「ため息をつくより、早く話して楽になったらどうですか」

麻原公判の第94回目(1998年10月16日)に証人出廷した中川智正被告。
この日は、検察官からも麻原弁護人からも、

そしてタイトルにあるように
阿部文洋裁判長からも



※イラストは、青沼陽一郎氏動画「麻原法廷物語」より

「ため息をつくよりも、早く話して楽になったらどうですか」といわれるほど
証言中、何度も身をよじり、傍聴席に聞こえるぐらいのため息をつき続けていました

この日は、松本サリン事件、地下鉄サリン事件に関する尋問でした。
「私の法廷が11月25日にあるので、そこで正確にお話したいので、今日はお話しできかねます。」
それに対して、阿部文洋裁判長が
その時に言えるなら、今言ったらどうですか

検察官が呆れた様子で
サリン生成、事件の謀議、準備、実行、実行後のほとんどすべての証言を拒絶するのか
「あなたは、1995年6月3日、6月5日、6月6日付の3通の検察官に対する供述調書を示されたと思いますが」
と問いただしたことに対しても

「今日はお話できかねます。有罪判決を受ける恐れがあるからです」

確かに、過去の新聞をたどると、逮捕されて1月立たない1995年6月には
中川智正がサリン事件に関わっていた供述をしたという記事が出ています。
しかし、なぜこのように頑ななのでしょう。
これは今さらながら、過去の新聞を読み漁っている私もそうですが、
当時、傍聴に行かれていた方は皆そのように思っていたに違いありません。

段々いら立ちを隠さない検察官が
「検事調書と違うと言われて、なぜと聞くのは当然だし、あなたには答える義務がある」
「答えないのはフェアではない」
さらに阿部文洋裁判長までもが
いったん言ったことは、証言拒否権を放棄していることになります」とくぎをさしました。

それに対して、中川智正被告は
基本的には誰にも話したくない
「新しい弁護人との間で自分の裁判の準備が進めば話す可能性があるので、待ってほしいと言っている」
(弁護人が、裁判開始後両親が雇った方から他の方に変わったころでもありました)
記憶通りに話して罪が重くなっても、それはしょうがないんじゃないでしょうか

さらに麻原弁護側からも
「なぜ、事実と違うことを供述の段階で検察官に言ったの?他人に罪を転嫁するためなのか。
自分で罪を背負うつもりなのか」
「あなたがしゃべらないことで、相当な混乱が起きていることは分かっていますか。」
中川智正被告は、「分かります。よく分かります」

こういうやりとりが一時間半続いて、この日は時間切れで終わってしまいました。
ただし、サリン原料のメチルホスホン酸ジフロライド(ジフロ)を保管していたのは、
自分といったけど、実は井上嘉浩被告であるということを言い出しました。
このことが、16年後も尾を引くことになるとは、当時は誰も考えていなかったでしょう。

阿部文洋裁判長が最後に
真実を明らかにしないといけません。真実は一つです。
苦しそうな顔をしたり、ため息をつくより、
しゃべった方が楽になるんじゃないですか。
また来てもらいますからね
」という姿を
中川智正被告は、口を一文字にきっと結んで、じっと見つめていたとのことです。

このとき、教祖はどうしていたのか。
不規則発言ではなく、居眠りをしていたということです。

逮捕後の取り調べでは、サリン事件について早くから供述をしていたのに
いざ裁判となると、なぜ沈黙するのでしょう。
この中川智正被告の沈黙がオウム真理教裁判を引き延ばしさせる結果となったのは
確かだと思います。
実行役の豊田亨・広瀬健一・林郁夫被告などはみな語りだしていたし、
教団との決別を明確にしていたのに比べて
製造役とされた中川智正・遠藤誠一被告は事件については認めるも、
裁判の場で証言を拒否する姿勢を、1998年当時は取り続けていました。
そのこともあって、サリン事件の全容が裁判の中でもつかめない状況だったのでした。

その中でも、中川智正被告は、なぜこんなにも話したがらないのでしょう・・・。
身をよじってため息をつく姿を想像するや
私は、少年犯罪を起こした高校生ぐらいの子供がふてくされている姿を
想像してしまいました。
そして、1時間半の間、証言台でため息をつき続ける姿を晒しているのも
随分な修行だなあと感じました。
青沼陽一郎氏が麻原に対して言われた「無頓着の実践」とはまた
少し違うようにも思えますが。

でもこの人、当時30代だったのですよね・・・。

さらに、両親が金銭的に苦労をして雇った弁護士を、
自分の裁判の都合ということで解任してしまったころで、
ご両親の不安、心配は、想像を絶するものであったと思います。

しかし、中川智正被告が「記憶通り話して罪が重くなっても仕方がない」と話しているあたりは
今後の裁判を見ていくうえでキーになることではないでしょうか。

なお、この日の傍聴希望者は115人とのことで
中川智正被告初公判の4158人からすると
かなり関心度が落ちたことがわかります。

「対話本」から中川智正さんに興味を持った人は、



「なぜ中川智正さんのような頭がよくて誠実な人が麻原なんかに・・・」
と強く思うはずです。

実際は、このような時期が長かったのですが、
その部分が「ないこと」となってしまっていることを改めて思いました。

だからこそですが、朝日新聞や毎日新聞社会部は、一連の書物を
再刊してほしいと強く願います。

私は都内に勤務していてそのついでに、資料に接することができますが、
Twitterから私のブログを読んでくださっている方の中には
中川智正の姿を知りたくとも
その資料に直に当たれない状況なのです。

地方では図書館にオウム真理教関連の書物がないのです。
おそらく古い書籍は廃棄やリサイクルされてしまって
ないのでしょう。

テレビ放送では不十分です。
あくまで当時の裁判記録に近いこれら書物の再刊を
強く求めます。

オウム真理教裁判がどのようなものであったのか。
そして中川智正さんという人を深く知りたいという人のために。

中川智正さんがどのような姿であったとしても
読者は、いろいろと想像するでしょう。
人物を複眼的にみる機会になるでしょう。
その機会さえ失われるのはもったいないことだと思います。

参考資料:
「朝日新聞」1998年10月16日朝刊


【毎日新聞1995年10月24日夕刊】支える覚悟、固めた母

今日は仕事帰り、マッサージを受ける予定でした
が、
なんと、すっぽかされてしまいました!(怒)
(予約の時間にいったら、お店が閉まっていた)
で、都内だったので
時間を無駄にするまい、と
閉館一時間前の「東京都立中央図書館」まで行ってまいりました。

新聞記事あさりに。

さて、私のブログを「最近になって」訪問してくださる方は
恐らく題名をみただけで
何のテーマか、もうお分かりでしょう。

故・中川智正さんです。

題名と年月からは、もうわかる人にはわかるでしょう。
この日は、中川智正被告の初公判の日でした。
傍聴希望者が4158人という過去最高を記録しました。

その日の毎日新聞に、中川智正被告のお母様がインタビューに答えている記事がありました。
このお母様、きちんとマスコミに向き合うところがすごい強い方。
息子がオウム真理教に出家してから
「オウム真理教被害者の会」にも入り、永岡会長とともに活動されておられた方。

