『世紀の遺書』序文(田嶋隆純師による)

『世紀の遺書』の序文(田嶋隆純師)を以下掲載します。

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それでは、横書きで読みやすいように
適宜、私の独断と偏見で改行を入れて、文章をそのまま入力します
ここでは巣鴨拘置所で、岡田資中将(元・東海軍管区司令官兼第13方面軍司令官)
をはじめとする方々の心のささえとなられたことで
しられる教誨師・田嶋隆純先生の文章に尽きる、と思うからです。

序 文

第二次大戦の終結の中にすでに次の大戦の兆が生れ、
正義と平和を実現しようとする国々の努力が、
却つて世界を自殺的な危機に駆り立てるとは
何と云う大きな矛盾でありましようか。

今日の日本の政治経済或は思想上の混乱も
謂わばこの世界的矛盾の一環に過ぎません。

第三次世界大戦が起れば幾千年の文化は破壊され
人類は滅亡に瀕すると云われていますが、
このような暴力の源は原子兵器でもなければ細菌戦でもなく、
実にかかる戦争を生むに至つた近代文化に内在するものであり、
更に遡れば現代人個々の心にひそんでいるものと云わねばなりません。

私たちはこの混沌の底に在つて、
理性と善意に絶望する前に今一度赤裸々な人間に立ち返り
一切を見直す必要に迫られております。
然るに茲に強制された逆境を契機として、
この様な深い内省をして来た一群の同胞があります。
それは所謂「戦犯」として斃れた人々であつて、その最後の声を
私たち同胞は心から耳を傾けるべきだと思います。

戦犯者に対する見方は種々ありましようが、
高所より見ればこれも世界を覆う矛盾の所産であつて、
千人もの人々が極刑の判決のもとに、
数ヶ月或は数年に亘つて死を直視し、
そして命を断たれていつたと云うことは
史上曾つてなかつたことであります。

おそらくこれ程現代の矛盾を痛感し、これと格闘した人々はありますまい。
一切から見離された孤独な人間として単身この矛盾に対し
刻々迫る死を解決しなければなりませんでした。
それは自身との対決であり、同時に真理を求める静かな闘いでもあつたのです。

戦争は直接の目的として相手の死を求め、手段として自身の死をも要求します。
このため日本人は「死」そのものを最高善の如くされ教え込まれてきました。
然るにこの人々は強制された死に直面して生きる喜びを知り、
最後の瞬間まで自身をより価値あらしめようと懸命に努力しております。
それは自己の尊厳と生命の貴さへの覚醒でありました。

「己の如く隣人を愛せよ」と云われますが、
自己を真に愛することを知らずして他を愛することは出来ず、
最高の徳とされる犠牲的精神も正しい意味の自愛の反転に他なりません。
「死に直面して一切が愛されてならない」と云う
或遺書の一節は端的にこれを物語つております。

この心は即ち肉親愛でもありまして、
すべての人が言葉をつくしてその父母妻子に切々たる情を伝え
身の潔白を叫ぶのも寧ろ遺族の将来の為に汚名を除かんとする努力なのであります。
更に愛は郷土へ祖国へと拡がり、遂には人類愛に迄高められております。
人道の敵と罵られ祖国からも見離された絶望の底に於て、
尚損われることのなかつた純粋なこの愛国心は改めて深く見直されるべきであり、
この基盤なくしては人類愛もまた成立し得ないものと思うのであります。

この書に収められた701篇の遺書遺稿は何れも
窮極に於て日本人は何を思い、何を希うかを
赤裸々に訴え、同時に人間の真の姿を如実に示しております。
固より思考力の差や死刑囚生活の長短によつて、
その到達している段階は種々でありますが、
そこには力強い一つの流れが明かに感じられます。
そうして純粋にして豊かな人間性の叫びは、私共の徹底的な反省を促し、
新たな思惟に貴重な示唆を与え、更に私たちを鼓舞してやまないのであります。

戦犯死刑囚の多くと接しその最期を見送つて来た私には、
この人々のために戦争裁判について訴えたいことが鬱積しておりますが、
この書の目的がこれらの人々の切々たる叫びを世に生かさんとする
未来への悲願であることを思い
寧ろ黙して故人と共に一切の批判をも将来に委ねたいと思うのであります。

この書を読んで私はその一篇々々に滂沱たる涙を禁じ得ませんでした。
それは悲痛の涙であると同時に
美しく逞しい日本人の心に浸つた感激の涙でありました。
かくも厖大な資料により人間窮極の叫びを集成したこの書は
世界に例のない貴重な文献として、国境を超え時代を超え、
不易の生命を以て絶えず世に叫びかけるものと信ずるものであります。

