丸亀中学の剛球投手

原田熊吉中将は、明治21(1888)年8月に、丸亀の餅屋の次男として生まれました。
貧しい餅屋で、夜明け前から餅つきの手伝いをしながら、学校には遅刻をしないようにと
駆け足で通うような少年でした。
そんな中、(旧制)丸亀中学校に進学してから野球を始められたようです。
この旧制丸亀中学校は、今は香川県立丸亀高等学校となっていて、文武両道の伝統校です。
校内には入れませんでしたが、旧制中学校の頃の校舎を移築したものは
遠くからですが、写真に撮ることができました。
レトロですね・・・。せめてここだけでも入れたらなあと思いましたが、
外観だけ撮影できたので、とりあえず良しとしたいものです。
(駐車場のようなところがあって、そこから頑張って撮影しました・・・)

丸亀高校記念館

横からは

丸亀高校記念館2

さて、原田熊吉中将は、どのポジションでご活躍されていたのでしょうか?
ポジションは、何と、「投手」でした。
私は身体の大きな方なので、捕手ではないかとイメージをしていましたが
(私は野球詳しくないです)
そういうわけではないようです。

原田中将が中学時代に野球を始めた頃(日露戦争の頃?)、ようやく野手もグローブを持つように
なったらしいですが、それまでは何と、素手で!速球を受け止めていたとか。
捕手もまた、キャッチャーマスクとミットは持っていたものの、胸に当てるプロテクターは
なかったとのこと。

丸亀中学校の野球伝説には

「試合の時、長身、1メートル80センチの原田投手は、第1球にストレートの剛球を投げ、
捕手佐久間がその球を腹でウーンと受け止めた。それを見て敵は肝を縮め恐れをなした」

というのがあるとか。

実際捕手であった佐久間氏は
「なんぼ僕でも、あいつ(原田中将)の剛球を腹で受けたら一発で参ってしまう。
第1球をワンバウンドで投げるように打ち合わせをしていた。それでも敵の肝を奪うのには
十分効果があった」とも話していたらしい。

さらに、原田中将は、野球部だけではなく、剣道部にも入っており、野球部で捕手をするとき
剣道の防具の胴着を腹につけて、投手の速球を腹で受け止めていたという話もあるとか。

原田中将は、ラジオの野球放送で早慶戦を熱心に聞いていたとのことですが、
原田中将の息子さんたちには、少し不思議だったようです。
子供に厳しい人でよく、子供達は拳骨を食らってお母さん(原田中将の奥様)に泣きついて
いたようでしたから。
子供心に、「あのおっかないお父さんが、ラジオを熱心に、楽しそうに聞いてるなんて・・・」と
思われたのでしょう。
また、原田中将にとっては、仕事から解放された一時の楽しみだったのでしょう。

この逸話は、小津豊氏「父と野球」というエッセイ
『ずいひつ 遍路宿選集 第1集』(ずいひつ遍路宿の会 平成14年)所収より。
「小津豊」さんとは、どうやら、原田熊吉中将の三男らしい・・・。

なぜなら、田中日淳編『日本の戦争ーBC級戦犯60年目の遺書』の282頁に
原田中将の家族宛遺書が掲載されていますが、その中で、豊さんは三番目に
名前があります。

話を小津豊氏のエッセイに戻しまして

この「父と野球」の中には、「原田熊吉」と書かれたのは一箇所だけ。
あとは「陸軍の軍人だった父が」「父は太平洋戦争で亡くなった」とのみ記されているので
なかなか、原田熊吉陸軍中将のことだとわかるのは難しかったです。
おそらく「わかる人にはわかる」という思いで、「小津豊氏」は書かれたのかもしれません。

「原田熊吉命御事歴」

茶園義男『BC級戦犯・チャンギー絞首台』(紀尾井書房・1983)に、「御事歴」の抜粋が
掲載されているのでご紹介します。

同著109頁より

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生立。原田中将は明治21年、原田弥平次男として丸亀に生まれ、日夜蓬莱城を仰いで育ち、父君の訓育と明晰なる頭脳により、小・中学は常に抜群の成績を修め、身体頑健にして、丸亀中学野球部に入り、全国優勝の記録もある。特に丸中時代に於いては、日露戦争の銃後青年として、国防の重要性を痛感し、将来一身を君国に捧げんと決意し、明治四十四年陸軍士官学校に入校、明治四十四年歩兵少尉に任ぜられた。

