オステルン祭

本当に久しぶりの更新となってしまいました。

ところで本日は、キリスト教圏ではご復活祭りということで
各教会ではキリストのご復活を祝っていたことと思います。

私もどこかのカトリック教会のごミサに与りたかった・・・。
しかしながら、土日ともなると、日常の疲労がどっと出てしまい
なかなか教会にも行けないぐらいです。

さて、本日はその「ご復活」祭にちなんで
武藤章さんが、まだ大尉の頃
ドイツに留学していた時に、義理妹さんに宛てて書かれた手紙が
あるので

それをご紹介したいと思います。

オステルン・アイ
(画像はwikipediaより)

「豊子様 万歳!!
(※以下義理妹・豊子さんが学校に合格されたことを祝う言葉があります)

今日、当地はオステルン祭といって、
基督の磔になった日の御祭りの日です。

子供はオステルン・アイ(オステルンの卵)を両親から頂くのです。
それは昨日お母様が家の中に何処か知らんがかくして置くのです。
それを子供達は家中捜してまわるのです。
卵は真当なものもありますが、
大抵チョコレートから出来ております。
御祭りは日曜まで続きます。

二、三日前に洋服屋に参りましたら
御父様(※武藤さんの妻の父・尾野実信大将)の何時も作っていらっしゃった
服屋で、尾野大佐の寸法が六着も古い帳面にありました。
又、尾野大尉と書いたもっと古い帳面もありました。
服屋さんは大変正直者ですが、只今は随分貧乏して居るようです。

それから昨日、蓄音機を買いました。
レコードも六枚買いました。
下宿の連中大喜びで、六枚のレコードを夜の十時までかわるがわる
かけて居りました。

お終いにはダンスを教えるといって、私を廊下に引張り出しました。
そしたら私が足を踏んだので止めました。
独逸の人、大変音楽がすきで、一度ぐらいご飯を食べないでも
音楽を聞いたほうがよいというぐらいです。

もう日本は暖かになったことと思います。
伯林は一日置き位に寒い日と暖かな日とが来ます。
毎日寒暖計を見て冬と夏のマントを着て外出せねばなりません。
女学生になったら、お転婆を止めて電車にご注意!!

皆様によろしくよろしく」

出典:澤地久枝『暗い暦』(文春文庫 1982年)より

ドイツの復活祭って「オステルン(Ostern)」というのか・・・。
一つ勉強になりました!

武藤さんが独逸に留学していたのは
1923(大正12)年からです。

最初はベルリンに滞在していましたが、当時のドイツは第一次世界大戦の敗戦国。
人心は荒廃し、夜のベルリンはとても寒く、雪解け水の汚水にまみれた陰惨なものだった
と、武藤さん自身は巣鴨拘置所内で書かれた『比島から巣鴨へ』で書かれていますが、
義理妹への手紙ではそうした暗さを一切見せずに
異国での生活を伝えています。

武藤さんは軍事を学ぶためにドイツ留学したはずなのに
ドイツは当時敗戦国として軍備撤廃を国際連盟から監視されており、
日本人もドイツの軍隊を見ることができず、さらに加えて
日本人同士でつるんでしまう(当時、日本人留学生がベルリンに多くいた)のも
あり、武藤さんは意識的に彼らと離れて、この後ドレスデンにてドイツ生活を送ります。

なお、武藤さんに「ドイツに行って本当に勉強するなら、日本人のいないところがいいよ」
とアドバイスしたのが、何と山下奉文さんだったのです!
山下さんと武藤さんは、陸軍部内でのドイツ留学組というつながりでもあったのですね!

