大西瀧治郎中将の自決

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この画像は矢次一夫『東條英機とその時代』(1980年)より。

矢次一夫さんという方は、家出同然で上京し、一時北一輝さんのところに
身を寄せ、あるときは様々な労働運動にも加担し、なぜかそのうち軍部や政治家との
つながりを持つようになった、結構昭和史の中では珍しいタイプです。

一言でどういう方とは言えないけれど、
あらゆる関係の人たちと渡り合えたぐらいの「頭の良い」方だと
思っています。

この方は武藤章さんの戦後の悪評に対する弁護文を雑誌に掲載した初めての方ではないでしょうか。

この方は、いろんな人たちと関わってきたけれど、武藤章さんや大西滝治郎海軍中将といった方と
時には喧嘩にもなったけれど、最終的には大切な友達としてつき合っていたと思います。

武藤さんと大西さん、陸軍と海軍とでは違う事が多いかもしれないですが、
共通するところをあげるならば、「不器用。」というところでしょうか。

武藤さんのことを「不器用。」とはもしかしたら言えないかもしれないけれど、
武藤さんは、自分の考えが支持されていようとも(支那事変)、孤立無援になっても(大東亜戦争開戦時)
自分の言い分は正確に伝えようと努力していた人だと思います。
だからこそ、敵が多くて、苦労も多かったのだろうなと思います。

大西さんもまた、「不器用。」な方だったと思います。

本日は命日シリーズで行きたいのですが、この方の最期を
矢次一夫さんのこの著書から見ていきたいと思います。

停戦当時の大西中将は、フィリピンから呼び戻されて軍令部次長(海軍の作戦関係でのNo.2)でした。
大西中将は、徹底抗戦を主張していました。
大西中将は、海軍の航空分野育ちで、まだ大東亜戦争のはじめのころ

「緒戦の大勝は空軍の力であること。もはや大鑑巨砲主義は時代遅れであり、海底に沈没してしまった。

今の海軍省は、空軍省と改称し、水兵の帽子についているイカリのマークは鷲のマークに直せ!」といい、
「空軍の増産こそ必勝の策であり、大増産のためには製造中の六万トン級大戦艦を即刻取りやめ、
これを挙げて空軍増産に振り向けるとともに、戦時生産行政を徹底的に簡素化せよ。
わが海軍大臣から、総理大臣と各省大臣、及びこれらに付随して動き回る官僚は、
すべて書類ブローカーに過ぎぬ。
このブローカーどもを大整理し、工場の中に叩き込み、生産場と戦場を直結せよ!」

もしこのブローカーの人たちが、本当に工場に叩き込まれたら、体力的に持たず、
当時のDQNに「あいつインテリぶって」と言われて目を付けられていじめ抜かれ
痛いめにあっただろうなと勝手に想像してしまいます。

私もDQNな側面ありますので、御託を並べて「要するに〜」とかいって
自分の賢さを見せつけようとする人をいじめたくなる醜い心がありますから・・・。

そんな風に海軍部内からもひんしゅくを買っていても
笑い飛ばせる強さを持った方でした。

その方が、フィリピンに着任したときには、もう特攻隊を出撃させるという
命令案が届いており、彼は皮肉にも、自分の愛した航空で、もっとも不本意な形で
若者の命を奪う役目を引き受けたのでした。

特攻隊については、戦時中から批判がありました。

いろいろ、戦時中から批判する者も居たけれど、
実際に命令を出す立場の大西中将こそ、一番の反対者であり、苦悩の深さは
計り知れないものがあったはずです。

矢次さんが「フィリピンでの特攻隊の使い方は荒かったようだね。見ていて
絹ハンカチで雑巾がけしているような気がした」といったら、

「その程度の批判ではすまないだろう」とさびしそうに答えたといいます。

「俺なんぞ、いかに国家のためとか、敗けられぬと考えたにせよ、見事な
いい若者を殺して我ながら救われないね。無間地獄に落ちるさ」と。

大西中将は、8月に入ると、理屈ではなく本能で負けを受け容れたくないという気持ちから
陸軍の若手将校などと連絡をとろうとしたり、矢次さんにも
「いっしょに死んでくれ」とまでいうようになります。

しかし、68年前の本日が停戦日であったように、結果として
我が国は和平を受け容れました。

その時の大西中将は、執務室で呆然としていたようです。

矢次さんがそんな大西中将を執務室に訪問すると、

「両の拳をにぎり、血走ったような眼をして、何かをにらんでいるのだ。
何を怒り、何を悲しむかを忘れたるもののごとき彼の前に、私(矢次)は
「済んでしまったんだね」といったら

