【毎日新聞1995/10/24夕刊】中川被告初公判

なぜかこの時の中川智正初公判は注目度が高かったのでした。
一つには、麻原教祖が初公判前に横山弁護士を解任したり、
当の横山弁護士自身が入院したりとかで、
麻原に一番近い側近だった立場と報道され、注目されたのではないかと思いました。

以下、記事を引用
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おなかが少し出て、上着が窮屈に見える。
午前10時の開廷。
ゆったりとした足取りで入廷した中川被告の、
ふっくらした顔に表情はなかった。

初公判時の中川被告

中央の陳述台に立ち、胸を張り、
裁判官を見上げるように、真剣に答える。

「名前は?」
「中川智正です」
「生年月日は?」
「昭和37(1962)年10月25日です」
「職業は?」
淡々とした答えが詰まった。
間をおいて
「無職です」
「住んでいる場所は?」
「・・・・・決まっていません」
検事が起訴状を読み上げる。中川被告は両足を踏ん張り
両手の指を開いたり閉じたりする。
起訴事実の認否。
「地下鉄サリン事件について認めますか」と裁判長に問われ
中川被告は答えようとして、喉を一、二度そらした。
声が出ない。
約10秒後、やっと「はい」と認めた。
「えー、まず、サリンを発散させる経過に、尊師とか村井さんとかと共謀して、
事前に知っていたわけではありません。どこで発散させるかも聞いていませんでした」
と答えた。
「サリンの生成は村井さんの指示で確かに行いました。
正確にはサリンは未知の生成法で、私が合成したことは間違いありません」
と一気に語る。
裁判長が殺意について念を押すと、
「ですから、サリンは危険なものと認識はありました。
事前には知りませんでした。
新聞、マスコミで報道され、サリンが巻かれたのは間違いありません」
と語気が強まった。

元信者の落田さん殺害。
肩を大きく後ろにそらせて
「他の人が押さえ、落田君を絞めていました。落田君は苦しそうで、
私も早く楽にさせてあげたいと思いました。」
裁判長が、「押さえつけたのですか」と確認を求める。
「はい。関与しました」。
はっきりとした声だった。
10時20分過ぎ、検察側の冒頭陳述に入った。
被告席に戻った中川被告は向かい側の検察側をジッと見据える、
落田さんのリンチ殺人事件に立ち会った場面で
まばたきが激しくなり、唇をかみしめ
ひざにのせた手を握り締めた。
地下鉄サリン事件の場面では、改めて自分の造った物質の恐ろしさを
突きつけられ、組んだ手をほどいて、つばを飲み込んだ。
11時50分過ぎ、いったん休廷。
中川被告は促されて立ち上がると、傍聴席に目を向けた。
何を思ったのか、一瞬ゆるんだ表情を見せた。

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当時、家でとっていた別の新聞で、だいたい似たような記事を読んだ記憶がありましたが
そこそこ事件認めているじゃないか。
サリン事件に関わっていることも。
これであとは麻原がどう出てくるかだなと感じていました。

多分、私は、「対話本」だけを買って読んだならば、
この後の何回かの裁判の時に、ウィキペディアにあった
「尊師がどう考えているか、弟子たちに何らかの形で示してもらいたい。
私たちはサリンを作ったり、ばらまいたり、
人の首を絞めて殺すために出家したんじゃない」と麻原に対して叫び、証言台で泣き崩れた
シーンについても、この後ほどなくしてあるものだと
読み飛ばしていたと思います。
実際は、証言台で泣き崩れたのは、ここから6年以上後の話であり、
その6年の間に何があったのか
おそらく裁判関係者以外にはあまり知られていないことではないかと
思いました。

私は、「対話本」



のTu博士宛最期のメールに
そもそも社会への貢献が考慮されるのであれば、
裁判で検察側に全面的に協力した井上君、広瀬君、豊田君などは、林郁夫さんのように
無期懲役になっていたと思います。
」という一文に
とてもひっかかりを持ちました。

中川智正さんは裁判中何をしていたのか?検察側に協力的ではなかったのか?
と、いろいろ改めて疑問を持つようになりました。
それで、また自分なりに調べなおしているところです。

中川智正さんが、「豊田君」と呼んでいる人
この方は、先月26日に処刑された豊田亨さんのことです。
この方については、中川智正さんとTu博士のような関係の方がいらっしゃり、
今も大学で教鞭をとっていらっしゃる方です。
豊田亨さんをモチーフにしたノンフィクションを出されています。



この書物の最後に、豊田亨さんからの呼びかけ文が掲載されています。
(2006年9月16日)
さらに、豊田亨さん自身が気持ちが変化した部分については
麻原彰晃こと松本智津夫被告は10月26日に予定されていた公判を
故意に引き延ばしました。
説法などで、『自らの宗教的確信は、たとえ断頭台に立たされても揺るがない』と
語っていたから
みずからの公判において、その宗教的確信が語られることを期待していたのです」
「教祖の言動に一貫性がないという次元では、もはや済まされない。
これが最終解脱者を自認していた人の発言かと思うと、
失望、落胆、憤りを通り越して、悲しいというほかないのです


豊田亨さんは1995年12月には教祖と精神的にも決別をしていた。脱会もしていた。
私はそんなものだろうと中川智正さんについても思っていたところがありました。
(脱会しているというのは、別の新聞で当時読んでいました。
せっかく取得した医師免許を返上したのも反省されているのだと思っていた)
しかしブログを書いていくうちに、そうではないという部分が沢山あり、
「どうして見抜けなかったのだろう」と思うようになり、
また、つらつらと書き連ねている次第です。
※実際は、少しずつ中川智正さんについて「免疫」が出来たため
何となくは見抜けなかった理由も自分なりに理解しているつもりですが・・・。