中川智正さんのお母様は、他のオウム関連死刑囚にも
立派なお母さんだと言われていた(岡崎一明さんとか)。
おそらく中川智正さんとしては頭が上がらない人だったのではないか・・・。

このお母様が、中川智正被告と7年ぶりに再会したのは
中川智正が逮捕されてから5日後、5月22日のことでした。



「どんな顔をして会おう。何を話せばいいの」と戸惑いながら
息子がいる警察署に意を決して会いに行かれました。

以下記事を引用
———————————–
接見室のドアが開き、息子も困ったように入ってきた。
瞬間目が合い、涙があふれた。
息子も涙がほおからあごを伝い、ぽたぽたと落ちた。
互いに言葉は出ない。
「この子はまだ大丈夫。私の顔を見て泣けるんだ」
と母は思った。
息子はよほど照れくさかったのか
「タオル、タオル」と立会いの警官に声を掛けた。
一息ついて話しだした。
遠いところをありがとう。
僕がこうなったことを
世間では『親の育て方が悪い』というかもしれないけれど
これは全部、僕のせいなんだ

母が、弁護士を頼むつもりだ、というと
「僕は出家して、いったん親子の縁を切った。
都合のいいときだけ甘えることはできない」と断った。
「一緒の家族なんだから。そんなこと言わなくてもいいんだよ」
母は優しく言った。
親子の縁は簡単に切れるもんじゃない。
オウムに切られてたまるか・・・。
そう思い詰めていたと、母は振り返る。
「そこまで言ってくれるのですか。ありがとう」
息子も応じた。
息子の口から「脱会する」という言葉が出た。
分厚い強化ガラスに遮られていても、
息子は「母の情」に閉ざされた心を開き始めたのか。
「やっと家族に戻れた」と、母は実感した。
取り調べの捜査員からも
「お母さんにあってから(中川被告は)顔つきが穏やかになった」
と聞いた。
だが、面会を重ねる中で母は息子の
「妙に冷静な態度」
が気になっている。
麻原被告への怒りや憎しみは口にしない。
「麻原ってひどいヤツよね」と水を向けても
息子は反論も同意もしない。聞き流しているようにも見える。
「まだ麻原のマインドコントロールが解けていないのでは」
息子から麻原被告を非難する言葉を聞くまで
母は決して気が休まらない。
「多くの人の命を奪った。
麻原の洗脳を脱して、そのことを本当に恐れおののいてほしい。
心から謝罪して・・・」
小柄な母は、小さな肩を震わせる。
次第に声は細った。
逮捕後、医師免許を返上し、卒業した学校の名簿からも名前の削除を求めた中川被告。
早い段階から一連の事件の核心を供述したとされ
周辺にも極刑を覚悟していると漏らしている。
そうした突き詰めた気持ちが母との面会でも冷静さを保たせていたのだろうか。
でも私は思う。中川被告は悔いるなら、自ら関わった罪に正面から向き合い
苦しみぬいてほしい。犯した罪におののく姿を、さらけだしてほしい。
少なくとも母はそれを支えていく覚悟をしているのだから。
(社会部・東海林智)
——————————————————-
この記事、私は当時別の新聞で読んだかもと思いながら読んでみました。
そして、ブログでも少しずつ書いているけど
この時は、まだ中川智正さんは自分の罪とも病気にも向き合ってはいない。
これからあと、5年以上も事件について取り調べには答えるも、大切な部分で
沈黙を続けることになります。

しかし私は当時この記事を読んで、多分中川智正さんがすべて白状すれば
解決しそうではないか・・・と思いながら
いつしか忘れてしまっていました。
本当に中川智正さんが罪に直面するときには、傍聴希望者が2桁に減った頃
つまり世間がオウム真理教を忘れた頃だったころなのか・・・と。

林郁夫さんや井上嘉浩さん、広瀬健一さん、豊田亨さんは
わりと早くに教祖との縁を切っていたので
この人もきっとそうなんだろうなーーーと思いつつ
そうではなかったのだと、調べれば調べるほど深みにはまってしまう・・・。

と、いうわけで、私もネタが尽きるまでは
しばらくはこの人を追っていきたいと思います。
(もちろん、気が向いたら、従来のエントリーを続けたいと
思っています)
いやいや、Twitterで出会う方々の熱意に私も影響されています。
おそらく中川智正さんネタで何か書きたいという方のために
お役にたてることが小さくてもあるなら
きちんとした資料を提供させていただきたいと思います。
早速ですが、今日は

〇中川智正さんは、自身のことを「」と言っています。
〇これ、裁判中もです
なので、何か書かれるときは、「僕」と使ってみてください!
反対に、井上嘉浩さん、土谷正実さんは「俺」じゃないかなーと勝手に思っていますが
どうなんでしょうか。

「なんていうのか、中川にはなんかあるな~」

昨日のエントリーの続きです。

題名は、この書物の290頁から取りました。



この言葉は、東京拘置所内にて、中川智正氏を変わらず「ケツ」と呼ぶ親友に同行した
NHKディレクターが、中川智正本人から聞いたエピソードです。

「あるとき取調官に麻原氏の写真を見せられて
『光っているか?』と聞かれたことがあった。
写真をみて光るのか、想起するから光るのか分からないが
目の前が明るくなったので、正直にそう言った。
だから、向こうは接触しにくかったと思う。
ただ、段々付き合っていくうちに、取調官は
『なんていうのか、中川にはなんかあるな~』と思ってくれたようだった。
それは検事もそうだった。
裁判長も弁護士に、『嘘をついているわけではない、彼はなんですか?」と言っていた。
・・・だけど一審のときは、それが解離性精神障害だとは、僕も分かっていなかった」

解離性精神障害とは、精神疾患の分類のひとつで、
自分が自分であるという感覚が失われている状態。
ある時期の記憶が全くなかったり、いつの間にか自分の知らない場所にいるなどが
日常的に起こり、生活上での様々な支障をきたしている状態を指すと言われるものです。

中川被告時代の控訴審(初公判2006年3月1日、2007年7月13日判決)について
控訴審の中川弁護団は、まず、中川智正の神秘体験について理解がなく、宗教精神医学の
知識が不足しており、中川から十分な供述を引き出すことが出来ず、関係者の証言を得ることが
出来なかった、ということです。

そこで、登場するのが佐々木雄司医師(1932年-2017年)です。
佐々木医師は、青年時代にはシャマニズム研究に没頭。
学位論文『我国における巫者(shaman)』(『精神神経学雑誌』1967年5月)で国際的に評価を受け
今でも有効性を維持しているのと、地域や職場のメンタルヘルスの開拓者でもありました。

佐々木雄司医師について、中川智正氏は『ジャム・セッション』2013年6月号 で次のように書いています。
※以下、『ジャム・セッション』という雑誌を引用箇所ありますが、
読みたい方は、直接「ジャム・セッション 中川智正」で検索していってみてください。

「佐々木先生は、私のような事例の専門家で、同様な事例を収集、研究なさっていました。
先生によると、私の当時の「体験」は、激しい部類に入り、
精神科治療、あるいは「カミ(神)の道」の二つしかありえないとのことでした。