軍歴。原田中将は陸士入校より、終焉まで正に四十年。身命を君国に捧げて少年時代の初志を貫徹した。軍歴の概要は次の通りである。
(一)高知聨隊付少尉時代には選ばれて聨隊騎手の重責を果たし、中尉進級後陸軍大学に学び、その後陸軍中将進級の直前まで、主として参謀本部と大陸関係の要職を歴任し、国を出ること十五回に及び、日本の国防と東洋平和に肝胆を砕いた。この間大佐時代には輦轂(れんこく)の下、近衛歩兵第四聨隊長として禁闕守衛の大任を果たし、武門最高の名誉に感激した。
(二)昭和十四年同期八名と共に抜擢されて中将に進級、師団長二回、軍司令官二回の大命を拝し、正四位勲一等功四級の恩命に感激した。特に最終は第五十五軍(第十一師団等三個師団基幹)司令官として郷土四国の防衛に粉骨砕身した。

終焉。然るに国運恵まれず、原田中将は終戦後、四国復員監として服務中、昭和二十一年三月旧部下の関係事件につき、突如連合軍の逮捕令を受け、巣鴨入所、六月シンガポールに移送、十月二十五日死刑の宣告を受け、翌二十二年五月二十八日午前九時、六十歳にして無念の最後を遂げられた。将軍は遥かに東方を拝し、天皇陛下の万歳を唱え、辞世のうた「今ぞ立ち天翔ても大君のみたまにかへりつかヘまつらむ」を残し、従容として死につかれた。洵(まこと)に痛ましき限りである。
先賢堂に合祀し、偉勲を永久に顕彰し奉る。

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(引用ここまで)

私が『世紀の遺書』に接し始めた頃、遺書の内容が一番印象に残っていた原田熊吉中将の生涯。
この引用文でようやく少し繋がり始めました。

harada_kumakichi

私が知っている(つもり)なのは、死刑囚としての原田熊吉中将だったから。
死刑囚としての原田熊吉中将は、「すごい方」の一言です。
『世紀の遺書』に収められている遺書の中にも、同時期に処刑されたかつての階級も異なる人たちが皆、原田熊吉中将宛に遺書を託して絞首台に登っていたのが読み取れ、最も屈辱を受けて、惨めな環境の中でも、周囲の精神的な支えになれるタイプの方だと。

それ以前はどのような来歴があった方なのか?
実は、wikipediaでもあまりよくわからなかったのでした。
調べても、出てくるのは断片的なことばかりでした。
本来ならば、もっと取り上げられても良い方だったのではという思いを
ずっと持っていました。

この方は軍人としては、支那通で、指揮官型だった(連隊長、師団長、軍司令官経験あり)方でした。
意外にも、陸軍には幼年学校からではなく、中学校を卒業してから入られた方だったのですね。

武藤章中将のように、陸軍省勤務で、政治的事務に携わっていたタイプでもありません。(武藤章中将が指揮官になれたのは師団長のみ。
軍人ならば指揮官を目指すことが本懐との思いを心に秘めながら、連隊長にはなれなかったのが武藤章中将です)

最後に「蓬莱城(ほうらいじょう)」とは、丸亀城のことです。
今回、何としても善通寺を四時に出なければとしていたのは、
実は外側からだけでも、丸亀城を見たかったからです。
レンタサイクルで周囲しか回れませんでしたが・・・。

蓬莱城(ほうらいじょう)

軍都・善通寺

善通寺と兵器庫

私が今回是非撮影したかった写真です。

ちょうど善通寺の塔と、陸軍第十一師団兵器庫が入った写真。
やっと撮影できました。

このアングルの写真が撮れて嬉しかったです。

弘法大師ゆかりの善通寺と、陸軍第十一師団のレンガ建築が一緒に
写ってるのが個人的にツボだったのです。

そのほか、善通寺には私が今回回りきれないほどの
陸軍関係施設(自衛隊施設も含む)があるように、軍関係に興味がある人にとっては
あちこち目移りしてしまうほどの街でした。

時間を気にしないで心ゆくまで見物したかったのですが、
現実は・・・午後4時には高松方面の電車に乗らないといけない。
それまでにどれだけ回れるか。

私はよく、旅行に行くと、現地の博物館的な場所の受付の方といろいろ
話してしまって、肝心なところを見そびれてしまうことがあります。
今回はそうならないように・・・と思っていたのですが。
なかなか難しかったです。