なお、中川智正さん自身が初公判の時のことを記しているのが
『ジャム・セッション』5号 2014年にあります。

「95年の10月に私の初公判が行われることになりました。
初公判の朝、私は浅草署の1階にあるガレージに下りて
そこで車に乗り込みました。
ガレージのシャッターが開き、署の周囲を取り巻くように群衆がいるのが
見えました。百人を超えていたと思います。
手前には報道陣がカメラを持って陣取り、
その向こうには店番や台所仕事からちょっと抜け出してきたような
おじさん、おばさんが沢山いました。
私が絶句していると、付き添いの警官が
「外から見えないから大丈夫」と言ってくれました。
確かに車の窓はスモークになっていて、車内から外を見ることが出来るものの、
外から車内が見えないようになっています。
署員が人をかき分けて、車は東京地裁へと出発しました。
上空にはヘリコプターが何台か飛び、
私の乗った車にはテレビ朝日の放送車が並走しました。
アナウンサーがマイクを持ち、プロレスを中継しているのかと思うような表情で
私の方を見て何か喋ってます。
何を喋っているのか聞こえませんでした。
(中略)
浅草署を出る時、巨大ストロボで写真を撮られてしまったことがあります。
ボンというすごい音がして窓ガラス越しにも熱感が伝わってきました。
今でもマスコミでその写真を見ることがあります。
警察の留置係は、写真を撮らせない工夫をもっとすると
言っていました。以後、移動中に写真を撮られたことはありませんでした」

中川さん、ちゃんと自分の写真とか見ているのか・・・。
感想までは書けないのでしょうねーーー。

※※豊田亨さんに関しての書物を見つけられたのは嬉しかったです。
そこで、どうか広瀬健一さんの文章も書籍化してほしいと
切に願う次第です。
webにあるのはわかりますが、リンクが切れていたりすると読みたくても
読めないことがあります。
だからこそなんですが
心ある出版社さん、
今後の教訓を共有するために
どうか出版してくれませんか?

【毎日新聞1995年10月24日夕刊】支える覚悟、固めた母

今日は仕事帰り、マッサージを受ける予定でした
が、
なんと、すっぽかされてしまいました!(怒)
(予約の時間にいったら、お店が閉まっていた)
で、都内だったので
時間を無駄にするまい、と
閉館一時間前の「東京都立中央図書館」まで行ってまいりました。

新聞記事あさりに。

さて、私のブログを「最近になって」訪問してくださる方は
恐らく題名をみただけで
何のテーマか、もうお分かりでしょう。

故・中川智正さんです。

題名と年月からは、もうわかる人にはわかるでしょう。
この日は、中川智正被告の初公判の日でした。
傍聴希望者が4158人という過去最高を記録しました。

その日の毎日新聞に、中川智正被告のお母様がインタビューに答えている記事がありました。
このお母様、きちんとマスコミに向き合うところがすごい強い方。
息子がオウム真理教に出家してから
「オウム真理教被害者の会」にも入り、永岡会長とともに活動されておられた方。

中川智正さんのお母様は、他のオウム関連死刑囚にも
立派なお母さんだと言われていた(岡崎一明さんとか)。
おそらく中川智正さんとしては頭が上がらない人だったのではないか・・・。

このお母様が、中川智正被告と7年ぶりに再会したのは
中川智正が逮捕されてから5日後、5月22日のことでした。



「どんな顔をして会おう。何を話せばいいの」と戸惑いながら
息子がいる警察署に意を決して会いに行かれました。

以下記事を引用
———————————–
接見室のドアが開き、息子も困ったように入ってきた。
瞬間目が合い、涙があふれた。
息子も涙がほおからあごを伝い、ぽたぽたと落ちた。
互いに言葉は出ない。
「この子はまだ大丈夫。私の顔を見て泣けるんだ」
と母は思った。
息子はよほど照れくさかったのか
「タオル、タオル」と立会いの警官に声を掛けた。
一息ついて話しだした。
遠いところをありがとう。
僕がこうなったことを
世間では『親の育て方が悪い』というかもしれないけれど
これは全部、僕のせいなんだ

母が、弁護士を頼むつもりだ、というと
「僕は出家して、いったん親子の縁を切った。
都合のいいときだけ甘えることはできない」と断った。
「一緒の家族なんだから。そんなこと言わなくてもいいんだよ」
母は優しく言った。
親子の縁は簡単に切れるもんじゃない。
オウムに切られてたまるか・・・。
そう思い詰めていたと、母は振り返る。
「そこまで言ってくれるのですか。ありがとう」
息子も応じた。
息子の口から「脱会する」という言葉が出た。
分厚い強化ガラスに遮られていても、
息子は「母の情」に閉ざされた心を開き始めたのか。
「やっと家族に戻れた」と、母は実感した。
取り調べの捜査員からも
「お母さんにあってから(中川被告は)顔つきが穏やかになった」
と聞いた。
だが、面会を重ねる中で母は息子の
「妙に冷静な態度」
が気になっている。
麻原被告への怒りや憎しみは口にしない。
「麻原ってひどいヤツよね」と水を向けても
息子は反論も同意もしない。聞き流しているようにも見える。
「まだ麻原のマインドコントロールが解けていないのでは」
息子から麻原被告を非難する言葉を聞くまで
母は決して気が休まらない。
「多くの人の命を奪った。
麻原の洗脳を脱して、そのことを本当に恐れおののいてほしい。
心から謝罪して・・・」
小柄な母は、小さな肩を震わせる。
次第に声は細った。
逮捕後、医師免許を返上し、卒業した学校の名簿からも名前の削除を求めた中川被告。
早い段階から一連の事件の核心を供述したとされ
周辺にも極刑を覚悟していると漏らしている。
そうした突き詰めた気持ちが母との面会でも冷静さを保たせていたのだろうか。
でも私は思う。中川被告は悔いるなら、自ら関わった罪に正面から向き合い
苦しみぬいてほしい。犯した罪におののく姿を、さらけだしてほしい。
少なくとも母はそれを支えていく覚悟をしているのだから。
(社会部・東海林智)
——————————————————-
この記事、私は当時別の新聞で読んだかもと思いながら読んでみました。
そして、ブログでも少しずつ書いているけど
この時は、まだ中川智正さんは自分の罪とも病気にも向き合ってはいない。
これからあと、5年以上も事件について取り調べには答えるも、大切な部分で
沈黙を続けることになります。

しかし私は当時この記事を読んで、多分中川智正さんがすべて白状すれば
解決しそうではないか・・・と思いながら
いつしか忘れてしまっていました。
本当に中川智正さんが罪に直面するときには、傍聴希望者が2桁に減った頃
つまり世間がオウム真理教を忘れた頃だったころなのか・・・と。

林郁夫さんや井上嘉浩さん、広瀬健一さん、豊田亨さんは
わりと早くに教祖との縁を切っていたので
この人もきっとそうなんだろうなーーーと思いつつ
そうではなかったのだと、調べれば調べるほど深みにはまってしまう・・・。

