山下奉文大将と武藤章中将


山下・武藤両将軍

この動画は、以前のブログの時に、山下奉文大将と武藤章中将のお写真を
動画にしたものです。バックの曲は大好きな「セピア色の写真」と「想い出をかさねて」
というアンドレ・ギャニオンの曲を使いました。

ところで、この二人は、二・二六事件前後の陸軍中央部で、派閥問題も絡んでか
山下=皇道派 VS 武藤=統制派 と対立関係にあったとされています。
そのせいか、「思想は異なっているが、気が合っていた」とか書かれています。

私自身は、山下さんと武藤さんが、二・二六事件前後の時期には職務上微妙な相違が
あったことは確かだと思います。それはおそらく、山下さん自身が、わりと青年将校に寄ったような
言動があり、青年将校にも誰にも誤解されていたからだと思います。
例えば「岡田(啓介首相)なんかぶった切れ!」

この二人は、前の稲垣副官の手記によると、
山下さんが大佐で歩兵第三連隊長時代で、武藤さんが歩兵第一連隊付
(連隊長が本間雅晴大佐。連隊付中佐というのは、別名「慈母中佐」といわれて
連隊長の「女房役」だった。実は武藤さんは本間さんとも仲がよかったのです!)
だったころから付き合いがあったようです。
武藤さんは、実は二・二六事件の時に天皇陛下の不興を買った山下さんを
傷つけないようにフォローも陰ながらしていたらしいです。
なので、よく言われるように、昭和13(1938)年に北支那方面軍参謀長と参謀副長として
コンビを組んだ時に、半藤一利さんが言われるような心配はなかったのではないか?と思います。
山下さんも武藤さんも、ごく自然にコンビを組んで仕事に励んでいたのだと思います。

この北支那方面軍参謀長・参謀副長時代にも、「天津英仏租界事件」などの様々な困難を
ともに超えたというのもあり、少しの間ですが、武藤さんが近衛師団長だったときに
まだ山下さんは第25軍司令官としてシンガポールにいたということもありました。
二人とも、お互いを尊敬・信頼し合っているというのが、他のどの部下たちにも
伝わるような関係であったのは事実だということです。
こういう関係が持てた二人は、仕事上では幸せだったのではないかと思います。


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください