「子どもを何とかしろ」という声が聞こえた(坂本弁護士一家殺害事件)

中川智正被告が一番語るのが辛かった事件が、坂本弁護士一家殺害事件と思います。
中川智正さんにとっては、
オウム真理教に出家して2か月後に加担した殺人事件だったのだから。
坂本弁護士一家殺害事件について法廷で証言をし始めたのが、
2000年7月の自身の公判でした。
(「朝日新聞」2000年7月28日朝刊)

坂本弁護士一家殺害の謀議の場で、教祖の指示は何という言葉だったのでしょう。
例えば、岡﨑一明さんは「ポア」という言葉を教祖が使ったといい、
それに対して、教祖は「ポアなんて言ってません!」と言い返していました。
※この件に関する動画は、青沼陽一郎氏作成の動画が詳しいです。



中川智正被告の証言によると
殺害を意味する宗教用語の「ポア」ではなく
「やる」などという直接的な言葉で指示した
ということでした。
これは他の被告とは異なることでした。

さらに、坂本弁護士の息子さんだけではなく、妻の都子(さとこ)さんを殺害したことも
認めました。

事件については、
「二日前に実行犯らが松本被告の部屋に集められ、
教団を批判する記事を掲載していた週刊誌『サンデー毎日』の当時の編集長を
教祖と村井秀夫幹部が話し合った結果殺害する計画になった」

しかし、編集長が家に帰らないという話が出た時に
教祖が突然「坂本弁護士はどうだ」と言ったことで
殺害対象が坂本弁護士に変わったと主張しました。

坂本弁護士の名前が出た理由については
「説明がなかった」とのこと。

犯行の状況については、村井秀夫幹部が都子さんの首を絞めていたのを見て
「けい動脈を押さえなければ」と自分から言い、
村井秀夫が「代わってくれ」と答えたため
柔道の絞め技を使って首を絞めたと供述。
「私が絞めている間に奥さんが亡くなった可能性が高いと思う」と。

この2000年7月の公判の時以上に中川智正被告自身が落ち着きを失ってしまったのが
2001年3月9日の麻原第187回公判でした。
(「朝日新聞」2001年3月28日朝刊)

殺害場面に関する尋問の際、異様に興奮し、何度も証言台に突っ伏してしまいました。
法廷イラストはこちら。

証言によれば、共犯者の一番後ろから寝室に入った中川智正被告は、
他の共犯者が一斉に坂本弁護士に攻撃するのを
しばらく室内でぼうぜんと立ったまま眺めていたと。

すると、足元で、幼児が泣き始めました。
そのとき、中川智正被告には「子供を何とかしろ
という声が聞こえたといいます。
それは仲間の誰かが叫んだのではなく、
自分の心臓の中からの声」だと思ったと。
その後、隣で奥さんを攻撃していた「村井さん」の首の絞め方が十分ではないのが
分かったので、思わず「けい動脈!けい動脈!」と口走りました。
自分が過去世で『麻原尊師』にけい動脈を絞められて殺された記憶が
あり、それには宗教的意味合いがあると考え

「村井さん」に代わって柔道の技で奥さんの首を絞めたーーーというのでした。

この話は捜査段階ではなかったと検察側が追及

「そう主張するのは、自分の責任能力を争って軽くしようと考えているからではないか?」

それを言われてますます中川智正被告は興奮。
「たしかに書いてない。
検事さんはその話をしたとき、
笑って聞いてくれなかったじゃありませんか


そう言って、それまでも何度もメガネを外して、
証言台に顔を伏せるようにしていた中川智正被告は
そこに突っ伏して、長い時間、何も話そうとはしなかったとのことでした

さらに「朝日新聞」2002年4月20日朝刊。

この前日19日に、自身の公判において坂本弁護士事件関係の最後の被告人質問がありました。
その時にも「おわびのしようがない」と証言台に突っ伏して泣きだしました。

「自分の中には『教祖』松本智津夫(麻原彰晃)被告の想念が入り込んで来て、
自分は教祖と一緒にいるいう
笑い出したいような歓喜を感じた』」とまで供述。

なぜ事件に関与したのかの問いには

「一言で言えば、麻原氏の意識と自分の区別ができなかったから

「自首という発想はなかったが、
麻原氏がしろといったらしたし、死ねといったら死んでいた」と語りました。
この日の供述中、中川智正被告はずっと泣き続け、興奮し続けていたようですが、
たった一度、涙で途切れたのは。

