深大寺参拝中にはじめて知った陸軍大臣


本日、久しぶりにパワースポット巡りに行きました。
明日以降寒くなるらしいということと、明日がまだ休みだからというところで

「今行かなきゃ、いつ行く?」となったからです。

本当にお金のない私は、新幹線にのってどこかいくというのが難しかったのと
定期が都内23区まであるので、
深大寺ぐらいだったら片道数百円で行けるかも、と思い行先に選びました。

私はこれまで、深大寺には行ったことありませんでした。

深大寺へ向かうには、京王線調布か、三鷹からバスに乗る必要があります。
調べてみると、三鷹から出ているバス(小田急)は本数が少ないです。
調布から乗る方が本数多いです。
(あと吉祥寺というのもある)

行きは京王線調布から京王バスにて行きました。

参道を歩くと、水車がありました。

なんだかワクワクしてきました。

お蕎麦とお土産店もたくさんありました。
このあたりから、なんだか混雑してきました。
おそらく、私と同じように、「今日ならまだ温かいから」という理由でしょう。
なぜか犬を連れている人たちもいました(地元?)

本堂はこんな感じ。

近くに佛具がありました。
蓮の形をしています。

すごく秋を感じました。

と、その時、「忠魂碑」というのが目に入りました。

見ると、「陸軍大臣楠瀬幸彦」という揮毫
(左の碑です)

誰それ・・・

いつぐらいの方・・・?

お隣の「日露戦争戦捷」の山県有朋さん(長州)はおなじみですが・・・。

誰だろう、今まで本当に聞いたことない方だ。

調べてみると

楠瀬幸彦
(1858年4月28日(安政5年 3月15日) – 1927年3月20日)は、日本陸軍の軍人、陸軍大臣。最終階級は陸軍中将

とありました。

土佐藩士の子供として生まれ、海南学校→陸軍幼年学校→陸軍士官学校というルートで
陸軍軍人となられたかた。

これって山下奉文大将と同じじゃないか!

ただし山下大将は、「四国の小村の平民の子」だから、おそらく楠瀬幸彦(くすのせ ゆきひこ)さんの方が
出自が高かったと思います。

この楠瀬幸彦さん。
なぜ陸軍大臣にまで出世できたのか。
大臣にまでなられたのに、あまり知られていない(私だけかも?)のか?

楠瀬幸彦さんが陸軍大臣になられたのは
1913年の第一次山本権兵衛内閣(海軍)において、
軍部大臣現役武官制がいったん廃止なり、今後は予備役まで軍部大臣(陸軍大臣と海軍大臣)になれるようにし、
政党の軍部に対する影響力を強めようとしたときでした。
当時は、大日本帝国憲法があっても事実上元老と言われる人たちが政治に大きな影響を与えていたことに対して不満が増大し
第一次護憲運動まで発展したのでした。

この第一次憲政擁護運動の時の立役者だった尾崎行雄は

「彼等(元老)は常に口を開けば、直ちに忠愛を唱へ、
恰も忠君愛国は自分の一手専売の如く唱へてありまするが、
其為すところを見れば、常に玉座の蔭に隠れて政敵を狙撃するが如き挙動を執って居るのである。
彼等は玉座を以て胸壁となし、詔勅を以て弾丸に代へて政敵を倒さんとするものではないか」

(『大日本憲政史』)と言っていました。

陸軍としては、山県有朋元帥など長州閥が猛反対したが
山本権兵衛内閣の陸軍大臣・木越安綱中将がそれを押し切り
内閣として軍部大臣現役武官制のいったん廃止を了承したのでした。
山本権兵衛内閣が倒閣するや、後任の陸軍大臣として白羽の矢が立ったのが
この楠瀬幸彦さんでした。

楠瀬幸彦さんは陸軍大臣になられて1年もたたず1914年4月に辞任し休職してしまいます。
おそらく相当な陸軍部内の人間関係に疲れてしまったのでしょうか。

何だか、今日深大寺に参拝しただけなのですが、楠瀬幸彦さんというあまり目立たない大臣に出会えたことで、
第一次憲政擁護運動の頃がどういう時代だったのか、またまた勉強してみたくなり、興味の幅が増えました。

こういう小さな旅を通して、興味の幅を自分の中で広げていくような気持ちは
ずっと持ち続けたいと思います。
考え方が固定されないように。


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