昭和28年8月15日

巣鴨教誨師
大正大学教授

田嶋隆純

以上が田嶋師の記された序文でした。
私自身はこの書物を神田神保町の古書店で見つけたとき
宝物を発見したように嬉しかったことを思い出します。
そして、この書物を当時のまま読みたいと思ったのでしたが
特に1984年復刻版では、空白ページがあったので、
「お話を聴いてみたい」と思ってページを開いても空白の方の思いを
知りたくても知ることができなかったです。

私が入手した『世紀の遺書』(1984年復刻版)の裏には
元の所有されていた方が貼られたのであろう
一枚の雑誌記事がありました。

「空白ページが語る遺族の痛み」

「この項は、今回の復刻に際し、遺族の希望により削除しました」
と。
1984年(昭和59)ということは戦後39年の間に
実は昭和受難者のご遺族がどれだけ同胞の心無い仕打ちに苦しんでいたかを
想像させられます。
本来であれば最も理解してほしかった同胞が理解してくれないことの苦しみが
どれほどだったのかと思いました。

すぐに理解してほしいとは言わないけれど
せめて私たちの傷口を抉るような仕打ちをこれ以上しないで!と
ご遺族の方々が叫んでいるような様子がうかがえました。
親戚からも「戦犯だから」と絶交されて故郷を追われて
職を転々とせざるを得なかったご遺族の方々が多かったということです。

私は空白ページをぜひ読んでみたくて
その後1953(昭和28)年初版本を探したのは
云うまでもないです。

人混み避けて鎌倉プチ旅行

先週の日曜日。
久しぶりに体調も早起きできるほどだったので
頑張って鎌倉に行ってきました。

早朝の横須賀線では乗車駅から座れました。
しかし、大船で通勤電車並みの混雑となりました゚.+:。クラ(@O@)クラ゚.+:。

やはり皆さん、アジサイと明月院がお目当てなのでしょうか?

私も、この時期になると一回ぐらい鎌倉に行きたくなります。
そんな時、どうしてもコワイのが
人混み」です。

それを何とか避けた鎌倉プチ旅行に行ってきました。

まずは円覚寺に行ってきました。
ここは元寇の時に執権だった北条時宗が創建した寺院で
敵味方なく死者を弔うために宋からやってきた僧侶・無学祖元(むがくそげん 1226-86)
によって開山された寺院です。

円覚寺山門

私は北鎌倉には何度も行ったことがあったけれど
円覚寺には行ったことがありませんでした。
北鎌倉で下車した多数の観光客のうち
アジサイ目当ての方々は、明月院の方に向かっていたので
こんな感じでゆっくり過ごせました。

方丈と庭園です。

円覚寺方丈

弁天から東慶寺方面を望む

円覚寺弁天堂から東慶寺方面を望む

弁天堂は、北条時宗の嫡子で9代執権貞時が江ノ島の弁財天をまつったものです。
鎌倉の人々が当時から江ノ島の弁財天を信仰していたことがよくわかります。

円覚寺をあとにして、鎌倉には横須賀線で向かいました。
やはり人混みです。

しかし駅を降りると、かなり人がすくないと感じました。
江ノ電の方に向かっているのでしょうか?
とりあえず、レンタサイクルを借りました。

一時間500円。
さて、この1時間でどれぐらいのところを回れるか?

まず向かった先は

日本基督教団鎌倉教会

日本基督教団鎌倉教会会堂です。

以前もここは行ったことがありますが
写真のデータをなくしてしまったので・・・。
鎌倉駅から自転車では約10分ぐらいでしたか。
ここの附属幼稚園が有名だそうです。
鎌倉で一番古いとかで。

その後、北条政子が夫・源頼朝の菩提を弔うために建立した寺院
安養院に向かいました。

安養院

本当はツツジ満開の時に行きたかったけれど・・・。
小さいながら雰囲気が良かったです。

このお寺のお向かいには、癌封じの寺・上行寺というのもあり
丁寧にお詣り指南をしてくださる方がいらっしゃいます。
眼病にも効くとのことで、いつも目の疲れと視力低下に苦しんでいるので
よくお詣りしてきました。

そしてギリギリ一時間で鎌倉駅に戻りました。
レンタサイクルを借りようとして行列ができていました()´д`()ゲッソリ・・・

とにかく、人混みにはギリギリ巻き込まれないで済みました。

その秘訣は・・・。

1、早朝から行動すべし!
(円覚寺には8時30分ぐらいに到着しているぐらいだとこの程度ですみます)