と、いうわけで、私もネタが尽きるまでは
しばらくはこの人を追っていきたいと思います。
(もちろん、気が向いたら、従来のエントリーを続けたいと
思っています)
いやいや、Twitterで出会う方々の熱意に私も影響されています。
おそらく中川智正さんネタで何か書きたいという方のために
お役にたてることが小さくてもあるなら
きちんとした資料を提供させていただきたいと思います。
早速ですが、今日は

〇中川智正さんは、自身のことを「」と言っています。
〇これ、裁判中もです
なので、何か書かれるときは、「僕」と使ってみてください!
反対に、井上嘉浩さん、土谷正実さんは「俺」じゃないかなーと勝手に思っていますが
どうなんでしょうか。

【中川智正氏も拘置所で読んだ】アンソニー・トゥ著『毒蛇の博物誌』

私は、アンソニー・トゥ博士が毒ヘビの研究者であることは中川智正関連で
初めて知りました。
もともとはトゥ博士は、海ヘビとガラガラ蛇の研究者だったということです。

中川智正さんは、アンソニー・トゥ博士と初めて面会したあとに
さっそく拘置所の中から、こちらの本を
取り寄せて読まれています。

中川智正さんの感想は以下の通り。(2012年5月7日付)
(前略)
「毒蛇の博物誌」古本を入手して読みました。
Tu先生ではないと書けない御自身の体験が書いてあって非常に面白かったです。
私は蛇は好きではありませんけど
蛇のことを本で読むのは好きです。
海蛇などの海のハチュウ類は、どれぐらい潜れるのだろうというのは
前から思っておりました。
3時間以上ということが分かって良かったです。
肺の一つが大きくなっているとのことですが、
酸素のため以外に、浮き袋の役割も大きくなった肺がしているのではないかと
思いました。
水中の生物は浮力を得るためにさまざまな適応をしていると聞いたことがあります。
それらから、釈迦に説法ですが、最近ではヤマカガシにも毒腺があるということに
なっているそうですね。
毒の強さはハブの10倍と聞きました。
めったに毒は注入されないけれど、注入された場合の死亡率は10%とか。
2004年の段階で、3例の死亡と30例の重症例の報告があるとのことでした。
(「内科学第9版」2007年 朝倉書店)
改めて調べて少し驚きました。
(後略)

手紙はこちらの書物で紹介されています。



※「サリン事件」では中川智正さんの手紙全文が公開されていますが、対話本では
省略されています。

では、このアンソニー・トゥ博士は、海へびをどのように研究してきたのでしょう。

直接、フィリピンの「ガト島」に、雇ったフィリピン人の漁夫10人と助手とともに
小さなモーター船で行ってしまうとか。
もう、勇者としかいいようがないです。

「水は透き通って汚染がなく、2、30メートルの深さでも海底が透き通って見え
すごくきれいである。船が島に近づくと、体長2メートルくらいのすごく大きい海蛇
エラブウナギが船の横の水面にニューと首を出し、
お前たちは何をしにきたのだと言わんばかりである。
カメラを取り出して写真を撮ろうとすると
さっと碧い海の中に消えてしまう。
その動作の敏捷なること、とても写真をとるどころではない。
水が非常に透き通っているので、何匹の海蛇が海中で乱舞しているのがよく見える」



黄色い腹の海蛇

(アンソニー・トゥ博士『毒蛇の博物誌』掲載の写真より)

「ガト島は周りが絶壁なので、
船を横づけて縄を外側に飛び出した岩に巻きつける。

付近の海に海蛇が十数匹もたむろして、水面から首を
あるものは10センチ、あるものは20センチくらい突き出して
ヒューヒューと呼吸する音が聞こえる。

助手のポールに、ほら穴の中に入って写真と映画を撮影しようというと
「私は怖いですから先生の後についていきます」という。

だらしのない奴だと腹が立つが、戦場で突撃の時は
指揮官が率先して先に行くのはこのことかと思ったりする。

それについて、この間アメリカ海軍省を訪ねた時の話を思い出す。
ベトナムで米軍の兵隊たちが浜辺に上陸しようとした時のことである。
舟艇の指揮官が皆降りて水の中を歩いて上陸しろと命じた。
船のまわりに海蛇がたくさん泳ぎ回っているので、さすが勇猛なG・Iでも
誰も水の中に飛び降りない。
上官が先に降りるなら皆後にくっついていくという。
泳いでいる海蛇を見ると、命令を下した上官もしり込みして
とうとう上陸はとりやめになった、と海軍省の方が
笑いながら話してくれたことがある。

島に上陸したアンソニー・トゥ博士とその一行は、
たった二時間で
八〇〇匹の海蛇を捕まえ、船に満載して漁村に帰ろうとしたら、
数匹が袋から抜け出して船の中をはいまわり、
実は怖くて身動きできなかった・・・・とか。

フィリピンのガト島ってどのへんだろう?

よくわからなかった・・・。
セブ島の近くなのかしら?

だとしたら、大東亜戦争の時、陸軍の第102師団がいたあたり?
海軍の人たちはどの程度しっていたのだろう。

そもそも日本は、フィリピンを攻略しながら、
フィリピンの島について理解がなかったのだから。

山下奉文大将が第14方面軍司令官としてフィリピンに赴任するときに
大本営との打ち合わせで「比島には、島がいくつあるのか?」と質問を
しています。
山下さんとしては、比島には6000以上の島々があるので
通信のやり取りなどどうするの?と聞きたかったのだけど。
大本営にうまくはぐらかされてしまったのでした。

山下奉文大将に見込まれて、スマトラの近衛第二師団長から
第14方面軍参謀長として赴任した武藤章中将は最初の参謀からの報告をうけて
レイテ島ってどこ?」というぐらいの認識でした。

大東亜戦争当時、ウミヘビにやられた将兵もいたかもしれませんが・・・。
その情報がわからないので知っている方教えてください。

アメリカ海軍省の方が、ウミヘビ研究できるだけの環境やゆとりが
あったのだろうと、悔しいけど思います。

アンソニー・トゥ博士のこの本は
小さい本ながら、蛇嫌いな人でも楽しめる蛇の話がいっぱいあります。

例えば、アメリカ南部のある州では
閉店後の泥棒を防ぐために、ガラガラヘビをガードマンとして
使っているところがあるという話。
「この店はガラガラヘビによってパトロールされています」という警告があるのだとか。
その看板はあるのか?
今のところは私は見つけられていません。
あったら教えてください!