現在のように、ネットなどのSNSもない時代は、
何か人に教えをこうとき、その相手の私宅をアポイントとって訪問するというのが
普通だったのでしょう。
山下さんと武藤さんが直接若い頃から互いの顔を知っていたことは、
単なる陸軍部内の先輩後輩関係だけでない、何かがあったのかな?と
後年の生死をともにしたときの関係からみると思ってしまいます。

二人とも、同じような考え方を持ち、組織人として苦悩し、悲劇的な死を遂げたという
事実からも・・・。
なお、大切なことは、この二人とも
盲目的にドイツを礼賛していなかった、ということです。
武藤さんは、東京裁判中に「ヒットラー礼賛者」と言われていましたが、
そんなことはないです。
なぜなら、この時期、ヒトラーがミュンヘン一揆を起こし、すぐに鎮圧されており

”Hitler ist verrückt”(ヒトラーは狂気だ)
とドイツ国民が口々に評していたのを直に感じる機会があったことが
とても大きいのではと思います。

武藤さん自身はヒトラーを「成金は信用できない」という思いをずっと持っていたのです。
それは、ヒトラーが無謀な行為をして失敗しても、ドイツにおいては
一代の英雄として一時名をはせるぐらいであろうと。

・・・キリストのご復活のことを書くつもりが
こんな話になってしまいました。

武藤さんという人は、なぜかヒトラーを評価してないのに、ヒトラー礼賛者とされてしまったり、
ドイツを過大評価しすぎた当事者(陸軍省軍務局長)とされてしまうなんて
本当に悲劇な立場だったのだと思うのと、
武藤さん的立場の人の、自分を殺して組織として動くときの冷静さは
すごいと思うけれど、相当なストレスだったと思います。
これに耐えられる人ってなかなかいないと思います。

興亜観音

以前のブログでも、興亜観音については
たくさんの力を頂いてきました」という記事で書いております。

前回の記事では、久保山斎場関連のことを書いたので、
荼毘に付されたご遺骨・遺灰が各地を転々としながら
一時的に保管された場所・興亜観音について書いてみたいと思います。

興亜観音

この観音様は、伊豆山の山の中。
熱海駅から本数の少ないバスに15分ほど揺られ、
そのあと険しい坂を登らないと拝むことができません。

でもここはとても見晴らしがよいところです。

遺骨になられた受難者の方々も、やっと一息つけたのでは?と
思わせられる景観でした。

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なぜここに観音様がいらっしゃるのでしょうか。

松井石根陸軍大将が、退役後熱海伊豆山に暮らしていらしたからです。
松井大将は、陸軍大学校卒業後、支那在勤が多かった方です。
ちなみに、あとで詳しく触れたい方の一人
原田熊吉中将は、松井大将を先輩として尊敬していたといいます。

武藤章中将の手記『比島から巣鴨へ』の中には、かつての上官でもあった
松井石根大将に触れている箇所があります。

「もともと松井大将は青年将校時代から支那関係の仕事をして来た人で、真に支那人の知友であつた。
支那人側から見たる松井大将がどんなであるか知らぬが、我々参謀
(注:武藤章さんは南京事件中は大佐で中支那方面軍参謀副長)
として同大将の言動を見聞していると
心底からの日支親善論者であつた。

作戦中も随分無理と思われる位支那人の立場を尊重された。
この松井大将の態度は、某軍司令官や某師団長の如き作戦本位に考える人々から
抗議され、南京の宿舎で大議論をされる声を隣室から聞いたこともあつた。
松井大将が南京において支那人に対する暴行を命じたとか、あるいはこれを許容したとかいう告発は
全然誣告といわざるを得ない。」

武藤章さんも実は南京事件には当事者として関わっていました。
中支那方面軍参謀副長(大佐)として。
しかし不思議なことに、東京裁判では参謀副長だったので「責任はない」とされましたが、
なぜか近衛師団長(在スマトラ)時代と山下大将の参謀長という立場で有罪とされました。
(比島では8年前の南京事件と同じことを今度は参謀長として実施したゆえに有罪とか)

話を戻しまして
この興亜観音は、昭和15年(1940年)2月、支那事変における日中双方の犠牲者を「怨親平等」として
弔うために松井大将の発願で建立された観音様でした。
松井大将は当時からあまり健康ではなかったため、奥様におぶってもらって
この観音様を詣でて祈りを捧げていたとのことです。

今もこの興亜観音に行くと、一人の尼さんが温かく迎えてくださいます。
この興亜観音を守るというのは、大変だと思います。
いろんな考えの方がいるから。
爆破されそうになったこととかもあったらしいですが、
尼さんはそんなことを一切お話にならず、微笑みを湛えています。

そして興亜観音のお堂には
松井大将の遺品の数々が今もあります。

興亜観音

松井大将の書

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松井大将の外套

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久保山火葬場の職員は気づいていた!

