久保山火葬場の職員は気づいていた!


巣鴨拘置所内で処刑(一人は他の場所で銃殺刑)された方々の遺体は
当時の日本のジャーナリストたちも拘置所裏口に張り込んで調べにかかったようですが、
ついぞ本当のところを知ることができなかったといいます。

それは、戦勝国側のトラックが高性能すぎたのもあったとのこと。

当時の日本のトラックの燃料は木炭だったから。

では昭和受難者の遺体であると気づいたのは誰だったのでしょう。

それは、火葬場の職員さんたちでした。

火葬場の職員さんは、時々「米兵1名」「米兵3名」と書かれた棺が運ばれてきたとき
米軍側から「絶対に開けてはならない」と命令されました。

命令だから、そのまま荼毘にふしますが、
米軍側の態度を不審にもかんじていました。

当時、戦犯刑死者の扱いは小さく、新聞の片隅に記されるのみです。
(ちなみに、シンガポールで処刑された河村参郎中将の処刑記事は
当時の朝日新聞を見ると、ごく小さく、「川村参郎」と漢字の誤記もある
扱いでした)

そんな小さな新聞記事の扱いをしっかりみていた
久保山火葬場長・飛田美善氏は、前夜に運ばれてきた棺の一人
翌日新聞記事で発表された処刑者の数が合うことに気づいたのでした。

それ以後、「米兵◯名 絶対棺を開けてはならぬ」と指示された棺がくるたびに
職員さんたちは手を合わせて拝んでから、丁重に荼毘にふす作業を粛々と行ったとのことです。

東條大将たちの処刑日は、昭和23(1948)年12月23日。
翌日は、なんと「クリスマスイブ」(o・∀・)★.:゚+。☆ メリークリスマス☆.:゚+。★
これは米兵たちも心情的に見張りが薄くなると見込み

久保山火葬場近くの興禅寺住職・市川伊雄氏は、小磯国昭首相の弁護人だった
三文字正平氏とともに、火葬場長・飛田美善氏の案内で荼毘に付した跡に入り
出来るだけの骨灰を拾い集めました。
クリスマスイブとはいえ、見張りが全くなかったわけではなく
暗闇の中で、ただひたすら、骨灰と思われるものを拾い集めるのは
並大抵のことではないはずです。

これらの骨灰は、一時興亜観音に保管されました。

マッカーサーの命令により、戦争犯罪者の遺骨は遺族に引き渡してはならないとされていたので、
大きな骨は戦勝国側が拾い集めてどこかへ持ち去ったとのことです。

残った細かい骨と灰を火葬場長・飛田美善氏が丁寧に集めて
火葬場の片隅に掘った穴の中に密かに収めておいたのです。

その骨灰は、密かに松井石根大将の熱海の自宅近くの
「興亜観音」に一時安置されました。
(保土ヶ谷から、熱海まで骨灰を持って移動するのは
本当に大変だったに違いありません)

そして、もう巣鴨拘置所では処刑が行われなくなった頃
火葬場長・飛田美善らは供養塔を立てようと思いついきました。

しかし勝手に立ててはならず、GHQにお伺いを立てなければいけなかったのです。

塔の建立は許可されたものの

「供養塔」としか彫ってはならぬと指示がありました。

kuyouhi

見てみると、「供養塔」三文字だけが彫られているが、
これでは何の目的で建てられた供養塔だか、よほど気をつけてないと
わからないでしょう。

また卒塔婆にも注目してください。
戦勝国側の呼称である「太平洋戦争」とはあるけど
「大東亜戦争」とは書かれていません。
それもこんな事情が背景にあったからでしょう。

サンフランシスコ講和条約が締結されて、ようやくこの供養塔の下の
遺骨、遺灰が60等分されて、遺族に届けられることとなりました。
白い骨壷に分けて・・・。
「これは、必ずしもご主人の遺骨とは言えませんが、この中に
ご主人の遺骨も混ざっていることはまちがいありません」

といって、渡したとのことです。

なぜ60等分か?

巣鴨拘置所などで処刑された受難者が60名いたからです。

東京裁判で処刑された人ばかり注目される向きがありますが、
横浜でも裁かれた方々で処刑された方もいるのです。
横浜裁判で裁かれて処刑された方の中には、かつてビッテル神父と
酒の飲み比べをした本川貞(もとかわ・さだむ)憲兵中尉もいます。
本川憲兵中尉については、後に詳しく書きたいと思っています。

それにしても、当時の久保山火葬場長と近くの寺院の方々には
頭が下がる思いです。


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