2、北鎌倉から長谷方面に行くのは避けること(行列でアジサイを鑑賞することになる)
  江ノ電も相当な混雑に見えました。

3、鎌倉駅についたらレンタサイクルを借りる。
  由比ヶ浜周辺や、鎌倉の南側(安養院方面)などはこれで十分です。

さらば、九段会館

ついに九段会館の取り壊しが決まりました。

いつかこの日がくるのではないかとは思っていましたが・・・。

東京新聞より

>東日本大震災による天井崩落事故で多数の死傷者を出し、閉館した東京都千代田区の九段会館が取り壊されることになった。
一九三四年に軍人会館として建設され、三六年の二・二六事件では戒厳司令部が置かれた歴史を持つ会館だった。
老朽化もあって震災後の営業再開はできず、
「帝冠様式」と呼ばれる特徴ある建物が姿を消す。
取り壊し後は、民間資本による新たなビル建築が予定されている。 (新開浩)
 会館は鉄筋コンクリートづくり地上四階、地下一階。「帝冠様式」の外観は、洋館ながら日本の城のような屋根が特徴だった。戦後は一時、連合国軍総司令部(GHQ)に接収された。
土地と建物が国に返還された後、五三年から日本遺族会に無償で貸し出され、同会がホテルや事務所を運営してきた。

東日本大震災による事故で多数の犠牲者を出してしまい
そのまま営業再開もされないまま、ついに取り壊しになってしまうのは
予想できたこととはいえ、さびしいです。
震災当時、九段会館で天井が崩落し、多数の死傷者が出るほどだったということを
知った時、私も東京某所(別の区の築40年のビル)にいたこともあって
恐ろしい気持ちになったことを思い出します。
この天井事故にて亡くなられた方々の御冥福を今一度祈るとともに
昭和初期の建築がこれでまた、一つ姿を消すということで
これまで、私自身が写していた写真を出してみたいと思います。

まずは全体を

九段会館

上部には「ガンダムのような飾りが」
何の意味があるのでしょう?

九段会館の「ガンダム」

参考:お台場のガンダム
ガンダムお台場

最後に「おそらく山下奉文大将がフィリピンに赴任する前夜を過ごされた部屋」(外から)

山下奉文大将日本最後の日

この部屋については、震災よりずっと前に写真を撮りに行った時に
駐車場にいらした方に聞いてみました。
「山下将軍が日本最後の日を過ごした部屋ってあの辺りでしょうか?」と。

「よくわかりませんが、偉い方の宿泊された部屋はあの辺りだったとは思うんですがね」
と言われました。

この駐車場にいらした方、とても九段会館に詳しく
いろんなお話をしてくださったことを思い出します。
震災後にこの職場を離れていると思いますが
どこかで元気にしていてくださいと遠くより念じております。

『世紀の遺書』とはどのような書物か

この書物を一言で言い表すのは難しいです。

敢えていうならば・・・

「昭和受難者の方々が、孤独で理不尽で強制された死に直面したときに
何を思い、何を伝えようとしたのか?ということを読み手側が、頁を繰るごとに
深く考えさせられる書物。

約700篇ほどの遺書遺稿がひたすら活字として続いているのみだが
ここには、よけいな現代人の意図が入る余地もないほど整然としていて
読むたびに、人間について真摯に学ぶことができる書物」

原本はこんな感じでした。

世紀の遺書(原本)

粗末な紙きれに、辛うじて読み取れるような文字。
薄汚れたシャツに血でしたためられた文字
牢獄の中で誰かの好意で差し入れられた紙に、自分の処刑原因となった
事件の詳細をありったけの気力をふりしぼって書かれたもの。

どの遺書からも何か、文字の力、言葉の力がこれでもかというほど
つたわってきます。
この書物に出会うまでは、歴史の書物でこれほどまで
文字や言葉の力を感じたことはありませんでした。

それほど私にとっては衝撃的な出会いとなった書物なのです。

薄汚れたシャツや、判読できないような文字を解読していった方々、
それらの方々は、敢えて名前を出していないとのことです。

「数えきれないほどの人」が、無償で、時間をかけて
自分の思いで解読したくなる気持ちを抑えて、目に見えない「何か」に
向かって解読していったとのことです。
読み手には不思議と、解読者がどんな苦労をされたのか?というのは
上に掲げたシャツや古い紙などを見るまではあまりわからないように
なっています。

人間は、どうしても自分の思いをまずアピールしてしまう弱さがあります。
でもこの書物の解読者は、その困難と闘っていたはずが、その苦悩が
まったく見られない。
これだけでもすごいことだと思います。

次回エントリーは、巣鴨拘置所の教誨師を務められた
田嶋隆純師の「序文」をそのまま紹介したいと思います。