巣鴨拘置所内で処刑(一人は他の場所で銃殺刑)された方々の遺体は
当時の日本のジャーナリストたちも拘置所裏口に張り込んで調べにかかったようですが、
ついぞ本当のところを知ることができなかったといいます。

それは、戦勝国側のトラックが高性能すぎたのもあったとのこと。

当時の日本のトラックの燃料は木炭だったから。

では昭和受難者の遺体であると気づいたのは誰だったのでしょう。

それは、火葬場の職員さんたちでした。

火葬場の職員さんは、時々「米兵1名」「米兵3名」と書かれた棺が運ばれてきたとき
米軍側から「絶対に開けてはならない」と命令されました。

命令だから、そのまま荼毘にふしますが、
米軍側の態度を不審にもかんじていました。

当時、戦犯刑死者の扱いは小さく、新聞の片隅に記されるのみです。
(ちなみに、シンガポールで処刑された河村参郎中将の処刑記事は
当時の朝日新聞を見ると、ごく小さく、「川村参郎」と漢字の誤記もある
扱いでした)

そんな小さな新聞記事の扱いをしっかりみていた
久保山火葬場長・飛田美善氏は、前夜に運ばれてきた棺の一人
翌日新聞記事で発表された処刑者の数が合うことに気づいたのでした。

それ以後、「米兵◯名 絶対棺を開けてはならぬ」と指示された棺がくるたびに
職員さんたちは手を合わせて拝んでから、丁重に荼毘にふす作業を粛々と行ったとのことです。

東條大将たちの処刑日は、昭和23(1948)年12月23日。
翌日は、なんと「クリスマスイブ」(o・∀・)★.:゚+。☆ メリークリスマス☆.:゚+。★
これは米兵たちも心情的に見張りが薄くなると見込み

久保山火葬場近くの興禅寺住職・市川伊雄氏は、小磯国昭首相の弁護人だった
三文字正平氏とともに、火葬場長・飛田美善氏の案内で荼毘に付した跡に入り
出来るだけの骨灰を拾い集めました。
クリスマスイブとはいえ、見張りが全くなかったわけではなく
暗闇の中で、ただひたすら、骨灰と思われるものを拾い集めるのは
並大抵のことではないはずです。

これらの骨灰は、一時興亜観音に保管されました。

マッカーサーの命令により、戦争犯罪者の遺骨は遺族に引き渡してはならないとされていたので、
大きな骨は戦勝国側が拾い集めてどこかへ持ち去ったとのことです。

残った細かい骨と灰を火葬場長・飛田美善氏が丁寧に集めて
火葬場の片隅に掘った穴の中に密かに収めておいたのです。

その骨灰は、密かに松井石根大将の熱海の自宅近くの
「興亜観音」に一時安置されました。
(保土ヶ谷から、熱海まで骨灰を持って移動するのは
本当に大変だったに違いありません)

そして、もう巣鴨拘置所では処刑が行われなくなった頃
火葬場長・飛田美善らは供養塔を立てようと思いついきました。

しかし勝手に立ててはならず、GHQにお伺いを立てなければいけなかったのです。

塔の建立は許可されたものの

「供養塔」としか彫ってはならぬと指示がありました。

kuyouhi

見てみると、「供養塔」三文字だけが彫られているが、
これでは何の目的で建てられた供養塔だか、よほど気をつけてないと
わからないでしょう。

また卒塔婆にも注目してください。
戦勝国側の呼称である「太平洋戦争」とはあるけど
「大東亜戦争」とは書かれていません。
それもこんな事情が背景にあったからでしょう。

サンフランシスコ講和条約が締結されて、ようやくこの供養塔の下の
遺骨、遺灰が60等分されて、遺族に届けられることとなりました。
白い骨壷に分けて・・・。
「これは、必ずしもご主人の遺骨とは言えませんが、この中に
ご主人の遺骨も混ざっていることはまちがいありません」

といって、渡したとのことです。

なぜ60等分か?

