだけでした。
昔の人の健脚さに驚きました・・・。

山下奉文さんは、幼少期の一時期、現在の高知県大豊町で暮らしていました。
ちょうど、小学校の教師を辞めて医師になったお父さんが開業していたのが
このあたりだったのです。
今で言えば小学校低学年あたりの頃に生活していた場所でした。

もっとも、行くことを決めてからもう一度書籍を読み返すと、
山下奉文少年は、大杉のあたりで生活していたこともあるけれど、
そこから離れた、現在の土佐山田町あたりで生まれ育った時期の方が長かったということでした。
高知に泊まれたなら少しはゆっくり回れたのにと悔やまれます・・・。

タクシーを降りると、八坂神社があり、
その手前に料金所がありました。
この大杉を維持するのに使われるとのこと。

そして「杉の大杉」です

杉の大スギ

素戔嗚尊が植えたと伝えられるこの杉、樹齢3000年と言われる
この大杉。本当に大きかったです・・・。
写真に収まらないほどに
なんとどっしりしているのだろうと
この樹木が出す静けさが素晴らしかったです。

なんと大切にされてきたのだろうと思いました。

タクシーで時間稼ぎをしたので、約50分ほど時間ができました。
なので、樹木の近くにあるベンチでぼーっとしていたり
境内をぐるぐる廻ったりしていました。

そうしたら、小さなお社がありました。

「巨杉の社」と書いてありました。

巨杉の杜

下に碑文がありました。

「陸軍大将山下奉文はこの地大豊町川口出身 
号を巨杉という 
大東亜戦争の緒戦マレーシンガポールの攻略に 
神速なる戦果を挙げ世界の戦史を飾る 
のち満州より転じて比島作戦を継承するも時に利あらず 
詔勅に従い矛を収め部下全将兵の責任を受け 
米国軍法会議の決に服し莞爾として刑死せり 
惜しむべし将軍は皇国の無窮と弥栄を固く信じ 
至誠純忠悠久の大義に殉じ 
その霊魂はここ日本一の大杉に宿る
嗚呼 偉なるかな 萬人巨杉を仰ぐ」

やっとここまで来られた!と思っていたところ
料金所の女性の方が、私に話しかけてこられました。
彼女は、この巨杉の社を詣でる人には特別な資料を見せることもありますと
言われていました。
山下奉文大将関連の資料でした。
やはり、年に数名は、山下奉文大将を慕ってお詣りする方がいらして
その方々が資料を彼女に預けられていくのだそうです。
山下奉文大将関連資料が集まってくるのだそうです。
※私も後日、東京で集められる山下奉文大将関連資料を集めてお送りしました。
年に数名いるかどうかの方々が山下奉文大将を思い出してくれたらと思い・・・。

多くの人は、裏の美空ひばりさんの碑に行ってしまうのだそうですが。

大東亜戦争後、八坂神社の宮司さんは、

釣井正亀宮司

なんとか山下奉文大将を祀ろうと努力されてきたのですが、かなり苦労されたそうです。
戦争犯罪人を祀るとは!とか。
「巨杉神社」としたところ、宗教的な面でこれまたクレームもあり、
「巨杉の杜」としたそうです。
昭和61(1986)年当時は確かに「巨杉神社」だったのに。
(「巨杉会会報 別冊特輯 カンルーバン将官収容所に於ける
   将軍の横顔と句集」(1994年8月)所収の当時の新聞記事より)

昭和末期頃は、まだ山下奉文大将に仕えた部下たちも生きていたのですが
平成に入る頃には戦友会もなくなってしまい、荒廃してしまったところ
なんとか「巨杉の杜」という形で再興したものらしいです。

そんな話を伺っていると、もう15時近く。
電車に乗り遅れそうでした。
最後は小走りをして、なんとか乗りました。
もうクタクタでした。

山下奉文大将のクリスマス

久しぶりの更新になります。
本日はクリスマスイブですねえ。

それにふさわしい記事になるのかどうか・・・。

小林よしのり氏「米国の「戦争犯罪」を認めない安倍首相」

には、安倍首相はアメリカのファルージャで民間人虐殺を行っていた「戦争犯罪」を頑として認めない姿勢のご様子。それどころか米軍が行った日本への原爆投下や都市空襲ですら「戦争犯罪だった」と明言しないのだ!とあり

現日本の「宗主国」の戦争犯罪は認められないのだそうな。

敗戦国・日本において、昭和27年(1952)に日本語訳で刊行され、深刻な影響を及ぼした書物があります
『山下裁判」上・下(フランク・リール著 下島連訳)。

ポツダム宣言受諾後、戦争犯罪人として一番初めに起訴されたのが
当時、マニラで拘留されていた山下奉文大将でした。
書物の著者・フランク・リール氏は、ハーバード大学出身のアメリカ軍陸軍大尉でした。
なので山下大将と初対面時はまだ敵対心と疑いの心で接してしまったようですが、すぐ山下大将と打ち解けました。
山下大将の持つ人格がそうさせた部分もあると思いますが、それだけではなかったのです。