アンソニー・トゥ博士のヘビへの愛情は大変深いです。
ガラガラヘビがハイウェイでとぐろを巻いているのをみて
ガラガラヘビよ、君にも幸あれ!」と心の中で祈って通り過ぎるのだとか。
アンソニー・トゥ博士は、毒ヘビ愛玩者の中でもよく知られているのだとか。
愛玩している毒ヘビにかまれたとき、飼い主から相談を受けたことがあったとか。

「なんていうのか、中川にはなんかあるな~」

昨日のエントリーの続きです。

題名は、この書物の290頁から取りました。



この言葉は、東京拘置所内にて、中川智正氏を変わらず「ケツ」と呼ぶ親友に同行した
NHKディレクターが、中川智正本人から聞いたエピソードです。

「あるとき取調官に麻原氏の写真を見せられて
『光っているか?』と聞かれたことがあった。
写真をみて光るのか、想起するから光るのか分からないが
目の前が明るくなったので、正直にそう言った。
だから、向こうは接触しにくかったと思う。
ただ、段々付き合っていくうちに、取調官は
『なんていうのか、中川にはなんかあるな~』と思ってくれたようだった。
それは検事もそうだった。
裁判長も弁護士に、『嘘をついているわけではない、彼はなんですか?」と言っていた。
・・・だけど一審のときは、それが解離性精神障害だとは、僕も分かっていなかった」

解離性精神障害とは、精神疾患の分類のひとつで、
自分が自分であるという感覚が失われている状態。
ある時期の記憶が全くなかったり、いつの間にか自分の知らない場所にいるなどが
日常的に起こり、生活上での様々な支障をきたしている状態を指すと言われるものです。

中川被告時代の控訴審(初公判2006年3月1日、2007年7月13日判決)について
控訴審の中川弁護団は、まず、中川智正の神秘体験について理解がなく、宗教精神医学の
知識が不足しており、中川から十分な供述を引き出すことが出来ず、関係者の証言を得ることが
出来なかった、ということです。

そこで、登場するのが佐々木雄司医師(1932年-2017年)です。
佐々木医師は、青年時代にはシャマニズム研究に没頭。
学位論文『我国における巫者(shaman)』(『精神神経学雑誌』1967年5月)で国際的に評価を受け
今でも有効性を維持しているのと、地域や職場のメンタルヘルスの開拓者でもありました。

佐々木雄司医師について、中川智正氏は『ジャム・セッション』2013年6月号 で次のように書いています。
※以下、『ジャム・セッション』という雑誌を引用箇所ありますが、
読みたい方は、直接「ジャム・セッション 中川智正」で検索していってみてください。

「佐々木先生は、私のような事例の専門家で、同様な事例を収集、研究なさっていました。
先生によると、私の当時の「体験」は、激しい部類に入り、
精神科治療、あるいは「カミ(神)の道」の二つしかありえないとのことでした。

佐々木先生は、自然科学者としてのスタンスを保ちつつ、宗教学や文化人類学の知見や手法を
精神医学の研究や臨床に取り入れていらっしゃったのです。

先生との面会は気持ちが落ち着くものでした。
(中略)
私にとっては、自分の状態が学問の対象になっていると知ったことが
非常に大きかったのです。


とあるように、前回エントリーで裁判所中が荒唐無稽としか受け取られかねない中川智正の神秘体験を
重視すべきとの考えが取り入れられ、中川智正の深刻な状況が解明され始めました。
一例として、「麻原の想念が入ってくる」現象が
中川智正自身の生命をも危うくした事実が語られました。

参考文献はこちら


例えば、1990年のボツリヌス菌培養のとき、麻原などが、ボツリヌス菌に侵されないように
馬血清を打とうという事になり、中川智正は自ら点滴で馬血清を打ちました。
たちまち全身に発疹が出て息苦しくなったため
中川智正は麻原に医学的説明を行い、点滴を止める許可を求めました。
麻原は中川智正の頭頂に手を置き、点滴を続けよといいました。
すると麻原の意識が中川智正に入り込み、医者としての知識が失せ
全身がぼこぼこに晴れ、呼吸困難になった」とのことでした。
こんな状態の中で、中川智正はまだ麻原のエネルギーをもらいに行ったとのことでした。
このエピソードは、佐々木医師によると
中川智正は医師とは思えぬ自殺行為的暴挙を行い、麻原の言語に絶する壮絶な影響下にあったかを
示してあまりある
」との評価でした。

このような佐々木医師の知見を採り入れた弁護団は、
当時の中川智正の責任能力がないか著しく減弱していたと死刑の破棄を要求しました。
これに対し検察側は、解離性精神障害や神秘体験を全面否定はしなかったけれど、
各事件の刑事責任に疑問を生じさせるものでないとして
死刑の宣告を下しました。

それでも、中川智正氏としては、佐々木医師に恵まれ、
弁護団や検事が「中川にはなんかあるな~」と受け止めてくれようとしていることが
救いだったのかもしれません。

中川智正氏が処刑される前年に、この佐々木雄司医師は亡くなられました。

佐々木医師について、中川智正氏自身も最後の『ジャム・セッション』12号 2018年1月に
次のように書かれています。

佐々木先生は、私のように科学の空白の世界に迷い込んだ者をたくさん診察されました。
そして、とにかく話を聞いてくれました。
ただし、ある種不思議な出来事がどうして起こるのかを
先生は考えないのです。
聞いても答えてくれませんでした。
そして、先生は発言内容を肯定も否定もせず
記録されるのです。
簡単に書きましたが、これは奇跡的な技術です

(中略)
佐々木先生には、悪名高い私の他にも
たくさんの患者たちが感謝していることと思います。」

佐々木雄司先生のような精神科医に巡り合えた
中川智正氏は恵まれていると思いました。

精神疾患を患った者の中で、精神科医に恵まれているといえる人は
実は少ないと思います。
患者が多すぎるのかどうか、「カップラーメン状態(3分治療)」で投薬
これで終わりという人も多くいます。

これからもまだまだ、精神疾患は増加していくでしょう。
そんななかで、この1年の間に、佐々木医師と中川智正氏両方が故人となってしまったのは
残念でなりません。

最後に、『ジャム・セッション』7号 2015年6月号にある
中川智正氏のこの言葉を書いて、両人の冥福をお祈りいたします。

イスラム国に参加してしまっては、自らの意思に基づく活動をするのは不可能と思います。
私の経験や、精神科医の佐々木雄司先生から
伺ったお話からすると
イスラム国に限らずあのような組織に何か説明できない魅力を感ずる人がいるとすれば、
その人は身を投ずる前に一度、その組織からの
距離を取ってみることです。
十分な時間をかけるべきです。
周囲はその手伝いをすれば良いと思います。
強く説得するだけでは話がすれ違うだけで
良い結果にはならない気がします。