巣鴨拘置所などで処刑された受難者が60名いたからです。

東京裁判で処刑された人ばかり注目される向きがありますが、
横浜でも裁かれた方々で処刑された方もいるのです。
横浜裁判で裁かれて処刑された方の中には、かつてビッテル神父と
酒の飲み比べをした本川貞(もとかわ・さだむ)憲兵中尉もいます。
本川憲兵中尉については、後に詳しく書きたいと思っています。

それにしても、当時の久保山火葬場長と近くの寺院の方々には
頭が下がる思いです。

久保山斎場(横浜市)散歩

このところ、ずっと更新が滞っていました。
忙しかったのと、ちょうど「命日」近くに私自身が
気管支炎で咳に苦しんでいたからです、と言い訳してしまおう。

先日、思うことがあってここに行きました。

kuboyama_saijyou_zenkei

横浜の久保山斎場です。

私は実は火葬場にもすごく興味があって、たまに近くに行くと
見物してしまいます。
そして、できれば写真の一枚でも撮ります。
(遺族の方がいらっしゃる場合もあるので無理はしないです)

久保山斎場。一度訪ねてみたい場所だったのです。

なぜか?

昭和受難者の方々が荼毘に付された場所だったから。
そして、当時の火葬場職員さんと周辺寺院の住職さんたちが一致して
昭和受難者の方々を丁重に遇したことを知っていたからです。

久保山火葬場の職員さんがもし当時気づかなかったならば、
「東條大将以下、巣鴨拘置所で処刑された戦犯たちの遺骨は
どこかに持ちさらわれていった」と書かれるだけだったろうと
思います。
ちなみに、フィリピンで絞首刑になった山下大将のご遺体が
その後どう扱われたのかは不明です。

火葬場で日々、人の遺体に接しているプロだからこその
判断なのかもしれません。

久保山斎場へは、京急線の黄金町かJR横須賀線保土ヶ谷駅からバスというルートが
一般的です。
私は京急線で行きました。
黄金町は各駅しか止まりませんが、京急線はわりと本数が多いので
こちらを使うのがいいかもしれません。

その後、バスに乗り、とりあえず「久保山」というところで
下車しました。しかし、それらしき建物が見えてこない。
そこを諦めず、地図を確認しながら歩くと

ありました!

入り口には小さな事務所があるので
とりあえず一声かけてみたところ

温かく応対してくださいました。

「たまに見えますよ。供養碑ですよね。供養碑はこの坂をエレベーター使って
降りて、建物は火葬場ですが、その右側をずっと歩いていただく形になります」

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上は斎場に行くためのエレベーター。
(坂が険しいところに立地しているので、足の弱い方向けに役割を果たしています)

saijyoutou

火葬棟です。
(結構現代的な火葬場建築。ここでは小さな会合しかできない(2・3階部分)。1階が火葬場)
この美術館のような建物の右側をずっと行くようにと言われました。
途中で「炉室」といった職員さんしか入れない、銀色のドアがありました。生々しいですが・・・。
そしてここです。

kuyouhi

供養塔、ありました!

