昭和20年8月15日前後の山下軍司令部

毎年、今の時期になると、テレビでは「終戦記念日」シリーズの番組が放映されているようです。
しかしながら、私はテレビは見ないので、もっぱらFacebookやTwitterなどで、大体どんな内容だったのかな?
とつかむだけでした。
もっとも、今年はそんなゆとりもなかったですが。
本当は「九段会館」ネタを書きたかったけれど、労働で疲労している中で、
頑張って、酷暑の中休日にまで東京に行って資料の確認するのも体力的に無理です。
よって、今回は8月15日前後の山下大将・武藤参謀長の行動について書いてみたいと思います。

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この写真は、バギオ(フィリピンの観光地であるけど、もう野戦生活に入ったころで
二人ともゴルフクラブを杖かわりにして持っているところから、戦況の厳しさが伝わってきます。
当初の司令部があったマニラ郊外の豪奢な司令部を率先して離れることで、
隷下部隊に、戦況の厳しさを示す意図もありました)での一コマでありますが、
二人とも、厳しい戦況の中でも穏やかな表情で、互いを信頼し合っている雰囲気が
伝わってきます。私個人は、このツーショットも好きな写真の一つであります。

参考文献は以下になります。

山下大将・武藤参謀長が、停戦を知ったのは、8月14日のことでした。
海軍側からの情報でした。当時の海軍は、陸軍とともに行動していました。

武藤参謀長たちは、ポツダム宣言なるものを受諾したことは承知したが、
ではそのポツダム宣言とは何か、ということはまったく理解していなかったとのことでした。
その数日前から、アメリカ軍の飛行機からは日本の降伏を知らせるビラが落ちてきたとのことでしたが、
武藤さん自身は、その情報を信じたくなかったとのこと。

武藤さんの理性では、一年前にサイパンが奪われたときに負けを確信していたが、
この8月15日フィリピンの山奥での感情では、
「敗戦を信じたくなかった
この日のフィリピン・プログ山の大和基地では、秋雨が降っていたと。
それを武藤さん自身は生涯忘れることがない、と書かれています。

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この地図を見ると、全ての方面より敵の米軍から包囲されていることが
よくわかります。
米軍は山が苦手だということを理解していた山下軍司令官は、とにかく高い山へと登って
何とか戦うことしかできなかった。
日本側も戦死よりはむしろ餓死者、戦病死者を多数だしながらも、
十分な医薬も食糧もなかったこと。
兵隊が死んでいるのを毎日目にするのはどんなにつらかったことだろうと
思いました。

停戦の情報をいち早く入手してきたのが、
『運命の山下兵団』を著した栗原賀久(よしひさ)中佐でした。
栗原参謀自身は、その情報を伝えたあとのことをこんなふうに書かれています。

「気持ちも身体も泥のように疲れて、そのままそこへへたばってしまいたい気持ちであった。
負けた。負けた・・・。たちまち血汐が沸き上がってくるのを感じた。
しかし、その後で何よりも一番本心らしいものは、
なんといってもほっとした気持であった。
恥ずかしいかもしれないが、実感であった」と

その気持ちのまま、まずは武藤参謀長に申告に行った。
武藤さん自身も実は気持ちの動揺が沸き上がってきながらも、
部下の参謀からみた限りでは、平然としていつもと同じだったとのこと。
幕僚たちに、自分の心中を見せまいと努力していたと思います。

武藤参謀長は、まず宇都宮直賢参謀副長(少将)らを呼び、
次のことをとりあえず決められました。

●全比島にある日本軍に、命令を徹底せしむること
●軍紀・風紀を厳粛にして、皇軍最後の面目を発揮
●患者・一般邦人をもれなく山岳地から救出する
●兵器・弾薬・機密文書の処置
●停戦期間中における食糧の処置