オウム真理教被害者の会の一員として活動していた自分の母親が
事件後も息子の関与を知らずに、坂本弁護士一家の墓参りをしていることを
最後に語ったとき、ただ一度だけでした。

「遺族ははりつけにしてほしい、言っているというが、返す言葉はない」と
謝罪の言葉を語ってしばらく泣いた後、

それでも以後教祖の側近でいて事件に関与し続けた心境を聞かれると
中川被告は
怒られるのは嫌だったが、そばにいることが無条件にうれしかった
と「教祖」への思いを繰り返して泣き続けるという様子でした。

おそらく2002年の最後の被告人質問の時は、
中川さん自身がすべてありのままに語る覚悟で供述していたのだと思います。
特に神秘体験について。
言葉にするだけで自分自身何を語っているのか分からなくなるのを分かったうえで
壊れた姿を法廷で晒してまでも、神秘体験についてこだわって話していたことが
わかります。
これは、最初に新聞記事を読まなかったから、
私は分かったような気持ちになっているのだと思います。
これまで、私も中川さんの神秘体験を読んできています。



自分の母親が、自分の殺害した人物の墓参りをしているところは
泣かないで話すことが出来ていたけど、
自分の「心臓の中の声」について語るとなると
興奮状態になってしまっている姿がよくわかります。

当時の「朝日新聞」記事では、
「中川被告は自分のためにしか泣いてないのではないか」と書かれています。
それは、当然かと思います。
まさか、「巫病」「感応性精神病」「解離性精神障害」であるとは
新聞記者も、読者もわからない。
何で中川被告はこんなに興奮しているのだろうという
不思議な気持ちになったのではないでしょうか。

教祖との関わりは過去世からとも感じていたことも
宗教に疎い傍聴席の存在がないかのように
泣きながら言葉を探して語る姿。
これもまた、一つの人間の姿なのだ、と。
とりあえずでしか、理解できないです。
ここで、中川智正さんの中では
母親<教祖(過去世)と
教祖の存在が自分の中で親よりも大きいと考えていたことも
また、事実だったのでした。
坂本弁護士事件関連の新聞記事は、毎日新聞より、朝日新聞
(降幡賢一記者)の記事が詳細でした。

出典:降幡賢一『オウム法廷13』



毎日新聞社会部:『検察側立証すべて終了―オウム「教祖」法廷全記録〈7〉』

殺害目的はなかった公証役場事務長拉致事件

地下鉄サリン事件の遠因とも評価されている公証役場事務長拉致監禁致死事件。
アンソニー・トゥ博士は、麻酔剤「チオペンタール」を中川智正被告が被害者に注射したこの事件を
一種の科学テロだとも書かれています。(126頁)

公証役場事務長の妹はオウム真理教の信者であったが、脱会しようとして教団から逃亡しました。
教団は「信徒となったのに義務を果たさないので追及するため」に、
兄である仮谷清志氏を誘拐し、妹の居場所を突き止めようとしました。

東京で仮谷氏を誘拐した井上嘉浩、中川智正らは東京から上九一色村へ車で運んだが
仮谷さんを死亡させてしまったというものです。

これは「対話本」に興味深い記述があります。

トゥ博士:「なぜ妹さんの住所を聞き出すために、その兄を誘拐したのですか。
      本人が教団を嫌になったのに、なぜ強引に探し出すのですか」
中川:「その妹は、教団の信徒となったのに義務を果たさないので、
            それを追及するだけのことでした。


トゥ博士が「脱走者を連れ戻すのは教団として当然の話であり、まったく悪いと思っていない」
と中川が答えたことに驚いておられました。

私も改めて驚いた箇所でもありますが、
中川智正さんが特別手配者になったのは、1995年5月12日、
愛知で脱走者を連れ戻すため住居侵入をしようとしたという事件だったのを思い出しました。

中川智正さんだけではなく、教団附属病院に所属する医師たちはこうした脱走信徒を拉致監禁するために
医師の立場を使って麻酔薬を注射したりしていたり、死亡した信徒を火葬まで管理するというような
ことをしていたようです。
「読売新聞」1995年6月8日朝刊によれば、
教団では入信の際に、葬儀は麻原彰晃(本名:松本智津夫)に任せるという趣旨の誓約書もとっていたと
あることから、死亡診断書の作成をしていただろうこともうかがえます。



