昭和20年8月15日前後の山下軍司令部


毎年、今の時期になると、テレビでは「終戦記念日」シリーズの番組が放映されているようです。
しかしながら、私はテレビは見ないので、もっぱらFacebookやTwitterなどで、大体どんな内容だったのかな?
とつかむだけでした。
もっとも、今年はそんなゆとりもなかったですが。
本当は「九段会館」ネタを書きたかったけれど、労働で疲労している中で、
頑張って、酷暑の中休日にまで東京に行って資料の確認するのも体力的に無理です。
よって、今回は8月15日前後の山下大将・武藤参謀長の行動について書いてみたいと思います。

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この写真は、バギオ(フィリピンの観光地であるけど、もう野戦生活に入ったころで
二人ともゴルフクラブを杖かわりにして持っているところから、戦況の厳しさが伝わってきます。
当初の司令部があったマニラ郊外の豪奢な司令部を率先して離れることで、
隷下部隊に、戦況の厳しさを示す意図もありました)での一コマでありますが、
二人とも、厳しい戦況の中でも穏やかな表情で、互いを信頼し合っている雰囲気が
伝わってきます。私個人は、このツーショットも好きな写真の一つであります。

参考文献は以下になります。

山下大将・武藤参謀長が、停戦を知ったのは、8月14日のことでした。
海軍側からの情報でした。当時の海軍は、陸軍とともに行動していました。

武藤参謀長たちは、ポツダム宣言なるものを受諾したことは承知したが、
ではそのポツダム宣言とは何か、ということはまったく理解していなかったとのことでした。
その数日前から、アメリカ軍の飛行機からは日本の降伏を知らせるビラが落ちてきたとのことでしたが、
武藤さん自身は、その情報を信じたくなかったとのこと。

武藤さんの理性では、一年前にサイパンが奪われたときに負けを確信していたが、
この8月15日フィリピンの山奥での感情では、
「敗戦を信じたくなかった
この日のフィリピン・プログ山の大和基地では、秋雨が降っていたと。
それを武藤さん自身は生涯忘れることがない、と書かれています。

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この地図を見ると、全ての方面より敵の米軍から包囲されていることが
よくわかります。
米軍は山が苦手だということを理解していた山下軍司令官は、とにかく高い山へと登って
何とか戦うことしかできなかった。
日本側も戦死よりはむしろ餓死者、戦病死者を多数だしながらも、
十分な医薬も食糧もなかったこと。
兵隊が死んでいるのを毎日目にするのはどんなにつらかったことだろうと
思いました。

停戦の情報をいち早く入手してきたのが、
『運命の山下兵団』を著した栗原賀久(よしひさ)中佐でした。
栗原参謀自身は、その情報を伝えたあとのことをこんなふうに書かれています。

「気持ちも身体も泥のように疲れて、そのままそこへへたばってしまいたい気持ちであった。
負けた。負けた・・・。たちまち血汐が沸き上がってくるのを感じた。
しかし、その後で何よりも一番本心らしいものは、
なんといってもほっとした気持であった。
恥ずかしいかもしれないが、実感であった」と

その気持ちのまま、まずは武藤参謀長に申告に行った。
武藤さん自身も実は気持ちの動揺が沸き上がってきながらも、
部下の参謀からみた限りでは、平然としていつもと同じだったとのこと。
幕僚たちに、自分の心中を見せまいと努力していたと思います。

武藤参謀長は、まず宇都宮直賢参謀副長(少将)らを呼び、
次のことをとりあえず決められました。

●全比島にある日本軍に、命令を徹底せしむること
●軍紀・風紀を厳粛にして、皇軍最後の面目を発揮
●患者・一般邦人をもれなく山岳地から救出する
●兵器・弾薬・機密文書の処置
●停戦期間中における食糧の処置

このあと、各参謀たちは自分たちの寝所に戻ったが、
武藤参謀長と山下大将は、深夜までいろいろ話し合ったとのこと。

こうなった上は、一人でも多く生還させることが、我々に課せられた
責務で最後のご奉公だということに一致したそうです。

そのあと、栗原参謀の手記には興味深いことが書かれています。

武藤参謀長が山下大将の小屋をでると、そこには山下大将の専属副官・樺沢大尉が歩哨をしていた。
その樺沢大尉にむかって

「おい、樺沢。今晩は気をつけてくれよ」
「はい、わかっています。」

「分かってる?何が分かっているんだ?」
「はい、これでしょう?」

樺沢副官は真剣な面持ちで、手で腹を切るしぐさをしてみせた。
すると、武藤参謀長は、はじめてにっこり笑い
「うん、そうだ。よろしく頼むぞ!」
そしてくるりと背を向けると、足の短い蟹股で自分の小屋に帰っていったと。

それから樺沢副官が山下大将の小屋に入って、黙って隅の腰掛に腰を下ろしました。
山下大将は、じろりと見ただけで、何も言わなかった
毛布をかぶりかけた大将が、副官を振り返り

「おい、もう帰って寝ていいよ」

といったが、樺沢副官は少しも離れようとはしなかった。

「閣下、今晩はここにおかしてください!」

「おい樺沢、心配するな。俺は決して自分一人で行きやせんから。
ルソンにいる兵隊を内地に返す大任が、まだ俺には残っているんだ
今更俺一人が死んだって、どうにもならんよ。
いいから、安心して、寝ろ寝ろ」

山下大将は、世間的には「マレーの虎」と渾名され
剛将と見られているけれど、
実は、感情的になる部分があることを、最も身近にいる
専属副官や、参謀長にはお見通しであったのではないでしょうか?

武藤参謀長は、長年の山下大将との付き合いで、
山下大将の責任感は強いけど、感情的に脆い部分を
しっかりとありのまま受け止めていたと思います。

山下さんは「俺が死ねばいいのだろう?」ぐらいのことを武藤さんに
話していたのかもしれません。
だから武藤さんは、万が一、山下司令官が一人で切腹されたらと心配して
念には念をいれて、山下大将の専属副官にもしっかり言い含めていたのではないか。

一方山下大将も、自分の弱さを見せられるのは武藤参謀長と信頼していたので、
樺沢副官が小屋に入って寝ずの番を決め込んだのも
武藤参謀長が言い含めたことも、自分の専属副官が自らの直感より
山下大将が自決しないように見張りにきたことを察知していたと
思います。
そこで、「ルソンにいる兵隊たちを内地に返す大任がある」と副官にいうことで
安心させたのではないでしょうか。

私は、ここで自決をしなかった山下大将は、すごい人だと思います。
こういうのって、敗軍の将の言動だったりするので、あまり顧みられることは
ないように思うのですが。


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