このあと、各参謀たちは自分たちの寝所に戻ったが、
武藤参謀長と山下大将は、深夜までいろいろ話し合ったとのこと。

こうなった上は、一人でも多く生還させることが、我々に課せられた
責務で最後のご奉公だということに一致したそうです。

そのあと、栗原参謀の手記には興味深いことが書かれています。

武藤参謀長が山下大将の小屋をでると、そこには山下大将の専属副官・樺沢大尉が歩哨をしていた。
その樺沢大尉にむかって

「おい、樺沢。今晩は気をつけてくれよ」
「はい、わかっています。」

「分かってる?何が分かっているんだ?」
「はい、これでしょう?」

樺沢副官は真剣な面持ちで、手で腹を切るしぐさをしてみせた。
すると、武藤参謀長は、はじめてにっこり笑い
「うん、そうだ。よろしく頼むぞ!」
そしてくるりと背を向けると、足の短い蟹股で自分の小屋に帰っていったと。

それから樺沢副官が山下大将の小屋に入って、黙って隅の腰掛に腰を下ろしました。
山下大将は、じろりと見ただけで、何も言わなかった
毛布をかぶりかけた大将が、副官を振り返り

「おい、もう帰って寝ていいよ」

といったが、樺沢副官は少しも離れようとはしなかった。

「閣下、今晩はここにおかしてください!」

「おい樺沢、心配するな。俺は決して自分一人で行きやせんから。
ルソンにいる兵隊を内地に返す大任が、まだ俺には残っているんだ
今更俺一人が死んだって、どうにもならんよ。
いいから、安心して、寝ろ寝ろ」

山下大将は、世間的には「マレーの虎」と渾名され
剛将と見られているけれど、
実は、感情的になる部分があることを、最も身近にいる
専属副官や、参謀長にはお見通しであったのではないでしょうか?

武藤参謀長は、長年の山下大将との付き合いで、
山下大将の責任感は強いけど、感情的に脆い部分を
しっかりとありのまま受け止めていたと思います。

山下さんは「俺が死ねばいいのだろう?」ぐらいのことを武藤さんに
話していたのかもしれません。
だから武藤さんは、万が一、山下司令官が一人で切腹されたらと心配して
念には念をいれて、山下大将の専属副官にもしっかり言い含めていたのではないか。

一方山下大将も、自分の弱さを見せられるのは武藤参謀長と信頼していたので、
樺沢副官が小屋に入って寝ずの番を決め込んだのも
武藤参謀長が言い含めたことも、自分の専属副官が自らの直感より
山下大将が自決しないように見張りにきたことを察知していたと
思います。
そこで、「ルソンにいる兵隊たちを内地に返す大任がある」と副官にいうことで
安心させたのではないでしょうか。

私は、ここで自決をしなかった山下大将は、すごい人だと思います。
こういうのって、敗軍の将の言動だったりするので、あまり顧みられることは
ないように思うのですが。

軍人会館には地下浴場が存在していた!

さて、昨日のエントリーの問いの結果です。

ありました!

九段会館(軍人会館)には

かつて、地下に大浴場が

あったのです!!!

出典は『軍人会館競技設計図集』(洪洋社編集部 1931(昭和6年))です。

これによると、この設計コンペで一等になったのが
小野武雄氏の作品でした。

小野武雄氏の設計を基本として、建設に入ったということです。

その設計図がこの書物にありました。

これです。

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確かに「大浴室」とあります(あまり大きいとは考えられませんが)。

もう一度、図面をみてみましょう!

軍人会館の地下浴場

この小野武雄氏の「軍人会館透視図」はこんな感じです。

軍人会館透視図

東から(内堀通り側)

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ほぼ、現在の外観と同じですね。

「ガンダム」なところは、おそらく伊東忠太先生の好み?が反映されているのか
この小野氏のデザイン通りではないですが。

伊東忠太という建築家は、築地本願寺のような
独特な世界観を表現した建築を残しています。

この人は、建物の中に何かの精神性を表現しようとしていたのではと
建築好きだけど、かなりど素人な私から見ても感じられます。

築地本願寺を見ると・・・。

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日本にいながら、インドに行ったかのような気分になれると
感じました。
特に本堂屋根の蓮の花!
私はこの蓮の花を見て、蓮の美しさを再確認しました!

