【毎日新聞1995/10/24夕刊】中川被告初公判


なぜかこの時の中川智正初公判は注目度が高かったのでした。
一つには、麻原教祖が初公判前に横山弁護士を解任したり、
当の横山弁護士自身が入院したりとかで、
麻原に一番近い側近だった立場と報道され、注目されたのではないかと思いました。

以下、記事を引用
———————————————————–

おなかが少し出て、上着が窮屈に見える。
午前10時の開廷。
ゆったりとした足取りで入廷した中川被告の、
ふっくらした顔に表情はなかった。

初公判時の中川被告

中央の陳述台に立ち、胸を張り、
裁判官を見上げるように、真剣に答える。

「名前は?」
「中川智正です」
「生年月日は?」
「昭和37(1962)年10月25日です」
「職業は?」
淡々とした答えが詰まった。
間をおいて
「無職です」
「住んでいる場所は?」
「・・・・・決まっていません」
検事が起訴状を読み上げる。中川被告は両足を踏ん張り
両手の指を開いたり閉じたりする。
起訴事実の認否。
「地下鉄サリン事件について認めますか」と裁判長に問われ
中川被告は答えようとして、喉を一、二度そらした。
声が出ない。
約10秒後、やっと「はい」と認めた。
「えー、まず、サリンを発散させる経過に、尊師とか村井さんとかと共謀して、
事前に知っていたわけではありません。どこで発散させるかも聞いていませんでした」
と答えた。
「サリンの生成は村井さんの指示で確かに行いました。
正確にはサリンは未知の生成法で、私が合成したことは間違いありません」
と一気に語る。
裁判長が殺意について念を押すと、
「ですから、サリンは危険なものと認識はありました。
事前には知りませんでした。
新聞、マスコミで報道され、サリンが巻かれたのは間違いありません」
と語気が強まった。

元信者の落田さん殺害。
肩を大きく後ろにそらせて
「他の人が押さえ、落田君を絞めていました。落田君は苦しそうで、
私も早く楽にさせてあげたいと思いました。」
裁判長が、「押さえつけたのですか」と確認を求める。
「はい。関与しました」。
はっきりとした声だった。
10時20分過ぎ、検察側の冒頭陳述に入った。
被告席に戻った中川被告は向かい側の検察側をジッと見据える、
落田さんのリンチ殺人事件に立ち会った場面で
まばたきが激しくなり、唇をかみしめ
ひざにのせた手を握り締めた。
地下鉄サリン事件の場面では、改めて自分の造った物質の恐ろしさを
突きつけられ、組んだ手をほどいて、つばを飲み込んだ。
11時50分過ぎ、いったん休廷。
中川被告は促されて立ち上がると、傍聴席に目を向けた。
何を思ったのか、一瞬ゆるんだ表情を見せた。

———————————————————————–
当時、家でとっていた別の新聞で、だいたい似たような記事を読んだ記憶がありましたが
そこそこ事件認めているじゃないか。
サリン事件に関わっていることも。
これであとは麻原がどう出てくるかだなと感じていました。

多分、私は、「対話本」だけを買って読んだならば、
この後の何回かの裁判の時に、ウィキペディアにあった
「尊師がどう考えているか、弟子たちに何らかの形で示してもらいたい。
私たちはサリンを作ったり、ばらまいたり、
人の首を絞めて殺すために出家したんじゃない」と麻原に対して叫び、証言台で泣き崩れた
シーンについても、この後ほどなくしてあるものだと
読み飛ばしていたと思います。
実際は、証言台で泣き崩れたのは、ここから6年以上後の話であり、
その6年の間に何があったのか
おそらく裁判関係者以外にはあまり知られていないことではないかと
思いました。

私は、「対話本」



のTu博士宛最期のメールに
そもそも社会への貢献が考慮されるのであれば、
裁判で検察側に全面的に協力した井上君、広瀬君、豊田君などは、林郁夫さんのように
無期懲役になっていたと思います。
」という一文に
とてもひっかかりを持ちました。

