オステルン祭

本当に久しぶりの更新となってしまいました。

ところで本日は、キリスト教圏ではご復活祭りということで
各教会ではキリストのご復活を祝っていたことと思います。

私もどこかのカトリック教会のごミサに与りたかった・・・。
しかしながら、土日ともなると、日常の疲労がどっと出てしまい
なかなか教会にも行けないぐらいです。

さて、本日はその「ご復活」祭にちなんで
武藤章さんが、まだ大尉の頃
ドイツに留学していた時に、義理妹さんに宛てて書かれた手紙が
あるので

それをご紹介したいと思います。

オステルン・アイ
(画像はwikipediaより)

「豊子様 万歳!!
(※以下義理妹・豊子さんが学校に合格されたことを祝う言葉があります)

今日、当地はオステルン祭といって、
基督の磔になった日の御祭りの日です。

子供はオステルン・アイ(オステルンの卵)を両親から頂くのです。
それは昨日お母様が家の中に何処か知らんがかくして置くのです。
それを子供達は家中捜してまわるのです。
卵は真当なものもありますが、
大抵チョコレートから出来ております。
御祭りは日曜まで続きます。

二、三日前に洋服屋に参りましたら
御父様(※武藤さんの妻の父・尾野実信大将)の何時も作っていらっしゃった
服屋で、尾野大佐の寸法が六着も古い帳面にありました。
又、尾野大尉と書いたもっと古い帳面もありました。
服屋さんは大変正直者ですが、只今は随分貧乏して居るようです。

それから昨日、蓄音機を買いました。
レコードも六枚買いました。
下宿の連中大喜びで、六枚のレコードを夜の十時までかわるがわる
かけて居りました。

お終いにはダンスを教えるといって、私を廊下に引張り出しました。
そしたら私が足を踏んだので止めました。
独逸の人、大変音楽がすきで、一度ぐらいご飯を食べないでも
音楽を聞いたほうがよいというぐらいです。

もう日本は暖かになったことと思います。
伯林は一日置き位に寒い日と暖かな日とが来ます。
毎日寒暖計を見て冬と夏のマントを着て外出せねばなりません。
女学生になったら、お転婆を止めて電車にご注意!!

皆様によろしくよろしく」

出典:澤地久枝『暗い暦』(文春文庫 1982年)より

ドイツの復活祭って「オステルン(Ostern)」というのか・・・。
一つ勉強になりました!

武藤さんが独逸に留学していたのは
1923(大正12)年からです。

最初はベルリンに滞在していましたが、当時のドイツは第一次世界大戦の敗戦国。
人心は荒廃し、夜のベルリンはとても寒く、雪解け水の汚水にまみれた陰惨なものだった
と、武藤さん自身は巣鴨拘置所内で書かれた『比島から巣鴨へ』で書かれていますが、
義理妹への手紙ではそうした暗さを一切見せずに
異国での生活を伝えています。

武藤さんは軍事を学ぶためにドイツ留学したはずなのに
ドイツは当時敗戦国として軍備撤廃を国際連盟から監視されており、
日本人もドイツの軍隊を見ることができず、さらに加えて
日本人同士でつるんでしまう(当時、日本人留学生がベルリンに多くいた)のも
あり、武藤さんは意識的に彼らと離れて、この後ドレスデンにてドイツ生活を送ります。

なお、武藤さんに「ドイツに行って本当に勉強するなら、日本人のいないところがいいよ」
とアドバイスしたのが、何と山下奉文さんだったのです!
山下さんと武藤さんは、陸軍部内でのドイツ留学組というつながりでもあったのですね!

現在のように、ネットなどのSNSもない時代は、
何か人に教えをこうとき、その相手の私宅をアポイントとって訪問するというのが
普通だったのでしょう。
山下さんと武藤さんが直接若い頃から互いの顔を知っていたことは、
単なる陸軍部内の先輩後輩関係だけでない、何かがあったのかな?と
後年の生死をともにしたときの関係からみると思ってしまいます。

二人とも、同じような考え方を持ち、組織人として苦悩し、悲劇的な死を遂げたという
事実からも・・・。
なお、大切なことは、この二人とも
盲目的にドイツを礼賛していなかった、ということです。
武藤さんは、東京裁判中に「ヒットラー礼賛者」と言われていましたが、
そんなことはないです。
なぜなら、この時期、ヒトラーがミュンヘン一揆を起こし、すぐに鎮圧されており

”Hitler ist verrückt”(ヒトラーは狂気だ)
とドイツ国民が口々に評していたのを直に感じる機会があったことが
とても大きいのではと思います。

武藤さん自身はヒトラーを「成金は信用できない」という思いをずっと持っていたのです。
それは、ヒトラーが無謀な行為をして失敗しても、ドイツにおいては
一代の英雄として一時名をはせるぐらいであろうと。