さらにこの方は妖怪などにも造詣があり、言葉にもかなりこだわりがあったようです。

伊東忠太さんは、軍人会館とは目と鼻の先にある
靖国神社の遊就館も設計されています。

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よって、建設にあたっては、靖国神社と一体となるような後世に残る建築をと
いうことで特に力をいれたものと思います。

おっと、話がそれました。

軍人会館のお風呂は思ったより、小さいように思いました。

二人か三人ぐらい入ればいっぱいではないかなあという感じがしました。

それでもビッテル神父さまは大きな風呂と思われたらしいけど
それは、神父様自身が、このお風呂を大きいと思われるほど
当時からユニットバスのような小さな、ただ汗を流す程度の風呂しか
接してなかったためではないかと思います。
特に修道院だと、大浴場というのはないはず。
他人にハダカを見せるということが、修道者はないらしいと聞いたことがあるからです。

以前に、私自身が某修道院に「黙想」と称して泊まりにいったことがありますが、
ユニットバスのような風呂でした。一人ずつしか入れないようになっていて
出るときにはそれぞれきれいにして出るようになっていました。
ちなみに、黙想という名目で修道院にとまりに行くと、部屋は個室が与えられますが、
風呂は共用でした。しかし一人ずつ入り、出るときにはきれいにするのが
マナーなので、次に誰が入ってもよいようにしていました。

そんな修道院での生活を送っていた神父さまからすれば
軍人会館の地下浴場は、さぞのびのびできたのだろうと思います。

ちなみにこの地下浴場は、1983(昭和58)年の改修まで存在していたことが、
中野裕之氏「昭和初期の建築を保存した 九段会館改修工事」(『建築技術』1989.8)にありました。

それによると、宿泊客と、会議とか、講演会などの宿泊しない客がバッティングしてしまうことが
問題となったらしいです。
それは当然だと思います。

会議のために九段会館を使いに来た人が、普通に浴衣姿でお風呂に入りに行く宿泊客の姿を
見ることになるのだから。
これでは、会議で来たひと、浴衣姿でくつろぐ予定で来た人ともに
違和感を持つだろうと思います。

それで、宿泊室にユニットバスを設置し、地下の浴場を廃止することに
したのでした。

・・・ビッテル神父さまの聞き取り本が書かれた当時
普通に、九段会館(軍人会館)の風呂のことが取り上げられていたのは
昭和48年当時の九段会館には、地下に風呂があることが「当たり前」だったからだと
思います。

軍人会館には地下浴場はあったのか?

九段会館には地下浴場があったのだろうか?
※九段会館とは、1957(昭和32)年以降の呼称であり、連合国に接収されるまでは
「軍人会館」でした。よってここでは「軍人会館」にします。

これは私自身がこの方に出会ってからずっと感じてきた疑問でありました。

ブルーノ・ビッテル神父

ブルーノ・ビッテル神父さま(Bruno Bitter 1898年~1989年)です。

※本来歴史的人物でもある方でもあるので、「神父」にしたいところでありますが、
実は私自身が、受洗こそしていないものの、時折カトリック教会のごミサに与ることが
ある、カトリック求道者でもあります。よって、カトリック教会では
司祭に対しては「〇〇神父さま」とお呼びするのが一般的で、それに慣れているため
「神父さま」と表記させていただきます。

ビッテル神父さまは、1932(昭和7)年に来日された方で、こちらに住まわれていました。
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上智大学内にある、「クルトゥルハイム」です。
この建築については以前のブログでも
少し触れています。
千代田区紀尾井町にあります。

ビッテル神父さまと軍人会館。
一見、何の関係があるのだろうと不思議に思いますが・・・。
何と、ビッテル神父さまは、軍人会館の風呂で我が国の憲兵将校と
「ハダカのつきあい」をされたという記述をみました。

それによると、1941(昭和16)年、戦争に突入するかしないかの頃
ビッテル神父さまは、イエズス会の渉外的仕事もされていました。

渉外的仕事とはいうけれど、かなり危険な仕事でもあったと思います。
当時入国拒否になった修道者も多かったし、
夙川教会の建設に携わったブスケ神父様は投獄され、昇天されるほどだったし、
自主的にかどうかはわからないけど、「空気をよんだ」キリスト教系学校は
校名変更をしていました。(例:「東洋英和女学院」→「東洋和」)
雙葉高等女学校などでも、外国人修道女に変わって、日本人の修道女が校長に
なるなど、「キリスト教」「カトリック」に対する嫌悪感が高かったことは
否めなかったのではと思います。

