シスター渡辺和子さん帰天す

昨日、片柳神父様(イエズス会・マザーテレサの導きで司祭を目指されたという方)のFBのウォールで、なぜかシスター渡辺と片柳神父様のツーショット写真があったので、なぜなのだろうと思いながら、寝たのですが。
朝起きたら、
「渡辺和子さんが死去 岡山のノートルダム清心学園理事長」
という記事が出ていて
そういうことだったのか・・・、と思いました。

学校法人ノートルダム清心学園の理事長を長く務められた方です

シスター渡辺といえば、この書物で有名です。
「置かれた場所で咲きなさい」

私はそれ以前に、PHPからの文庫本時代からの読者でありました。

この本を始めに、何冊読んだかわかりません(しかし、身にはついてないかと思います・・・)
シスター渡辺のお父様が、渡邉錠太郎大将であることから手にしたのですが、
シスターのお言葉に勇気付けられたというのもあります。

よくシスター渡辺ご自身が、「なぜ修道女におなりになったのですか」と質問されると書かれていました。
以前は、お父様・渡邉錠太郎大将が目の前で青年将校に銃殺されたからということから
世を儚んでと思われていたこともあったらしいです。

カトリックのミサにごくたまに与るだけの求道者である私には
なんか違うなと思いました。
修道院って、世を儚んで入るような場所ではないらしい。

そう、平安貴族のある者が、かつて世をはかなんで出家したとかいう話がたくさんあるので
そのように捉えられるのも我が国ではごもっともではあるかもしれない。

いろいろ、シスター渡辺や、お父様渡邉錠太郎大将のことを知っていくにつれ、
シスター渡辺は、二・二六事件でお父様が殺されていなくとも
いずれは修道女という道を選ばれたのではないかなあと思っていました。

私は以前より渡邉錠太郎大将についてのこの記述が心に残っていました。
渡邉錠太郎大将と仲が良かった朝日新聞記者・高宮太平氏の渡邉錠太郎大将評です。

より。

高宮太平氏は、陸軍部内で二人の軍人を高く評価していました。
一人は、永田鉄山中将(軍務局長の時に中佐に惨殺された)、もう一人が渡邉錠太郎大将。
この二人が生きていれば無謀な戦争は避け得たのではないかということで。

高宮太平氏は、渡邉錠太郎大将を最初、学者肌でおとなしい人と見ていたらしい。
接触して話を聞くようにしていたが、渡邉大将は陸軍部内の人間関係には触れず、国際関係についての話が多かった。そして、航空関係については深い知識を持っていたとの印象だったらしい。
昭和10年ぐらい、陸軍部内外でいろいろな不穏な動きが起こっていた時も渡邉錠太郎大将は表面的にはおとなしく、しかし裏では陸軍士官学校の同期生である林銑十郎陸相の背後で
派閥争いを食い止めるべく奔走していたことを知ったのです。

そんな渡邉錠太郎大将を
「渡辺は内に火のごとき正義感を持ち、平素はそれを深く蔵してあらわさなかった。
けれども、一度決心すると何ものも恐れない。
それはみずから求むることのない者のみが持つ強さであった」

と評していました。
私はシスター渡辺の書物の端々に、このような強さが見られる記述に接して、
シスターはあの事件がなくとも修道院に入られていたのではないかと思っていました。

今年の四月に山陽新聞からこの本が出されました。
私は丸善で立ち読みをしただけですが・・・(すみません)
より、その思いを強くしました。

今は、シスター渡辺の永遠の安息をお祈り申し上げます。

山下奉文大将のクリスマス

久しぶりの更新になります。
本日はクリスマスイブですねえ。

それにふさわしい記事になるのかどうか・・・。

小林よしのり氏「米国の「戦争犯罪」を認めない安倍首相」

には、安倍首相はアメリカのファルージャで民間人虐殺を行っていた「戦争犯罪」を頑として認めない姿勢のご様子。それどころか米軍が行った日本への原爆投下や都市空襲ですら「戦争犯罪だった」と明言しないのだ!とあり

現日本の「宗主国」の戦争犯罪は認められないのだそうな。

敗戦国・日本において、昭和27年(1952)に日本語訳で刊行され、深刻な影響を及ぼした書物があります
『山下裁判」上・下(フランク・リール著 下島連訳)。

ポツダム宣言受諾後、戦争犯罪人として一番初めに起訴されたのが
当時、マニラで拘留されていた山下奉文大将でした。
書物の著者・フランク・リール氏は、ハーバード大学出身のアメリカ軍陸軍大尉でした。
なので山下大将と初対面時はまだ敵対心と疑いの心で接してしまったようですが、すぐ山下大将と打ち解けました。
山下大将の持つ人格がそうさせた部分もあると思いますが、それだけではなかったのです。

リール氏たちはこの軍事裁判の意義がそもそもおかしいと感じ始めていました。
山下大将がなぜ起訴されたのか?
それは、ルソン島(フィリピン)における部下の残虐行為の全てに、軍司令官として責任を負わねばならず、それを怠ったという理由でした。

となると、山下大将と戦火を交えた側のマッカーサー元帥の罪もあるのでは?
どんな軍隊にも悪人はいる。ルソン島にて戦う際、アメリカ軍には一切残虐行為はなかったと言えるのか?
歴史的な結果としては、マッカーサー元帥は、山下大将たちを裁き
山下大将は裁かれ、絞首台へと送られた・・・。