佐々木先生は、自然科学者としてのスタンスを保ちつつ、宗教学や文化人類学の知見や手法を
精神医学の研究や臨床に取り入れていらっしゃったのです。

先生との面会は気持ちが落ち着くものでした。
(中略)
私にとっては、自分の状態が学問の対象になっていると知ったことが
非常に大きかったのです。


とあるように、前回エントリーで裁判所中が荒唐無稽としか受け取られかねない中川智正の神秘体験を
重視すべきとの考えが取り入れられ、中川智正の深刻な状況が解明され始めました。
一例として、「麻原の想念が入ってくる」現象が
中川智正自身の生命をも危うくした事実が語られました。

参考文献はこちら


例えば、1990年のボツリヌス菌培養のとき、麻原などが、ボツリヌス菌に侵されないように
馬血清を打とうという事になり、中川智正は自ら点滴で馬血清を打ちました。
たちまち全身に発疹が出て息苦しくなったため
中川智正は麻原に医学的説明を行い、点滴を止める許可を求めました。
麻原は中川智正の頭頂に手を置き、点滴を続けよといいました。
すると麻原の意識が中川智正に入り込み、医者としての知識が失せ
全身がぼこぼこに晴れ、呼吸困難になった」とのことでした。
こんな状態の中で、中川智正はまだ麻原のエネルギーをもらいに行ったとのことでした。
このエピソードは、佐々木医師によると
中川智正は医師とは思えぬ自殺行為的暴挙を行い、麻原の言語に絶する壮絶な影響下にあったかを
示してあまりある
」との評価でした。

このような佐々木医師の知見を採り入れた弁護団は、
当時の中川智正の責任能力がないか著しく減弱していたと死刑の破棄を要求しました。
これに対し検察側は、解離性精神障害や神秘体験を全面否定はしなかったけれど、
各事件の刑事責任に疑問を生じさせるものでないとして
死刑の宣告を下しました。

それでも、中川智正氏としては、佐々木医師に恵まれ、
弁護団や検事が「中川にはなんかあるな~」と受け止めてくれようとしていることが
救いだったのかもしれません。

中川智正氏が処刑される前年に、この佐々木雄司医師は亡くなられました。

佐々木医師について、中川智正氏自身も最後の『ジャム・セッション』12号 2018年1月に
次のように書かれています。

佐々木先生は、私のように科学の空白の世界に迷い込んだ者をたくさん診察されました。
そして、とにかく話を聞いてくれました。
ただし、ある種不思議な出来事がどうして起こるのかを
先生は考えないのです。
聞いても答えてくれませんでした。
そして、先生は発言内容を肯定も否定もせず
記録されるのです。
簡単に書きましたが、これは奇跡的な技術です

(中略)
佐々木先生には、悪名高い私の他にも
たくさんの患者たちが感謝していることと思います。」

佐々木雄司先生のような精神科医に巡り合えた
中川智正氏は恵まれていると思いました。

精神疾患を患った者の中で、精神科医に恵まれているといえる人は
実は少ないと思います。
患者が多すぎるのかどうか、「カップラーメン状態(3分治療)」で投薬
これで終わりという人も多くいます。

これからもまだまだ、精神疾患は増加していくでしょう。
そんななかで、この1年の間に、佐々木医師と中川智正氏両方が故人となってしまったのは
残念でなりません。

最後に、『ジャム・セッション』7号 2015年6月号にある
中川智正氏のこの言葉を書いて、両人の冥福をお祈りいたします。

イスラム国に参加してしまっては、自らの意思に基づく活動をするのは不可能と思います。
私の経験や、精神科医の佐々木雄司先生から
伺ったお話からすると
イスラム国に限らずあのような組織に何か説明できない魅力を感ずる人がいるとすれば、
その人は身を投ずる前に一度、その組織からの
距離を取ってみることです。
十分な時間をかけるべきです。
周囲はその手伝いをすれば良いと思います。
強く説得するだけでは話がすれ違うだけで
良い結果にはならない気がします。

故・中川智正氏の神秘体験

中川智正氏の最期については、人の手を借りずに自分で歩いて刑場に向かうなど
立派なものだったと言われています。
そして、wikiを見るに、
ますます、「なぜ善良で、医学を志した、能力の高い者がカルトに走ったのか」
と疑問を持つ人が多いと思います。
私も中川智正氏の行動については、まったく理解できていません

私個人は、中川智正氏が「法皇内庁長官」という立場であったことは当時から知っていました。
(フライデーかなんかでオウム特集号があってその表をみながら報道を見ていました)

しかし、当初オウム真理教関連裁判で目立った被告といえば、教祖を除けば
林郁夫受刑者と、故井上嘉浩さんだと思います。

中川智正氏については、「なんとなく」逮捕されたんだろうぐらいにしか知らなかったです。
むしろ、確定死刑囚として金正男殺害事件のことで意見を述べた人というので思い出した部分が
あります。

中川智正氏が裁判で目立たなかったのは、
マスメディアのオウム報道が少なくなってから語りだしたということがあります。
当初は黙秘をしていたのが、
2001年ぐらいからようやく口を開くようになったけれど
裁判所全体がその内容を全く理解できないということが多かったらしいとしか
言いようがないとのことです。

以下、藤田庄一氏「ルポ 彼はなぜ凶悪犯罪を実行したのか
 ーーーオウム真理教・中川智正被告裁判」(『世界』2004.4)

藤田庄一氏『宗教事件の裏側ー精神を呪縛される人々』2008を参考に、概略を説明したいと思います。


中川智正氏の幼少期からの友人の話、および最後の中川智正氏のぼやきは、こちら


中川智正氏はなぜオウム真理教に入り、凶悪犯罪に手を染めたのか?
藤田庄一氏は、2002年になって基本的に氷解したと言われています。
「巫病(ふびょう)」
私はそう言われても、まったく理解できなかったです。
過労から精神疾患かとは思っていましたが、それよりも重いものらしいです。

中川智正氏の供述内容というのが、入信前後の神秘体験になると
普通の弁護士、検察、法廷傍聴人すべてが理解できないという事態となってしまったようです。

「神に従わない限り、心身の異常が持続する。通常の生活が送れない。精神病とは
診断されにくい現象」とのことらしいです。

供述には、医師国家試験受験頃にオウム真理教の演奏会に行ったあとの
パニック状態が数日続いたとのこと。

「夕刻、黙想中に尾骶骨付近が白く光り始め、光が胸のあたりまで昇ってきた。
光はそこで急激に明るくなり、見るに耐えず目を開けると、真っ白い光は胸付近にあった。
すると昇ってこいと、心臓から男の声がし、光が上昇した。
目のあたりに近づくと、またあの声がした。
「お前はこのために生まれてきた」
なぜこんなことが自分の身におこるのか。茫然とするばかりであった。
オウム真理教には関係がある。しかし入信する気がない。
「パニックでした」