神父様の渉外的仕事の中には、日本国民にも恐れられていた「憲兵」との折衝も
ありました。

しかし、ビッテル神父さまは、何と憲兵将校と意気投合されたとのこと。

日本の、憲兵将校が、仮にカトリック信徒であったならば
日本語が通じなくてもストレスは少ないだろうと思います。
現実には、異国に布教にやってくる神父様は
相当なストレスを抱えていらっしゃるだろうと思います。
それでも、神父様になる方は、基本的に心身ともに健康でなければなれないはず。
異国で布教するにあたって、精神的な苦痛を喜びにかえるぐらいの意気込みがないと
つとまらないと思います。

ただ現実には、日本人、特に折衝相手で言葉の通じない憲兵などと話をしたり
修道兄弟がどこかで「殉教」されたというニュースを聞くとやりきれない思いをされるのは
当然あったと考えられ、東京を離れて箱根に行かれた方もいらしたとか。

ビッテル神父さまが、本川貞少尉(当時は東京憲兵隊本部外事課所属。最終階級は中尉)
と出会ったのは、山口で司祭が投獄された時に救助要請があったときでした。
ビッテル神父さまから、本川少尉に
「帝国ホテルでランチしませんか?」と誘ったとか。
特に、その時にはホンネ(司祭を救助すること)はいわずに・・・。

本川少尉は「ご招待には応じますが、そのかわり夕食はこちらで差し上げたいので
軍人会館へ来てくれますか」と条件付きで答えたとか。

なぜ、多くの司祭が投獄されたり疑いをかけられたりしているのに
ビッテル神父さまには何も起こらなかったのか?

ビッテル神父さまは、修道者になる前はドイツの陸軍中尉までいかれた
方だったのでした。

「日本の憲兵もまた、やはり一国の軍務に服す軍人である限り、
それなりに評価しなければならない」と思って接していたのが
神父に接する軍人たちに伝わったのでしょう。

また、神父さまは、冒険が大好きだったので、敵の本部である
軍人会館に行ってみるのも「面白そう」と思ったらしい。

かくしてビッテル神父様と、本川憲兵少尉が会見し、
投獄されている司祭は転任させるということで話をつけたあと、
何と、本川少尉から

「風呂に入りませんか」

と言われたとか。

このお風呂に関する記述は以下の通りです。

「軍人会館の地下にはかなり広い職員用の風呂場があった。
神父あは石がいっぱいあり、一種の岩風呂だったといっているが、
ごく普通の浴場だった。
本川は湯につかりながら、サケの飲み比べをしようといいだした。
神父は、日本酒はいけるほうで、それは望むところだった」

それで、飲み比べをして、勝ったのは何と、ビッテル神父さまでした。

この戦いはわが軍の勝ちですな

と本川憲兵少尉に言われたと。

ビッテル神父さまは、何と軍人なんだろうと思ったのと、
「九段会館の地下にお風呂場があるのか?」という疑問を持つきっかけとなりました。

果たして、本当に九段会館(元・軍人会館)にはビッテル神父様がいうように
お風呂場があったのでしょうか?

【再掲】武藤章・軍務局長の部下あつかい

以前のブログに書いたものを
こちらにも再度(一部修正あり)掲載します。
武藤章軍務局長の政党論を読んでくださっている方々が多いので。

http://tenhouinaki7.at.webry.info/201003/article_3.html

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武藤章・軍務局長(少将~中将時代)は、どのように部下に接していたのでしょうか?

武藤章軍務局長

武藤さんは、軍務局長に着任した時の挨拶で、部下たちに

「私は時に暴言を吐きます。
だがしかし他意があるわけではないので覚悟してもらいたい」

といったのだそうな。

「陸軍省軍務局」とはどのような部署でしょうか?

