『世紀の遺書』との出会い

『世紀の遺書』とは、
昭和受難者の方々が残された遺書をそのまま編集し、掲載した書物です。

Amazonでも売られてますが、マーケットプレイスです。
高価な書物です。
古書店でもめったに見ることがないし、図書館にも所蔵されてない書物です。
たまに、倉庫の奥底にあったりするので、取り寄せてもらうのに時間がかかります。

昭和受難者とは、「戦争犯罪人」などと記されることもあります。
なので、この方々が何か犯罪を犯したのかと、
どうしても誰もがイメージしてしまうのではないでしょうか。

なので私自身は出来る限り、「昭和受難者」と記したいと思っています。
なぜなら、戦争裁判とは、戦勝国が敗戦国の軍人のある者を、事後法によって裁いた裁判であり、
戦勝国側の罪は問われることがなかったのですから。
おそらく停戦後、我が国において幸せにもご家族が無事復員され、
何とか生活基盤の立て直しにすぐ入れた人たちは、戦争裁判について知ることも少なかったのではないでしょうか。
東條大将たちの処刑報道については知っている程度で、まさか1,068名の方々が人間として最も苦しい立場に
置かれて苦しみ、最期は戦勝国側の手によって処刑されていたとまでは知るゆとりもなかったと思います。

GHQのプレス・コードの下で情報統制されていたのもあるでしょう。
いや、情報統制されていたとも気づかないまま、
生活再建に向かってまっしぐらだったのではないかなあと思います。
当事者ではなかったのですから。

私は、岩川隆さんのこの本の参考文献から辿り着きました。

何とか読みたいという思いから、神田神保町の古書店を回って
講談社から1984年に再刊されたものを発見し、3000円ぐらいで買いました。
さらに昭和28年の初版本は、後日、これまた神田は、文華堂書店(軍事系古書店)にて
6000円で買いました。
なので私は二冊もっていることになります。
もう15年ぐらいも前の事になりますが・・・。
私自身もこの本に出会ったことで、物の見方が変わりました。
私は歴史を学んできた者だけど、
印象にある歴史書は?と訊かれた時にどうしてもこの書物を挙げることが
できないことが多かったです。
私がヘタレなため、です。
こういう私ですから、この本を読んでいることをちらりと知人にもらしたところ
「やめなよーーー」と言われたり
「もっと明るくなるような本にしなよ」とか
「誤解されるよ」といわれて、
とりあえず、「空気を読んで」ました。

もちろん、この間、学校教育の場にも身を置いていた私ですが、
授業の中でも、この話を伝えたいという思いはありながら
あまり伝えることが出来なかったです。
本来、歴史を教えていた私だから、自分のことを話すときには欠かせないはずなのに
何だかそれを出せないようなものを感じていました。

その場を離れた今も、その気持ちは変わっていません。

むしろ今などは、わりと保守的な方々と交流をすることがありますが、
それでも簡単に受け流されるように正直感じていたのです。

「空気」の中では、左右どちらの考えであれ、
私のような者は自分の意見を言いにくいです。
「自分を抑えなさい」
そう、言われたこともあります。

人間の深い悲しみなど、重い話はタブーなのでしょうか。
何か「教訓」めいた物語にしないといけないのでしょうか。

風潮が15年前とは変わりつつある今も、私自身はこの『世紀の遺書』を
手放さず、いろんな人間の苦しみ、痛み、慟哭について学んで行きたいのです。
人間の根源、根本について自分なりに接するのに、この『世紀の遺書』は
いろんなことを、いろんなときに伝えてくれると信じてます。

前回のブログ記事で書いたチャンギー刑務所についても
この『世紀の遺書』を紐解いて、自分なりに学んでいっております。

チャンギー殉難者慰霊塔

先日の桜残る池上本門寺の中の「照栄院」の横の妙見坂を登ると

ありました。

チャンギ―慰霊碑

「チャンギー受難者慰霊塔」

この時はもう、慰霊祭が終わったあとだったのか
きれいなお花が手向けられていました。

しかし悲しいことに
関係者の方々にお目にかかることが出来ず
妙見堂を管理されている方にお願いして
お線香を手向けてきたところでした。
私がここに着いたのは午後1時過ぎだったのですが
それにしても、参列者もお坊さんもどこかに行かれてしまったらしい。