職員さんによると

「東條さんと同じ釜で焼いてほしいから」と訪ねられる方もいるとか。

残念ながら当時の面影はないようです。
それでも、久保山火葬場は、告別の場としてもしっかり役割を果たしていると思います。

さらに、「供養塔見たいんですが」と言ってくるコアな歴史オタクにも
親切にしてくださるところからです。
横浜の歴史の中ではあまり目立つ場所ではないかもしれないですが、
この火葬場散策だけでもいろんなことを学べます。

●昭和受難者の方が荼毘に付された場
●関東大震災の時にフル稼働した火葬場
●葬式が簡略化され、遺体だけを荼毘に付す「直葬」に合わせた
 新しい弔いを模索しているところ
※後日知りました。ラステル久保山という直葬・家族葬専門の葬儀場(遺体も火葬まで預かってもらえる)ところがあることを。

何か、昭和受難者の方々を学ぶためにやってきたのですが、思いの外、盛りだくさん学べました。

軍人会館には地下浴場はあったのか?

九段会館には地下浴場があったのだろうか?
※九段会館とは、1957(昭和32)年以降の呼称であり、連合国に接収されるまでは
「軍人会館」でした。よってここでは「軍人会館」にします。

これは私自身がこの方に出会ってからずっと感じてきた疑問でありました。

ブルーノ・ビッテル神父

ブルーノ・ビッテル神父さま(Bruno Bitter 1898年~1989年)です。

※本来歴史的人物でもある方でもあるので、「神父」にしたいところでありますが、
実は私自身が、受洗こそしていないものの、時折カトリック教会のごミサに与ることが
ある、カトリック求道者でもあります。よって、カトリック教会では
司祭に対しては「〇〇神父さま」とお呼びするのが一般的で、それに慣れているため
「神父さま」と表記させていただきます。

ビッテル神父さまは、1932(昭和7)年に来日された方で、こちらに住まわれていました。
2009-09-04 17.54.21-1

上智大学内にある、「クルトゥルハイム」です。
この建築については以前のブログでも
少し触れています。
千代田区紀尾井町にあります。

ビッテル神父さまと軍人会館。
一見、何の関係があるのだろうと不思議に思いますが・・・。
何と、ビッテル神父さまは、軍人会館の風呂で我が国の憲兵将校と
「ハダカのつきあい」をされたという記述をみました。

それによると、1941(昭和16)年、戦争に突入するかしないかの頃
ビッテル神父さまは、イエズス会の渉外的仕事もされていました。

渉外的仕事とはいうけれど、かなり危険な仕事でもあったと思います。
当時入国拒否になった修道者も多かったし、
夙川教会の建設に携わったブスケ神父様は投獄され、昇天されるほどだったし、
自主的にかどうかはわからないけど、「空気をよんだ」キリスト教系学校は
校名変更をしていました。(例:「東洋英和女学院」→「東洋和」)
雙葉高等女学校などでも、外国人修道女に変わって、日本人の修道女が校長に
なるなど、「キリスト教」「カトリック」に対する嫌悪感が高かったことは
否めなかったのではと思います。

神父様の渉外的仕事の中には、日本国民にも恐れられていた「憲兵」との折衝も
ありました。

しかし、ビッテル神父さまは、何と憲兵将校と意気投合されたとのこと。

日本の、憲兵将校が、仮にカトリック信徒であったならば
日本語が通じなくてもストレスは少ないだろうと思います。
現実には、異国に布教にやってくる神父様は
相当なストレスを抱えていらっしゃるだろうと思います。
それでも、神父様になる方は、基本的に心身ともに健康でなければなれないはず。
異国で布教するにあたって、精神的な苦痛を喜びにかえるぐらいの意気込みがないと
つとまらないと思います。

ただ現実には、日本人、特に折衝相手で言葉の通じない憲兵などと話をしたり
修道兄弟がどこかで「殉教」されたというニュースを聞くとやりきれない思いをされるのは
当然あったと考えられ、東京を離れて箱根に行かれた方もいらしたとか。

ビッテル神父さまが、本川貞少尉(当時は東京憲兵隊本部外事課所属。最終階級は中尉)
と出会ったのは、山口で司祭が投獄された時に救助要請があったときでした。
ビッテル神父さまから、本川少尉に
「帝国ホテルでランチしませんか?」と誘ったとか。
特に、その時にはホンネ(司祭を救助すること)はいわずに・・・。

本川少尉は「ご招待には応じますが、そのかわり夕食はこちらで差し上げたいので
軍人会館へ来てくれますか」と条件付きで答えたとか。

なぜ、多くの司祭が投獄されたり疑いをかけられたりしているのに
ビッテル神父さまには何も起こらなかったのか?