武藤さんに言わせると

「(軍務局)軍事課の仕事が編制、制度、予算、渉外事項など、
陸軍省業務の中枢に触れるものばかりである関係上、
課員は一粒選りの優秀者揃いであり、
頭脳明晰理路整然どっちかというと理性のかった人々の集まりである。

したがって、当時青年将校たちの間に横行するような、感情的に血を燃やす思想や運動には
冷静な批判を加える態度をとっていた・・・」
(武藤さんが中佐のころの軍事課高級課員時代を省みての記述)

よって、高宮太平・元朝日新聞記者が『昭和の将帥』で書いているように

 「軍事課員は一癖も、二癖もある。
 腕に覚えのある侍どもだ。

 大臣がかわろうが局長が動こうが、俺は俺の道をいくという構えでジタバタするものはない。

 それぐらいの面魂は持っているのである・・・」

 このような部下たちを、武藤さんは軍務局長という立場でどう扱ったのか?

 部下は非常に、手ごわい!

 気の弱い上官、能力のない上官ならば、部下はどんどん増長してしまう。

 それをどこで受け止めるかという大変さがあるようですね。

 部下にしてみれば、
「増長しているつもりはない!上官の決断力がないので、自分たちが仕事をせざるを得ないのだ!」

ということになるでしょうか?

武藤軍務局長の部下の一人に、

牧達夫(当時中佐)がいました。軍務課内政班長という立場でした。

この人は、お父さんが牧達之陸軍中将で、その一人息子のお坊ちゃんで頭が良く、
文章も上手いけれど、オッチョコチョイで口が軽いというところがあるらしいです。

(石井秋穂「石井秋穂の手記」『軍務局長武藤章回想録』所収)

たしかにこの人、陸軍大学校の「恩賜の軍刀組」卒業だ!

この牧達夫中佐とのエピソードをご紹介します。

昭和15(1940)年8月

ちょうど近衛文麿が「新体制運動」の先頭に立ったころのこと。

この「新体制運動」は、とりあえず左右両派の人たちが、
「日本の危機を打開しよう」と、普段の思想を超えて集ったものです。

ともすれば、いくらでも瓦解する危険性はある。

武藤軍務局長は、陸軍の事務的な代表としてこれを指導する立場にあったのです。

武藤軍務局長は、若いころマルクスの『資本論』を読み、

さらに文学にも親しむ一面があったせいか、左右両方と話ができるという能力がありました。
彼のもとには、転向左翼も出入りできるほどでした。

だからか、思想の違いを超えてなどという美名のもと、
とにかく寄せ集めの団結ではすぐに瓦解してしまうので、

何とか近衛文麿が新党を結成することを望んでいたということです。

むしろ、立憲民政党のような政党は、
政府、軍部に対する反対政党としてしっかりしてもらいたい、という気持ちがあり、

ナチスのような一国一党を望んだことはないのです。

だからこそ、その民政党がヘナヘナと迎合してしまった時、

軍人やめて代議士になる」と

周囲にもらすほどだったとか。

この年の8月のある日、
牧達夫中佐と、企画院側補佐役の奥村喜和男(「革新官僚」として知られている)が

「政治新体制推進体には、党規確立の意味から軍法会議的な内部裁判機構を具備すること」

を執拗に力説したときのこと、

牧達夫中佐の上官だった武藤軍務局長はどういう態度をとったのでしょうか?

「本推進体がある程度同志的試練を経たものの、一元的結合体ならばいざ知らず、
当面呉越同舟の異種綜合をもって発足せざるをえない現況において、
もし野望をもつもの、排他的な独裁傾向の人によって、この裁判権が悪用されることは恐ろしい!

この両君(牧中佐・奥村)恐らく範をナチスに採ったであろう内部裁判機構には、
自分は絶対合意できない!」

と断固反対を皆の前で表明しました。

それに対して、奥村氏が「両論対決!長官(村瀬法制局長官)決裁!決裁!」と叫びました。

そのとき武藤軍務局長は

「何をいうか!両名(牧中佐・奥村)即刻退場!」と大喝し、

牧中佐に対しては「お前はおれの補佐役のはずだ!それが何ということだ!」

とさらに癇癪玉を炸裂させて、会議の場をしらけさせたそうです。

でも、私はこの新体制運動において
ナチスのような内部裁判機構がつくられるようなことにならなかったのは良かったと思います。

当時の空気では、それだけ切羽詰まった国際関係だったとしても・・・。

軍務局長のような立場の人は、ある時は自分の意志で、部下を抑えねばならない。

しかし、この牧中佐も強い。
まだ懲りずに武藤軍務局長に反抗しています。

武藤軍務局長が、政界のダラ幹(事なかれ主義的政治家)