医師国家試験に受かり、医師となろうとしている中川智正氏は、
自分でもどうにかしたくて、光や過去世が見えたり、声が聞こえたりするのは
側頭てんかんや側頭に腫瘍が生じた場合だった、そういう病気と思いたかった。
そんな時に、先輩の脳神経外科医に診てもらったが「異常なし」。
脳腫瘍では手術でなおるが、不治の精神病であれば自分の人生どうなるのか。

中川智正氏は、家族や友人に自分の神秘経験を懸命に話した。
家族とは、双方怒鳴りあい、泣きながら混乱するばかり。
まったく自分の辛さをわかってくれない。
お母様は「気が違ってしまったのか。なにもかもがおかしい。
元の息子ではなくなった気がした」とのこと。
ご両親とは、普通に話す間柄だからこそ真剣に話しているのだけど
神秘体験を話しても理解されない・・・。
本人も辛いだろうけど、お母様としても何をどうしたらいいのか
まったくわからない状態だったらしいです。

幼稚園から中学校まで一緒の親友に、神秘体験や空中浮揚までしてみせた
ことがありました。
親友は、
ただの床はね状態にしか見えないですが、本人が
超真面目にやっているので、その姿が怖かった。
『もうわかったからやめてくれ!』
彼の肩を押さえて床に押し付けた行動にでました

もう半狂乱・・・半狂乱とは言いませんけど、半分泣いたような状態で
ここまで追い込まれているんだというのを全身から臭わせていました。
その姿を含めて、何とかならんもんかと。

ケツ(中川智正氏のあだな。丸っこい体つき、お尻の様子からそう呼んでいたらしい
→本人はそれで返事しているので嫌ではなかったらしい)には、アドバイスしたものの
彼は医者ですので
そんなことすべて調べた。でも原因がわからんのだ」と言われてしまいました。

こうして家族も親友も止められず、彼女もまたオウム真理教側から
「中川がぐずぐずしているから出家して」と言われてしまい
中川さんとともに病院を辞め(彼女は看護師)、出家してしまいました。

(彼女が出家したときのことが記されたブログ→http://aonumazezehihi.blog.fc2.com/blog-entry-56.html )
こちらは、彼女が出家したときのことが書かれていますが、中川智正本人よりも悲壮感がありません。
おそらくですが、彼女も交際中の中川智正氏が半狂乱状態で親や親友相手にバトルをしていたとは
知らないで出家してしまったように思えます。

ちなみに中川智正氏の最初の弁護人はお父様が金銭的に工面して資金を出して雇いましたが、
同じく逮捕された彼女の事件までも担当したようです。
費用は中川家持ち。
彼女は無事に釈放されて今は一般人として生活していることに
中川智正氏は涙を流したそうです。

話を中川智正に戻して・・・。
研修医になりたてで、たくさん勉強をしなければならないときに
仕事も勉強もおろそかになってしまいました。
そんな困憊状態の中川智正が回復できる唯一の場所がオウム真理教でした。

中川智正は麻原のシャクティーパット(手かざしのような)を受けると病院で悪くなった体調が
スーーーと抜けていく感覚があったとのことです。
それでいよいよ麻原を畏怖するようになりました。

自分は医師として患者に触れるだけでこんなに苦しい思いをしているのに、
麻原氏は信徒100人にいっぺんにエネルギーを注入できる。
このメカニズムや精神力はどういうものだのか。

突然に大氷山がそびえているのに出くわした気持ちだったとのこと。
一方で研修医としての中川智正は、身体が動かなくなり、消えてなくなりたい気持ちだった。
病院勤務どころか、医者を続けることも無理、もはや出家しかないと思い詰めました。
そんなときに、ついに手術中に棒が倒れるように転倒してしまいました。
上司の医師は、数日休むよう指示。精神科医を紹介してもくれたけど、
いざ中川智正が精神科医を前に体験を伝えようとすると、またもパニックが襲ってくる。
勤務を続けることは絶望的でした。

「結局私は、入信から出家までの一年半、もがいてももがいても現実生活を抱きしめてつかまっていた。
それを引きはがすように、何をしようと自分の内的体験が続き身体・精神的に影響が続き、抵抗できなくなった」
これは証言時(2002年1月15日)の見解と断りながらそう証言台で供述し、
ハァーと大きなため息をつきました

他の信徒が、解脱や悟りを目指して出家したのに比べ、中川智正の場合は、絶望感からの出家というものでした。
その後二か月して、「坂本堤一家弁護士殺害事件」に加わり殺人犯となります。
そのことについて

「たくさん理由はある。やっぱり麻原氏に言われたから。当時麻原氏の前世からの弟子とわかり
いう事を全部聞かなきゃいけないと思っていた。非常に勢いというか、麻原の言葉が心の中にすごく重く響いた。
言われると否定できない。

なお、この時の中川は、プルシャを現場に落としてしまい、村井秀夫によって
「ポアの間」に二週間入れられた。
そのポアの間に入っている時、麻原が入ってきて
「(プルシャは)いいよ、気にするな、中川君も緊張していたんだろ」と言われて
泣き崩れてしまった。
なお、2002年の段階で中川智正氏は「麻原の精神操作の一環」と見ている。
このポアの間の体験により、麻原への霊的隷属は無限の深みにはまっていきました。
世間にはわかりやすい「殺人をしてしまったから抜けられない」のではなく、
殺人をするほど自分は麻原氏の世界にはまり込んでしまった」と自己分析。

光っている麻原を見、そばにいると喜びが湧いてくる霊的隷属の中で中川は次々と犯罪を重ね、
麻原の指示があれば、そのとたんに抵抗感があったにしても消えた。
麻原の身体、手足となって動いてしまい判断力も倫理観も失っていきました。
これを中川は「無力感、他動感」と表現しています。

裁判中に
あったまま、お話します
理解していただけないと思いますが」と何度も口にしていました。

前回エントリーで、滝本太郎弁護士のHPから拾った林泰男死刑囚のエピソードで
中川智正が「これ以上悪業を積みたくない」と逮捕前に泣いたのがありました。

私はこれを誤って解釈していました。

私は、中川智正が泣き崩れ、もうどうでもいいと放心状態で杉並付近をふらついて逮捕されたのだ
と思い、林泰男からみれば、中川智正の弱気と見ていたのではという見方でした。
そうではありません。

むしろ中川智正のもつ狂気の部分だったのです。

中川智正が泣いて「悪業を積みたくない」と震えて怯えたあと、
平田悟元信者が中川に対し「尊師を意識して!」と元気づけるや
彼は突然、「これから頑張る」と元気になったとか。
その急変さが尋常ではなく
恐ろしい感じがした。豹変ぶりは。
一瞬のうちに別の人格に変わってしまったようでした。
これまで長く話して心を見せあっていたのに
中川さんの中に麻原が、怪物か魔物のように取り憑いているのをみて怖い感じがしました。
」と

林泰男死刑囚は、そんな中川を見たのはこの時が初めてだったのですが、
「法皇内庁」内での中川の部下女性信者は
麻原と中川がダブって、どこからどこまでが中川さんなのかわからず不気味でした」と。
もう一人の部下は中川裁判にて、中川の強い印象として
「彼に他人の状態が移ってよく体調を崩してました」
「顔がむくみ、鼻をグズグズさせ、顔色がわるい」
それでも麻原と会い、部屋からでてくると回復して調子が良くなっていることが
何回もありました、と答えています。