そんななかでも、ここには行きました。

「香川県護国神社」

香川県護国神社

別名「讃岐宮」と言われている神社です。
こちらの神社の境内に、「先賢堂」なる香川の偉人をお祀りした場があるらしいです。

さらにこの「先賢堂」に原田熊吉・陸軍中将がお祀りされていたことを、
この本より知りました。

harada_kumakichi

茶園義男『BC級戦犯・チャンギー絞首台―ドキュメント』(紀尾井書房 1983)

護国神社に旅行前に問い合わせてみたところ、「先賢堂」は境内にありますが、
その方がお祀りされているかどうか・・・という回答でした。
先の大戦で殉じられた方は全てお祀りしていますよ、と。

私のような者からのこうした問い合わせ、かなりレアだったのではないかと思います。

今度は直接護国神社の社務所に行き、先賢堂はどちらですか?と聞いたら

「ああ、先日問い合わせられた方ですね」と。

すっかり印象に残られたようでした。

「先賢堂とは、乃木神社のことです」

乃木神社

この讃岐宮には初代善通寺第11師団長であった乃木希典大将を
祀った神社もあるのですが、それが「先賢堂」をも兼ねていたとは!

しかし、わかりにくい・・・。

原田熊吉中将が、讃岐宮の「先賢堂」に合祀されたのは
昭和49(1974)年2月23日だったとか。

最初に祀られたのは、景行天皇の皇子神櫛王命で
原田中将は103番目です。

それでも、ほんの少し原田熊吉中将を知ることができて
嬉しかったです。

次は、茶園義男『BC級戦犯・チャンギー絞首台―ドキュメント』(紀尾井書房 1983)に
掲載されていた、「原田熊吉命御事歴」をご紹介します。

約3万円で香川県を旅してきました。

久しぶりの更新です。

毎日が生活のための仕事に追われていると
なかなか旅行ができないものです。
さらに時間もお金もないし・・・。

でも急に思い立って、約3万円で香川県まで旅行に行きました。
♪((O(*・ω・*)O))♪ワクワク

高松港のモニュメント

旅費は、楽天トラベルを使って約3万円
(往復航空券と高松市内ホテル代金)
※現地での交通費は含まないです。

なぜ香川県に行きたかったのか?

善通寺と高松に行ってみたかったからです。
これまで私は、四国には行ったことがありませんでした。

善通寺は、陸軍関係の建築物がたくさんあるから。
高松市内は、うどん屋めぐりができるかなと・・・。

で、一泊二日でどれだけ回れたのか、ざっくりと説明したいと思います。

高松空港から高松市内に約1時間ほどで到着しました。
朝一番の羽田発に搭乗したので、高松市内に到着したのが午前10時頃でした。

そこからJR予讃線に乗り、約1時間ぐらい揺られて
善通寺で降りました。

まず向かった先は

「旧善通寺偕行社」です。

善通寺偕行社

以前は、郷土資料館だったようですが、
今はかふぇが併設された展示会場のようなものとなっていました。

私はまずここの受付の方に、とても親切にしていただきました。

多分、内部の細かいところを興味深く見学していたり、受付にある
「旧善通寺偕行社整備検討委員会」の資料などを見ていたからだと思います。

そして、「みちくさ遍路ー善通寺88箇所めぐり」という書物までいただきました。
よく読むと、駆け足旅ではとうていいけない、感じられないような魅力がたくさん
紹介されていました。
時間とお金にゆとりがあったらなあ・・・と思いました。

偕行社でしばらく時間を使ってしまったので、レンタサイクルを借りに行き、
(香川県の旅はレンタサイクルを使うと効率が良いようです)
それで香川県護国神社→善通寺→乃木資料館と回りました。

もう午後3時半ぐらいとなってしまいました。
高松方面の帰りの電車が気になるところです・・・(本数が少ない)。

丸亀にもどうしても行きたい!
そう思い、丸亀方面に速く移動するため特急運賃を奮発しました。
(各駅の旅を楽しもうとしても、時間との戦いのため、時にはそうした
出費も覚悟しないとならない。貧乏はつらい!)

