日本一の大杉「杉の大スギ」

明けましておめでとうございます
本年もどうぞよろしくお願いします

なかなかブログ更新できないですが
書ける時は書こうと思います

さて、私は昨年のある日ですが
ついに行きたかったところの一つ
「杉の大杉」(高知県大豊町)に行ってきました。

なかなか高知県まで行くというのは、費用的にも日程的にも
難しいものがありますが
3万ほど(行き帰り新幹線と岡山泊ホテルの1泊2日)で
またも行ってきました。

まずは新幹線で岡山に行き、岡山⇄大杉は特急にての移動
(これが8,000円以上かかります。
それならば、東京⇄高知間のビジネスパックでもいいんじゃない?と
言われましたが、結局岡山に泊まることにしました。)
かなりタイトな旅でした

まだ香川県の旅についても中途半端なままなのに・・・。
こちらはまた後日にします。

JR大杉駅前に降り立ち、橋を渡ると大杉ハイヤーさんがありましたので
まずそこに向かいました。
運転手さんに、
「山下奉文旧邸跡」と「杉の大杉」を何とか一度に回りたいとお願いしたら
快く応じてくれました。
徒歩ではいけない距離ですから・・・。
なので、歩いたのは杉の大杉」からJR大杉駅(1キロ弱)までだけでした。
昔の人の健脚さに驚きました・・・。

山下奉文さんは、幼少期の一時期、現在の高知県大豊町で暮らしていました。
ちょうど、小学校の教師を辞めて医師になったお父さんが開業していたのが
このあたりだったのです。
今で言えば小学校低学年あたりの頃に生活していた場所でした。

もっとも、行くことを決めてからもう一度書籍を読み返すと、
山下奉文少年は、大杉のあたりで生活していたこともあるけれど、
そこから離れた、現在の土佐山田町あたりで生まれ育った時期の方が長かったということでした。
高知に泊まれたなら少しはゆっくり回れたのにと悔やまれます・・・。

タクシーを降りると、八坂神社があり、
その手前に料金所がありました。
この大杉を維持するのに使われるとのこと。

そして「杉の大杉」です

杉の大スギ

素戔嗚尊が植えたと伝えられるこの杉、樹齢3000年と言われる
この大杉。本当に大きかったです・・・。
写真に収まらないほどに
なんとどっしりしているのだろうと
この樹木が出す静けさが素晴らしかったです。

なんと大切にされてきたのだろうと思いました。

タクシーで時間稼ぎをしたので、約50分ほど時間ができました。
なので、樹木の近くにあるベンチでぼーっとしていたり
境内をぐるぐる廻ったりしていました。

そうしたら、小さなお社がありました。

「巨杉の社」と書いてありました。

巨杉の杜

下に碑文がありました。

「陸軍大将山下奉文はこの地大豊町川口出身 
号を巨杉という 
大東亜戦争の緒戦マレーシンガポールの攻略に 
神速なる戦果を挙げ世界の戦史を飾る 
のち満州より転じて比島作戦を継承するも時に利あらず 
詔勅に従い矛を収め部下全将兵の責任を受け 
米国軍法会議の決に服し莞爾として刑死せり 
惜しむべし将軍は皇国の無窮と弥栄を固く信じ 
至誠純忠悠久の大義に殉じ 
その霊魂はここ日本一の大杉に宿る
嗚呼 偉なるかな 萬人巨杉を仰ぐ」

やっとここまで来られた!と思っていたところ
料金所の女性の方が、私に話しかけてこられました。
彼女は、この巨杉の社を詣でる人には特別な資料を見せることもありますと
言われていました。
山下奉文大将関連の資料でした。
やはり、年に数名は、山下奉文大将を慕ってお詣りする方がいらして
その方々が資料を彼女に預けられていくのだそうです。
山下奉文大将関連資料が集まってくるのだそうです。
※私も後日、東京で集められる山下奉文大将関連資料を集めてお送りしました。
年に数名いるかどうかの方々が山下奉文大将を思い出してくれたらと思い・・・。

多くの人は、裏の美空ひばりさんの碑に行ってしまうのだそうですが。

大東亜戦争後、八坂神社の宮司さんは、

釣井正亀宮司

なんとか山下奉文大将を祀ろうと努力されてきたのですが、かなり苦労されたそうです。
戦争犯罪人を祀るとは!とか。
「巨杉神社」としたところ、宗教的な面でこれまたクレームもあり、
「巨杉の杜」としたそうです。
昭和61(1986)年当時は確かに「巨杉神社」だったのに。
(「巨杉会会報 別冊特輯 カンルーバン将官収容所に於ける
   将軍の横顔と句集」(1994年8月)所収の当時の新聞記事より)