とつきあっていることが気に入らないということで

意見を皆でいうことになっているとし、武藤軍務局長のブレーンであり友人でもある矢次一夫氏に

「今日、武藤軍務局長に対して、われわれ青年将校の有志が意見をいうことになっているので、
局長の友人ということで立ち会ってもらいたい」とお願いをしています。

矢次氏も「面白い」として承諾し、軍務局長室に向かいました。

武藤軍務局長の前で、牧中佐たちは直立不動の姿勢をとり

「閣下、われわれ青年将校として、本日申し入れたいことがあります。これから読みあげます。
一つ、武藤軍務局長は政界のダラ幹と組んで・・・」と言ったところ、

武藤局長は

「馬鹿っ!貴様ら、下手な勧進帳の真似でもしとるのか!下がれっ!」と大喝。

牧中佐は気合負けして、挙手の礼をして逃げ出したらしい・・・。

さらに数カ月後、日米開戦前

「局長の行動がけしからんので、大いに文句をいうので立ち会ってください」

とまた矢次氏にお願いに行き、
矢次氏から「今度は逃げ出さないか?」と言われたとき、
「大丈夫です」と力んでいたらしいです。

ともに局長室に入ったところ、

武藤局長は目も赤いままで必死に書類と格闘しているのをやめて、

笑いながら「また牧が文句を言いに来たのか」と

「戦争になったら大変だと思って、一生懸命交渉しているけれど、上手くいかなくて、とうとう眠れなかった。
今日は頭も痛いし、目も痛い。けれど休めなくて・・・」

といったところで、この牧中佐

「局長、寝られないほど苦労しているんですかぁーーーーー!すみません。・゜・(/Д`)・゜・。うわぁぁぁぁん 」

と突然泣き出して出て行ってしまったらしい。

何だか「男の大奥」だなあと思いました。そして、熱い!部下も上官も。

軍だから厳しい秩序はあるにせよ、
その中で激しい意見具申のやりとりは日常茶飯だったのだなあと思いました。

武藤軍務局長も、石原莞爾作戦部長との激しいやり取りが知られてますが、

彼自身が上官になった時、こんな「止め方」をしていたことは、あまり知られていないのではないでしょうか?
何だか軍人さんって、個性ゆたかだなあと思います・・・。

厳しい訓練をはね返すぐらいの強さとしぶとさから出てくる豊かな個性のぶつかり合い。

よく、「意志の強さ」が大切とはいいますが、武藤さんぐらいの立場の方って、
本当に意志が強くないとやってられないなあと、

その大変さの一端を見ることができました。

また、「軍部の独走」云々という人に対して一言・・・。
軍部を利用しようとしていた政治家・官僚も
ある意味、軍部以上に独走していた部分もあると思います・・・。

最後に、武藤章中将は、部下の意見をとりあえず

「受け止めた」上で、怒鳴る!という姿勢だったので、

部下としたら、とりあえず「話は聞いてくれる上官」と見ていたのではないか?
無視はしていないし、何らかの反応は示している・・・。

中々真似できないのではないでしょうか?

参考文献:

牧達夫「私と新体制運動 軍の期待と幻滅」(『中央公論 歴史と人物』1974年5月)

片道3000円ぐらいで帰還戦車に会いに行ってきました

毎日、暑いですね~。

そして、どこか旅にでもと思うけれど
交通費がネックと思う今日この頃。

「青春18きっぷを使ったらいいじゃないか?」

「格安航空券だってあるよ」

おっしゃる通り

交通費を節約すると、宿泊代や時間がかかる。
新幹線など特急を使うならば、時間は節約できても
東京⇔静岡の往復だけであっという間に1万ぐらいかかってしまう・・・。

貧乏はツライ!