丸亀についてからは、もうお城にはいけないので、写真を撮るだけにとどめ
なんとか丸亀発17時台の電車に乗りたいと思い、ここでもレンタサイクルを
借りました。

丸亀城

丸亀城

丸亀で行きたかった場所にもいけたし、かなり疲れたので、高松市に帰りました。

翌日は、もっぱら高松市内観光でした。
高松空港発最終便に間に合うように、市内を出るリミットは17時。
それまでどれだけ回れるかと思いながら。

屋島

屋島からの眺め

あとで知ったところでは廃墟と心霊スポットが多く残る場所でもあるけど
見晴らしは良かったです。
瀬戸内海を直で観られたのがよかったです。

カトリック桜町教会。

カトリック桜町教会

聖堂の建築に興味があったので以前から行きたかったところです。
キリシタン殉教がらみの話もあるようです。

栗林公園

栗林公園

そしてうどん屋さんめぐり。
私は元来、大食ではないけれど、小さいサイズのものを選ぶようにしていたので、
多分高松市内滞在中に5店ぐらいは回れました。
どこも美味しかったです。

これらを公共交通機関だけではとてもじゃないけど回れないので
日焼けをしながらレンタサイクルで回りました。

なんだかお腹いっぱいな、一泊二日の旅でした。

翌日は月曜日でしたが、しっかり有給をとって体を休めました。

興亜観音

以前のブログでも、興亜観音については
たくさんの力を頂いてきました」という記事で書いております。

前回の記事では、久保山斎場関連のことを書いたので、
荼毘に付されたご遺骨・遺灰が各地を転々としながら
一時的に保管された場所・興亜観音について書いてみたいと思います。

興亜観音

この観音様は、伊豆山の山の中。
熱海駅から本数の少ないバスに15分ほど揺られ、
そのあと険しい坂を登らないと拝むことができません。

でもここはとても見晴らしがよいところです。

遺骨になられた受難者の方々も、やっと一息つけたのでは?と
思わせられる景観でした。

2012-01-19 19.29.51

なぜここに観音様がいらっしゃるのでしょうか。

松井石根陸軍大将が、退役後熱海伊豆山に暮らしていらしたからです。
松井大将は、陸軍大学校卒業後、支那在勤が多かった方です。
ちなみに、あとで詳しく触れたい方の一人
原田熊吉中将は、松井大将を先輩として尊敬していたといいます。

武藤章中将の手記『比島から巣鴨へ』の中には、かつての上官でもあった
松井石根大将に触れている箇所があります。

「もともと松井大将は青年将校時代から支那関係の仕事をして来た人で、真に支那人の知友であつた。
支那人側から見たる松井大将がどんなであるか知らぬが、我々参謀
(注:武藤章さんは南京事件中は大佐で中支那方面軍参謀副長)
として同大将の言動を見聞していると
心底からの日支親善論者であつた。

作戦中も随分無理と思われる位支那人の立場を尊重された。
この松井大将の態度は、某軍司令官や某師団長の如き作戦本位に考える人々から
抗議され、南京の宿舎で大議論をされる声を隣室から聞いたこともあつた。
松井大将が南京において支那人に対する暴行を命じたとか、あるいはこれを許容したとかいう告発は
全然誣告といわざるを得ない。」

武藤章さんも実は南京事件には当事者として関わっていました。
中支那方面軍参謀副長(大佐)として。
しかし不思議なことに、東京裁判では参謀副長だったので「責任はない」とされましたが、
なぜか近衛師団長(在スマトラ)時代と山下大将の参謀長という立場で有罪とされました。
(比島では8年前の南京事件と同じことを今度は参謀長として実施したゆえに有罪とか)

話を戻しまして
この興亜観音は、昭和15年(1940年)2月、支那事変における日中双方の犠牲者を「怨親平等」として
弔うために松井大将の発願で建立された観音様でした。
松井大将は当時からあまり健康ではなかったため、奥様におぶってもらって
この観音様を詣でて祈りを捧げていたとのことです。

今もこの興亜観音に行くと、一人の尼さんが温かく迎えてくださいます。
この興亜観音を守るというのは、大変だと思います。
いろんな考えの方がいるから。
爆破されそうになったこととかもあったらしいですが、
尼さんはそんなことを一切お話にならず、微笑みを湛えています。

そして興亜観音のお堂には
松井大将の遺品の数々が今もあります。

興亜観音

松井大将の書

2012-01-06 14.49.17

松井大将の外套

2012-01-06 14.49.35

久保山火葬場の職員は気づいていた!