リール氏たちはこの軍事裁判の意義がそもそもおかしいと感じ始めていました。
山下大将がなぜ起訴されたのか?
それは、ルソン島(フィリピン)における部下の残虐行為の全てに、軍司令官として責任を負わねばならず、それを怠ったという理由でした。

となると、山下大将と戦火を交えた側のマッカーサー元帥の罪もあるのでは?
どんな軍隊にも悪人はいる。ルソン島にて戦う際、アメリカ軍には一切残虐行為はなかったと言えるのか?
歴史的な結果としては、マッカーサー元帥は、山下大将たちを裁き
山下大将は裁かれ、絞首台へと送られた・・・。

そのようなことが書かれている本で、昭和20年代の日本においては、深刻な影響を及ぼす書物だったとのことです。
今も読む価値があるはずですが、中々手に入らないし
そもそも、公立図書館でも読むことができない。
いつしか廃棄本とされてしまった。
もし読みたければ、東京の国立国会図書館にでも行かねばならない。

そこまでできる人といえば、ライターとかしかいないのではないでしょうか?
それで本の存在さえも忘れられてしまう
その結果が、小林よしのり氏の先のコラムとなるのではないでしょうか。

この書物の下巻表紙に恐ろしいことが書かれています。

ノーマン・トマス
今後、アメリカの将軍、大統領は絶対に降伏する気にならないにちがいない。
戦争というものは、山下裁判の前例に基づいて、読者は敗者を絞首刑に処する理由をいくらでも発見できる性質のものであるから。

軍事裁判中の山下大将と武藤中将の動画です。

武藤章中将のはこちらです(山下大将と間違えている人がいますが、これは間違い無く武藤章中将です)

この軍事裁判で絞首刑宣告を受けた山下大将は、12月8日以降参謀長であった武藤章さんたちと引き離され、一人で既決囚として隔離されていました。

フランク・リール氏たちは、山下裁判はアメリカの恥となると、今度はクリスマス返上で、アメリカ最高裁へと訴えるために準備に追われることとなりました。
もし山下大将が判決通り死刑になるなら、これはアメリカの恥となるので食い止めようと、アメリカ本国の最高裁判所を巻き込むこととしたのです。
それで12月23日午前、死刑囚としての生活を送っている山下大将に会いに行ったのです。その時の記述は以下の通りです。

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ピラミッド型のテントを取り巻く有刺鉄線の柵の中に案内された。彼(山下大将)は出てきて私たちを迎えた。
すり切れた陸軍の作業衣を着ているだけで、幾分やせたように見えたが、山下は依然として司令官だった。
まるで昨日会ったばかりであるかのように、彼はからからと笑い、微笑し、冗談を言った。

しかし明らかに彼は私たちに会えて非常にうれしがっていたのだ。

私達は彼を訪問することができなかった理由と、なぜ今日許可を得ることができたかを説明した。
私達は過去16日間の出来事、処刑の様々な延期、1月7日に最高裁判所が審問を許すことに決定したことなどを詳細に物語った。

法廷の審問はマニラの裁判とは違うであろうということ、それは法律に関係することで、事実に関することでないであろうということ。
私達の勝利の見込みは少なく、たとえ勝ったとしても、私達が望みうる最良のものは新しい裁判であろうということ。
私達は他の出来事の話をした。
ー彼の判決を終身刑に減刑するか、もしくは彼に自決の機会を与えるようにと、
86000人の日本人によって署名された嘆願書が東京のマッカーサー元帥に提出されたという新聞の報道。山下は微笑した。
そしてその嘆願書を回した男の名前を知らないと言った

それから山下は真面目になった。
彼は私達がしていることに対して私達に感謝した。私達は彼のために多大の犠牲を払っており、そのことが彼を深く感動させると彼は言った。
私達は「はるばるアメリカへ」行くところだった。
私達はクリスマスを捨てた。
「私達は空中でクリスマスを祝うでしょう」私は空を指差して言った。

「あなたがたがアメリカの法廷で論ずる問題は、私の有罪無罪に関係がないことを私は知っています。
決定しなければならない重要な法律問題、司法的問題があり、
そのあるものは、世界平和のために決定されなければならないということを私は知っています。」

そして、彼はまた懐かしい笑顔を浮かべた。

「そのことは、私がその結果に個人的利害を持っているということを理解しないと言っているのではありません」

収容所長はセキ払いをした。それは別れるべき時だった。
私達はさよならを言った。
「次の裁判のためにマニラに帰ってきた時、またお目にかかりましょう」

「大将は非常に感動していました」
と浜本(日本人通訳で山下裁判時にリール氏と協力していた浜本正勝氏。
彼は山下大将が絞首刑判決後、武藤参謀長たちとともに有刺鉄線の外に抑留されていたので、ここでも通訳として登場)はいった。
「彼はほとんど泣かんばかりでした。彼はそれを見せません。しかし私は知っていますー私は知っていますー。」

