武藤章中将はインパール作戦をどう思っていたか?

武藤章中将は、昭和17年4月に、「栄転」と称されて
近衛師団長(在スマトラ・メダン)に赴任しました。

実際の着任は、5月11日だったようです。
(4月20日付ですが、それ以後、武藤さん自身が熊本に寄り
お墓参りなどしてから出発された)

武藤さん自身が陸軍省軍務局長という、陸軍大臣の補佐という立場を
離れるにあたっては、いろいろと噂もあったし、武藤さん自身も
いいたいことがたくさんありましたが、これはここでは触れません。

武藤さん自身は、支那事変の時は拡大論者で、陸軍部内での多数派代表だったけれど、
その後かなり反省をして、「支那事変を収束させ、アメリカなどとの戦争は絶対避けるべし」
という、当時としては「マイノリティ」な立場の中で、いろんな方面からバッシングを
受けていました。

そのような武藤さんが、実際初めて、シンガポール戦でも功績をあげた
近衛師団の長になって赴任し、驚いたこととは何でしょう?

軍隊一般はもう(大東亜)戦争には勝ったと信じている者が多かった」ということ
です。
さらに、スマトラの日系農園経営者なども、戦争によって更に利益が増えると考え
利益の分け前争いをやっていたということも。

そういう人たちに
戦争の将来は予測を許さぬから、戦力強化を第一に」というのは
相当な反発を買ったと思います。

比島から巣鴨へ―日本軍部の歩んだ道と一軍人の運命 (中公文庫)

耳障りのよいことをいうのは簡単だけど、
自分の思うところが、相手にとって耳障りのよくないことでも
きちんと伝えるのが、武藤さん流だったりします。
おそらく、山下大将は、武藤さんのそういう正直なところを
すごく信頼していたのではないかと思います。

武藤さんの近衛師団長時代からの副官・稲垣忠弘中尉によると、
武藤さん着任後3ヶ月かかってようやく、スマトラ島の空気が
戦勝気分ではなくなったとか。
これは武藤さん自身が、師団司令部にこもっておらず、
隷下部隊を視察し、指揮官たちに自分の意志を伝えるということを
何度もやったからだと思います。
これはかなり地味なことで、忍耐が強くないとできないことです。

その頃、近衛師団参謀長であった(武藤さんの参謀長)小畑信良大佐(陸士30期)が
少将に進級し、第15軍参謀長に栄転が決まりました。
小畑信良少将

稲垣副官によると、
武藤師団長の宿舎に挨拶にやってきた小畑少将と、随分長く話していたようで、
時々、武藤師団長の大声が聞こえてくるという
珍しいことがあったようです。

★武藤章さんは、よく怒鳴りそうに思われるかもしれませんが、
そんなことはなかった人だとは、近くに仕えた人の評価なのが
意外に思う方も多いと思います。

「インパール作戦」が計画されていたことに対する大反対<(`^´)>
だったようです。(副官の立場ではそれが精いっぱいだと思います)

何とか参謀長として赴任するにあたり、作戦を実行せぬよう
司令官を説得しろ!!!!

という様子だったとか。

それからひと月後、小畑少将が突然武藤師団長の宿舎を
訪ねてきて、
閣下!!力及ばず。クビになって帰ってきました
と無念そうに報告されたとのことです。

その後しばらくして、「死の行軍」インパール作戦が開始されました。