「うん」というだけでした。

その様子で、もはや大西中将はここで自決するのではないかと直感した矢次さんは
もう、とっさに

「そうか、済んでしまったのか、それじゃ仕方ない。どうだ、今夜僕の家で一杯飲もうか。
キミのような阿呆は、ここらで腹立ち紛れに腹でも切るのだろう。
慌て者だといって笑われるぜ」といったところ

「腹を切ったら阿呆だというのか!」

と凄い剣幕で睨みつけたと。

それでも矢次さんは慌てず、「今夜飲もうよ。家には酒がないからくる時頼む。待ってるよ」といったら

大西中将は、いきなり飛びかかって来て

「貴様!泣いた事ないのかっ!馬鹿野郎!!!!」といって、矢次さんの胸に顔を押し当てて
腸を振り絞るような声で慟哭されたという。

大西さんの慟哭シーンは本当にこちらまで想像してしまって苦しくなります・・・。
その後、矢次さんの家で飲み会をやったのですが、

そこに集う人は、「大西中将の生きながらのお通夜」ということで
精一杯、愉快に飲む事にしたということです。

その飲み会のあと、大西中将は割腹自殺をされました。
誰よりも苦しんで死ぬから、介錯は無用と宣言していた
その通りに・・・。

私はこの大西さんの話を知っていたので、
大西さんがフィリピンで他人事のように若者に特攻命令を出していた姿を批判できないどころか、
心の奥底でどんなに苦しみ続けたかを考えてしまい、辛い気持ちになります。

冒頭の書は、大西中将が、矢次一夫さんに宛てて書いた遺書ですが、

「御厚情の」の右に滲んだあとが見えます。
これは大西さんの涙のあとなのだそうです。

息絶えた大西さんの巨体を抱えて、粗末な棺桶に入れたのは
矢次さんたちだったということです。

「これでよし、百万年のかり寝かな」と、晩婚であった奥様に、
若い者が愛する妻と引き離されているのに自分が同居はできないと
都内勤務であっても奥様とは別居していた大西中将。

こんな言葉を最期に残しておられたのですね・・・。

山下将軍の対ドイツ観

これでブログ再開後3日連続で更新です。
なんだかとっても嬉しいです。゚ヽ(゚´Д`)ノ゚。 ヤッターン♪

昨日は武藤章将軍のことを書きましたが、
今日は山下将軍のことを書きたいと思います。

山下・武藤両将軍には共通点がたくさんあります。

●幼年学校から陸軍で育った
●陸軍大学校卒業時に「恩賜の軍刀組」(上位6位以内)
●ドイツ語が堪能で留学経験もある

などです。
それなら、山下将軍はドイツをどのように見ていたのでしょうか?
戦前の日本ならば、ドイツの力を過信したり、ドイツを見習え!で突っ走ろうとする人
(軍人を含む官僚に多かった)もいるなかで、

意外に冷静だったりします。

昭和14(1939)年。
「バスに乗り遅れるな!」のかけ声のなか
山下さんは、中将として一度だけ、中央の役職に任命されました。
航空総監という役職です。
これは、山下さんと同期の沢田茂参謀次長と、阿南惟幾陸軍次官(それぞれ当時)が
山下さんを中央に呼び戻そうとしたことによるらしいです。

この役職は、前任者が東條英機さんで、東條さんはどうも山下さんと不仲が噂されていたのか?
「なに?山下が後任か?」といったとか・・・。

それはさておき

この役職について、これから航空について学ぶと着任時に宣言してから半年たらずして
山下さんはドイツに派遣されました。
ドイツとイタリアの招待に応じるかたちで。

山下さんは実はかなーーーーり毒舌な方でした。
『東京朝日新聞』昭和15年2月21日号でのインタビューでは

「ドイツが英国を相手に現在のやうな底力を見せてゐるのは想像もできない。
ワシの滞獨中でもパンは鉋屑のやうにパリパリしとるし、コーヒーだつて
柳の葉つぱを煮出してサッカリンを入れたものだった

それでも誰も文句は言わない。
今に見ろ!といふ気持ちだ。現在の日本はどうだらう。互いにしっかりやらうではないか!」

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この写真の出典は

ヒトラーは山下さんに会った時、「日本陸軍に対して、ドイツ国防軍は秘密なし」といったが、
そんな言葉通りに受け止める山下さんではありませんでした。
「日本は日独伊三国同盟により、速やかに宣戦布告すべし」といったヒトラーに対して
明確に「ノー」と言っていたのです。