(照栄院ではリアルに初七日が行われていたようで、受付の方に問い合わせることもできない空気だった)

照栄院の横のこの坂をのぼった

妙見坂

妙見堂の慰霊塔付近がすべてだったようでした。

この慰霊祭の一週間前に
照栄院に電話を入れてみました。

「あ、あの・・・私は、ただチャンギー刑務所という場で心ならずも受難された方々に
本を読んで興味を持ったもので・・・」と聞いたところ
何と、田中日淳上人の娘さん(?)が対応してくださいました。

「最近は関係者も高齢化してしまって・・・。」というお話から
住職さまである田中日淳上人もお亡くなりになられたということの話なd
いろいろ伺うことができました。

なので慰霊祭は、疲れていても何とか参列したいという気持ちでしたが
終わってしまっていました。

でも、だからこそひとりで、この慰霊塔に静かな気持ちで向かうことができたとも
思います。
それが私なりの、参列方法なのかとも思っています。
あまり大勢で賑やかに参列するような場だと、私自身が疲れてしまうから。

チャンギー刑務所、とはシンガポールに現存する刑務所です。
大東亜戦争停戦後には、新たに捕虜から支配者となったイギリス・オーストラリア両軍側が
立場の変わった我が国の将兵に対して裁判を行い、130名近くを死刑にした
刑務所なのです。
この刑務所の警備は厳重で、英豪軍の虐待も多く発生していました。
立場かわって捕虜になった我が国の将兵は
それこそ、生命を辛うじて維持するぐらいの待遇を甘受せざるを得ず、
さらに裁判にかけられる恐怖との闘い

裁判にかけられたなら、今度は不名誉極まる死刑囚になる恐怖との闘い

死刑囚となったなら、同じ立場の人たちが絞首台に向かう姿を
間近で見聞することで受ける精神的苦痛と、もしかしたら
自分は救われるかもしれないという一縷の望みとの闘いを強いられるという
人間の苦しみの内でもっとも酷なものと直面させられる場であったと
云えると思います。

私がそのような場で最期を遂げられた方々の存在を知ったとき
本当に寝られなくなってしまうぐらいのショックを受けました。
その後、なぜか私はチャンギーで最期を遂げられた方々の最期から
いろいろ学ばせていただいております。

だから、この慰霊塔の存在を知った時は、ぜひ一度お詣りしたいという気持ちでした。

この慰霊塔の周りを一人でぐるぐる回っていたときに
通りがかりの、おそらく本門寺関係の方だと思いますが

「この塔の後ろをみてごらん」と教えてくれました。

見てみると

慰霊碑裏側

私が、書物上で一方的に見聞きしたことのある方のお名前が
ずらりと彫られていたのです。

まだ桜が見られました

久しぶりの更新です。
世間では、4月のはじめ頃に開花した
桜の花の美しさを堪能できたかと思うのですが

その時期の私は

とにかく忙しく
とにかく何かに追われるかのように
とにかく急き立てられて

過ごしてました。

なので今年は桜は見られないと諦めていたのですが

昨日、ようやく見られました。

昭栄院近くの桜

ここは池上本門寺の院家の一つ
「照栄院」の近くです。

ここで本日、ある慰霊祭が行われているとのことで
頑張って行ったのですが
疲れ切って朝起きれなかったのと、場所にまよったので
もう到着したときには終わってしまっていました。

でもここでは期待もしなかった桜が見られたのが
嬉しかったです。

池上本門寺も、ゆっくりあるくと
見どころがたくさんあって
豊かなひとときを久しぶりに過ごせました。

本門寺の本堂と五重塔です。

池上本門寺の五重塔