裁判においてこの神秘体験はどう対処されたのでしょうか。
嘘・不合理に満ちている」と一刀両断に切って捨てました。
まことに都合のよいエピソード」で「珍妙な主張」で責任を回避しようとしている、と。
地下鉄サリン事件に至っては、「麻原の側近中の側近として地位を確立するための打算と推認し
身勝手極まりないもので言語道断」と死刑を求刑しました。

ああ、またまた長くなってしまいました。
佐々木雄司先生との出会いも書きたかったけれど、これもまたエントリーを改めたほうがいいかもしれません。

最後に2011年頃の中川智正氏が、NHKディレクターに話した「ぼやき」を紹介します。

すべてを裁判で解明するのは無理ですよ。システム的に。あそこでは麻原氏は犯罪者でしかない。
極めて優秀な面があったことは問題にされない。そういうといまだに帰依しているということになる。
ああいう人物が出た時にどう対処したらいいのか、わかっていない。
結局自分がバカでしたとしか言えない。それでは話にならない

故・中川智正氏、被告時代の苦悩(その2)

中川智正さん自身が被告時代、どのように裁判を受けていたのだろう・・・。

とりあえずは手に入りそうな本を探したところ、Amazon でこの本を見つけました。

オウム裁判傍笑記 青沼陽一郎

私が見た21の死刑判決 (文春新書) 青沼陽一郎



上の本では中川智正裁判関連よりも、元教祖の裁判中の態度について
当時新聞では知りえなかった内容が書かれています。
もしかしたら、オウム裁判傍笑記の書籍よりも、ほぼ同内容のYoutubeがあるので
そちらを見る方がお金がかからないでしょう。
3本目の動画には、早川喜代秀さんが教祖の命令により女装して普通列車で熊本から仙台まで
逃亡した話があります。不謹慎ながら電車の中でこの箇所を読み、涙を流して笑ってしまいました。
面白い話をありがとうございます。
女装組には、村井秀夫もいたことになります。









ただし動画中には、中川智正、土谷正実はあまり出てきていません。

そこで、下の「私が見た21の死刑判決 (文春新書) 青沼陽一郎」

それによると、中川智正は、裁判に臨んで、事件の事実関係について証言することをずっと拒んでいたと。
教祖はもとより、誰の公判に呼び出されても、一切を黙秘して語ろうとはしなかったらしいです。
しかし、いっしょにサリン生成中に事故で死にかけた土谷正実とは仲がよかったらしく
互いの法廷に証人として呼び出されていくと
満面の笑みで無言のうちに再会を喜んでいた
でもふたりは事件について一切を語らなかったと。

そんなある日中川の法廷に一人の弁護士が証人として出廷しました。
その弁護士は、滝本太郎さんでした。
これで有名かと思います。



空中浮揚をされた方です。

淡々とした裁判が終わろうとしたところ
滝本太郎弁護士は
「あ、あの!被害感情は聞かないんですか」
一瞬にして、傍聴席からドッと笑いが起きました。
滝本太郎弁護士もまたサリンの被害を受けているということを法廷中の誰もが
忘れていました。
「裁判所にも聞いてほしいことがあるのですが」
それを見て、証言を引き取ったのは、中川の弁護人だった。
中川の背後から立ち上がって、「それじゃあ、どうぞ」と反対尋問の延長として促しました。
滝本太郎弁護士は、それからおもむろにズボンのポケットからメモを取り出し、それを証言台の前に開いておいて
静かに語り始めました。

それ以下のことは、こちらのサイトに詳しいです。
http://www.cnet-sc.ne.jp/canarium/siryou1.html#資料1
滝本太郎弁護士関連資料サイトらしいですが
このサイト内のエピソードで、中川智正さんが逮捕2日前ぐらいに
杉並・永福町のアジトにて林泰男さん(この人も確定死刑囚)の前で
耐えられない。これ以上悪業を積みたくない」と泣いていたというのは初めて知りました。
中川智正が逮捕されたのは杉並の路上ということだから、泣き続け、放心状態になって
路上をふらついていたところだったのかとも思いました。
ここからは章姫の想像ですが、中川智正さんは逮捕されて、「ほっと」したのではないかとも
思いますが、その後の法廷で4年沈黙を続けられたのは、私には理解できない部分です。
—————————————————————–

「結論から言うと、中川智正被告について、厳正な処罰を望みます。
しかし、死刑にはしないよう、強く望みます。

 理由は少し長くなります。
 私は、元々死刑廃止論者ではありません。
むしろ何人かを残虐に殺したとき、原則として死刑にすべきものと思っています。
中川被告は極悪非道の行為をした。
浜口さん殺人事件、假谷さん事件、多くの殺人未遂事件、松本サリン、地下鉄サリン
そして八九年の坂本一家殺人事件。あなたは多くの人を殺した。多くの人を苦しませた。
松本サリンで殺された七人、地下鉄サリンで殺された一二人、一人ひとりの人生があった。
あなたはその命を奪い、多くの人を苦しめてきた、今も二人の人が重態のままです。
しかも、私の事件での一件記録からも明らかなとおり、あなたはいわば遊び半分で事件を起こしたこともあります。

 あなたの手をみせて下さい。あなたはその手で多くの犯罪を犯した。
あなたは、一九八九年十一月四日未明、その手で坂本龍彦ちゃんの鼻をふさいで殺した。 
龍ぼう おばあちゃんがお歌をうたってあげるね 
トンボのメガネは水色メガネ 
青い空をみてたから 
みてたから 
もう一つね 
メェーメェー 
森の仔山羊 森の仔山羊 
仔山羊走れば小石にあたる 
あたりゃあんよがあーいたい 
そこで仔山羊はメェーと鳴く 
龍ぼう 元気で早く帰っておいで 
おばあちゃんがだっこして 
又、何回でも何回でも 君の大好きなこの歌 うたってあげるから

 あなたはなぜ坂本堤を殺したんですか。なぜああも簡単に殺したんですか。
坂本は、池で溺れているあなたたちを助けたいと活動していたのです。
なぜ都子さんを殺したんですか。なぜその手で龍彦ちゃんを殺したんですか。
なぜサリンまで作ったのですか。
 私はあなたをほんの少しも許しません。
現世だけではなく、もし来世というものがあるなら、あなたの来世でも、そのまた来世でも許さない。
オウムでいうならば、何カルパでも、何万カルパでもあなたを許しません。