故・中川智正氏の神秘体験

中川智正氏の最期については、人の手を借りずに自分で歩いて刑場に向かうなど
立派なものだったと言われています。
そして、wikiを見るに、
ますます、「なぜ善良で、医学を志した、能力の高い者がカルトに走ったのか」
と疑問を持つ人が多いと思います。
私も中川智正氏の行動については、まったく理解できていません

私個人は、中川智正氏が「法皇内庁長官」という立場であったことは当時から知っていました。
(フライデーかなんかでオウム特集号があってその表をみながら報道を見ていました)

しかし、当初オウム真理教関連裁判で目立った被告といえば、教祖を除けば
林郁夫受刑者と、故井上嘉浩さんだと思います。

中川智正氏については、「なんとなく」逮捕されたんだろうぐらいにしか知らなかったです。
むしろ、確定死刑囚として金正男殺害事件のことで意見を述べた人というので思い出した部分が
あります。

中川智正氏が裁判で目立たなかったのは、
マスメディアのオウム報道が少なくなってから語りだしたということがあります。
当初は黙秘をしていたのが、
2001年ぐらいからようやく口を開くようになったけれど
裁判所全体がその内容を全く理解できないということが多かったらしいとしか
言いようがないとのことです。

以下、藤田庄一氏「ルポ 彼はなぜ凶悪犯罪を実行したのか
 ーーーオウム真理教・中川智正被告裁判」(『世界』2004.4)

藤田庄一氏『宗教事件の裏側ー精神を呪縛される人々』2008を参考に、概略を説明したいと思います。


中川智正氏の幼少期からの友人の話、および最後の中川智正氏のぼやきは、こちら


中川智正氏はなぜオウム真理教に入り、凶悪犯罪に手を染めたのか?
藤田庄一氏は、2002年になって基本的に氷解したと言われています。
「巫病(ふびょう)」
私はそう言われても、まったく理解できなかったです。
過労から精神疾患かとは思っていましたが、それよりも重いものらしいです。

中川智正氏の供述内容というのが、入信前後の神秘体験になると
普通の弁護士、検察、法廷傍聴人すべてが理解できないという事態となってしまったようです。

「神に従わない限り、心身の異常が持続する。通常の生活が送れない。精神病とは
診断されにくい現象」とのことらしいです。

供述には、医師国家試験受験頃にオウム真理教の演奏会に行ったあとの
パニック状態が数日続いたとのこと。

「夕刻、黙想中に尾骶骨付近が白く光り始め、光が胸のあたりまで昇ってきた。
光はそこで急激に明るくなり、見るに耐えず目を開けると、真っ白い光は胸付近にあった。
すると昇ってこいと、心臓から男の声がし、光が上昇した。
目のあたりに近づくと、またあの声がした。
「お前はこのために生まれてきた」
なぜこんなことが自分の身におこるのか。茫然とするばかりであった。
オウム真理教には関係がある。しかし入信する気がない。
「パニックでした」

医師国家試験に受かり、医師となろうとしている中川智正氏は、
自分でもどうにかしたくて、光や過去世が見えたり、声が聞こえたりするのは
側頭てんかんや側頭に腫瘍が生じた場合だった、そういう病気と思いたかった。
そんな時に、先輩の脳神経外科医に診てもらったが「異常なし」。
脳腫瘍では手術でなおるが、不治の精神病であれば自分の人生どうなるのか。

中川智正氏は、家族や友人に自分の神秘経験を懸命に話した。
家族とは、双方怒鳴りあい、泣きながら混乱するばかり。
まったく自分の辛さをわかってくれない。
お母様は「気が違ってしまったのか。なにもかもがおかしい。
元の息子ではなくなった気がした」とのこと。
ご両親とは、普通に話す間柄だからこそ真剣に話しているのだけど
神秘体験を話しても理解されない・・・。
本人も辛いだろうけど、お母様としても何をどうしたらいいのか
まったくわからない状態だったらしいです。

幼稚園から中学校まで一緒の親友に、神秘体験や空中浮揚までしてみせた
ことがありました。
親友は、
ただの床はね状態にしか見えないですが、本人が
超真面目にやっているので、その姿が怖かった。
『もうわかったからやめてくれ!』
彼の肩を押さえて床に押し付けた行動にでました

もう半狂乱・・・半狂乱とは言いませんけど、半分泣いたような状態で
ここまで追い込まれているんだというのを全身から臭わせていました。
その姿を含めて、何とかならんもんかと。

ケツ(中川智正氏のあだな。丸っこい体つき、お尻の様子からそう呼んでいたらしい
→本人はそれで返事しているので嫌ではなかったらしい)には、アドバイスしたものの
彼は医者ですので
そんなことすべて調べた。でも原因がわからんのだ」と言われてしまいました。

こうして家族も親友も止められず、彼女もまたオウム真理教側から
「中川がぐずぐずしているから出家して」と言われてしまい
中川さんとともに病院を辞め(彼女は看護師)、出家してしまいました。

(彼女が出家したときのことが記されたブログ→http://aonumazezehihi.blog.fc2.com/blog-entry-56.html )
こちらは、彼女が出家したときのことが書かれていますが、中川智正本人よりも悲壮感がありません。
おそらくですが、彼女も交際中の中川智正氏が半狂乱状態で親や親友相手にバトルをしていたとは
知らないで出家してしまったように思えます。

ちなみに中川智正氏の最初の弁護人はお父様が金銭的に工面して資金を出して雇いましたが、
同じく逮捕された彼女の事件までも担当したようです。
費用は中川家持ち。
彼女は無事に釈放されて今は一般人として生活していることに
中川智正氏は涙を流したそうです。

話を中川智正に戻して・・・。
研修医になりたてで、たくさん勉強をしなければならないときに
仕事も勉強もおろそかになってしまいました。
そんな困憊状態の中川智正が回復できる唯一の場所がオウム真理教でした。

中川智正は麻原のシャクティーパット(手かざしのような)を受けると病院で悪くなった体調が
スーーーと抜けていく感覚があったとのことです。
それでいよいよ麻原を畏怖するようになりました。