巣鴨拘置所内で処刑(一人は他の場所で銃殺刑)された方々の遺体は
当時の日本のジャーナリストたちも拘置所裏口に張り込んで調べにかかったようですが、
ついぞ本当のところを知ることができなかったといいます。

それは、戦勝国側のトラックが高性能すぎたのもあったとのこと。

当時の日本のトラックの燃料は木炭だったから。

では昭和受難者の遺体であると気づいたのは誰だったのでしょう。

それは、火葬場の職員さんたちでした。

火葬場の職員さんは、時々「米兵1名」「米兵3名」と書かれた棺が運ばれてきたとき
米軍側から「絶対に開けてはならない」と命令されました。

命令だから、そのまま荼毘にふしますが、
米軍側の態度を不審にもかんじていました。

当時、戦犯刑死者の扱いは小さく、新聞の片隅に記されるのみです。
(ちなみに、シンガポールで処刑された河村参郎中将の処刑記事は
当時の朝日新聞を見ると、ごく小さく、「川村参郎」と漢字の誤記もある
扱いでした)

そんな小さな新聞記事の扱いをしっかりみていた
久保山火葬場長・飛田美善氏は、前夜に運ばれてきた棺の一人
翌日新聞記事で発表された処刑者の数が合うことに気づいたのでした。

それ以後、「米兵◯名 絶対棺を開けてはならぬ」と指示された棺がくるたびに
職員さんたちは手を合わせて拝んでから、丁重に荼毘にふす作業を粛々と行ったとのことです。

東條大将たちの処刑日は、昭和23(1948)年12月23日。
翌日は、なんと「クリスマスイブ」(o・∀・)★.:゚+。☆ メリークリスマス☆.:゚+。★
これは米兵たちも心情的に見張りが薄くなると見込み

久保山火葬場近くの興禅寺住職・市川伊雄氏は、小磯国昭首相の弁護人だった
三文字正平氏とともに、火葬場長・飛田美善氏の案内で荼毘に付した跡に入り
出来るだけの骨灰を拾い集めました。
クリスマスイブとはいえ、見張りが全くなかったわけではなく
暗闇の中で、ただひたすら、骨灰と思われるものを拾い集めるのは
並大抵のことではないはずです。

これらの骨灰は、一時興亜観音に保管されました。

マッカーサーの命令により、戦争犯罪者の遺骨は遺族に引き渡してはならないとされていたので、
大きな骨は戦勝国側が拾い集めてどこかへ持ち去ったとのことです。

残った細かい骨と灰を火葬場長・飛田美善氏が丁寧に集めて
火葬場の片隅に掘った穴の中に密かに収めておいたのです。

その骨灰は、密かに松井石根大将の熱海の自宅近くの
「興亜観音」に一時安置されました。
(保土ヶ谷から、熱海まで骨灰を持って移動するのは
本当に大変だったに違いありません)

そして、もう巣鴨拘置所では処刑が行われなくなった頃
火葬場長・飛田美善らは供養塔を立てようと思いついきました。

しかし勝手に立ててはならず、GHQにお伺いを立てなければいけなかったのです。

塔の建立は許可されたものの

「供養塔」としか彫ってはならぬと指示がありました。

kuyouhi

見てみると、「供養塔」三文字だけが彫られているが、
これでは何の目的で建てられた供養塔だか、よほど気をつけてないと
わからないでしょう。

また卒塔婆にも注目してください。
戦勝国側の呼称である「太平洋戦争」とはあるけど
「大東亜戦争」とは書かれていません。
それもこんな事情が背景にあったからでしょう。

サンフランシスコ講和条約が締結されて、ようやくこの供養塔の下の
遺骨、遺灰が60等分されて、遺族に届けられることとなりました。
白い骨壷に分けて・・・。
「これは、必ずしもご主人の遺骨とは言えませんが、この中に
ご主人の遺骨も混ざっていることはまちがいありません」

といって、渡したとのことです。

なぜ60等分か?

巣鴨拘置所などで処刑された受難者が60名いたからです。

東京裁判で処刑された人ばかり注目される向きがありますが、
横浜でも裁かれた方々で処刑された方もいるのです。
横浜裁判で裁かれて処刑された方の中には、かつてビッテル神父と
酒の飲み比べをした本川貞(もとかわ・さだむ)憲兵中尉もいます。
本川憲兵中尉については、後に詳しく書きたいと思っています。

それにしても、当時の久保山火葬場長と近くの寺院の方々には
頭が下がる思いです。