 でもそれでも、私はあなたを死刑にしたいとは思わない。
オウム真理教を知れば知るほど、そのマインド・コントロールと洗脳の実態を知れば知るほど、あなたを死刑にしたくはない。
 オウム真理教は強烈な破壊的カルトでした。
破壊的カルトとは
「教祖または特定の主義主張に絶対的に服従させるべく、
メンバーの思考能力を停止ないし著しく減退させ、
目的のためには違法行為も繰り返してする集団」を言うと思います。
 思考力を停止させるために使われたのは、マインド・コントロールと洗脳です。
マインド・コントロールとは
「対象者の思考能力を減退させるべく集積されシステム化された意識・思想・感情の操作手法の総体のうち洗脳を除いたもの」
を言うと思います。
 松本智津夫は、[豊かな社会」で生き甲斐と現実感を失った若者を引き付ける方法を知っていました。
 第1には、自分が絶対者だと称することです。
それも現世においてだけ絶対者であるというのではなく、
来世そのまた来世でも、それ以外のアストラル世界とかコーザル世界と言われる世界をも乗り越えた絶対者であり、
そんな「真理」を知る最終解脱者と称します。
通例の神という概念よりも、より高度な存在だと主張します。
この主張は、極めて魅力的なものです。
人は、支配されたい欲望、時にマゾヒスティックにまで絶対的に服従してしまいたいという欲望を特つものです。
この欲望を刺激されたとき、松本智津夫は強烈に魅力的な存在になります。
 第2には、様々なマインド・コントロールの手法を駆使します。
松本智津夫は極めて巧妙に、さまざまな手法を集積しシステム化してきました。
自己を権威化する手法、ダライラマや阿呆な知識人など外的な権威を利用し、賞賛手法、
赤ずきんテクニック、催眠・暗示テクニック、フットインザドアテクニック、ローボールテクニック、
人・物・時間の限定テクニック、
一本釣りテクニックを使い、報恩性の原理、同調性の原理を利用し、
ハルマゲドンや無間地獄などの強烈な恐怖説得、更に集団催眠の手法、秘密の共有という優越感の利用法、
そしてルビコンの川手法など使いました。
説明すれぱきりがありませんが、ここまでの手法が使われたとき、
どんな人が松本智津夫にはまってしまってもなんら不思議はありません。
 第3には、神秘体験という魅力あるフックがありました。
以前は、空気を大量に吸うことによるつまり、過換気症候群や、呼吸を止めることによる低酸素性脳症を狙って神秘体験をさせました。
勿論、監禁部屋に長くいれておいて変性した意識状態にさせ、神秘体験もさせました。
後にLSDや覚醒剤まで使用しました。
神秘な体験は脳生理学的には説明がつきますが、
体験をした本人にとっては、まさに「現実」であり、薬物と分かっている者であっても現世の方が「幻」になってしまいます。
その体験をさせてくれるのが、松本智津夫であり、彼が造ったシステムなのです。
 破壊的カルトにおいては、組織は教祖のおもいのままになります。
松本智津夫は、決して精神病者でも宗教家でもありません。
彼は、権力欲と社会への恨みと、強烈な破壊願望という煩悩に支配された人でした。
勿論誰でも、私も煩悩に悩まされる存在です。
私も、松本とともに輪廻の大海に浮沈する生き物です。
しかし、松本ほどに強烈な煩悩にさいなまれている人間はまずいませんでした。
ですから、彼がこの煩悩を実現するためにオウム真理教を作ったとき、行き着くところは見えていました。
タントラ・ヴァジラヤーナの思想は、松本の思想が凝縮されたものであり、信徒は彼の手足だったのです。
 そして中川被告のように幹部ともなれば、松本の破壊願望が伝染しているものであり、
二人組精神病の二人目と類似した状態になっていたと思います。
幹部は、いわば松本智津夫の手によって新しい人格をつけられ、
歪んだ自己実現をはかったということになると思います。
その結果、松本は、オウム真理教のメンバーの能力に応じて物理的に可能なことは、すべてできたのです。
言い替えれば、松本の代わりはいないが、中川被告の代わりは、いくらでもいたのです
 そんなあなたを、死刑にしたいとは思いません。たとえ本人が死刑を望んでも止めたいと思います。

 あなたとしては、今できることが2つあります。
1つはあなたの知る限りすべての真相を明らかにすることです。たとえ元の法友に迷惑をかけようと話す義務があります。
2つは、松本智津夫と自分自身について思索し尽くし、すべてを話すことです。
迷う時は迷うなりに、心の動きを正直にすべてメッセージにして下さい。
 その2つによって、今も残る「尊師には深い考えがある」と誤解している現役信徒の、
たとえ一人でも松本智津夫の桎梏から解き放つことができます。
殺された人、苦しんでいる被害者が、少しですけれど癒されます。
そしてこんな悲劇を二度と起こさない力になります。
あなたも一つの命を与えられた者として、その義務があります。
 それをしたときにのみ、あなたは、懺悔し、謝罪する資格があります。
つらいからといって話すことをやめてしまうとき、
あなたはざんげする資格も謝罪する資格もありません。
あなたは松本智津夫ではありません。あなたは、必ずや話してくれると思っています。
 以上の理由から、中川智正被告について、厳正な処罰を望みます。
しかし、死刑にはしないよう、たとえ本人が望んでも死刑にはしないよう強く望みます。』  

「手を出しなさい」と言われたときの中川智正は、自分の手を目で確認してから、少しおどけたように体の前に構えてみせたと。 
ぐっと顎を引いたまま、真っ赤な顔になっており、身の置きどころを失ってしまったらしいです。

これだけいわれても、この頃はまだ、話そうとはしなかったのでした。
この滝本太郎弁護士の語りは1997年頃。
さらに二年たっても相変わらず中川智正は、事件について語ることが
なかったのでした。
このころには、地下鉄サリン事件や坂本堤弁護士一家殺人事件の実行犯に、相次いで死刑求刑がでるように
なったこともあり、なぜか弁護側の立証に入ったときに
口を割らなかった中川智正が語り始めました。

「どうせ死刑だとあって、なげやりになっていたはずのあなたが、どうして
今ここで事実関係を話そうというつもりになったのですか」

「とりとめもない話です」と前置きしてから
「ひとつには今でも死刑になると思っているし、それは変わりありません。
そういう意味の責任から逃れる気もありません。
ー責任という言葉を使ってしまいましたが、それで責任がとれるとも思っていません。
私が死刑になった、だからといって何が変わるかといったら
なにも変わらない。
ご遺族、被害者、何も変わらない。
関係のないところで私が死んでいくだけのことです。
プラスになることでもなければ、私が死んでも、償いになることではないことが
少しずつ分かってきた。・・・」
そこへ、家族や友人から、きちんと話した方がいいというアドバイス、
あるいは法廷で証言する最後の機会がこの時であるという進言を弁護人から受けたことがあった、
と言ったそうです。
「それと・・・私事ではあるんですが、実は最近、親戚が増えたんです」
「・・・私は子供をつくれないけど、身内に子供を生んだものがいるんです。
その子は私が何をしたかを知らない。
おそらく一生会うことはないでしょう。
むしろ会わないほうがいい・・・。
だけど何十年か経って、身内の私のことを考えて
『この人はいったい何を考えてこんなことをしたのかな?』と理解されないのでは
残念な気がしたんです。
言っていること、わかってもらえます?
自分が死刑なるとわかってて、
人間の世界が終われば、別の世界に転生すればいいと思ってた。
でも私が居るいないに関係なく、
この世界は増えて、続いていくんだな。
きちんとしないといけないな、そう思ったんです。
あと、麻原氏の念というか、想念を感じることが一時あったが、
それがなくなった」

この頃に出版された書物がこちらですが
現在私が借りられる図書館では見つかりませんでした。
国立国会図書館しかない・・・。
文庫本なのに。
Amazonで見たら、7000円!
高い!
おそらく7月26日発売の「中川智正との対話」にあたり比べ読みで
目をつけている人が沢山いるという事かと思いました。


多分、中川智正さんだけは死刑ではなく無期懲役にしてほしいという人が多いのも
その後、彼が多く語るようになったからだと思います。
滝本太郎弁護士の言葉がどれほど響いたのかはわかりませんが

確定死刑囚になる前に、アンソニー・トゥ名誉教授と会いたいと申し出たのも
語るチャンスを失いたくないという強烈な思いに突き動かされたのか、とも
思いました。
この人からもっと多くの言葉が聞きたかったのに、死刑執行は残念でなりません。

故・中川智正氏、被告時代の苦悩

7月6日(金曜日)午前、次々に入ってくる死刑執行のニュースに驚いた私は、
仕事をしていても、なぜか中川智正さんについて、気になって仕方がなかったです。

そしてそして、完全文系な私ですが中川智正関係記事をあさりはじめ、
ついには

と、お金もない、化学の知識もないのに、論文とか本とか買ってしまいました。
多分オウム真理教元幹部の本など発売されないだろうと思い、まずは2014年発売本をAmazonでぽちりほっまだ値上がりしていない。

ちなみに、早川喜代秀さんの著書はすさまじい。



3万近くに値上がりしている。
こういう本はまず、図書館ではあまりお目にかかれないので
こういう時にここぞとばかりに値上がりするらしい。
中川智正さんの本は、まだ1300円だったので、やった!!!と思ってAmazonでぽちったところ、斜め上の情報が入ってきました。
「死刑執行されたら出版してください」との約束で元オウム真理教・中川智正元死刑囚と面会を重ねた世界的毒物学者の書籍を緊急刊行。



ええええええええええーーーーー。本の衝動買いに走りまくってしまった・・・。
読みこなせるかどうかわからないけど、
買ってしまったものは何とか読もう、自分なりに
というわけで、
今回はこの中川智正氏とアンソニー・トゥ名誉教授との共著を読む前に中川智正氏に関する予習をしておきたいと思います。

化学的な知識に関する予習のサイトとしては、こちらが素晴らしかったです。
「オウム死刑囚が執筆した論文をレビューする」

特にこの部分を読んですごい!と思ってしまいました。

「論文の文章から漂うのは、圧倒的な「当事者感」である。特に以下の記述がすごい。

There is no documentation regarding the toxic nature of the two types of VX (salt-free and HCl) in the literature; however, this was actually shown by Aum Shirikyo’s terrorist action. This was known only by two persons who were involved in the manufacture of VX. The first author of this paper was actually involved in such manufacturing [unpublished observation].

-この二種類のタイプのVXの毒性に言及した文書は存在しない。しかし、その毒性はオウム真理教事件によって証明されている。
これはVXの製造に携わっていた2人(つまり、中川智正と土谷正実)だけが知っている。
この論文の筆頭著者は実際に製造に関わっていた(未発表)。

このサイト運営者は人工知能の研究をイギリスで深めている方とのことで
理系知識ないに等しい私でもすごさの一端に触れることができました。

今回のエントリーでは、私自身が中川智正氏の著書が発売されるまでに中川智正氏に関して予習をしたいと思います。
彼がオウム真理教に入り、被告になってからどのような苦悩を抱いてこの23年間を過ごしたのか。
すべての資料を読む予習は難しいけれど、
たまたま行きつけの図書館で、この本を借りることができました。
この本を読んで予習しようと思います。



この本には中川智正氏について
「医師の使命」なき男 中川智正 として一章が記されています。
おそらく、ウィキペディアで中川智正を見た人たちには(私も含め)知らない面が書かれています。
それはどのような面なのか、以下に記していきたいと思います。

意外にオウム真理教との縁が切れなかった

中川智正が逮捕されたのは、1995年5月17日のことでした。
それからすぐに、脱会届けを出したとのことですが、
それは、岡山に住むご両親が、私選弁護人をつけるために、脱会届けを書き、息子を取り返したものでした。

当の中川智正は、林郁夫受刑者の公判にて、こう述べています。
「親としては、私を教団から取り返したのであり、ある意味では取引のようなものでした。
ほんとうの意味で、麻原尊師と私が切れているかどうかは、ちょっと申し上げられません」

オウムに出家するときに猛反対した親が、
自分が逮捕されたから、自分をオウムから切り離すためにそうした、というニュアンスが感じられます。
ご両親は、私選弁護人を雇ったものの、息子の罪状が次々に増えていき、さらに「サリン」「VX」などで25人を殺害し、
6000人に被害を与えた事件を起こした息子のために弁護士の交通費、宿泊費を工面するのは、
経済的にも困難になり、
そこまでしてもまだ息子の心はオウムにあることがわかり、
どうすればいいのか途方、絶望にくれていたようです。
さらに息子はその弁護人と意見の対立を起こし、国選弁護人に代わったとのことです。
その国選弁護人はオウム真理教が経済援助してつけた感じがし、
1998年ぐらいにはご両親は、息子は脱会こそ書類上ではしているものの、教団に復帰しているようなもの、と捉えていたようです。

「法皇内庁長官」

在りし日の中川智正氏詰め合わせ

オウム真理教幹部の中では「ボンボン」「坊ちゃんタイプ」(端本悟・死刑囚)いうイメージで見られており、
教祖に迎合する傾向はあれど、
教祖が、端本死刑囚に30キロの減量を命じようとしたのを止めさせるよう進言できる人物との評価でありました。
教祖の主治医ではあれど、教祖の身体に触れるようなことはなかったということです。
麻原が逮捕されるときに、弟子たちにさえ、身体を触られたことはない!と言ったことからも
医師免許を持つものとして教祖を診察するということはなく
単に健康アドバイザーのようなものだったとのことです。
もう一人、医師として有名なオウム真理教幹部として、林郁夫受刑者がいますが、
彼は20年の臨床経験をもつけれど、臨床経験が1年の中川智正よりステージは下だったとのことです。
創価学会の池田大作殺害未遂事件の時に、
ガスを吸い込んだ新実智光氏をおんぶしてはこんでは来たが臨床経験1年しかない中川は治療もできなかったと。
林郁夫は、
「自分よりステージが上の中川が何も出来ず、それでいつも指示だされていたので意外に思った」と公判で証言しています。
医師でありながら、臨床経験が少ないために無理をさせられて失敗エピソードはここからきているのかと思いました。

なお中川智正によると、彼よりも村井秀夫の方が教祖の身体に触れているのを見たとのことで、
扱いは、村井秀夫、遠藤誠一、中川智正の順で重用され、
村井は食事の給仕や買い物などあらゆることができ、
遠藤と中川は同じ程度だったと言っています。
また、医師の使命について麻原弁護団から尋問されたときに
そもそも、私は医師という人種になったのではありません。医療技術の資格をもっただけなんです
私には医師の使命というのが嘘くさく思えるんです」と、
医師を志し、真面目に勤務していたことを自分自身で否定するほどの状態の頃があったのでした。

研修医時代

「医師の使命が嘘くさい」というほど、医師という職業を嫌悪しているような感じのある中川智正の研修医時代とはどんなものだったでしょう。
勤務した病院では、最初は消化器内科に配属され、胃カメラ、超音波、バリウムなど勉強し1日に30人ほど診察し。
即戦力として期待され、数をこなすことを求められる激務だったようです。

それでも、患者の症状を親身になって受け止めていると、
いつしか自分が同じ症状になっていく感覚があり、
それを上司に相談したら、
「そんなアホなことあるか!」といわれ、どうしたらよいかわからず、悶々として過ごしていたとのことです。


私も、「対人援助職」として親身になり受け止めようとして、
心身ともに疲労困憊なのに無理をしたことがありますが、
私の頃はうつ病、燃え尽き症候群などの病名や、「感情労働」という言葉が使われるようになったけれど、
昭和末期ではまだその考えはなかったなか、一人苦しまれていたのかもしれないと思いました。

それがオウム真理教出家の原因でもあったのか・・・と。

裁判では、「医師という人種になったのではありません」などと答えていたのも、
もしかしたら研修医時代の煩悶が尾を引いていたのではないか、と平成の今、
この部分を読み返して思う人が結構いるのではないかと思います。
当時はなかったのが中川智正氏にとって不幸だったのかどうか。

もう一つ、出家をしたばかりの中川智正は、
村井秀夫にいきなり「人を殺せる薬はないか」と言われて、
元勤務先の病院に盗みにはいっています。
これも昭和だったからできたのか、とも思います。
平成の今であれば、まずセキュリティカードで管理されているので、盗みに入るのは困難だと思います。

この時盗んだものが、坂本堤弁護士殺害事件で使われています。
結局静脈注射はできず筋肉注射しかできなかったけれど、
3人の命が奪ったのは中川智正の注射行為だったと共犯者たちは見ていましたが、
中川智正本人は、
「子供の口と鼻をふさいで死なせたのは自分だ」と悩む日々で、
それを理解してもらえない中で、さらに犯罪を重ねていくことになります。

被告時代の苦悩

自身の第一回公判で、地下鉄サリン事件関与を認め、
「村井秀夫さんから指示され、私がサリンを生成し、袋詰めにしたことは間違いありません。
しかし尊師らと共謀した事実はなく、どこで発散させるのかは、事前に知りませんでした」

一人で責任を負うつもりだったのでしょうか・・・。
さらに第四回公判では、坂本弁護士殺人事件について
「殺害する共謀があったのは事実です。
ただ奥さんや赤ちゃんを殺す話はなく、
現場で「泣いている子供をなんとかしろ」と言われて、
タオルで口と鼻をふさぎました。
もう私は迷惑をかけたくない。気持ちとしては、「消えてなくなりたい」

法廷で「ぼくは死刑になる。教団の教義でも、人を殺したら自分が殺されるか、悲惨な死に方をする
ということがあり、
何とか麻原元側近として、麻原自身に
「お前たちは悪くない」と言って欲しかったらしいです。

村井秀夫の死については、
麻原裁判の第193回公判にて
村井さんはヤクザに頼んで刺してもらい、自殺したんだと思う。あの人なら、それくらいやりかねない。自分もああいうふうに死にたかった
と言われています。
そして、2001年の麻原二百回公判において、

「医師をしている友人から、『地下鉄サリン事件で使われたサリンを、まさかお前がつくったとは思わなかった』といわれました。
しかし教団の構成員である以上は麻原氏の命令に従わざるを得なかったのです。
もともとオウムには、特殊な人たちがあつまり、世俗を捨てて活動していました。
そこへ捜査が入り、司法の場へ引き出され、現世に戻されています。
麻原氏にはそのことをわかってほしい。
教団はシヴァ大神をいつもかかげていました。
シヴァ大神が『お前たちが悪いんじゃない』といっておられるならそれを言葉で伝えていただきたい。
尊師がどう考えておられるのかを、帰依していた弟子たちに何らかの形で示してもらえませんか。私たちは、サリンをつくったり、人の首を絞めるために出家したんじゃないです」と証言台で泣き崩れるエピソードを残しています。

その翌年の2002年2月25日の中川智正裁判の時に出廷したかつての尊師は、宣誓書に署名を拒絶しました。
そのときに、中川智正氏は呼びかけました。
尊師、なんとか署名していただけないでしょうか。
ぜひ尊師のお話をうかがいたいのです。
これが多分、最後の機会だと思います。
私だけではなく、いろんな人たちが、否応なしに事件にかかわっています。
そういうことも考えて、お話いただきたいのです


それに対して、かつての教祖は、手で振り払うようなしぐさをするだけだった・・・。
医師免許を自主的に返納したり、サリンをまいたことを認めたりと
当初からわりと幹部の中では洗脳が解けていたイメージのある中川智正氏。
実際は、このような苦悩につぐ苦悩の末、
すこしずつ「麻原は何も言わない」と理解していくようになったのだと思います。
佐木隆三氏の著書では2002年で止まっているので、
その後、どのような過程を経てVXに関する論文発表と、自分の死刑執行を淡々と受け止めていくのかまではわかりませんでした。
「結審までの見通しは立っていない」で筆が結ばれています。

「元に戻ってくれました」(中川智正氏のお母様)

(朝日新聞の記事より)
「あの子がいつ、この世からいなくなったとしても当然だと思っています。
それしかありませんから、償いは。いえ、そんなことしたって償いにはなりませんけど」
 西日本のある都市に夫と暮らす。せめてもの願いは息子より1年でも長く生きること。
死刑が執行されたら迎えに行き、「連れて帰りたい」からだ。そう語ると、突然、嗚咽(おえつ)した。
 「骨つぼは仏壇に置いておきます。私たちが死んだら遺骨を一緒に入れてもらいたい。長男なのに、生きているときは何もしてくれなかったんだから、あの世で世話してもらおうって
 2カ月に1度、面会のために上京する。午前中はいつも、弁護士一家の墓がある神奈川県の寺へ。手を合わせ、ひたすらわびる。
母親は「インチキに決まっているじゃない」と止めようとした。とうとう説得できなかったことを今も悔やむ。
 同時に、矛盾しているようだが
「あれだけ止めてもどうにもならなかったことが、慰めになっているのかも……」。
力が足りなかったんじゃない、オウムはとてつもない相手だったのだ、という自身への言い訳だ。
 中川死刑囚は裁判で罪を全面的に認め、涙を流した。
母親との面会では、足が弱って上京しにくい父親の体調や、きょうだいの様子をよく尋ねる。
元教団代表の松本智津夫(麻原彰晃)死刑囚のことは「あれ」と呼ぶ。
「教えを信じたまま死んでいくのだったら、つらかった。でも、昔に戻ってくれました。だから本当に覚悟しています」

発売される著書がどのようなものであるか、楽しみに待ちたいと思います。
それにしても、最近は軍人の話とは逸れることが多い・・・。
でも忘れたわけでもありません。