♪マハリークマハーリタ♪

この謎めいた呪文から始まるオープニングテーマソングで有名な
昭和のアニメ「魔法使いサリー」です。

サリンは教団内では『魔法使い』『サリーちゃん』と呼ばれ、
中川智正さん自身が、教祖や信者の前でその歌を歌って見せたことがきっかけで
「サリーちゃん」「魔法」という隠語になったようです。
(麻原第180回公判、2001年1月11日)


このことが麻原裁判中に検察側証人として出廷した中川智正被告に再度問われたのが
麻原第162回公判(2000年6月23日)のことでした。
教団内で初めてサリンが製造されたのは、当時は1993年11月とされていましたが、
実際は、1993年8月のことでした。

出典:中川智正「当事者が初めて明かすサリン事件の一つの真相」(『現代化学』(548))2016年



この中川智正さんが2016年に書いたときは、すでに確定死刑囚となっていたからでしょう。
中川智正さんなりの当時の正確な認識を記しています。

1992年の末、教団はサリンの大量生産を企てました
この計画は、社会に対してはもちろん、教団内部に対しても極秘でした。
私(中川智正)は、当初この計画にかかわっていませんでしたが、
内容を知りうる立場でした。
責任者は、故・村井秀夫氏と上祐史浩氏で
二人の指示のもと実務を担ったのは、大学院で化学を専攻した土谷正実氏でした。
彼はまず実験室規模でのサリンの製造を試みました。
化学薬品の入手については、教団の生物兵器の開発をしていた遠藤誠一氏が
便宜を図りました」

と。

これは、私の見た限りでは、
裁判中だけではなく、
中川智正さんの『対話本』でも
アンソニー・トゥ『サリン事件』でも記されていません。




中川智正さんは教団内でサリンの大量製造については知る立場
(教祖側近となったのが1990年)
ではあったが、当初の計画にはかかわっていなかったということでした。
しかし、オウム事件裁判中においては
土谷正実さんがサリン製造に成功したのは、医師だった中川智正さんが協力者だった
と認識されていました。
中川智正さん自身も、「どうせ自分は死刑になるからなあなあでいい」という気持ちから
検事がそう書きたいならどうぞ、と書かせてしまったらしく、
中川智正さん自身が裁判で正確に話す気持ちになったときに
齟齬が出てきて混乱させてしまう結果ともなっています。
これはサリン事件に限ったことではなく、
中川智正さんが関わった事件ほとんどがそうでした。

さて、中川智正さんはサリンその存在をいつ知ったのか。
麻原公判第162回(2000年6月23日)
出典:「朝日新聞」2000年6月24日朝刊
毎日新聞社会部『名称変更で存続図るーオウム「教祖」全記録6

神経剤という言葉を、中川智正さん自身は小学校高学年には知っていました。
子供用の軍事関係の本で、7トンまけば山手線内が壊滅するという内容でした。
なお、ほぼ同じ内容を村井秀夫さんも知っていたとのことでした。

中川智正被告は、その一種であるサリンについての殺傷能力自体に疑問をもっていました。
「土谷(正実)くんは、作っている場所のすぐ横で寝起きをしていた
異状も出ていなかったからです。」と答えています。

1993年秋以降、サリン製造の現場でもかなりいい加減な管理をしたのに、体調不良を
起こす程度だったことや、池田大作・創価学会名誉会長を襲撃した時に
散布を担当した教団幹部が一時重症に陥ったのは
大量に巣一献でしまっただけでなく、予防薬の投与を間違った、その相乗効果と
わかったと強調し、
その後、滝本太郎弁護士サリン襲撃事件、松本サリン事件までに
教団のサリン製造量が増えたのも、その効果が弱かったからだとのことでした。
また、1994年1月のロシアツアーで、村井秀夫幹部がロシア科学アカデミーの幹部と接触し
化学式が同じでも毒性の強弱が数千倍異なる2種類のサリンがあることを聞いたとのことです。

この時の中川智正被告は、「殺意」以外のことについては
感情の起伏をみせずに、スラスラと語ったとのこと。
「殺意」を否認する話になると、中川智正被告は大きなため息をついたり
肩を上下させたりして、途端に落ち着かなくなるということでした。

この日の二日前に、中川智正被告自身の公判があったときに
裁判長から「端的に聞くが、作れと言われたのは人を殺すための毒ガスではなかったのか」
と突っ込まれて絶句してしまったとのことです。