自分は医師として患者に触れるだけでこんなに苦しい思いをしているのに、
麻原氏は信徒100人にいっぺんにエネルギーを注入できる。
このメカニズムや精神力はどういうものだのか。

突然に大氷山がそびえているのに出くわした気持ちだったとのこと。
一方で研修医としての中川智正は、身体が動かなくなり、消えてなくなりたい気持ちだった。
病院勤務どころか、医者を続けることも無理、もはや出家しかないと思い詰めました。
そんなときに、ついに手術中に棒が倒れるように転倒してしまいました。
上司の医師は、数日休むよう指示。精神科医を紹介してもくれたけど、
いざ中川智正が精神科医を前に体験を伝えようとすると、またもパニックが襲ってくる。
勤務を続けることは絶望的でした。

「結局私は、入信から出家までの一年半、もがいてももがいても現実生活を抱きしめてつかまっていた。
それを引きはがすように、何をしようと自分の内的体験が続き身体・精神的に影響が続き、抵抗できなくなった」
これは証言時(2002年1月15日)の見解と断りながらそう証言台で供述し、
ハァーと大きなため息をつきました

他の信徒が、解脱や悟りを目指して出家したのに比べ、中川智正の場合は、絶望感からの出家というものでした。
その後二か月して、「坂本堤一家弁護士殺害事件」に加わり殺人犯となります。
そのことについて

「たくさん理由はある。やっぱり麻原氏に言われたから。当時麻原氏の前世からの弟子とわかり
いう事を全部聞かなきゃいけないと思っていた。非常に勢いというか、麻原の言葉が心の中にすごく重く響いた。
言われると否定できない。

なお、この時の中川は、プルシャを現場に落としてしまい、村井秀夫によって
「ポアの間」に二週間入れられた。
そのポアの間に入っている時、麻原が入ってきて
「(プルシャは)いいよ、気にするな、中川君も緊張していたんだろ」と言われて
泣き崩れてしまった。
なお、2002年の段階で中川智正氏は「麻原の精神操作の一環」と見ている。
このポアの間の体験により、麻原への霊的隷属は無限の深みにはまっていきました。
世間にはわかりやすい「殺人をしてしまったから抜けられない」のではなく、
殺人をするほど自分は麻原氏の世界にはまり込んでしまった」と自己分析。

光っている麻原を見、そばにいると喜びが湧いてくる霊的隷属の中で中川は次々と犯罪を重ね、
麻原の指示があれば、そのとたんに抵抗感があったにしても消えた。
麻原の身体、手足となって動いてしまい判断力も倫理観も失っていきました。
これを中川は「無力感、他動感」と表現しています。

裁判中に
あったまま、お話します
理解していただけないと思いますが」と何度も口にしていました。

前回エントリーで、滝本太郎弁護士のHPから拾った林泰男死刑囚のエピソードで
中川智正が「これ以上悪業を積みたくない」と逮捕前に泣いたのがありました。

私はこれを誤って解釈していました。

私は、中川智正が泣き崩れ、もうどうでもいいと放心状態で杉並付近をふらついて逮捕されたのだ
と思い、林泰男からみれば、中川智正の弱気と見ていたのではという見方でした。
そうではありません。

むしろ中川智正のもつ狂気の部分だったのです。

中川智正が泣いて「悪業を積みたくない」と震えて怯えたあと、
平田悟元信者が中川に対し「尊師を意識して!」と元気づけるや
彼は突然、「これから頑張る」と元気になったとか。
その急変さが尋常ではなく
恐ろしい感じがした。豹変ぶりは。
一瞬のうちに別の人格に変わってしまったようでした。
これまで長く話して心を見せあっていたのに
中川さんの中に麻原が、怪物か魔物のように取り憑いているのをみて怖い感じがしました。
」と

林泰男死刑囚は、そんな中川を見たのはこの時が初めてだったのですが、
「法皇内庁」内での中川の部下女性信者は
麻原と中川がダブって、どこからどこまでが中川さんなのかわからず不気味でした」と。
もう一人の部下は中川裁判にて、中川の強い印象として
「彼に他人の状態が移ってよく体調を崩してました」
「顔がむくみ、鼻をグズグズさせ、顔色がわるい」
それでも麻原と会い、部屋からでてくると回復して調子が良くなっていることが
何回もありました、と答えています。

裁判においてこの神秘体験はどう対処されたのでしょうか。
嘘・不合理に満ちている」と一刀両断に切って捨てました。
まことに都合のよいエピソード」で「珍妙な主張」で責任を回避しようとしている、と。
地下鉄サリン事件に至っては、「麻原の側近中の側近として地位を確立するための打算と推認し
身勝手極まりないもので言語道断」と死刑を求刑しました。

ああ、またまた長くなってしまいました。
佐々木雄司先生との出会いも書きたかったけれど、これもまたエントリーを改めたほうがいいかもしれません。

最後に2011年頃の中川智正氏が、NHKディレクターに話した「ぼやき」を紹介します。

すべてを裁判で解明するのは無理ですよ。システム的に。あそこでは麻原氏は犯罪者でしかない。
極めて優秀な面があったことは問題にされない。そういうといまだに帰依しているということになる。
ああいう人物が出た時にどう対処したらいいのか、わかっていない。
結局自分がバカでしたとしか言えない。それでは話にならない

故・中川智正氏、被告時代の苦悩(その2)

中川智正さん自身が被告時代、どのように裁判を受けていたのだろう・・・。

とりあえずは手に入りそうな本を探したところ、Amazon でこの本を見つけました。

オウム裁判傍笑記 青沼陽一郎

私が見た21の死刑判決 (文春新書) 青沼陽一郎



上の本では中川智正裁判関連よりも、元教祖の裁判中の態度について
当時新聞では知りえなかった内容が書かれています。
もしかしたら、オウム裁判傍笑記の書籍よりも、ほぼ同内容のYoutubeがあるので
そちらを見る方がお金がかからないでしょう。
3本目の動画には、早川喜代秀さんが教祖の命令により女装して普通列車で熊本から仙台まで
逃亡した話があります。不謹慎ながら電車の中でこの箇所を読み、涙を流して笑ってしまいました。
面白い話をありがとうございます。
女装組には、村井秀夫もいたことになります。