「読売新聞」1995年5月15日の記事では
教団附属病院所属の医師たちのほとんどが逮捕もしくは指名手配中だと
出身大学まで一覧表にし、彼らは、諜報省のメンバー(井上嘉浩など)と協力し、
教団の非合法活動を支えてきたと見られていると報道していました。

結局は逮捕され医師免許を返上したのは、中川智正と林郁夫のみでした。
(あと出所後に医師免許はく奪者が一名。
その元信者は医師免許を所持していたが、医院附属ではなかった)

教団附属医院は、東京都中野区にありました。
ついでに、あまり知られていないことですが、
中川智正さんは何と「中野区民」だったのでした。
(中川智正さん本人もどこに住民票があるのか分かっていなかったと思います。
本人は7年間富士山麓で生活していたつもりでいたかもしれませんが、
附属医院開設の時に顧問として名前を出す際に住民票が移されてしまっていたのでしょう)
・・・となると、中川智正さんは28年間「東京都民」だったということですかね?

逮捕後、「反省を形にするため」「死刑になるのでもういらない
(麻原第249回公判、2003年2月27日)ということで
自分から医師免許を国に返上したときの手続きで、
初めて中川智正さんの住民票が中野区に登録されていたことが分かったのでした。

本人はおそらくどこに住んでいてもいいという考えでしたが、
医師免許を返上するにあたり折衝に当たったのが、中野北保健所でした。
実家のある岡山市のご両親と連絡をとり、両親が面会の際に本人直筆で署名させて
国に提出したのでした。
中川智正医師免許返上をきっかけに、
オウム真理教附属医院を廃院にすることが出来たのでした。



中野北保健所の職員だった方の貴重な手記です。
医院開設の際も、オウム真理教らしく、提出書類が不備なのを棚に上げて権利を主張してきて
結局開院に至ることとなるし、施設内部も到底医院とは言えない不清潔なものであったこと、
保健所から東京都、厚生省まで書類を上げたりすることに数か月
(中川さん免許返上にしても本人は6月に返上していると言っているけど、
結局国が返上を認めたのは8月。これは書類のやりとりや審査に時間がかかったため。
厚生省の不手際を補うかのような現場の中野北保健所の職員さんたちのマスコミ対応と
国との煩雑な書類のやりとりを乗り切ったチーム力は素晴らしいと思いました。)

話を「対話本」の仮谷さん拉致事件に戻しまして

トゥ博士:「どういう風に仮谷氏に注射して殺したのですか」
中川「これは殺人ではありませんよ。誘拐事件でした。
   裁判の判決結論でも殺人事件ではなく誘拐事件と言っています。」

トゥ博士:「麻酔剤を多く打ちすぎたことによる過失死でしたね」
中川:「違います。多く注射しすぎたのではなく、麻酔の状態が長すぎたのです
   一度に多く注射するのは殺人行為です。
   通常の量を使っていたのですが、麻酔の時間が伸びてしまったのです。
   そのために体内に大量のチオペンタールナトリウムが蓄積し、
   仮谷さんは副作用が起こりやすい状態となり
   その時に私がそばにいなかったために亡くなりました」

この時の中川智正さんは少しムキになって語ったようでした。

さて、この仮谷清志さん拉致監禁致死事件について、教祖の裁判などでは
中川智正さん自身はどのような答え方をしていたのでしょうか。

麻原第166回裁判(2000年9月7日)での証言
(出典は、毎日新聞社会部『名称変更で存続を図る―オウム「教祖」法廷全記録〈6〉2001年。
こちらには、教祖公判142-179回までの記述が掲載されています)



