僕は二つの世界に住んでいる。


「毎日新聞」1996年7月9日東京夕刊の記事より。
VX襲撃事件の審理に入った中川智正被告に関して。
以下、引用
「柔道で鍛えたがっちりした体を窮屈そうにかがめ、
法廷内にいる知人と目であいさつを交わし、被告席に座った。
事件にかかわっていたことを認めたが、
松本智津夫被告との共謀については、これまで同様触れなかった」
のあとに
僕は二つの世界に住んでいる。
一つは、この世界。もう一つはオウムの世界。
どちらも僕にとっては現実の世界なんだ


中川被告は、関係者にそう語ったことがある。
松本被告への帰依、
教団での生活にこだわりを持ち続け、一方で自分の犯した罪がこの世では到底受け入れられず、
被害者の家族を苦しめていることに強い自責の念があるという。
(中略)中川被告は捜査段階で、
「なぜ数々の事件に関わったかといえば、
教団が決めたことだったから、それに従い行動した。
自分は教団でしか生きていけない人間であり、
教団から逃げ出したとしても生きていくことは出来ないと思った」
と供述している。
医師免許も持ち、世間的に恵まれている若者が、
なぜ「ここでしか生きていけない」という結論を出したのか
中川被告がその「答え」を語る時を待ちたい
(引用おわり)

1、医師免許を持っていれば、世間的に恵まれている、といえるのか。

本当はこの答えは、生きていた時の中川智正さんに質問してほしかったです。
しかし、もう「この世」の人ではないので
残っている言葉などを、こちらがつぎはぎして「語ってもらうしか」ありません。
中川智正さんが生きていてくれたら・・・
と思う研修医の方いらっしゃるのではないかと思います。
中川さん御自身は、林郁夫被告第六回公判にて、弁護側証人として出廷した際語っています。

「医大を卒業して大阪鉄道病院に入り、専門は消化器内科だった。
初めに勉強したのは、胃カメラ・超音波、大腸バリウム透視で、入院患者は20人も30人も担当した。
大病院では若い医師が「戦力だから」
ところが、私は患者を診ていると、患者と同じ状態になる。
精神的にも肉体的にも。1989年5月、とうとう手術室で倒れ、
その時の症状は、名医といわれる人でも診断がつかずしばらく休職したあと、病院をやめてしまった。」
と語っています。

「週刊文春」1995年8月17、24号には、
研修医時代の中川智正について
病院関係者には印象が薄いようだ、と書かれた後で
「中川先生には他に三人の同級生と一緒に来られたのですが、一番目立たない存在でした
。一人の患者さんと、一時間以上も話し込んでいることもあって、
患者さんからの評判はよかったんですけど、
そんなに時間をかけていいのかなという感じもあったし、
他のドクターに比べてもの足りない印象でした。」
との評価でした。
おそらく、それでも、私がこれまで見てきた中川さんのことだから
自分が病院に入って使えない人材と思われていることもよくわかっていただろうし、
その中でも空回りして、全力で頑張っていたのだと思います。

たとえば、「読売新聞」1995年5月24日東京夕刊によると
「おれが患者の手を握ってあげると、苦痛がとれるんだ」
「そのかわり、自分の中に悪いものがたまるから、何リットルもお湯を飲んで体を清める」
ということをするなど、
自分なりには最大の努力をして、
何とか一人前の医者になろうともがき、あがいていました。

しかし、実社会、実務の世界では評価はされません
ましてや、一人の患者と1時間以上も話し込んでいるところなどは、
先輩医師に注意されるところではないかと思います。


例えば、「お前は若いから患者は面白がって話に来ているけど、仕事になってないから
一時間も患者の話聞く暇あるなら、もっとやることあるだろう!