当時の毎日新聞記者からはそのような様子を
「法廷では都合の悪い質問には『覚えていない』と答える一方、
医師の経験をもとに先生が生徒に教えるように化学知識を披露する
地下鉄サリンなど11事件に問われながら厳刑を覚悟しているようには見えなかった」
と書いています。

私も当時この様子を朝日新聞、毎日新聞で読んだならば
同じように感じました。

しかし、中川智正さんという人を調べていくと、
少し違うようにも思えてきました。
まず、化学知識が豊富で、それを披露するというところは、
(元)医師だからというのではない、ことです。
これは「対話本」の226頁

アンソニー・トゥ博士への最期の手紙の中に
「医学知識はともかく、私の化学知識は不足したので、ずい分勉強しました」


これはVX事件の論文についてのことですが、

中川智正さん自身は、「医師として化学知識を披露」と書かれるのは
正確ではないということをどこかで言いたかったのではないでしょうか。

確かに素人からすれば、医学部は理系学部の中でもっとも難関であり、
理系教科はすべて出来るぐらいにみているから、
中川智正さんの経歴から「医師だからこその化学知識」と思ってしまいます。
医学部に入るには化学を学ぶ必要はありますが、
化学だけをやるわけでないのが医学部だと思います。

中川智正さん自身は化学知識もあったと思いますが、
教団のワークでサリン製造にいきなり関わり
学んだことを懸命に(感情をいれないでいい部分なので)
淡々と、しかし丁寧に詳細に話しただけではないでしょうか。

さらに、
中川智正さん自身は「自分は逮捕された時点で、死刑以外にはあり得ない」と
何度も語っているのだけど、
それがまだ裁判中では伝わっていなかったようです。

最後に、この教団では出家が早かった人の方が発言権が高かったことを
考えると、中川智正さんや土谷正実さんたち製造組よりももっと責任がある人が
いるのではないかと思います。

その人たちについて、中川智正さんが「ジャムセッション」10号(2016年12月)
に書いた部分を引用します。

「率直に言えば、今後、教団が何を言い始めるのか、何をやるのか
分かったものではありません。とは言え、教団の人たちの大半は、
社会の中で宗教だけをやって生計を立てていきたいというのが本音です」
彼らが組織として大量殺人を起こす可能性は低いと思います。
(中略)
教団の漂流。これが私の心配する今の教団の危険性やあやうさです。

日本の歴史、世界の歴史に汚点として残ることをした

1999年に入っても
中川智正被告は相変わらず証言しようとはしませんでした。

麻原の第103回法廷(1999年1月14日)に出廷した際に
麻原弁護人側から
「世間はあなたの気持ちを理解していない。分かってもらえないのは寂しいとは思わないか」
といわれた時
中川智正さんは
それは分かっていないでしょうね
両手をひざにのせ、天井を見上げ続けたまま。

その時教祖も、口をすぼめて目を閉じて、うつむいたままでした。

なお、中川被告のあとに出廷した遠藤誠一被告は、明確に
「松本被告がサリン噴霧を指示した」と、
麻原が直接松本サリン事件時に、弟子に直接指示を出していたことを初めて証言しました。

遠藤誠一さんと中川智正さんでは、
後に、確定死刑囚になったあとも沈黙をしていた遠藤誠一さんに対して
逆に拘置所内において論文を発表したりとアクティブだった中川智正さんの姿から

中川智正さんの方が先に教祖のサリン事件関与に関して証言し始めたように思えるかもしれませんが、

裁判内においての証言は、遠藤誠一さんの方が先であったのは
意外かもしれません。

2000年2月3日の中川智正公判において、VX襲撃事件の被害者・永岡弘行さんが検察側証人として出廷しました。
自分が犯した事件について「時期が来たら話す」としか言わない中川智正被告に対して
生ある限り、今日ただいまから事実を述べていただきたい。
誰が見ても、後悔の念がにじみ出ていると思える態度でそうしてほしい。
前途ある青年が、二度とあのような大罪を犯すことのないよう
現役の信者に、それは間違っている、というひとことを中川くんが残してほしい

という言葉に対しても、

中川智正被告は、ずっとうつむいたままで、時に泣き出しそうな表情でした。

この日に、永岡弘行さんは被告に対する被害者としての処罰感情を主に聞かれました。
オウム真理教家族の会(旧・被害者の会)の会員として、ともに息子を奪回するために
活動をしてきた中川智正被告のご両親を思うと、
正直、こうしてほしいと申し上げることはできない」といい、
永岡弘行さんを襲撃するために使った注射器にVXを注入したのが中川智正被告だと判明したときに
まず、中川被告の母親から電話を貰ったが、お母さんは私が電話に出た途端
何も言えなくなり泣くばかりだったとも証言しています。

裁判の休憩が終わり、再開したときに、少し遅れて入ってきた中川智正被告を見た永岡さんは、
思わずその顔を見ると、
中川智正被告が永岡さんの目を見てそっと会釈しているのが分かったと。

なんでこの子が、この青年が」とたまらなくなったとのことでした。
(以上、「朝日新聞」2000年2月4日朝刊)

その一月後、2000年3月末でした
中川智正被告の心変わりがあったのは。

地下鉄サリン事件について、いつもより詳細に語ろうとする姿勢を見せた中川智正被告に対して
どうせ自分は死刑と、なげやりになって調書の内容はどうでもいいと思った」といったあなたが
なぜ今詳細に語ろうとするのか、心境の変化があったのかと聞かれると

「自分が死刑になっても償いができる性質のものでない。
ものすごく大きな事件、
日本の歴史、世界の歴史に汚点として残ることをした、と少しずつ分かってきた。

これで自分の人生は終わり、どうでもいい、という感覚が消え
生存したい、というのではないが、残りの人生をちゃんとやらなきゃいけないと思うようになった
(以上、「朝日新聞」2000年3月31日朝刊)
おそらくこの裁判の時であったと思いますが、

青沼陽一郎『私が見た21の死刑判決』(文春新書)の中に詳細な内容もあります。



これについては、故・中川智正氏、被告時代の苦悩(その2)
でも引用していますが、
今回も再引用したいと思います。

「家族や友人から、きちんと話した方がいいというアドバイス、
あるいは法廷で証言する最後の機会がこの時であるという進言を弁護人から受けたことがあった。」
と言い、
「それと・・・私事ではあるんですが、実は最近、親戚が増えたんです」
・・・私は子供をつくれないけど、身内に子供を生んだものがいるんです。
その子は私が何をしたかを知らない。
おそらく一生会うことはないでしょう。
むしろ会わないほうがいい・・・。
だけど何十年か経って、身内の私のことを考えて
『この人はいったい何を考えてこんなことをしたのかな?』と理解されないのでは
残念な気がしたんです。
言っていること、わかってもらえます?
自分が死刑なるとわかってて、
人間の世界が終われば、別の世界に転生すればいいと思ってた。
でも私が居るいないに関係なく、
この世界は増えて、続いていくんだな。
きちんとしないといけないな、そう思ったんです。
あと、麻原氏の念というか、想念を感じることが一時あったが、
それがなくなった


中川智正被告はその後、一転して発言をするようになります。
すると教祖はどういう態度をするようになったでしょうか。

麻原第161回公判(2000年6月22日)において
麻原はこのような不規則発言をしています。

お前の大好きなブッダを」
「お前、やめろ」
「麻原彰晃、松本智津夫はお前の父親」
「脚力は強いんだ


以前であれば、黙り込んでしまっていた中川智正さんでしたが、
はっきりと不愉快な態度を見せています。

阿部文洋裁判長は、そんな中川智正さんに対して
「何も聞かなかったことにしましょう」と声をかけました。

この麻原被告の態度にも変化がありました。
これまでは「どうせ中川くんは話さないから」と思っていたから
口をすぼめていたのでしたが、
中川智正さんまで話すようになってから
必死になって止めようと、
お前の父親は俺だとか言い出すあたりは、
きっと麻原は不規則発言をしながら、法廷の内容を理解していたのではないか
と思えてなりません。

中川智正さん自身も、この2000年の心境の変化が大きかったと思います。

死刑が確定しているのに論文を拘置所から発表するなどの行為に
つながっていくのではないでしょうか。
中川智正さんのしたこと自体
「日本の歴史、世界の歴史に汚点」

自分は死刑になるけど、その後も世界は続くのだ。

だからこそ、自分は自分のしたことについて、
出来る限り正確に語っていきたいと。

中川智正さんの論文発表については賛否両論でることは
おそらく中川智正さん自身が「想定の範囲内」だったと思います。

事件の内容を語ることに意欲的だったのはなぜだったのか。
死刑執行後に出版することにこだわったのはなぜだったのか。

中川智正さんとしては
第一に、「自分が確実に死刑執行されて罪を償うこと」
第二に、「死刑執行前に自分のしたことを正確に書き残すこと」
と決めていたからではないでしょうか。
こうした自身の身の処し方をみても、2000年3月末というのは
大きな意味を持つのかと思います。
しかし、麻原の想念が入らなくなったと自覚してからも
苦悩はさらに続くこととなります。