大西瀧治郎中将のお墓


oonishi

この写真は、先日ブログで取り上げました
大西瀧治郎中将のお墓です。

鶴見の総持寺にあります。

このお墓の左側にある観音様。

「海鷲観音」というのだそうです。

この観音様の建立は、大西中将の奥様・淑恵さんの発願です。
大西中将の奥様は、戦後の混乱時に、何とか夫の墓を建てたいと願い、
飴売りの行商を一人で始めました。

「元海軍中将の奥様がねえ・・・」
「特攻隊の名折れだから、行商やめろ!」
という非難や冷笑に耐えながら・・・。

ようやく昭和28(1953)年に、鶴見の総持寺に、中将のお墓と、
特攻隊員の霊をまつるための観音様が建立されるに至りました。
この観音様は、「海鷲観音」と名付けられました。

先の記事で、「イカリのマークは鷲のマークになおせ!」といったこととも
関わってくるのかしらんとも思いますが、
この観音様は、大西中将の奥様・淑恵さんの飴売りの利益で特攻隊員の霊を
慰めるために建てられたものです。
今でも写真のとおり、きれいにお花と、何とペットボトルのお茶まで備えられています。
奥様は、昭和54(1979)にお亡くなりになりましたが、
その後も大西中将を慕う人たちによって、維持されてきたのでしょう。
ちなみに、大西中将と奥様とのあいだには、子供はいませんでした。

大西中将は、自身の「お通夜」のあとに官舎に戻り
従兵に「カヤの中に、机と硯箱を置いて、床をとってくれないか」と
頼み(多分この時に遺書を書いたのであろう)、
その従兵は、日時が変わる頃にまたお茶を入れて大西中将の部屋に持っていったところ、
大西中将は
「ありがとう。・・・ゆっくり休みたまえ」とねぎらいの言葉をかけたとのことです。

そろそろ空が白みかかる午前4時頃、従兵が突然目を覚ましました。
何だか、巨大なうなり声が聞こえてきたような感じだったとのことです。

胸騒ぎがした従兵が急いで大西中将の部屋のドアをあけると、
部屋の中央の真っ白いシーツを敷いた上で、大西中将が血まみれになって突っ伏していました。
その姿をみた従兵は、大西中将に思わず動転してすがりつきました。

「うん、うん、そう騒ぐな・・・。これだけの出血だから、もう時間の問題だよ。
お前に武士の情けがあるなら、絶命するまで、誰にもいうな・・・」

軍刀で心臓を刺し、返す刀で頸動脈を切っていました。
普通の体格の方なら、とっくに死んでいたほどでした。
すぐ軍医が呼ばれ、軍医は大西中将にとりあえず応急処置を施しましたが、
その最中も、大西中将は軍医をにらみつけていました。

「あの形相は、ぞっとするほどのものすごさだった」というぐらい。

応急処置をしてもすでに手遅れだったようで、
「次長(大西中将)、どうやら次長のご満足いくような結果になりそうです。」

それを聞くと、大西中将は満足げに「児玉誉士夫を呼んでくれないか」と頼み、
児玉誉士夫(1911〜1984 政財界のフィクサーと呼ばれた人物で、大西中将と親友)が駆けつけてきました。
彼に向かい大西中将は、
「貴様が鈍刀をくれたから、死に切れないよ」
「バカを言え、それは名刀なんだ。もし生きていたら、頭を下げてもらいうけるよ」

そして、奥さんに自分の死を伝えることを児玉にお願いしたあと、
「自分が入る棺桶と骨壺を見て死ねるなんて、おれは幸せな男だよ」とほほえみ、
「もう時間の問題だな、そろそろ葬式の準備をしたらどうだ」とまで言ったとか。

そして意識を失い、いきなり身を起こして正座しようとされて、大西中将は絶命されたのです。
この動作は、「おそらく皇居を拝する姿勢をとろうとしたのだろう」と考えられています。

奥様が疎開先の群馬から東京に駆けつけたときは、大西中将はもうこの世の人ではありませんでした。

覚悟されていたとはいえ、奥様ご自身も後を追うことを何度も考えられたそうです。
それを何度も思いとどまり、お墓の隣に、特攻隊員全員の霊を慰める観音様まで
建てられたのでした。

参考文献:
妻たちの太平洋戦争―将軍・提督の妻17人の生涯 (光人社NF文庫) 文庫 – 1994/1
東条英機とその時代 (1980年) - 1980/7

総持寺は、晩秋の雰囲気がとてもよかったです。
大きなお寺で、ちょっと京都の大きなお寺にいったかのような感じに
なれるような雰囲気でした。

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