副官の務め


副官とは・・・。

軍隊においては、役職者(高級幹部)個人付のもの(専属副官)と、司令部などの組織に関する副官がいたようです。
(多分、詳しいことは部隊の編制についての施行細則などに細かく職務規定されているはず)

いずれも職務はさまざまで、臨機応変さを要求されることから、優秀者が抜擢されることが多いとのことですが・・・。

武藤章中将が近衛師団長に補任されたときに、専属副官にいきなり任命されたのが、
いくつかのエントリーにも出てもらっている稲垣忠弘中尉です。

稲垣中尉は、予備役の将校というだけで、まさか抜擢されるとは
思っていなかったようです。
自身に力量のないことを痛感させられながらも、
何とか武藤章中将についていこうと一生懸命だったようです。
「副官」という職務経験者のなかには、山縣有朋元帥の副官
をつとめた渡邉錠太郎大将(このひとは、陸士→陸軍大学校首席)がいます。

稲垣中尉は、自身の役目を「戦地における女房役」とし、

〇師団長の健康維持(絶対に病気にかかられないように注意)
〇雑務に師団長の神経を一切、使わせないこと

これだけを気を付けられたらしいです。

これって、私の母(専業主婦)のやり方と同じではないか?と思いました。
私の母は、子供のことや、近所のことなどで面倒なことがあっても、
なるべく父の仕事に支障がないように胸の内にしまい、
父が仕事に専念できるよう健康管理だけはしっかりしていた。実は大変だったと
いっていたので、「専業主婦と同じぐらい大変な仕事」なんだなあと思いました。

他国の軍はわかりませんが、
日本陸軍(海軍もかも?)においては、上下関係の中に、さらに「女房役」とか「父親の威厳(山下大将など指揮官)」の
ような、疑似家族関係をつくりあげていたのではないかと思わせられます。
その疑似家族のほうが、プライベートの家族関係よりも信頼関係が強固であったように思うのは
私だけでしょうか。

稲垣副官から見た武藤章中将とはどのような人だったのでしょうか?

〇まず自分の意見を「ズバリ」と直言する
〇実は口が堅い
〇茫洋とした人を包み込むような人徳があり、この人のためなら
身を投げ出してもよいと思わせられた

ということです。

武藤章師団長は、昭和19(1944)年10月に、山下大将が司令官となった
第14方面軍参謀長となり、フィリピンに赴任する時に
まっさきに稲垣副官に、フィリピンの戦況を率直に話したとのこと。
山下大将がいまごろ行かれても遅い。もう後は米軍をひきつけてどれだけ叩くかしかない。
もし君がついてきてくれるなら助かるけれど

稲垣中尉は即座に「お供します!」

武藤章中将は「いや!!」と一度止めました。

「これは死の宣告と同じだから、一晩よく考えて明朝返事をしてくれ」と。

稲垣副官は、武藤章中将のために死ぬことを恐れてなかったので
「閣下、お供させていただきます」と朝、伝えたと。

武藤章中将は一言

「有り難う」

武藤章中将は、「比島から巣鴨へ」の中で

「稲垣副官は、昭和17年5月上旬、私がスマトラの近衛師団長着任以来の副官である。
当時彼は、幹部候補生出身の少尉であった。昭和19年10月スマトラから比島に転任になるときにも
少し無理をして連れてきたのだ。
足かけ4年における我々の友情は、平和時における中年男子の間における友交をもって
想像することはできない。
私は師団長であり、方面軍参謀長であり、彼は尉官であり、副官であった。
齢は親子ほど違ふ。
然し、戦時、砲爆撃下に於ける吾々の間はそれらを超越するものがあった。
生命の危機に直面しては、位階や職権や年齢やを越え、生身の人間そのものが
相触れる。魂の交わりである。私が友情と云ふのはそれだ。

私の衣・食・住一切は稲垣副官に任せ切った。防空壕の出入りまで
彼の云ふ通りにしたから、生命も彼の手に委ねたと云へるかも知れぬ。
私の我儘は相当彼を手古摺らせたこともあらう。
が私は常に心から感謝してゐる。

もし私が師団長として、参謀長として何等かの功績を樹てたとしたら
その半分は彼の功績と云はねばならぬ」

と、稲垣副官に感謝の言葉を書かれていました。


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