興亜観音

以前のブログでも、興亜観音については
たくさんの力を頂いてきました」という記事で書いております。

前回の記事では、久保山斎場関連のことを書いたので、
荼毘に付されたご遺骨・遺灰が各地を転々としながら
一時的に保管された場所・興亜観音について書いてみたいと思います。

興亜観音

この観音様は、伊豆山の山の中。
熱海駅から本数の少ないバスに15分ほど揺られ、
そのあと険しい坂を登らないと拝むことができません。

でもここはとても見晴らしがよいところです。

遺骨になられた受難者の方々も、やっと一息つけたのでは?と
思わせられる景観でした。

2012-01-19 19.29.51

なぜここに観音様がいらっしゃるのでしょうか。

松井石根陸軍大将が、退役後熱海伊豆山に暮らしていらしたからです。
松井大将は、陸軍大学校卒業後、支那在勤が多かった方です。
ちなみに、あとで詳しく触れたい方の一人
原田熊吉中将は、松井大将を先輩として尊敬していたといいます。

武藤章中将の手記『比島から巣鴨へ』の中には、かつての上官でもあった
松井石根大将に触れている箇所があります。

「もともと松井大将は青年将校時代から支那関係の仕事をして来た人で、真に支那人の知友であつた。
支那人側から見たる松井大将がどんなであるか知らぬが、我々参謀
(注:武藤章さんは南京事件中は大佐で中支那方面軍参謀副長)
として同大将の言動を見聞していると
心底からの日支親善論者であつた。

作戦中も随分無理と思われる位支那人の立場を尊重された。
この松井大将の態度は、某軍司令官や某師団長の如き作戦本位に考える人々から
抗議され、南京の宿舎で大議論をされる声を隣室から聞いたこともあつた。
松井大将が南京において支那人に対する暴行を命じたとか、あるいはこれを許容したとかいう告発は
全然誣告といわざるを得ない。」

武藤章さんも実は南京事件には当事者として関わっていました。
中支那方面軍参謀副長(大佐)として。
しかし不思議なことに、東京裁判では参謀副長だったので「責任はない」とされましたが、
なぜか近衛師団長(在スマトラ)時代と山下大将の参謀長という立場で有罪とされました。
(比島では8年前の南京事件と同じことを今度は参謀長として実施したゆえに有罪とか)

話を戻しまして
この興亜観音は、昭和15年(1940年)2月、支那事変における日中双方の犠牲者を「怨親平等」として
弔うために松井大将の発願で建立された観音様でした。
松井大将は当時からあまり健康ではなかったため、奥様におぶってもらって
この観音様を詣でて祈りを捧げていたとのことです。

今もこの興亜観音に行くと、一人の尼さんが温かく迎えてくださいます。
この興亜観音を守るというのは、大変だと思います。
いろんな考えの方がいるから。
爆破されそうになったこととかもあったらしいですが、
尼さんはそんなことを一切お話にならず、微笑みを湛えています。

そして興亜観音のお堂には
松井大将の遺品の数々が今もあります。

興亜観音

松井大将の書

2012-01-06 14.49.17

松井大将の外套

2012-01-06 14.49.35

久保山火葬場の職員は気づいていた!

巣鴨拘置所内で処刑(一人は他の場所で銃殺刑)された方々の遺体は
当時の日本のジャーナリストたちも拘置所裏口に張り込んで調べにかかったようですが、
ついぞ本当のところを知ることができなかったといいます。

それは、戦勝国側のトラックが高性能すぎたのもあったとのこと。

当時の日本のトラックの燃料は木炭だったから。

では昭和受難者の遺体であると気づいたのは誰だったのでしょう。

それは、火葬場の職員さんたちでした。

火葬場の職員さんは、時々「米兵1名」「米兵3名」と書かれた棺が運ばれてきたとき
米軍側から「絶対に開けてはならない」と命令されました。

命令だから、そのまま荼毘にふしますが、
米軍側の態度を不審にもかんじていました。

当時、戦犯刑死者の扱いは小さく、新聞の片隅に記されるのみです。
(ちなみに、シンガポールで処刑された河村参郎中将の処刑記事は
当時の朝日新聞を見ると、ごく小さく、「川村参郎」と漢字の誤記もある
扱いでした)

そんな小さな新聞記事の扱いをしっかりみていた
久保山火葬場長・飛田美善氏は、前夜に運ばれてきた棺の一人
翌日新聞記事で発表された処刑者の数が合うことに気づいたのでした。

それ以後、「米兵◯名 絶対棺を開けてはならぬ」と指示された棺がくるたびに
職員さんたちは手を合わせて拝んでから、丁重に荼毘にふす作業を粛々と行ったとのことです。

東條大将たちの処刑日は、昭和23(1948)年12月23日。
翌日は、なんと「クリスマスイブ」(o・∀・)★.:゚+。☆ メリークリスマス☆.:゚+。★
これは米兵たちも心情的に見張りが薄くなると見込み

久保山火葬場近くの興禅寺住職・市川伊雄氏は、小磯国昭首相の弁護人だった
三文字正平氏とともに、火葬場長・飛田美善氏の案内で荼毘に付した跡に入り
出来るだけの骨灰を拾い集めました。
クリスマスイブとはいえ、見張りが全くなかったわけではなく
暗闇の中で、ただひたすら、骨灰と思われるものを拾い集めるのは
並大抵のことではないはずです。