ビッテル神父さまは、修道者になる前はドイツの陸軍中尉までいかれた
方だったのでした。

「日本の憲兵もまた、やはり一国の軍務に服す軍人である限り、
それなりに評価しなければならない」と思って接していたのが
神父に接する軍人たちに伝わったのでしょう。

また、神父さまは、冒険が大好きだったので、敵の本部である
軍人会館に行ってみるのも「面白そう」と思ったらしい。

かくしてビッテル神父様と、本川憲兵少尉が会見し、
投獄されている司祭は転任させるということで話をつけたあと、
何と、本川少尉から

「風呂に入りませんか」

と言われたとか。

このお風呂に関する記述は以下の通りです。

「軍人会館の地下にはかなり広い職員用の風呂場があった。
神父あは石がいっぱいあり、一種の岩風呂だったといっているが、
ごく普通の浴場だった。
本川は湯につかりながら、サケの飲み比べをしようといいだした。
神父は、日本酒はいけるほうで、それは望むところだった」

それで、飲み比べをして、勝ったのは何と、ビッテル神父さまでした。

この戦いはわが軍の勝ちですな

と本川憲兵少尉に言われたと。

ビッテル神父さまは、何と軍人なんだろうと思ったのと、
「九段会館の地下にお風呂場があるのか?」という疑問を持つきっかけとなりました。

果たして、本当に九段会館(元・軍人会館)にはビッテル神父様がいうように
お風呂場があったのでしょうか?

『世紀の遺書』序文(田嶋隆純師による)

『世紀の遺書』の序文(田嶋隆純師)を以下掲載します。

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それでは、横書きで読みやすいように
適宜、私の独断と偏見で改行を入れて、文章をそのまま入力します
ここでは巣鴨拘置所で、岡田資中将(元・東海軍管区司令官兼第13方面軍司令官)
をはじめとする方々の心のささえとなられたことで
しられる教誨師・田嶋隆純先生の文章に尽きる、と思うからです。

序 文

第二次大戦の終結の中にすでに次の大戦の兆が生れ、
正義と平和を実現しようとする国々の努力が、
却つて世界を自殺的な危機に駆り立てるとは
何と云う大きな矛盾でありましようか。

今日の日本の政治経済或は思想上の混乱も
謂わばこの世界的矛盾の一環に過ぎません。

第三次世界大戦が起れば幾千年の文化は破壊され
人類は滅亡に瀕すると云われていますが、
このような暴力の源は原子兵器でもなければ細菌戦でもなく、
実にかかる戦争を生むに至つた近代文化に内在するものであり、
更に遡れば現代人個々の心にひそんでいるものと云わねばなりません。

私たちはこの混沌の底に在つて、
理性と善意に絶望する前に今一度赤裸々な人間に立ち返り
一切を見直す必要に迫られております。
然るに茲に強制された逆境を契機として、
この様な深い内省をして来た一群の同胞があります。
それは所謂「戦犯」として斃れた人々であつて、その最後の声を
私たち同胞は心から耳を傾けるべきだと思います。

戦犯者に対する見方は種々ありましようが、
高所より見ればこれも世界を覆う矛盾の所産であつて、
千人もの人々が極刑の判決のもとに、
数ヶ月或は数年に亘つて死を直視し、
そして命を断たれていつたと云うことは
史上曾つてなかつたことであります。

おそらくこれ程現代の矛盾を痛感し、これと格闘した人々はありますまい。
一切から見離された孤独な人間として単身この矛盾に対し
刻々迫る死を解決しなければなりませんでした。
それは自身との対決であり、同時に真理を求める静かな闘いでもあつたのです。