昭和末期頃は、まだ山下奉文大将に仕えた部下たちも生きていたのですが
平成に入る頃には戦友会もなくなってしまい、荒廃してしまったところ
なんとか「巨杉の杜」という形で再興したものらしいです。

そんな話を伺っていると、もう15時近く。
電車に乗り遅れそうでした。
最後は小走りをして、なんとか乗りました。
もうクタクタでした。

シスター渡辺和子さん帰天す

昨日、片柳神父様(イエズス会・マザーテレサの導きで司祭を目指されたという方)のFBのウォールで、なぜかシスター渡辺と片柳神父様のツーショット写真があったので、なぜなのだろうと思いながら、寝たのですが。
朝起きたら、
「渡辺和子さんが死去 岡山のノートルダム清心学園理事長」
という記事が出ていて
そういうことだったのか・・・、と思いました。

学校法人ノートルダム清心学園の理事長を長く務められた方です

シスター渡辺といえば、この書物で有名です。
「置かれた場所で咲きなさい」

私はそれ以前に、PHPからの文庫本時代からの読者でありました。

この本を始めに、何冊読んだかわかりません(しかし、身にはついてないかと思います・・・)
シスター渡辺のお父様が、渡邉錠太郎大将であることから手にしたのですが、
シスターのお言葉に勇気付けられたというのもあります。

よくシスター渡辺ご自身が、「なぜ修道女におなりになったのですか」と質問されると書かれていました。
以前は、お父様・渡邉錠太郎大将が目の前で青年将校に銃殺されたからということから
世を儚んでと思われていたこともあったらしいです。

カトリックのミサにごくたまに与るだけの求道者である私には
なんか違うなと思いました。
修道院って、世を儚んで入るような場所ではないらしい。

そう、平安貴族のある者が、かつて世をはかなんで出家したとかいう話がたくさんあるので
そのように捉えられるのも我が国ではごもっともではあるかもしれない。

いろいろ、シスター渡辺や、お父様渡邉錠太郎大将のことを知っていくにつれ、
シスター渡辺は、二・二六事件でお父様が殺されていなくとも
いずれは修道女という道を選ばれたのではないかなあと思っていました。

私は以前より渡邉錠太郎大将についてのこの記述が心に残っていました。
渡邉錠太郎大将と仲が良かった朝日新聞記者・高宮太平氏の渡邉錠太郎大将評です。

より。

高宮太平氏は、陸軍部内で二人の軍人を高く評価していました。
一人は、永田鉄山中将(軍務局長の時に中佐に惨殺された)、もう一人が渡邉錠太郎大将。
この二人が生きていれば無謀な戦争は避け得たのではないかということで。

高宮太平氏は、渡邉錠太郎大将を最初、学者肌でおとなしい人と見ていたらしい。
接触して話を聞くようにしていたが、渡邉大将は陸軍部内の人間関係には触れず、国際関係についての話が多かった。そして、航空関係については深い知識を持っていたとの印象だったらしい。
昭和10年ぐらい、陸軍部内外でいろいろな不穏な動きが起こっていた時も渡邉錠太郎大将は表面的にはおとなしく、しかし裏では陸軍士官学校の同期生である林銑十郎陸相の背後で
派閥争いを食い止めるべく奔走していたことを知ったのです。

そんな渡邉錠太郎大将を
「渡辺は内に火のごとき正義感を持ち、平素はそれを深く蔵してあらわさなかった。
けれども、一度決心すると何ものも恐れない。
それはみずから求むることのない者のみが持つ強さであった」

と評していました。
私はシスター渡辺の書物の端々に、このような強さが見られる記述に接して、
シスターはあの事件がなくとも修道院に入られていたのではないかと思っていました。

今年の四月に山陽新聞からこの本が出されました。
私は丸善で立ち読みをしただけですが・・・(すみません)
より、その思いを強くしました。

今は、シスター渡辺の永遠の安息をお祈り申し上げます。

山下奉文大将のクリスマス

久しぶりの更新になります。
本日はクリスマスイブですねえ。

それにふさわしい記事になるのかどうか・・・。

小林よしのり氏「米国の「戦争犯罪」を認めない安倍首相」

には、安倍首相はアメリカのファルージャで民間人虐殺を行っていた「戦争犯罪」を頑として認めない姿勢のご様子。それどころか米軍が行った日本への原爆投下や都市空襲ですら「戦争犯罪だった」と明言しないのだ!とあり