検察官:「拉致事件に関与しましたね」
中川:「はい」
検察官:「いつでしたか」
中川:「平成7(1995)年2月28日の夕方です」
検察官:「車内に仮谷さんを連れ込んだ時、仮谷さんはケガしていましたね」
中川:「頭というか額を打撲して、切れて出血していた。3センチぐらいの傷でした」
検察官:「車を出発させてからどうしたのか」
中川:「仮谷さんのふくらはぎに麻酔薬を打った」
検察官:「何という薬だったのか」
中川:「ケラタール」 
検察官:「通常の量か」
中川:「170ミリグラムぐらい。体重を50キロほどと見積もったので若干少ないかな、という程度」
検察官:「薬を打ったらどうなったのか」
中川:「1分で目の焦点が合わなくなり、2、3分で眠った」
検察官:「それから何かしたか」
中川:「点滴を打った。チオペンタールも投与した」
検察官:「井上嘉浩(被告)が新たな車を借りて戻ってきたときはどうしたか」
中川:「その時使っていたワゴン車と同じ車種だったので、別の車を用意するために出て行った」
検察官:「同じ車種だと、どうなる?」
中川:「目立つという事だった」
検察官:「警察に対して?」
中川:「そういうこともあったかもしれない」
検察官:「仮谷さんの容体はどうだったのか」
中川「息を吸い込んだまま吐かなくなった」
検察官:「何か処置したか」
中川:「体を横向きにしたら呼吸を始めた」

中川智正被告らは上九一色村につくと、治療省トップ林郁夫(当時服役囚)の部屋に仮谷さんを連れていった。
教団を脱会した仮谷さんの妹の居場所を聞き出そうと、
ナルコ(麻酔をかけて半覚醒状態にして情報を聞き出すこと)をかけてほしいと依頼したとのこと。
このあたりの話をしている時の中川智正被告は、肩を回すなどして落ち着きがなかった様子でした。
検察官:「仮谷さんへの睡眠薬の投与量は医者としてどう思うか」
中川:「当時は教団内で非常にたくさん使っていて、多いとは思わなかった。
勉強不足で非常に申し訳ない


※この証言より、当時の教団脱会者や戒律を破った者などの処置に医師免許を信者は
薬物を多用しすぎて、医療行為をすること自体にも麻痺していたことがうかがえます。

検察官:「投与の目的は」
中川:監禁するためです」

検察官:「林郁夫は何か話していたか」
中川:「『多かったですか』と聞いたら、『そんなもんじゃないでしょう』と」
検察官:「ナルコで仮谷さんの妹さんの居場所は分かったのか」
中川:「聞き出せなかった」

検察官:「目覚めたら、また投与すると」
中川:「まあ、そうです。指示があれば帰し、なければ眠らせる。村井(秀夫)さんが
『帰せないかな』といっているのを聞いた。自分もそう思いました。」
検察官:「本当に帰せると思ったの?」
中川:「それは私が決めることではないし・・・」

検察官:「ニューナルコって何ですか」
中川:「頭部に電気を流し、記憶を消す方法です。村井さんは、『帰しても、警察で問題にならないか』と」
検察官:「で、結果は?」

中川:「村井さんは、『やはり帰せない』と
検察官:「村井は、「塩化カリウムを注射してはどうか』と話したが」
中川:「殺害するためと思いました
『(事件の時に来ていた服は)早く燃やした方がいい』とも言われました」

検察官:「村井は戻って来てから何か話しましたか」
中川:「仮谷さんを殺すということで、男性信者に首を絞めさせる、と」

検察官:「どうして麻原の指示と思ったのか」

中川:「村井さんの言っていた話が最初言っていたことから変わったからです

ここで、中川被告は、男性信者を誰か連れてくるよう井上嘉浩被告に電話で伝えるため、仮谷さんのそばから離れたことを
話しました。

検察官:「戻るとどうなっていましたか」
中川:「(仮谷さんは)亡くなっていました。何が起こったのかと、脈を見ました」
検察官:「死因は窒息」
中川:「そうです、(原因は)麻酔薬です」

この次(第167回、2000年9月8日)の麻原公判では、
時期を遡り、滝本弁護士殺害未遂事件に関する尋問でしたが、

ここで、検察側証人として出廷した中川被告は林郁夫被告について、こんな風に表現しています。

麻原弁護人:「(滝本弁護士殺害にあたり)林さんを連れて行こうと思った理由は」
中川:「何となく不安があった。
試験の時にお守りを持っていくのと同じで、いてくれると安心する
また、(実行役の女性が誤ってサリンを吸ったときに)私が治療したら怒られると思った」
麻原弁護人:「なぜそう思ったのか」
中川:「私は麻原さんから女性に甘いと言われ、
女性に治療をして楽しんでいる
と見られていた」

結局この事件の時には林郁夫被告とは合流に失敗しています。

当時、麻原は林郁夫が信徒の拉致に失敗していることを挙げ、
中川に『あいつは心が弱いから積極的に使え』と言っていました。

中川智正さんと林郁夫さん、教団内において、同じ医師同士の関係ですが、
中川智正さんは、研修医途中で教団に出家しているため、医療技術に自信が今一つもてなかったようです。
心臓外科医としてのキャリアを持つ林郁夫さんの医療技術を信頼し、頼っていたことがわかります。