戦争は直接の目的として相手の死を求め、手段として自身の死をも要求します。
このため日本人は「死」そのものを最高善の如くされ教え込まれてきました。
然るにこの人々は強制された死に直面して生きる喜びを知り、
最後の瞬間まで自身をより価値あらしめようと懸命に努力しております。
それは自己の尊厳と生命の貴さへの覚醒でありました。

「己の如く隣人を愛せよ」と云われますが、
自己を真に愛することを知らずして他を愛することは出来ず、
最高の徳とされる犠牲的精神も正しい意味の自愛の反転に他なりません。
「死に直面して一切が愛されてならない」と云う
或遺書の一節は端的にこれを物語つております。

この心は即ち肉親愛でもありまして、
すべての人が言葉をつくしてその父母妻子に切々たる情を伝え
身の潔白を叫ぶのも寧ろ遺族の将来の為に汚名を除かんとする努力なのであります。
更に愛は郷土へ祖国へと拡がり、遂には人類愛に迄高められております。
人道の敵と罵られ祖国からも見離された絶望の底に於て、
尚損われることのなかつた純粋なこの愛国心は改めて深く見直されるべきであり、
この基盤なくしては人類愛もまた成立し得ないものと思うのであります。

この書に収められた701篇の遺書遺稿は何れも
窮極に於て日本人は何を思い、何を希うかを
赤裸々に訴え、同時に人間の真の姿を如実に示しております。
固より思考力の差や死刑囚生活の長短によつて、
その到達している段階は種々でありますが、
そこには力強い一つの流れが明かに感じられます。
そうして純粋にして豊かな人間性の叫びは、私共の徹底的な反省を促し、
新たな思惟に貴重な示唆を与え、更に私たちを鼓舞してやまないのであります。

戦犯死刑囚の多くと接しその最期を見送つて来た私には、
この人々のために戦争裁判について訴えたいことが鬱積しておりますが、
この書の目的がこれらの人々の切々たる叫びを世に生かさんとする
未来への悲願であることを思い
寧ろ黙して故人と共に一切の批判をも将来に委ねたいと思うのであります。

この書を読んで私はその一篇々々に滂沱たる涙を禁じ得ませんでした。
それは悲痛の涙であると同時に
美しく逞しい日本人の心に浸つた感激の涙でありました。
かくも厖大な資料により人間窮極の叫びを集成したこの書は
世界に例のない貴重な文献として、国境を超え時代を超え、
不易の生命を以て絶えず世に叫びかけるものと信ずるものであります。

昭和28年8月15日

巣鴨教誨師
大正大学教授

田嶋隆純

以上が田嶋師の記された序文でした。
私自身はこの書物を神田神保町の古書店で見つけたとき
宝物を発見したように嬉しかったことを思い出します。
そして、この書物を当時のまま読みたいと思ったのでしたが
特に1984年復刻版では、空白ページがあったので、
「お話を聴いてみたい」と思ってページを開いても空白の方の思いを
知りたくても知ることができなかったです。

私が入手した『世紀の遺書』(1984年復刻版)の裏には
元の所有されていた方が貼られたのであろう
一枚の雑誌記事がありました。

「空白ページが語る遺族の痛み」

「この項は、今回の復刻に際し、遺族の希望により削除しました」
と。
1984年(昭和59)ということは戦後39年の間に
実は昭和受難者のご遺族がどれだけ同胞の心無い仕打ちに苦しんでいたかを
想像させられます。
本来であれば最も理解してほしかった同胞が理解してくれないことの苦しみが
どれほどだったのかと思いました。

すぐに理解してほしいとは言わないけれど
せめて私たちの傷口を抉るような仕打ちをこれ以上しないで!と
ご遺族の方々が叫んでいるような様子がうかがえました。
親戚からも「戦犯だから」と絶交されて故郷を追われて
職を転々とせざるを得なかったご遺族の方々が多かったということです。

私は空白ページをぜひ読んでみたくて
その後1953(昭和28)年初版本を探したのは
云うまでもないです。