ただし動画中には、中川智正、土谷正実はあまり出てきていません。

そこで、下の「私が見た21の死刑判決 (文春新書) 青沼陽一郎」

それによると、中川智正は、裁判に臨んで、事件の事実関係について証言することをずっと拒んでいたと。
教祖はもとより、誰の公判に呼び出されても、一切を黙秘して語ろうとはしなかったらしいです。
しかし、いっしょにサリン生成中に事故で死にかけた土谷正実とは仲がよかったらしく
互いの法廷に証人として呼び出されていくと
満面の笑みで無言のうちに再会を喜んでいた
でもふたりは事件について一切を語らなかったと。

そんなある日中川の法廷に一人の弁護士が証人として出廷しました。
その弁護士は、滝本太郎さんでした。
これで有名かと思います。



空中浮揚をされた方です。

淡々とした裁判が終わろうとしたところ
滝本太郎弁護士は
「あ、あの!被害感情は聞かないんですか」
一瞬にして、傍聴席からドッと笑いが起きました。
滝本太郎弁護士もまたサリンの被害を受けているということを法廷中の誰もが
忘れていました。
「裁判所にも聞いてほしいことがあるのですが」
それを見て、証言を引き取ったのは、中川の弁護人だった。
中川の背後から立ち上がって、「それじゃあ、どうぞ」と反対尋問の延長として促しました。
滝本太郎弁護士は、それからおもむろにズボンのポケットからメモを取り出し、それを証言台の前に開いておいて
静かに語り始めました。

それ以下のことは、こちらのサイトに詳しいです。
http://www.cnet-sc.ne.jp/canarium/siryou1.html#資料1
滝本太郎弁護士関連資料サイトらしいですが
このサイト内のエピソードで、中川智正さんが逮捕2日前ぐらいに
杉並・永福町のアジトにて林泰男さん(この人も確定死刑囚)の前で
耐えられない。これ以上悪業を積みたくない」と泣いていたというのは初めて知りました。
中川智正が逮捕されたのは杉並の路上ということだから、泣き続け、放心状態になって
路上をふらついていたところだったのかとも思いました。
ここからは章姫の想像ですが、中川智正さんは逮捕されて、「ほっと」したのではないかとも
思いますが、その後の法廷で4年沈黙を続けられたのは、私には理解できない部分です。
—————————————————————–

「結論から言うと、中川智正被告について、厳正な処罰を望みます。
しかし、死刑にはしないよう、強く望みます。

 理由は少し長くなります。
 私は、元々死刑廃止論者ではありません。
むしろ何人かを残虐に殺したとき、原則として死刑にすべきものと思っています。
中川被告は極悪非道の行為をした。
浜口さん殺人事件、假谷さん事件、多くの殺人未遂事件、松本サリン、地下鉄サリン
そして八九年の坂本一家殺人事件。あなたは多くの人を殺した。多くの人を苦しませた。
松本サリンで殺された七人、地下鉄サリンで殺された一二人、一人ひとりの人生があった。
あなたはその命を奪い、多くの人を苦しめてきた、今も二人の人が重態のままです。
しかも、私の事件での一件記録からも明らかなとおり、あなたはいわば遊び半分で事件を起こしたこともあります。

 あなたの手をみせて下さい。あなたはその手で多くの犯罪を犯した。
あなたは、一九八九年十一月四日未明、その手で坂本龍彦ちゃんの鼻をふさいで殺した。 
龍ぼう おばあちゃんがお歌をうたってあげるね 
トンボのメガネは水色メガネ 
青い空をみてたから 
みてたから 
もう一つね 
メェーメェー 
森の仔山羊 森の仔山羊 
仔山羊走れば小石にあたる 
あたりゃあんよがあーいたい 
そこで仔山羊はメェーと鳴く 
龍ぼう 元気で早く帰っておいで 
おばあちゃんがだっこして 
又、何回でも何回でも 君の大好きなこの歌 うたってあげるから

 あなたはなぜ坂本堤を殺したんですか。なぜああも簡単に殺したんですか。
坂本は、池で溺れているあなたたちを助けたいと活動していたのです。
なぜ都子さんを殺したんですか。なぜその手で龍彦ちゃんを殺したんですか。
なぜサリンまで作ったのですか。
 私はあなたをほんの少しも許しません。
現世だけではなく、もし来世というものがあるなら、あなたの来世でも、そのまた来世でも許さない。
オウムでいうならば、何カルパでも、何万カルパでもあなたを許しません。

 でもそれでも、私はあなたを死刑にしたいとは思わない。
オウム真理教を知れば知るほど、そのマインド・コントロールと洗脳の実態を知れば知るほど、あなたを死刑にしたくはない。
 オウム真理教は強烈な破壊的カルトでした。
破壊的カルトとは
「教祖または特定の主義主張に絶対的に服従させるべく、
メンバーの思考能力を停止ないし著しく減退させ、
目的のためには違法行為も繰り返してする集団」を言うと思います。
 思考力を停止させるために使われたのは、マインド・コントロールと洗脳です。
マインド・コントロールとは
「対象者の思考能力を減退させるべく集積されシステム化された意識・思想・感情の操作手法の総体のうち洗脳を除いたもの」
を言うと思います。
 松本智津夫は、[豊かな社会」で生き甲斐と現実感を失った若者を引き付ける方法を知っていました。
 第1には、自分が絶対者だと称することです。
それも現世においてだけ絶対者であるというのではなく、
来世そのまた来世でも、それ以外のアストラル世界とかコーザル世界と言われる世界をも乗り越えた絶対者であり、
そんな「真理」を知る最終解脱者と称します。
通例の神という概念よりも、より高度な存在だと主張します。
この主張は、極めて魅力的なものです。
人は、支配されたい欲望、時にマゾヒスティックにまで絶対的に服従してしまいたいという欲望を特つものです。
この欲望を刺激されたとき、松本智津夫は強烈に魅力的な存在になります。
 第2には、様々なマインド・コントロールの手法を駆使します。
松本智津夫は極めて巧妙に、さまざまな手法を集積しシステム化してきました。
自己を権威化する手法、ダライラマや阿呆な知識人など外的な権威を利用し、賞賛手法、
赤ずきんテクニック、催眠・暗示テクニック、フットインザドアテクニック、ローボールテクニック、
人・物・時間の限定テクニック、
一本釣りテクニックを使い、報恩性の原理、同調性の原理を利用し、
ハルマゲドンや無間地獄などの強烈な恐怖説得、更に集団催眠の手法、秘密の共有という優越感の利用法、
そしてルビコンの川手法など使いました。
説明すれぱきりがありませんが、ここまでの手法が使われたとき、
どんな人が松本智津夫にはまってしまってもなんら不思議はありません。
 第3には、神秘体験という魅力あるフックがありました。
以前は、空気を大量に吸うことによるつまり、過換気症候群や、呼吸を止めることによる低酸素性脳症を狙って神秘体験をさせました。
勿論、監禁部屋に長くいれておいて変性した意識状態にさせ、神秘体験もさせました。
後にLSDや覚醒剤まで使用しました。
神秘な体験は脳生理学的には説明がつきますが、
体験をした本人にとっては、まさに「現実」であり、薬物と分かっている者であっても現世の方が「幻」になってしまいます。
その体験をさせてくれるのが、松本智津夫であり、彼が造ったシステムなのです。
 破壊的カルトにおいては、組織は教祖のおもいのままになります。
松本智津夫は、決して精神病者でも宗教家でもありません。
彼は、権力欲と社会への恨みと、強烈な破壊願望という煩悩に支配された人でした。
勿論誰でも、私も煩悩に悩まされる存在です。
私も、松本とともに輪廻の大海に浮沈する生き物です。
しかし、松本ほどに強烈な煩悩にさいなまれている人間はまずいませんでした。
ですから、彼がこの煩悩を実現するためにオウム真理教を作ったとき、行き着くところは見えていました。
タントラ・ヴァジラヤーナの思想は、松本の思想が凝縮されたものであり、信徒は彼の手足だったのです。
 そして中川被告のように幹部ともなれば、松本の破壊願望が伝染しているものであり、
二人組精神病の二人目と類似した状態になっていたと思います。
幹部は、いわば松本智津夫の手によって新しい人格をつけられ、
歪んだ自己実現をはかったということになると思います。
その結果、松本は、オウム真理教のメンバーの能力に応じて物理的に可能なことは、すべてできたのです。
言い替えれば、松本の代わりはいないが、中川被告の代わりは、いくらでもいたのです
 そんなあなたを、死刑にしたいとは思いません。たとえ本人が死刑を望んでも止めたいと思います。