ぞのような中川智正さんの医療技術を未熟と感じた林郁夫さんは、
教団内でも麻酔薬の大量投与による信徒死亡例があるにも関わらず、
中川に情報共有しようとはしなかったこと、
仮谷さん事件でも責任を中川智正さんに押し付ける傾向があるらしく、
中川智正さんは
治療省の人間に聞いてほしい。
林さんがしていたこと、事実が明らかになる。
仮谷さんが狭心症を患っていると知って不安になって中川が林に相談した時、林は「大丈夫でしょう」といったから
ナルコを始めた、林さんが心臓の専門家だから信頼したのに
」という内容の不満を漏らしました。
(このあたりの記述は、降幡賢一『オウム法廷』12)



中川智正さんは坂本弁護士一家殺害事件での殺人経験
教祖や村井に買われてしまったのだと思います。
それが教団内での序列にも影響していたのでしょう。

なお、殺人経験の面では、青山弁護士や遠藤誠一さんは教団に大切にされていたので、
殺人現場に行かない人だったと、中川智正被告は答えています。
(この部分は、麻原第166回公判)
中川智正さん自身は、殺人経験が教団に買われたため、
その後の事件でも使われてしまっていたことを自分でも意識はしていたけれど、
やはり殺人行為は嫌だったということがわかります。

中川智正さんは、教団附属医院顧問の肩書はあれど、
他の医師免許を持つ信徒でさえ、何をしているのかわからないことが多々あったようでした。
「くったくのない、子供ような明るさがある人でした。
でも何をやっているのか私たちにも分かりませんでした。
時々、『借りていくね』と注射器をもっていったことはありましたが、
何に使うかもわからないし、特別なワークがあるんだろうな
と思っていました」
とは、元信者の言葉です。(出典:『週刊文春』1995年8月17-24)

仮谷清志さん拉致監禁致死事件を裁判の記述で改めてみると、
最初は拉致して居場所を聞き出すことで精一杯なところに、
突然、麻原の意を受けた村井の一声で
殺害するという方向に転換したことが分かりました


私が1995年のこの事件を当時テレビや新聞で見た時には、オウム真理教の恐ろしさ、カルト宗教の恐怖さを
まず第一に感じたものでした。
自分は絶対にカルトには関わらない自信をもってテレビ番組を見ていたことを思い出します。

それから23年経った今、こうして毎日新聞社会部の公判を読み直すと、
オウム真理教の計画の立て方の行き当たりばったりさに目がいってしまいます。
それは、まるでどこかの企業での人使い(直接手を下す殺人までには至っていないけど)
の酷さによる自殺事件や労働トラブルを想起させるものです。

毎日、我が国の組織のどこかであるようなことでは・・・。
当初の計画が倒れて、それを埋めるために人を酷使し、組織も人も破滅に至る。

だから、中川智正さんの証言を読んで、
中川さんが冷酷とも曖昧模糊だとも思えなくなっている自分がいます。

自分自身もまた、組織の歯車として、派遣社員としていくつかの企業の末端に連なり、
日々人間扱いされないことに慣れてしまっているから。

オウム真理教は、我が国全体よりも20年先を行っていたのではないか?と

中川智正さんと、私との絶対的な違いとは・・・

麻原第180回公判(2001年1月11日)
(こちらは、毎日新聞社会部『検察側立証すべて終了―オウム「教祖」法廷全記録〈7〉2002年)

弁護人:「仮谷さんの呼吸が止まっていたことに気づいた時、何が異常だと思いましたか」
中川:「私は人が死んだとき、わかるんです
あれ、おかしいな。誰かなと思っていたんですが、仮谷さんが亡くなっていたのです。」
弁護人:「どういう感じですか」
中川:「光が床に降ってくるんです
その時は別の信者と話していて、仮谷さんが亡くなったとは思っていなかったので、あれとおもったのです」

この感覚が私にはない、ということです。

これが、のちに佐々木雄司先生らによって
「感応性精神病」「巫病」と判定され、
信仰と科学の谷間に陥ってしまった一人の人間の姿なのだと、
とりあえず受け止めておきます。