現日本の「宗主国」の戦争犯罪は認められないのだそうな。

敗戦国・日本において、昭和27年(1952)に日本語訳で刊行され、深刻な影響を及ぼした書物があります
『山下裁判」上・下(フランク・リール著 下島連訳)。

ポツダム宣言受諾後、戦争犯罪人として一番初めに起訴されたのが
当時、マニラで拘留されていた山下奉文大将でした。
書物の著者・フランク・リール氏は、ハーバード大学出身のアメリカ軍陸軍大尉でした。
なので山下大将と初対面時はまだ敵対心と疑いの心で接してしまったようですが、すぐ山下大将と打ち解けました。
山下大将の持つ人格がそうさせた部分もあると思いますが、それだけではなかったのです。

リール氏たちはこの軍事裁判の意義がそもそもおかしいと感じ始めていました。
山下大将がなぜ起訴されたのか?
それは、ルソン島(フィリピン)における部下の残虐行為の全てに、軍司令官として責任を負わねばならず、それを怠ったという理由でした。

となると、山下大将と戦火を交えた側のマッカーサー元帥の罪もあるのでは?
どんな軍隊にも悪人はいる。ルソン島にて戦う際、アメリカ軍には一切残虐行為はなかったと言えるのか?
歴史的な結果としては、マッカーサー元帥は、山下大将たちを裁き
山下大将は裁かれ、絞首台へと送られた・・・。

そのようなことが書かれている本で、昭和20年代の日本においては、深刻な影響を及ぼす書物だったとのことです。
今も読む価値があるはずですが、中々手に入らないし
そもそも、公立図書館でも読むことができない。
いつしか廃棄本とされてしまった。
もし読みたければ、東京の国立国会図書館にでも行かねばならない。

そこまでできる人といえば、ライターとかしかいないのではないでしょうか?
それで本の存在さえも忘れられてしまう
その結果が、小林よしのり氏の先のコラムとなるのではないでしょうか。

この書物の下巻表紙に恐ろしいことが書かれています。

ノーマン・トマス
今後、アメリカの将軍、大統領は絶対に降伏する気にならないにちがいない。
戦争というものは、山下裁判の前例に基づいて、読者は敗者を絞首刑に処する理由をいくらでも発見できる性質のものであるから。

軍事裁判中の山下大将と武藤中将の動画です。

武藤章中将のはこちらです(山下大将と間違えている人がいますが、これは間違い無く武藤章中将です)

この軍事裁判で絞首刑宣告を受けた山下大将は、12月8日以降参謀長であった武藤章さんたちと引き離され、一人で既決囚として隔離されていました。

フランク・リール氏たちは、山下裁判はアメリカの恥となると、今度はクリスマス返上で、アメリカ最高裁へと訴えるために準備に追われることとなりました。
もし山下大将が判決通り死刑になるなら、これはアメリカの恥となるので食い止めようと、アメリカ本国の最高裁判所を巻き込むこととしたのです。
それで12月23日午前、死刑囚としての生活を送っている山下大将に会いに行ったのです。その時の記述は以下の通りです。

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ピラミッド型のテントを取り巻く有刺鉄線の柵の中に案内された。彼(山下大将)は出てきて私たちを迎えた。
すり切れた陸軍の作業衣を着ているだけで、幾分やせたように見えたが、山下は依然として司令官だった。
まるで昨日会ったばかりであるかのように、彼はからからと笑い、微笑し、冗談を言った。

しかし明らかに彼は私たちに会えて非常にうれしがっていたのだ。

私達は彼を訪問することができなかった理由と、なぜ今日許可を得ることができたかを説明した。
私達は過去16日間の出来事、処刑の様々な延期、1月7日に最高裁判所が審問を許すことに決定したことなどを詳細に物語った。

法廷の審問はマニラの裁判とは違うであろうということ、それは法律に関係することで、事実に関することでないであろうということ。
私達の勝利の見込みは少なく、たとえ勝ったとしても、私達が望みうる最良のものは新しい裁判であろうということ。
私達は他の出来事の話をした。
ー彼の判決を終身刑に減刑するか、もしくは彼に自決の機会を与えるようにと、
86000人の日本人によって署名された嘆願書が東京のマッカーサー元帥に提出されたという新聞の報道。山下は微笑した。
そしてその嘆願書を回した男の名前を知らないと言った