これらの骨灰は、一時興亜観音に保管されました。

マッカーサーの命令により、戦争犯罪者の遺骨は遺族に引き渡してはならないとされていたので、
大きな骨は戦勝国側が拾い集めてどこかへ持ち去ったとのことです。

残った細かい骨と灰を火葬場長・飛田美善氏が丁寧に集めて
火葬場の片隅に掘った穴の中に密かに収めておいたのです。

その骨灰は、密かに松井石根大将の熱海の自宅近くの
「興亜観音」に一時安置されました。
(保土ヶ谷から、熱海まで骨灰を持って移動するのは
本当に大変だったに違いありません)

そして、もう巣鴨拘置所では処刑が行われなくなった頃
火葬場長・飛田美善らは供養塔を立てようと思いついきました。

しかし勝手に立ててはならず、GHQにお伺いを立てなければいけなかったのです。

塔の建立は許可されたものの

「供養塔」としか彫ってはならぬと指示がありました。

kuyouhi

見てみると、「供養塔」三文字だけが彫られているが、
これでは何の目的で建てられた供養塔だか、よほど気をつけてないと
わからないでしょう。

また卒塔婆にも注目してください。
戦勝国側の呼称である「太平洋戦争」とはあるけど
「大東亜戦争」とは書かれていません。
それもこんな事情が背景にあったからでしょう。

サンフランシスコ講和条約が締結されて、ようやくこの供養塔の下の
遺骨、遺灰が60等分されて、遺族に届けられることとなりました。
白い骨壷に分けて・・・。
「これは、必ずしもご主人の遺骨とは言えませんが、この中に
ご主人の遺骨も混ざっていることはまちがいありません」

といって、渡したとのことです。

なぜ60等分か?

巣鴨拘置所などで処刑された受難者が60名いたからです。

東京裁判で処刑された人ばかり注目される向きがありますが、
横浜でも裁かれた方々で処刑された方もいるのです。
横浜裁判で裁かれて処刑された方の中には、かつてビッテル神父と
酒の飲み比べをした本川貞(もとかわ・さだむ)憲兵中尉もいます。
本川憲兵中尉については、後に詳しく書きたいと思っています。

それにしても、当時の久保山火葬場長と近くの寺院の方々には
頭が下がる思いです。

久保山斎場(横浜市)散歩

このところ、ずっと更新が滞っていました。
忙しかったのと、ちょうど「命日」近くに私自身が
気管支炎で咳に苦しんでいたからです、と言い訳してしまおう。

先日、思うことがあってここに行きました。

kuboyama_saijyou_zenkei

横浜の久保山斎場です。

私は実は火葬場にもすごく興味があって、たまに近くに行くと
見物してしまいます。
そして、できれば写真の一枚でも撮ります。
(遺族の方がいらっしゃる場合もあるので無理はしないです)

久保山斎場。一度訪ねてみたい場所だったのです。

なぜか?

昭和受難者の方々が荼毘に付された場所だったから。
そして、当時の火葬場職員さんと周辺寺院の住職さんたちが一致して
昭和受難者の方々を丁重に遇したことを知っていたからです。

久保山火葬場の職員さんがもし当時気づかなかったならば、
「東條大将以下、巣鴨拘置所で処刑された戦犯たちの遺骨は
どこかに持ちさらわれていった」と書かれるだけだったろうと
思います。
ちなみに、フィリピンで絞首刑になった山下大将のご遺体が
その後どう扱われたのかは不明です。

火葬場で日々、人の遺体に接しているプロだからこその
判断なのかもしれません。

久保山斎場へは、京急線の黄金町かJR横須賀線保土ヶ谷駅からバスというルートが
一般的です。
私は京急線で行きました。
黄金町は各駅しか止まりませんが、京急線はわりと本数が多いので
こちらを使うのがいいかもしれません。

その後、バスに乗り、とりあえず「久保山」というところで
下車しました。しかし、それらしき建物が見えてこない。
そこを諦めず、地図を確認しながら歩くと

ありました!

入り口には小さな事務所があるので
とりあえず一声かけてみたところ

温かく応対してくださいました。

「たまに見えますよ。供養碑ですよね。供養碑はこの坂をエレベーター使って
降りて、建物は火葬場ですが、その右側をずっと歩いていただく形になります」

saijyou_ele

上は斎場に行くためのエレベーター。
(坂が険しいところに立地しているので、足の弱い方向けに役割を果たしています)

saijyoutou

火葬棟です。
(結構現代的な火葬場建築。ここでは小さな会合しかできない(2・3階部分)。1階が火葬場)
この美術館のような建物の右側をずっと行くようにと言われました。
途中で「炉室」といった職員さんしか入れない、銀色のドアがありました。生々しいですが・・・。
そしてここです。

kuyouhi

供養塔、ありました!

職員さんによると

「東條さんと同じ釜で焼いてほしいから」と訪ねられる方もいるとか。

残念ながら当時の面影はないようです。
それでも、久保山火葬場は、告別の場としてもしっかり役割を果たしていると思います。

さらに、「供養塔見たいんですが」と言ってくるコアな歴史オタクにも
親切にしてくださるところからです。
横浜の歴史の中ではあまり目立つ場所ではないかもしれないですが、
この火葬場散策だけでもいろんなことを学べます。

●昭和受難者の方が荼毘に付された場
●関東大震災の時にフル稼働した火葬場
●葬式が簡略化され、遺体だけを荼毘に付す「直葬」に合わせた
 新しい弔いを模索しているところ
※後日知りました。ラステル久保山という直葬・家族葬専門の葬儀場(遺体も火葬まで預かってもらえる)ところがあることを。

何か、昭和受難者の方々を学ぶためにやってきたのですが、思いの外、盛りだくさん学べました。