私達が車に乗り込む時、私は振り返った、山下はまだテントの正面に立っていた。
彼の色あせた作業衣が熱帯のそよ風で揺れていた。
彼は手を挙げて振った。

山下奉文ー四国の庭で花の成長を見守った小さな少年。
難攻不落のシンガポールを征服したマレーの虎、色あせた青い作業衣を来て、テントの正面に立って待っていた老人。
私達は家路についていた。
そして、彼もそうだったと私は思う。

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アメリカの最高裁判所は、フランク・リール氏らの請願を受理したものの、結果として却下しました。理由は、事件は軍事裁判の対象であり、アメリカ最高裁の管轄外だとのことでした。
マーフィー判事・ラトレッジ判事のみ、山下裁判の不当性を認めたがそれは少数派に過ぎなかったのでした。

そして昭和21年(1946)年2月23日、山下奉文大将は絞首刑を執行されてしまいました。
なお、サダム・フセイン裁判時にも、マーフィー判事・ラトレッジ判事のことが新聞記事だか何かで触れられていたのを覚えています。

クリスマス・イブ的には、すでに死を待つ山下奉文大将が、リール大尉たちと別れる際に微笑みをたたえて
いつまでも、いつまでも手を振り続けられた姿が目に浮かんでしまいます・・・。

丸亀中学の剛球投手

原田熊吉中将は、明治21(1888)年8月に、丸亀の餅屋の次男として生まれました。
貧しい餅屋で、夜明け前から餅つきの手伝いをしながら、学校には遅刻をしないようにと
駆け足で通うような少年でした。
そんな中、(旧制)丸亀中学校に進学してから野球を始められたようです。
この旧制丸亀中学校は、今は香川県立丸亀高等学校となっていて、文武両道の伝統校です。
校内には入れませんでしたが、旧制中学校の頃の校舎を移築したものは
遠くからですが、写真に撮ることができました。
レトロですね・・・。せめてここだけでも入れたらなあと思いましたが、
外観だけ撮影できたので、とりあえず良しとしたいものです。
(駐車場のようなところがあって、そこから頑張って撮影しました・・・)

丸亀高校記念館

横からは

丸亀高校記念館2

さて、原田熊吉中将は、どのポジションでご活躍されていたのでしょうか?
ポジションは、何と、「投手」でした。
私は身体の大きな方なので、捕手ではないかとイメージをしていましたが
(私は野球詳しくないです)
そういうわけではないようです。

原田中将が中学時代に野球を始めた頃(日露戦争の頃?)、ようやく野手もグローブを持つように
なったらしいですが、それまでは何と、素手で!速球を受け止めていたとか。
捕手もまた、キャッチャーマスクとミットは持っていたものの、胸に当てるプロテクターは
なかったとのこと。

丸亀中学校の野球伝説には

「試合の時、長身、1メートル80センチの原田投手は、第1球にストレートの剛球を投げ、
捕手佐久間がその球を腹でウーンと受け止めた。それを見て敵は肝を縮め恐れをなした」

というのがあるとか。

実際捕手であった佐久間氏は
「なんぼ僕でも、あいつ(原田中将)の剛球を腹で受けたら一発で参ってしまう。
第1球をワンバウンドで投げるように打ち合わせをしていた。それでも敵の肝を奪うのには
十分効果があった」とも話していたらしい。

さらに、原田中将は、野球部だけではなく、剣道部にも入っており、野球部で捕手をするとき
剣道の防具の胴着を腹につけて、投手の速球を腹で受け止めていたという話もあるとか。

原田中将は、ラジオの野球放送で早慶戦を熱心に聞いていたとのことですが、
原田中将の息子さんたちには、少し不思議だったようです。
子供に厳しい人でよく、子供達は拳骨を食らってお母さん(原田中将の奥様)に泣きついて
いたようでしたから。
子供心に、「あのおっかないお父さんが、ラジオを熱心に、楽しそうに聞いてるなんて・・・」と
思われたのでしょう。
また、原田中将にとっては、仕事から解放された一時の楽しみだったのでしょう。

この逸話は、小津豊氏「父と野球」というエッセイ
『ずいひつ 遍路宿選集 第1集』(ずいひつ遍路宿の会 平成14年)所収より。
「小津豊」さんとは、どうやら、原田熊吉中将の三男らしい・・・。

なぜなら、田中日淳編『日本の戦争ーBC級戦犯60年目の遺書』の282頁に
原田中将の家族宛遺書が掲載されていますが、その中で、豊さんは三番目に
名前があります。

話を小津豊氏のエッセイに戻しまして

この「父と野球」の中には、「原田熊吉」と書かれたのは一箇所だけ。
あとは「陸軍の軍人だった父が」「父は太平洋戦争で亡くなった」とのみ記されているので
なかなか、原田熊吉陸軍中将のことだとわかるのは難しかったです。
おそらく「わかる人にはわかる」という思いで、「小津豊氏」は書かれたのかもしれません。