・・・キリストのご復活のことを書くつもりが
こんな話になってしまいました。

武藤さんという人は、なぜかヒトラーを評価してないのに、ヒトラー礼賛者とされてしまったり、
ドイツを過大評価しすぎた当事者(陸軍省軍務局長)とされてしまうなんて
本当に悲劇な立場だったのだと思うのと、
武藤さん的立場の人の、自分を殺して組織として動くときの冷静さは
すごいと思うけれど、相当なストレスだったと思います。
これに耐えられる人ってなかなかいないと思います。

山下将軍の対ドイツ観

これでブログ再開後3日連続で更新です。
なんだかとっても嬉しいです。゚ヽ(゚´Д`)ノ゚。 ヤッターン♪

昨日は武藤章将軍のことを書きましたが、
今日は山下将軍のことを書きたいと思います。

山下・武藤両将軍には共通点がたくさんあります。

●幼年学校から陸軍で育った
●陸軍大学校卒業時に「恩賜の軍刀組」(上位6位以内)
●ドイツ語が堪能で留学経験もある

などです。
それなら、山下将軍はドイツをどのように見ていたのでしょうか?
戦前の日本ならば、ドイツの力を過信したり、ドイツを見習え!で突っ走ろうとする人
(軍人を含む官僚に多かった)もいるなかで、

意外に冷静だったりします。

昭和14(1939)年。
「バスに乗り遅れるな!」のかけ声のなか
山下さんは、中将として一度だけ、中央の役職に任命されました。
航空総監という役職です。
これは、山下さんと同期の沢田茂参謀次長と、阿南惟幾陸軍次官(それぞれ当時)が
山下さんを中央に呼び戻そうとしたことによるらしいです。

この役職は、前任者が東條英機さんで、東條さんはどうも山下さんと不仲が噂されていたのか?
「なに?山下が後任か?」といったとか・・・。

それはさておき

この役職について、これから航空について学ぶと着任時に宣言してから半年たらずして
山下さんはドイツに派遣されました。
ドイツとイタリアの招待に応じるかたちで。

山下さんは実はかなーーーーり毒舌な方でした。
『東京朝日新聞』昭和15年2月21日号でのインタビューでは

「ドイツが英国を相手に現在のやうな底力を見せてゐるのは想像もできない。
ワシの滞獨中でもパンは鉋屑のやうにパリパリしとるし、コーヒーだつて
柳の葉つぱを煮出してサッカリンを入れたものだった

それでも誰も文句は言わない。
今に見ろ!といふ気持ちだ。現在の日本はどうだらう。互いにしっかりやらうではないか!」

2013-08-14 21-41-21

この写真の出典は

ヒトラーは山下さんに会った時、「日本陸軍に対して、ドイツ国防軍は秘密なし」といったが、
そんな言葉通りに受け止める山下さんではありませんでした。
「日本は日独伊三国同盟により、速やかに宣戦布告すべし」といったヒトラーに対して
明確に「ノー」と言っていたのです。

その理由は、「日本は支那事変が終結していないのと、対ソ関係があるが、それに対抗するためには
まず軍制改革が必要!英米と戦争できる余裕はない」と。
これは今読んでも、「まっとうだ」と思います。
軍政改革とは・・・。もっと陸海軍が一体化することを目指すべきということをいいたかったようです。
正直、当時の陸海軍は、組織としてしっくりいっていないことが多々あり、互いに組織の悪口を言い合っており、
さらには「陸軍のやつには娘を結婚させない」宣言をしていた人もいたぐらいです。

実のところは、山下将軍からみて、なぜ陸海軍は互いにまとまろうとしないのか?
それは・・・映画の主人公にもなったある悲劇の将軍の存在だったようです。
山下さんと同じような考え方をしている人が少数ながらいたであろうとは、
こちらの本にも記述があります。
大本営参謀の情報戦記―情報なき国家の悲劇 (文春文庫)

案外、世間ではヒーローと思われているひとが
大きな組織の中では「ちょっと・・・」と思われていることって
よくあることなんですねえーーー(この方のファンの人たち、申し訳ありません)。

世間の空気が、ドイツの勢いに便乗してイケイケドンドンだった時に、
ヒトラー相手にここまで交渉できた山下さんはすごいと思います。
(この山下さんたち一行の派遣とその成果については、批判的に評価している人もいます)

山下さん自身が、新聞のインタビューの時に、鉋屑のようなコーヒーといったりしている
あたりに、そんな「やみくもに海外を妄信してはならぬ」という気持ちがこもっているように
私には思えます。