 あなたとしては、今できることが2つあります。
1つはあなたの知る限りすべての真相を明らかにすることです。たとえ元の法友に迷惑をかけようと話す義務があります。
2つは、松本智津夫と自分自身について思索し尽くし、すべてを話すことです。
迷う時は迷うなりに、心の動きを正直にすべてメッセージにして下さい。
 その2つによって、今も残る「尊師には深い考えがある」と誤解している現役信徒の、
たとえ一人でも松本智津夫の桎梏から解き放つことができます。
殺された人、苦しんでいる被害者が、少しですけれど癒されます。
そしてこんな悲劇を二度と起こさない力になります。
あなたも一つの命を与えられた者として、その義務があります。
 それをしたときにのみ、あなたは、懺悔し、謝罪する資格があります。
つらいからといって話すことをやめてしまうとき、
あなたはざんげする資格も謝罪する資格もありません。
あなたは松本智津夫ではありません。あなたは、必ずや話してくれると思っています。
 以上の理由から、中川智正被告について、厳正な処罰を望みます。
しかし、死刑にはしないよう、たとえ本人が望んでも死刑にはしないよう強く望みます。』  

「手を出しなさい」と言われたときの中川智正は、自分の手を目で確認してから、少しおどけたように体の前に構えてみせたと。 
ぐっと顎を引いたまま、真っ赤な顔になっており、身の置きどころを失ってしまったらしいです。

これだけいわれても、この頃はまだ、話そうとはしなかったのでした。
この滝本太郎弁護士の語りは1997年頃。
さらに二年たっても相変わらず中川智正は、事件について語ることが
なかったのでした。
このころには、地下鉄サリン事件や坂本堤弁護士一家殺人事件の実行犯に、相次いで死刑求刑がでるように
なったこともあり、なぜか弁護側の立証に入ったときに
口を割らなかった中川智正が語り始めました。

「どうせ死刑だとあって、なげやりになっていたはずのあなたが、どうして
今ここで事実関係を話そうというつもりになったのですか」

「とりとめもない話です」と前置きしてから
「ひとつには今でも死刑になると思っているし、それは変わりありません。
そういう意味の責任から逃れる気もありません。
ー責任という言葉を使ってしまいましたが、それで責任がとれるとも思っていません。
私が死刑になった、だからといって何が変わるかといったら
なにも変わらない。
ご遺族、被害者、何も変わらない。
関係のないところで私が死んでいくだけのことです。
プラスになることでもなければ、私が死んでも、償いになることではないことが
少しずつ分かってきた。・・・」
そこへ、家族や友人から、きちんと話した方がいいというアドバイス、
あるいは法廷で証言する最後の機会がこの時であるという進言を弁護人から受けたことがあった、
と言ったそうです。
「それと・・・私事ではあるんですが、実は最近、親戚が増えたんです」
「・・・私は子供をつくれないけど、身内に子供を生んだものがいるんです。
その子は私が何をしたかを知らない。
おそらく一生会うことはないでしょう。
むしろ会わないほうがいい・・・。
だけど何十年か経って、身内の私のことを考えて
『この人はいったい何を考えてこんなことをしたのかな?』と理解されないのでは
残念な気がしたんです。
言っていること、わかってもらえます?
自分が死刑なるとわかってて、
人間の世界が終われば、別の世界に転生すればいいと思ってた。
でも私が居るいないに関係なく、
この世界は増えて、続いていくんだな。
きちんとしないといけないな、そう思ったんです。
あと、麻原氏の念というか、想念を感じることが一時あったが、
それがなくなった」

この頃に出版された書物がこちらですが
現在私が借りられる図書館では見つかりませんでした。
国立国会図書館しかない・・・。
文庫本なのに。
Amazonで見たら、7000円!
高い!
おそらく7月26日発売の「中川智正との対話」にあたり比べ読みで
目をつけている人が沢山いるという事かと思いました。


多分、中川智正さんだけは死刑ではなく無期懲役にしてほしいという人が多いのも
その後、彼が多く語るようになったからだと思います。
滝本太郎弁護士の言葉がどれほど響いたのかはわかりませんが

確定死刑囚になる前に、アンソニー・トゥ名誉教授と会いたいと申し出たのも
語るチャンスを失いたくないという強烈な思いに突き動かされたのか、とも
思いました。
この人からもっと多くの言葉が聞きたかったのに、死刑執行は残念でなりません。