それから山下は真面目になった。
彼は私達がしていることに対して私達に感謝した。私達は彼のために多大の犠牲を払っており、そのことが彼を深く感動させると彼は言った。
私達は「はるばるアメリカへ」行くところだった。
私達はクリスマスを捨てた。
「私達は空中でクリスマスを祝うでしょう」私は空を指差して言った。

「あなたがたがアメリカの法廷で論ずる問題は、私の有罪無罪に関係がないことを私は知っています。
決定しなければならない重要な法律問題、司法的問題があり、
そのあるものは、世界平和のために決定されなければならないということを私は知っています。」

そして、彼はまた懐かしい笑顔を浮かべた。

「そのことは、私がその結果に個人的利害を持っているということを理解しないと言っているのではありません」

収容所長はセキ払いをした。それは別れるべき時だった。
私達はさよならを言った。
「次の裁判のためにマニラに帰ってきた時、またお目にかかりましょう」

「大将は非常に感動していました」
と浜本(日本人通訳で山下裁判時にリール氏と協力していた浜本正勝氏。
彼は山下大将が絞首刑判決後、武藤参謀長たちとともに有刺鉄線の外に抑留されていたので、ここでも通訳として登場)はいった。
「彼はほとんど泣かんばかりでした。彼はそれを見せません。しかし私は知っていますー私は知っていますー。」

私達が車に乗り込む時、私は振り返った、山下はまだテントの正面に立っていた。
彼の色あせた作業衣が熱帯のそよ風で揺れていた。
彼は手を挙げて振った。

山下奉文ー四国の庭で花の成長を見守った小さな少年。
難攻不落のシンガポールを征服したマレーの虎、色あせた青い作業衣を来て、テントの正面に立って待っていた老人。
私達は家路についていた。
そして、彼もそうだったと私は思う。

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アメリカの最高裁判所は、フランク・リール氏らの請願を受理したものの、結果として却下しました。理由は、事件は軍事裁判の対象であり、アメリカ最高裁の管轄外だとのことでした。
マーフィー判事・ラトレッジ判事のみ、山下裁判の不当性を認めたがそれは少数派に過ぎなかったのでした。

そして昭和21年(1946)年2月23日、山下奉文大将は絞首刑を執行されてしまいました。
なお、サダム・フセイン裁判時にも、マーフィー判事・ラトレッジ判事のことが新聞記事だか何かで触れられていたのを覚えています。

クリスマス・イブ的には、すでに死を待つ山下奉文大将が、リール大尉たちと別れる際に微笑みをたたえて
いつまでも、いつまでも手を振り続けられた姿が目に浮かんでしまいます・・・。

丸亀護国神社

丸亀にも護国神社があることを事前に知っていたので、
レンタサイクルにて必死に探したところ

ありました。
丸亀市民会館のあたりに、ひっそりと。

いかつい表情の狛犬が迎えてくれました。
komainu_marugame

komainu_marugame2

境内はこのような感じです。

marugame_gokoku

善通寺の護国神社と比べてこじんまりとしていますが・・・。
寂しい感じがします。
お詣りする人も私以外にいなかったです。

現代の感覚からすれば、善通寺の立派で静謐な護国神社にばかり
目が行きがちで、丸亀の護国神社については、移転話まで出ている
らしいぐらい、結構マイナーな神社かと思います。
そして、なぜ香川県には、護国神社が二つも存在しているのだろうかという疑問を持ちました。

調べてみると

大東亜戦争敗戦後、占領軍の方針で護国神社は一県一社と
され、丸亀の護国神社は廃絶されるところでした。

しかし、善通寺護国神社(讃岐宮)宮司・矢原高幸氏が努力したので
丸亀の護国神社も、あくまで讃岐宮「別宮」として存続が認められた
と、知りました。

さらに、戦前から「月次祭」も、善通寺だけでなく丸亀でも、
絶え間なく続けられているとのこと。
移転話が丸亀市議会で出ているようですが、どうか移転などしないで
神社の改修費用などに充ててほしいところです。
ここには、かつて伝統ある歩兵第十二連隊が存在し、
香川県内のもう一つの軍都であったということは事実ですから。

参考文献:綾 忠男(讃岐宮香川県護国神社総代・丸亀護国神社奉賛会会長)「讃岐宮香川県護国神社別宮・丸亀護国神社(旧歩兵第十二連隊忠魂堂)の推移と現状」(『歩兵第十二連隊百十年祭記念誌ー思出之記』1985(昭和60)年9月)