しかし、片道ですが、約3,000円で、
大東亜戦争におけるサイパンの戦いで活躍し
奇蹟的に帰還した戦車・九七式中戦車(チハ車)に会いにいくことが
できるのです。

サイパン帰還戦車

交通手段および費用ですが・・・。

●高速バス(東京→富士宮)・・・2570円
●富士宮静岡バス(富士宮→国立富士病院入口)・・・600円
計・・・3170円

でした。
東京発富士宮行バスは、朝8時10分に東京駅八重洲南口を発車し、約2時間ぐらいです。
渋滞などに巻き込まれるかもと冷や冷やしてましたが、足柄SAで10分休憩もとり
10時40分ぐらいには富士宮駅前のバス停に着きました。

その後、白糸の滝方面のバスに乗ります。

富士宮駅のバス停の受付で、600円出して国立富士病院行きの券を購入しておきます。
そして11:10分に発車するので、約30分ぐらいバスに揺られます。
このバスはちなみに、白糸の滝に行かれる方が乗られていました。
私は白糸の滝手前の、「国立富士病院前」で降りまして
よく整備された道路をひたすら10分ほど歩きました。

すると、このような門が

陸軍少年戦車兵学校跡(若獅子神社)

この頑強そうな石造の門、元陸軍施設だったのではないか?と思わせられました。

その通り

「陸軍少年戦車兵学校」と残されています。

ここは桜の時期に行ったら素晴らしかったろうなと思います。

さらにこの写真の奥に、白い鳥居が見えます。
これが、「若獅子神社」です。
大東亜戦争後に建立された神社です。
ここに、少年戦車兵学校関係者600柱がお祀りされています。

構内図をみると

戦車兵学校構内図

私がバスを降りて、大汗をかきながら歩いてきたあたり
全て陸軍の敷地だったのでは?と思わせられました。

なあるほど

道路は整備されており
病院(国立富士病院)があったりするわけだ・・・。
(もと軍の敷地は、学校や病院に転用されることが多いので)。

もとは軍の敷地だったのか?

この写真などは、当時の少年兵たちが生活していたあたりだったのではないか?
広大でした。
電柱や電線を写さないよう撮影できるぐらい!

私はサイパンから奇跡的に帰還した戦車については
このサイトを見るまでは知りませんでした。
なので、しっかり事前学習してから行ったのではなく、
安く、近場で気分転換したいという軽い気持ちで行ったのでした。
なので、これから自分なりに学んでみたいです。

また、面白い発見がたくさんできると願って・・・。

さて、さらに大汗かきながら、頑張って歩いて
やっと、涼をとることができました。

音止の滝(曽我物語の舞台)

音止の滝

虹が見られてうれしかったし、涼しかった。
確かに、ここの滝近くで、工藤祐経を討つ相談をするには
滝の音が気になるのでは?と思わせられる場所でした。

さらに白糸の滝でもしばらく涼んでいました。

白糸の滝
ずっとここで涼んでいたい!と思ったけれど
バスの時間が・・・。
駆け足でバス停に向かったところ

ちょうど富士宮駅行バスが来ました。

それで、無事、富士宮駅まで帰ることができました。

青春18きっぷで行くならば

東京→熱海(東海道本線 ※東京発の各駅の多くは熱海どまり)
熱海→沼津(東海道本線 熱海・函南・三島・沼津と4駅だが、結構時間かかる)
沼津→富士(東海道本線)
富士→富士宮(身延線)

と、4回ぐらいの乗り換え覚悟で行かねばならない・・・。

途中で短気な方なら、小田原から新富士ぐらいまで新幹線でいってもいいや!と
思いたくなるだろうと思います。

しかし、青春18きっぷだと、新幹線に乗車するには小田原~新富士までの
普通乗車券および特急券が必要なので、これだけで3000円は別出費となってしまう・・・。

これは痛い(>_<) そんな時、高速バスを使っての旅もいいなと思いました。 ☆なお、私は、富士宮をでて別方面に向かったので、往復高速バスは使ってません。 多分、時間をしっかり決めて回れば、おそらく往復高速バスで7000円強と、富士宮やきそばも 賞味できて、1万以内にゆうゆうおさまるという「格安旅行」が出来ると思います。