その理由は、「日本は支那事変が終結していないのと、対ソ関係があるが、それに対抗するためには
まず軍制改革が必要!英米と戦争できる余裕はない」と。
これは今読んでも、「まっとうだ」と思います。
軍政改革とは・・・。もっと陸海軍が一体化することを目指すべきということをいいたかったようです。
正直、当時の陸海軍は、組織としてしっくりいっていないことが多々あり、互いに組織の悪口を言い合っており、
さらには「陸軍のやつには娘を結婚させない」宣言をしていた人もいたぐらいです。

実のところは、山下将軍からみて、なぜ陸海軍は互いにまとまろうとしないのか?
それは・・・映画の主人公にもなったある悲劇の将軍の存在だったようです。
山下さんと同じような考え方をしている人が少数ながらいたであろうとは、
こちらの本にも記述があります。
大本営参謀の情報戦記―情報なき国家の悲劇 (文春文庫)

案外、世間ではヒーローと思われているひとが
大きな組織の中では「ちょっと・・・」と思われていることって
よくあることなんですねえーーー(この方のファンの人たち、申し訳ありません)。

世間の空気が、ドイツの勢いに便乗してイケイケドンドンだった時に、
ヒトラー相手にここまで交渉できた山下さんはすごいと思います。
(この山下さんたち一行の派遣とその成果については、批判的に評価している人もいます)

山下さん自身が、新聞のインタビューの時に、鉋屑のようなコーヒーといったりしている
あたりに、そんな「やみくもに海外を妄信してはならぬ」という気持ちがこもっているように
私には思えます。

武藤章軍務局長の政党論

武藤章中将といえば、特に陸軍省軍務局長時代の活躍で
戦前も、戦後もかれこれと批判されていた方だと思います。

そのような武藤章中将は、政党にどのようなことを期待していたのでしょうか?

以前のブログ記事にも少しだけ書きましたが

立憲民政党のような、わりと大きい野党は、政府や軍部の反対政党として
しっかりしてもらいたいという考えを持っていました。
最後まで、近衛文麿さんが党首である新党結成の望みを持ち続けました。

一国一党というものは、政党がないのと同じであって、必ず腐敗堕落するとの
見解をもっていました。」とは東京裁判の時の武藤さんの証言です。

さらに、ナチスのような内部裁判機構をもつ一国一党制を支持したこともありません。

それでもなぜか、戦後になると、かつて武藤さんが軍務局長時代にヨイショし、

彼の言動を利用していた政治屋さんほど、「武藤は陸軍部内で強力な発言力を持っていた。

ナチスドイツを熱烈に支持していた。その証拠に当時のドイツからも勲章を授与されている」とまで

言う人も。

結果として責任を取らなかったひとほど、死人に口なしをいい事に

無責任なことをいうのだなあと改めて感じさせられました。

日本がいろいろな面で危機的な状況であるからこそ、実は今こそ、武藤章軍務局長の当時の考え方を

見直してみることも必要ではないでしょうか。

話が変わりまして

下に掲載した史料は、武藤章中将が、東京裁判中、自分の弁護人コール氏に宛てた依頼状です。

国立国会図書館憲政資料室で見つけました。

初めて見たとき、武藤さんて何と美しい文字を書かれるのだろう!と

思ってしまいました。

武藤章中将依頼状(昭和22年3月31日)(国立国会図書館蔵)

 

ようやくブログの土台が出来ました

これまでは、ウェブリブログさんにお世話になっておりましたが、
ようやくWordPressに移行出来たようです。

とっても大変でした。
もうブログは無理かも〜と何度も思いました。

それでもWordPressというものを使いこなしたい。
WordPressなら、プロ・ブロガーさんから、企業のHPまでいろいろな方に愛用されているからです。
それに広告やデザインも自由というのがうれしい。

そういう思いで、出来ないなりにいろんな本を読みながら
自分の出来そうなやり方でここまできました。

まず、今回やったこと
ロリポップでサーバーを借りた
 これはネット上で「土地」を借りたということです。
 30GBもの場所が借りられました。
 半年で3000円ぐらい。
“tenhouin.net”のドメイン名を取得した
 ネット上の独自URLが持てるということです。いくらかやはりお金はかかりますが、安いです。
 ムームードメインから取得しました。(1年で380円です)
ブログのロゴを作った
 ロゴは「日本陸軍」を意識したものとして、五芒星が良いと思っていましたが、中々気に入ったものがないので、
 北の丸公園内にある近衛歩兵第二連隊記念碑の写真を撮り、それをPhotoshop CS6というソフトを使って
 切り抜いて加工しました。
近衛歩兵第二連隊記念碑
 こういう作業をサクサクできてしまうネット上の「職人さん」ってすごいなと思いました。

こんなところです。とりあえず。
仕事しながらの更新なので、無理せず、でもせっかく場所を借りたからには頑張って何かを書き続けたいと
思っております。
よろしくお願いします。