(このあたりは、対人援助職における若い新人の方は覚えがあるでしょう)

患者が亡くなった直後は神妙な顔をしていても、
医局に戻ってくると笑っている。そういう態度が疑問だ

とも中川さん自身は家族に漏らしていたあたりは、
先輩医師のやり方や態度がとうてい自分には受け入れられないとけれど、
恐らくそうでもしないと「やっていけない」のが医師の世界なのだと思います。

そんな中川さん自身の唯一の癒しの場、拠り所がオウム真理教の大阪道場だったのでした。
ここで恋人に「今日の患者はひどかった」と疲れた顔で話しこみ、
「オウムに行かないと体がどうしようもない」
「オウムの道場へ行ってパワーを注入してもらわないと、もたない」
などと言い出しました。
「毎日新聞」1995年9月10日朝刊によると、
病院の退職理由は「突然の失踪」ということです。

中川智正さんは、研修医生活を普通ならば2年やらねばならないところ、
1年ぐらいしか「出来なかった」
そんな自分が社会で生きていけるのか。
他の職業になれるのか。
フリーターにでもなるのか。
なら今まで成績悪かったかもしれないけど自分なりに頑張ってきたことはいったい何なのか・・・。

そんなことを思い詰めていたのかもしれません。
今でこそ、このような記事がネット上に掲載されるようになりました。
医師が先に燃え尽きてしまう

どんなに学力があって医学部、医大にいったとしても、
燃え尽きてしまったら動けなくなります。
そのような側面には当時から世間は見向きもしません。

中川智正さんが出家してから1年後に
オウム真理教附属医院が設立されましたが、
在籍している医師の中には、中川さん同様、研修医さえ終えてない医師がいました。

中川さんとは違うかもしれませんが、
研修医時代の何かに不適応を起こして、オウムに入信するしかないと
思っていた若い医師の卵がやってきていたということは注目点と思います。

オウムだけは、その燃え尽きた、実社会では実務者として「使えない」人材を
医師として待遇してくれる、と期待して・・・。



今でも、毎年このような進学特集が出されます。
医学部に入るのは頭がいい人。
将来金持ち安定という見方と、
医師の使命を崇高なものとしたい世間の常識では
中川智正さんのことは理解されないだろうと思います。

Tu博士でさえ、この部分は理解していなかったと思います。

『サリン事件』の最後の文章
医学部を卒業した将来性のある息子の現状を見る親の悲しみは同情せざるを得ない

2、「尊師は自爆の道を選んでいた」

中川智正さんの住むもう一つの世界、「オウム真理教」ではどうだったのか。
中川智正さんは、「入信前から、尊師がある種の自滅行為をすることはわかっていた」と
語っています。
(「朝日新聞」1998年3月24日)
「私は教団にいたころから、単純に尊師を信じていたのではない」
「尊師に殺されるというような、他の人が感じた恐怖をかんじたことはない。
それとは違って、例えば私を何物だと思うかと尊師に聞かれた時
僕は化け物だと思いますと答えた。そういう恐怖だった。
出来れば関わりたくなかったけれど、
入信前にいろいろと神秘体験をして、普通の社会生活ができないと思ったので
助けてくれという感じで入信した。仕方なかった。
僕としては、その後いろいろなことがあっても、しょうがない、という感じで冷めていた。」

先のエントリーで中川智正さんにエールを送った
豊田亨・広瀬健一・杉本繁郎の3名の公判に出廷した(1997年4月30日)際、
豊田・廣瀬・杉本の三名は、
「松本智津夫を批判する気にもならない」
「いかなる理由でも起こしてはならない犯罪であった」と悔いていたのですが、

証人出廷した中川智正さんは相変わらず

麻原被告が光を発するのが見える」と証言しています。

このブログの今後のエントリーの中で、上に書いたような「神秘体験」の数々を書いていくことにもなりますが
私は書きながら、理解できないです。
でも、通常の社会生活に耐えきれなくなった時に、別の世界を作り出してしまう人間の可能性についてという
捉え方で見るならば、
少し理解できそうかもしれません。


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