ネット上の情報ではなかなかでてこない情報を今回、こうして知ることができてよかったです。
まだまだ歴史については、ネット上だけでなく、書物を紐解いてみることが必要だと感じさせられました。

なお、今の私では、レンタサイクルを飛ばしてさらっとその土地の名所を探すというのは難しいです。
骨折が治りきらないから。
実は、骨が付ききっていないのです。
筋肉を痩せさせないために、ギブスではなく、固定をして、
ある程度くっつき始めた頃に固定を外し、リハビリをしています。

なので、踵の骨がずれたりしないよう、だからと言って、全く動かないのもいけないので、日常生活の制限はあまり儲けず、無理せず
リハビリにはこまめに通う生活を続けています。
おそらく自転車には乗れないでしょう。
踵に力が入らないから。
ここは辛抱強く「待つ」しかないですね。

この後、原田熊吉中将のお墓のある寺院をレンタサイクルを飛ばして
探して、なんとか見つけることができました。
骨折前に見つけてお参りすることができて本当に良かったです。
ごく普通のお墓だったので、おそらく他の墓参者からは
「なんだか怪しい人が来ている」と思われていたかと思います。

丸亀中学の剛球投手

原田熊吉中将は、明治21(1888)年8月に、丸亀の餅屋の次男として生まれました。
貧しい餅屋で、夜明け前から餅つきの手伝いをしながら、学校には遅刻をしないようにと
駆け足で通うような少年でした。
そんな中、(旧制)丸亀中学校に進学してから野球を始められたようです。
この旧制丸亀中学校は、今は香川県立丸亀高等学校となっていて、文武両道の伝統校です。
校内には入れませんでしたが、旧制中学校の頃の校舎を移築したものは
遠くからですが、写真に撮ることができました。
レトロですね・・・。せめてここだけでも入れたらなあと思いましたが、
外観だけ撮影できたので、とりあえず良しとしたいものです。
(駐車場のようなところがあって、そこから頑張って撮影しました・・・)

丸亀高校記念館

横からは

丸亀高校記念館2

さて、原田熊吉中将は、どのポジションでご活躍されていたのでしょうか?
ポジションは、何と、「投手」でした。
私は身体の大きな方なので、捕手ではないかとイメージをしていましたが
(私は野球詳しくないです)
そういうわけではないようです。

原田中将が中学時代に野球を始めた頃(日露戦争の頃?)、ようやく野手もグローブを持つように
なったらしいですが、それまでは何と、素手で!速球を受け止めていたとか。
捕手もまた、キャッチャーマスクとミットは持っていたものの、胸に当てるプロテクターは
なかったとのこと。

丸亀中学校の野球伝説には

「試合の時、長身、1メートル80センチの原田投手は、第1球にストレートの剛球を投げ、
捕手佐久間がその球を腹でウーンと受け止めた。それを見て敵は肝を縮め恐れをなした」

というのがあるとか。

実際捕手であった佐久間氏は
「なんぼ僕でも、あいつ(原田中将)の剛球を腹で受けたら一発で参ってしまう。
第1球をワンバウンドで投げるように打ち合わせをしていた。それでも敵の肝を奪うのには
十分効果があった」とも話していたらしい。

さらに、原田中将は、野球部だけではなく、剣道部にも入っており、野球部で捕手をするとき
剣道の防具の胴着を腹につけて、投手の速球を腹で受け止めていたという話もあるとか。

原田中将は、ラジオの野球放送で早慶戦を熱心に聞いていたとのことですが、
原田中将の息子さんたちには、少し不思議だったようです。
子供に厳しい人でよく、子供達は拳骨を食らってお母さん(原田中将の奥様)に泣きついて
いたようでしたから。
子供心に、「あのおっかないお父さんが、ラジオを熱心に、楽しそうに聞いてるなんて・・・」と
思われたのでしょう。
また、原田中将にとっては、仕事から解放された一時の楽しみだったのでしょう。

この逸話は、小津豊氏「父と野球」というエッセイ
『ずいひつ 遍路宿選集 第1集』(ずいひつ遍路宿の会 平成14年)所収より。
「小津豊」さんとは、どうやら、原田熊吉中将の三男らしい・・・。

なぜなら、田中日淳編『日本の戦争ーBC級戦犯60年目の遺書』の282頁に
原田中将の家族宛遺書が掲載されていますが、その中で、豊さんは三番目に
名前があります。

話を小津豊氏のエッセイに戻しまして

この「父と野球」の中には、「原田熊吉」と書かれたのは一箇所だけ。
あとは「陸軍の軍人だった父が」「父は太平洋戦争で亡くなった」とのみ記されているので
なかなか、原田熊吉陸軍中将のことだとわかるのは難しかったです。
おそらく「わかる人にはわかる」という思いで、「小津豊氏」は書かれたのかもしれません。

「原田熊吉命御事歴」

茶園義男『BC級戦犯・チャンギー絞首台』(紀尾井書房・1983)に、「御事歴」の抜粋が
掲載されているのでご紹介します。

同著109頁より

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生立。原田中将は明治21年、原田弥平次男として丸亀に生まれ、日夜蓬莱城を仰いで育ち、父君の訓育と明晰なる頭脳により、小・中学は常に抜群の成績を修め、身体頑健にして、丸亀中学野球部に入り、全国優勝の記録もある。特に丸中時代に於いては、日露戦争の銃後青年として、国防の重要性を痛感し、将来一身を君国に捧げんと決意し、明治四十四年陸軍士官学校に入校、明治四十四年歩兵少尉に任ぜられた。

軍歴。原田中将は陸士入校より、終焉まで正に四十年。身命を君国に捧げて少年時代の初志を貫徹した。軍歴の概要は次の通りである。
(一)高知聨隊付少尉時代には選ばれて聨隊騎手の重責を果たし、中尉進級後陸軍大学に学び、その後陸軍中将進級の直前まで、主として参謀本部と大陸関係の要職を歴任し、国を出ること十五回に及び、日本の国防と東洋平和に肝胆を砕いた。この間大佐時代には輦轂(れんこく)の下、近衛歩兵第四聨隊長として禁闕守衛の大任を果たし、武門最高の名誉に感激した。
(二)昭和十四年同期八名と共に抜擢されて中将に進級、師団長二回、軍司令官二回の大命を拝し、正四位勲一等功四級の恩命に感激した。特に最終は第五十五軍(第十一師団等三個師団基幹)司令官として郷土四国の防衛に粉骨砕身した。

終焉。然るに国運恵まれず、原田中将は終戦後、四国復員監として服務中、昭和二十一年三月旧部下の関係事件につき、突如連合軍の逮捕令を受け、巣鴨入所、六月シンガポールに移送、十月二十五日死刑の宣告を受け、翌二十二年五月二十八日午前九時、六十歳にして無念の最後を遂げられた。将軍は遥かに東方を拝し、天皇陛下の万歳を唱え、辞世のうた「今ぞ立ち天翔ても大君のみたまにかへりつかヘまつらむ」を残し、従容として死につかれた。洵(まこと)に痛ましき限りである。
先賢堂に合祀し、偉勲を永久に顕彰し奉る。

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(引用ここまで)

私が『世紀の遺書』に接し始めた頃、遺書の内容が一番印象に残っていた原田熊吉中将の生涯。
この引用文でようやく少し繋がり始めました。

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私が知っている(つもり)なのは、死刑囚としての原田熊吉中将だったから。
死刑囚としての原田熊吉中将は、「すごい方」の一言です。
『世紀の遺書』に収められている遺書の中にも、同時期に処刑されたかつての階級も異なる人たちが皆、原田熊吉中将宛に遺書を託して絞首台に登っていたのが読み取れ、最も屈辱を受けて、惨めな環境の中でも、周囲の精神的な支えになれるタイプの方だと。

それ以前はどのような来歴があった方なのか?
実は、wikipediaでもあまりよくわからなかったのでした。
調べても、出てくるのは断片的なことばかりでした。
本来ならば、もっと取り上げられても良い方だったのではという思いを
ずっと持っていました。

この方は軍人としては、支那通で、指揮官型だった(連隊長、師団長、軍司令官経験あり)方でした。
意外にも、陸軍には幼年学校からではなく、中学校を卒業してから入られた方だったのですね。

武藤章中将のように、陸軍省勤務で、政治的事務に携わっていたタイプでもありません。(武藤章中将が指揮官になれたのは師団長のみ。
軍人ならば指揮官を目指すことが本懐との思いを心に秘めながら、連隊長にはなれなかったのが武藤章中将です)

最後に「蓬莱城(ほうらいじょう)」とは、丸亀城のことです。
今回、何としても善通寺を四時に出なければとしていたのは、
実は外側からだけでも、丸亀城を見たかったからです。
レンタサイクルで周囲しか回れませんでしたが・・・。

蓬莱城(ほうらいじょう)