そのようなことが書かれている本で、昭和20年代の日本においては、深刻な影響を及ぼす書物だったとのことです。
今も読む価値があるはずですが、中々手に入らないし
そもそも、公立図書館でも読むことができない。
いつしか廃棄本とされてしまった。
もし読みたければ、東京の国立国会図書館にでも行かねばならない。

そこまでできる人といえば、ライターとかしかいないのではないでしょうか?
それで本の存在さえも忘れられてしまう
その結果が、小林よしのり氏の先のコラムとなるのではないでしょうか。

この書物の下巻表紙に恐ろしいことが書かれています。

ノーマン・トマス
今後、アメリカの将軍、大統領は絶対に降伏する気にならないにちがいない。
戦争というものは、山下裁判の前例に基づいて、読者は敗者を絞首刑に処する理由をいくらでも発見できる性質のものであるから。

軍事裁判中の山下大将と武藤中将の動画です。

武藤章中将のはこちらです(山下大将と間違えている人がいますが、これは間違い無く武藤章中将です)

この軍事裁判で絞首刑宣告を受けた山下大将は、12月8日以降参謀長であった武藤章さんたちと引き離され、一人で既決囚として隔離されていました。

フランク・リール氏たちは、山下裁判はアメリカの恥となると、今度はクリスマス返上で、アメリカ最高裁へと訴えるために準備に追われることとなりました。
もし山下大将が判決通り死刑になるなら、これはアメリカの恥となるので食い止めようと、アメリカ本国の最高裁判所を巻き込むこととしたのです。
それで12月23日午前、死刑囚としての生活を送っている山下大将に会いに行ったのです。その時の記述は以下の通りです。

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ピラミッド型のテントを取り巻く有刺鉄線の柵の中に案内された。彼(山下大将)は出てきて私たちを迎えた。
すり切れた陸軍の作業衣を着ているだけで、幾分やせたように見えたが、山下は依然として司令官だった。
まるで昨日会ったばかりであるかのように、彼はからからと笑い、微笑し、冗談を言った。

しかし明らかに彼は私たちに会えて非常にうれしがっていたのだ。

私達は彼を訪問することができなかった理由と、なぜ今日許可を得ることができたかを説明した。
私達は過去16日間の出来事、処刑の様々な延期、1月7日に最高裁判所が審問を許すことに決定したことなどを詳細に物語った。

法廷の審問はマニラの裁判とは違うであろうということ、それは法律に関係することで、事実に関することでないであろうということ。
私達の勝利の見込みは少なく、たとえ勝ったとしても、私達が望みうる最良のものは新しい裁判であろうということ。
私達は他の出来事の話をした。
ー彼の判決を終身刑に減刑するか、もしくは彼に自決の機会を与えるようにと、
86000人の日本人によって署名された嘆願書が東京のマッカーサー元帥に提出されたという新聞の報道。山下は微笑した。
そしてその嘆願書を回した男の名前を知らないと言った

それから山下は真面目になった。
彼は私達がしていることに対して私達に感謝した。私達は彼のために多大の犠牲を払っており、そのことが彼を深く感動させると彼は言った。
私達は「はるばるアメリカへ」行くところだった。
私達はクリスマスを捨てた。
「私達は空中でクリスマスを祝うでしょう」私は空を指差して言った。

「あなたがたがアメリカの法廷で論ずる問題は、私の有罪無罪に関係がないことを私は知っています。
決定しなければならない重要な法律問題、司法的問題があり、
そのあるものは、世界平和のために決定されなければならないということを私は知っています。」

そして、彼はまた懐かしい笑顔を浮かべた。

「そのことは、私がその結果に個人的利害を持っているということを理解しないと言っているのではありません」

収容所長はセキ払いをした。それは別れるべき時だった。
私達はさよならを言った。
「次の裁判のためにマニラに帰ってきた時、またお目にかかりましょう」

「大将は非常に感動していました」
と浜本(日本人通訳で山下裁判時にリール氏と協力していた浜本正勝氏。
彼は山下大将が絞首刑判決後、武藤参謀長たちとともに有刺鉄線の外に抑留されていたので、ここでも通訳として登場)はいった。
「彼はほとんど泣かんばかりでした。彼はそれを見せません。しかし私は知っていますー私は知っていますー。」

私達が車に乗り込む時、私は振り返った、山下はまだテントの正面に立っていた。
彼の色あせた作業衣が熱帯のそよ風で揺れていた。
彼は手を挙げて振った。

山下奉文ー四国の庭で花の成長を見守った小さな少年。
難攻不落のシンガポールを征服したマレーの虎、色あせた青い作業衣を来て、テントの正面に立って待っていた老人。
私達は家路についていた。
そして、彼もそうだったと私は思う。

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アメリカの最高裁判所は、フランク・リール氏らの請願を受理したものの、結果として却下しました。理由は、事件は軍事裁判の対象であり、アメリカ最高裁の管轄外だとのことでした。
マーフィー判事・ラトレッジ判事のみ、山下裁判の不当性を認めたがそれは少数派に過ぎなかったのでした。

そして昭和21年(1946)年2月23日、山下奉文大将は絞首刑を執行されてしまいました。
なお、サダム・フセイン裁判時にも、マーフィー判事・ラトレッジ判事のことが新聞記事だか何かで触れられていたのを覚えています。

クリスマス・イブ的には、すでに死を待つ山下奉文大将が、リール大尉たちと別れる際に微笑みをたたえて
いつまでも、いつまでも手を振り続けられた姿が目に浮かんでしまいます・・・。