中川智正さんは裁判中何をしていたのか?検察側に協力的ではなかったのか?
と、いろいろ改めて疑問を持つようになりました。
それで、また自分なりに調べなおしているところです。

中川智正さんが、「豊田君」と呼んでいる人
この方は、先月26日に処刑された豊田亨さんのことです。
この方については、中川智正さんとTu博士のような関係の方がいらっしゃり、
今も大学で教鞭をとっていらっしゃる方です。
豊田亨さんをモチーフにしたノンフィクションを出されています。



この書物の最後に、豊田亨さんからの呼びかけ文が掲載されています。
(2006年9月16日)
さらに、豊田亨さん自身が気持ちが変化した部分については
麻原彰晃こと松本智津夫被告は10月26日に予定されていた公判を
故意に引き延ばしました。
説法などで、『自らの宗教的確信は、たとえ断頭台に立たされても揺るがない』と
語っていたから
みずからの公判において、その宗教的確信が語られることを期待していたのです」
「教祖の言動に一貫性がないという次元では、もはや済まされない。
これが最終解脱者を自認していた人の発言かと思うと、
失望、落胆、憤りを通り越して、悲しいというほかないのです


豊田亨さんは1995年12月には教祖と精神的にも決別をしていた。脱会もしていた。
私はそんなものだろうと中川智正さんについても思っていたところがありました。
(脱会しているというのは、別の新聞で当時読んでいました。
せっかく取得した医師免許を返上したのも反省されているのだと思っていた)
しかしブログを書いていくうちに、そうではないという部分が沢山あり、
「どうして見抜けなかったのだろう」と思うようになり、
また、つらつらと書き連ねている次第です。
※実際は、少しずつ中川智正さんについて「免疫」が出来たため
何となくは見抜けなかった理由も自分なりに理解しているつもりですが・・・。

なお、中川智正さん自身が初公判の時のことを記しているのが
『ジャム・セッション』5号 2014年にあります。

「95年の10月に私の初公判が行われることになりました。
初公判の朝、私は浅草署の1階にあるガレージに下りて
そこで車に乗り込みました。
ガレージのシャッターが開き、署の周囲を取り巻くように群衆がいるのが
見えました。百人を超えていたと思います。
手前には報道陣がカメラを持って陣取り、
その向こうには店番や台所仕事からちょっと抜け出してきたような
おじさん、おばさんが沢山いました。
私が絶句していると、付き添いの警官が
「外から見えないから大丈夫」と言ってくれました。
確かに車の窓はスモークになっていて、車内から外を見ることが出来るものの、
外から車内が見えないようになっています。
署員が人をかき分けて、車は東京地裁へと出発しました。
上空にはヘリコプターが何台か飛び、
私の乗った車にはテレビ朝日の放送車が並走しました。
アナウンサーがマイクを持ち、プロレスを中継しているのかと思うような表情で
私の方を見て何か喋ってます。
何を喋っているのか聞こえませんでした。
(中略)
浅草署を出る時、巨大ストロボで写真を撮られてしまったことがあります。
ボンというすごい音がして窓ガラス越しにも熱感が伝わってきました。
今でもマスコミでその写真を見ることがあります。
警察の留置係は、写真を撮らせない工夫をもっとすると
言っていました。以後、移動中に写真を撮られたことはありませんでした」

中川さん、ちゃんと自分の写真とか見ているのか・・・。
感想までは書けないのでしょうねーーー。

※※豊田亨さんに関しての書物を見つけられたのは嬉しかったです。
そこで、どうか広瀬健一さんの文章も書籍化してほしいと
切に願う次第です。
webにあるのはわかりますが、リンクが切れていたりすると読みたくても
読めないことがあります。
だからこそなんですが
心ある出版社さん、
今後の教訓を共有するために
どうか出版してくれませんか?


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください