日本の歴史、世界の歴史に汚点として残ることをした

1999年に入っても
中川智正被告は相変わらず証言しようとはしませんでした。

麻原の第103回法廷(1999年1月14日)に出廷した際に
麻原弁護人側から
「世間はあなたの気持ちを理解していない。分かってもらえないのは寂しいとは思わないか」
といわれた時
中川智正さんは
それは分かっていないでしょうね
両手をひざにのせ、天井を見上げ続けたまま。

その時教祖も、口をすぼめて目を閉じて、うつむいたままでした。

なお、中川被告のあとに出廷した遠藤誠一被告は、明確に
「松本被告がサリン噴霧を指示した」と、
麻原が直接松本サリン事件時に、弟子に直接指示を出していたことを初めて証言しました。

遠藤誠一さんと中川智正さんでは、
後に、確定死刑囚になったあとも沈黙をしていた遠藤誠一さんに対して
逆に拘置所内において論文を発表したりとアクティブだった中川智正さんの姿から

中川智正さんの方が先に教祖のサリン事件関与に関して証言し始めたように思えるかもしれませんが、

裁判内においての証言は、遠藤誠一さんの方が先であったのは
意外かもしれません。

2000年2月3日の中川智正公判において、VX襲撃事件の被害者・永岡弘行さんが検察側証人として出廷しました。
自分が犯した事件について「時期が来たら話す」としか言わない中川智正被告に対して
生ある限り、今日ただいまから事実を述べていただきたい。
誰が見ても、後悔の念がにじみ出ていると思える態度でそうしてほしい。
前途ある青年が、二度とあのような大罪を犯すことのないよう
現役の信者に、それは間違っている、というひとことを中川くんが残してほしい

という言葉に対しても、

中川智正被告は、ずっとうつむいたままで、時に泣き出しそうな表情でした。

この日に、永岡弘行さんは被告に対する被害者としての処罰感情を主に聞かれました。
オウム真理教家族の会(旧・被害者の会)の会員として、ともに息子を奪回するために
活動をしてきた中川智正被告のご両親を思うと、
正直、こうしてほしいと申し上げることはできない」といい、
永岡弘行さんを襲撃するために使った注射器にVXを注入したのが中川智正被告だと判明したときに
まず、中川被告の母親から電話を貰ったが、お母さんは私が電話に出た途端
何も言えなくなり泣くばかりだったとも証言しています。

裁判の休憩が終わり、再開したときに、少し遅れて入ってきた中川智正被告を見た永岡さんは、
思わずその顔を見ると、
中川智正被告が永岡さんの目を見てそっと会釈しているのが分かったと。

なんでこの子が、この青年が」とたまらなくなったとのことでした。
(以上、「朝日新聞」2000年2月4日朝刊)

その一月後、2000年3月末でした
中川智正被告の心変わりがあったのは。

地下鉄サリン事件について、いつもより詳細に語ろうとする姿勢を見せた中川智正被告に対して
どうせ自分は死刑と、なげやりになって調書の内容はどうでもいいと思った」といったあなたが
なぜ今詳細に語ろうとするのか、心境の変化があったのかと聞かれると

「自分が死刑になっても償いができる性質のものでない。
ものすごく大きな事件、
日本の歴史、世界の歴史に汚点として残ることをした、と少しずつ分かってきた。

これで自分の人生は終わり、どうでもいい、という感覚が消え
生存したい、というのではないが、残りの人生をちゃんとやらなきゃいけないと思うようになった
(以上、「朝日新聞」2000年3月31日朝刊)
おそらくこの裁判の時であったと思いますが、

青沼陽一郎『私が見た21の死刑判決』(文春新書)の中に詳細な内容もあります。



これについては、故・中川智正氏、被告時代の苦悩(その2)
でも引用していますが、
今回も再引用したいと思います。

「家族や友人から、きちんと話した方がいいというアドバイス、
あるいは法廷で証言する最後の機会がこの時であるという進言を弁護人から受けたことがあった。」
と言い、
「それと・・・私事ではあるんですが、実は最近、親戚が増えたんです」
・・・私は子供をつくれないけど、身内に子供を生んだものがいるんです。
その子は私が何をしたかを知らない。
おそらく一生会うことはないでしょう。
むしろ会わないほうがいい・・・。
だけど何十年か経って、身内の私のことを考えて
『この人はいったい何を考えてこんなことをしたのかな?』と理解されないのでは
残念な気がしたんです。
言っていること、わかってもらえます?
自分が死刑なるとわかってて、
人間の世界が終われば、別の世界に転生すればいいと思ってた。
でも私が居るいないに関係なく、
この世界は増えて、続いていくんだな。
きちんとしないといけないな、そう思ったんです。
あと、麻原氏の念というか、想念を感じることが一時あったが、
それがなくなった


中川智正被告はその後、一転して発言をするようになります。
すると教祖はどういう態度をするようになったでしょうか。

麻原第161回公判(2000年6月22日)において
麻原はこのような不規則発言をしています。

お前の大好きなブッダを」
「お前、やめろ」
「麻原彰晃、松本智津夫はお前の父親」
「脚力は強いんだ


以前であれば、黙り込んでしまっていた中川智正さんでしたが、
はっきりと不愉快な態度を見せています。

阿部文洋裁判長は、そんな中川智正さんに対して
「何も聞かなかったことにしましょう」と声をかけました。

この麻原被告の態度にも変化がありました。
これまでは「どうせ中川くんは話さないから」と思っていたから
口をすぼめていたのでしたが、
中川智正さんまで話すようになってから
必死になって止めようと、
お前の父親は俺だとか言い出すあたりは、
きっと麻原は不規則発言をしながら、法廷の内容を理解していたのではないか
と思えてなりません。

中川智正さん自身も、この2000年の心境の変化が大きかったと思います。

死刑が確定しているのに論文を拘置所から発表するなどの行為に
つながっていくのではないでしょうか。
中川智正さんのしたこと自体
「日本の歴史、世界の歴史に汚点」

自分は死刑になるけど、その後も世界は続くのだ。

だからこそ、自分は自分のしたことについて、
出来る限り正確に語っていきたいと。

中川智正さんの論文発表については賛否両論でることは
おそらく中川智正さん自身が「想定の範囲内」だったと思います。

事件の内容を語ることに意欲的だったのはなぜだったのか。
死刑執行後に出版することにこだわったのはなぜだったのか。

中川智正さんとしては
第一に、「自分が確実に死刑執行されて罪を償うこと」
第二に、「死刑執行前に自分のしたことを正確に書き残すこと」
と決めていたからではないでしょうか。
こうした自身の身の処し方をみても、2000年3月末というのは
大きな意味を持つのかと思います。
しかし、麻原の想念が入らなくなったと自覚してからも
苦悩はさらに続くこととなります。

「ため息をつくより、早く話して楽になったらどうですか」

麻原公判の第94回目(1998年10月16日)に証人出廷した中川智正被告。
この日は、検察官からも麻原弁護人からも、

そしてタイトルにあるように
阿部文洋裁判長からも



※イラストは、青沼陽一郎氏動画「麻原法廷物語」より

「ため息をつくよりも、早く話して楽になったらどうですか」といわれるほど
証言中、何度も身をよじり、傍聴席に聞こえるぐらいのため息をつき続けていました

この日は、松本サリン事件、地下鉄サリン事件に関する尋問でした。
「私の法廷が11月25日にあるので、そこで正確にお話したいので、今日はお話しできかねます。」
それに対して、阿部文洋裁判長が
その時に言えるなら、今言ったらどうですか

検察官が呆れた様子で
サリン生成、事件の謀議、準備、実行、実行後のほとんどすべての証言を拒絶するのか
「あなたは、1995年6月3日、6月5日、6月6日付の3通の検察官に対する供述調書を示されたと思いますが」
と問いただしたことに対しても

「今日はお話できかねます。有罪判決を受ける恐れがあるからです」

確かに、過去の新聞をたどると、逮捕されて1月立たない1995年6月には
中川智正がサリン事件に関わっていた供述をしたという記事が出ています。
しかし、なぜこのように頑ななのでしょう。
これは今さらながら、過去の新聞を読み漁っている私もそうですが、
当時、傍聴に行かれていた方は皆そのように思っていたに違いありません。

段々いら立ちを隠さない検察官が
「検事調書と違うと言われて、なぜと聞くのは当然だし、あなたには答える義務がある」
「答えないのはフェアではない」
さらに阿部文洋裁判長までもが
いったん言ったことは、証言拒否権を放棄していることになります」とくぎをさしました。

それに対して、中川智正被告は
基本的には誰にも話したくない
「新しい弁護人との間で自分の裁判の準備が進めば話す可能性があるので、待ってほしいと言っている」
(弁護人が、裁判開始後両親が雇った方から他の方に変わったころでもありました)
記憶通りに話して罪が重くなっても、それはしょうがないんじゃないでしょうか

さらに麻原弁護側からも
「なぜ、事実と違うことを供述の段階で検察官に言ったの?他人に罪を転嫁するためなのか。
自分で罪を背負うつもりなのか」
「あなたがしゃべらないことで、相当な混乱が起きていることは分かっていますか。」
中川智正被告は、「分かります。よく分かります」

こういうやりとりが一時間半続いて、この日は時間切れで終わってしまいました。
ただし、サリン原料のメチルホスホン酸ジフロライド(ジフロ)を保管していたのは、
自分といったけど、実は井上嘉浩被告であるということを言い出しました。
このことが、16年後も尾を引くことになるとは、当時は誰も考えていなかったでしょう。

阿部文洋裁判長が最後に
真実を明らかにしないといけません。真実は一つです。
苦しそうな顔をしたり、ため息をつくより、
しゃべった方が楽になるんじゃないですか。
また来てもらいますからね
」という姿を
中川智正被告は、口を一文字にきっと結んで、じっと見つめていたとのことです。

このとき、教祖はどうしていたのか。
不規則発言ではなく、居眠りをしていたということです。

逮捕後の取り調べでは、サリン事件について早くから供述をしていたのに
いざ裁判となると、なぜ沈黙するのでしょう。
この中川智正被告の沈黙がオウム真理教裁判を引き延ばしさせる結果となったのは
確かだと思います。
実行役の豊田亨・広瀬健一・林郁夫被告などはみな語りだしていたし、
教団との決別を明確にしていたのに比べて
製造役とされた中川智正・遠藤誠一被告は事件については認めるも、
裁判の場で証言を拒否する姿勢を、1998年当時は取り続けていました。
そのこともあって、サリン事件の全容が裁判の中でもつかめない状況だったのでした。

その中でも、中川智正被告は、なぜこんなにも話したがらないのでしょう・・・。
身をよじってため息をつく姿を想像するや
私は、少年犯罪を起こした高校生ぐらいの子供がふてくされている姿を
想像してしまいました。
そして、1時間半の間、証言台でため息をつき続ける姿を晒しているのも
随分な修行だなあと感じました。
青沼陽一郎氏が麻原に対して言われた「無頓着の実践」とはまた
少し違うようにも思えますが。

でもこの人、当時30代だったのですよね・・・。

さらに、両親が金銭的に苦労をして雇った弁護士を、
自分の裁判の都合ということで解任してしまったころで、
ご両親の不安、心配は、想像を絶するものであったと思います。

しかし、中川智正被告が「記憶通り話して罪が重くなっても仕方がない」と話しているあたりは
今後の裁判を見ていくうえでキーになることではないでしょうか。

なお、この日の傍聴希望者は115人とのことで
中川智正被告初公判の4158人からすると
かなり関心度が落ちたことがわかります。

「対話本」から中川智正さんに興味を持った人は、



「なぜ中川智正さんのような頭がよくて誠実な人が麻原なんかに・・・」
と強く思うはずです。

実際は、このような時期が長かったのですが、
その部分が「ないこと」となってしまっていることを改めて思いました。

だからこそですが、朝日新聞や毎日新聞社会部は、一連の書物を
再刊してほしいと強く願います。

私は都内に勤務していてそのついでに、資料に接することができますが、
Twitterから私のブログを読んでくださっている方の中には
中川智正の姿を知りたくとも
その資料に直に当たれない状況なのです。

地方では図書館にオウム真理教関連の書物がないのです。
おそらく古い書籍は廃棄やリサイクルされてしまって
ないのでしょう。

テレビ放送では不十分です。
あくまで当時の裁判記録に近いこれら書物の再刊を
強く求めます。

オウム真理教裁判がどのようなものであったのか。
そして中川智正さんという人を深く知りたいという人のために。

中川智正さんがどのような姿であったとしても
読者は、いろいろと想像するでしょう。
人物を複眼的にみる機会になるでしょう。
その機会さえ失われるのはもったいないことだと思います。

参考資料:
「朝日新聞」1998年10月16日朝刊


「こっちを向いてしゃべるように」

青沼陽一郎氏の「麻原法廷物語」を見て、
オウム真理教裁判の様子に驚いた人は多かったと思います。
厳粛な裁判の場を激情のまま、「劇場」に変えてしまった。
私も驚きました。



さて、この裁判に33回(いやもっとかも。正しい数字がぱっと出てこない)
出廷した中川智正さんがこの場にいたら
どんな感じになるのでしょう。

例えば、第28回公判(1997年2月28日)

出典は



中川智正被告は麻原裁判の弁護側証人として出廷でした。
この人は、裁判中、紺色のジャケットにグレーのスラックスという
きちんとした服装をしています。

淡々と宣誓したあと、「本題」
検察官:「あなたは坂本弁護士殺害に関与しましたか」
中川:「今日それについてはお答えできません」
検察官:「その理由は」
中川:「自己の裁判で有罪判決を受ける恐れがあるからです」
検察官:「将来もするつもりがないということですか」
(中川、少し考えこみ)「もう一度お願いします」。
中川:「ええと、全くないというわけではありません。弁護士に相談の上」
検察側がここで、1995年9月26日から10月11日までに取られた検察官調書8通を1通ずつ示す
検察官:「末尾の署名、指印は証人がしたものですか」
中川:「それも今日は確認できません。」
※これを8通あるため、8回くりかえした。

麻原の主任弁護人:「このまえはいくつか話してくれたんですか。今日は話してもらえないんですか」
麻原:「話せばいいんだよ」
(中川、下を向いて困ったように黙り込む)


弁護人:「今日は、証言するのをやめようと思って法廷に見えたんですか」
麻原:「弁護人がそんなこと効くのがおかしいんだよ」
(法廷に失笑がもれる)

弁護人:「証言するかどうか、葛藤があるのですか」
中川:「それは常にあるんですけど」
(ここで、弁護人からいろいろ問い詰められる中川)

「地下鉄サリン事件についてもそうだったが、すべてを話したわけではない。
坂本事件に関してもどうしようかとおもっているところがある」
2時20分、「あなたがたは・・・・何を・・・」麻原がつぶやく、
テーブルを手のひらでバンバンたたく。絶え間なく動いている・・・。

その間も弁護人の説得が続いている・・・。

弁護人:「取り調べで検事が質問するしつこさと、私が質問するのとでは、
どちらがしつこいかなあ」
中川:「それはもう、比べ物にならないくらい・・・」
弁護人:「私の方がしつこい」
(と、言葉を引き取ると、法廷内に爆笑が起きた)
弁護人:「でもね、あなたには本当のことを証言してほしいんだよ。
ここは取調室よりは自由に話せると思うが」
中川:「それは、話しやすいと思う」と吐息交じりに応じる。
麻原:「何を聞いているのか。私は意見陳述したいんだ」
阿部裁判長:「弁護人の質問が続いているのだから」
麻原:「私が弁護人だ。私が麻原彰晃ですから」
尋問がおわり、ほっとした表情を見せる中川被告に、主任弁護人が
「ちょっと一つだけ」と申し出る。
座りなおす中川
弁護人:「この前も今日も、何か書き物を持ってきているけど、何に使うの?」
中川:「記憶が混乱しないように」

阿部裁判長:「ついでに聞くけど、さっきメモとっていたのは、何を書いていたの」
中川:「さっきはあの、時期を思い出すため。
それから弁護人が『こっちをむいてしゃべるように』といったのを、メモ取るつもりもなく
書いてしまいました。


法廷にどっと笑いが起きて休廷。(その後新実被告の証言になる)
—————————————————————————————–
青沼陽一郎さんの動画で中川智正があまり登場しないので
麻原法廷に中川智正が出廷した時、どんな雰囲気になるのかと
その一つを毎日新聞の第28回法廷から引用してみました。

当時中川智正さんが書いたんじゃないかな?というメモを、
本人の書いた字を想像しながら昨日、復元してみました。



教祖は、中川が出てきたとき、明らかに意識しています。
中川に圧力をかけているのがわかります。
中川には圧力かければ、黙り込むのがわかるから。井上嘉浩とは違って。
おそらく中川が知っていることを話されるのが怖いから。
不規則発言も、「私が弁護人だ。私が麻原彰晃だ」と
まだ中川に対して、「教祖」であることを誇示するような態度をして
発言させないようにしているのがうかがえます。

毎日新聞の記者は、証言をしない中川被告に対して
「自分自身に対する有罪判決への恐怖感から証言しない」と書きました。
私も当時読んだなら、このあとに大阪府警の隠語である、「戒名」(罪名のこと)
が中川被告に与えられるのは無理だと思いました。

しかし、この人には「戒名」以上の何かがあるとは、当時はまだ感づいている人も
いなかったのではないか・・・。

「中川さんが大好きだから」と泣き崩れた林郁夫被告

中川智正さんと林郁夫さん(現在服役囚)の共通点は
医師であるということでしょう。
この二人の関係はどのようなものだったのでしょうか。

一番想像しやすいのが、佐木隆三著『慟哭ー小説・林郁夫裁判」において
林郁夫裁判に検察側証人として出廷したときの中川智正の次の証言内容でしょう。
(1996年12月17日 林郁夫第8回公判)



「長い間お世話になりました。
まぁ、同じ釜のメシを何年も食ったわけですから、
私と林さんにしかわからない気持ちもたくさんあると思います。
私の立場としては、今の自分の境遇から、尊師との関係をふくめて出直したいと思っている。
そうして修行することによって、いったい麻原彰晃とは何者かを、考えてみるつもりです。
正直いって私は、林郁夫さんを扱いかねているところがあった。
年齢、医師としての経験、縁の深さ。
教団の先輩として、林さんに対して宗教的な指示を、与えなければならなかったのです。

林さんが苦しんでいる気持ちは理解することができます。
非常に苦しんで、悲しみの感情を怒りに変えていらっしゃる部分がある。
思うようにやられるといいけれども、やはり林さんは、怒りを尊師に向けている。
(中略)
怒りの感情を静めて、なぜ自分自身がこうなったかを考えるエネルギーに役立てていただきたい。
怒りを外へ向けると、結局は林さん自身を傷つけると思うからです。
尊師に対して怒っているから、こんなことをいうのではありません。
まぁ、林さんにはお世話になりました。お元気で」

「年下で医師の経験もない中川智正に、年上で医師の経験も豊富な心臓外科医が
無茶苦茶な指示をだされている。よくあるベンチャーでブラック企業にありがちな
関係」というところかと思います。

医師としてのキャリアを比較してみると
中川智正
京都府立医科大学時代、飲んで遊んで学長に呼び出されたり、留年乗り切ればいいという感じで何とか卒業。
医師国家試験の時からストレスを溜め、オウムの道場に通う。
病院に就職し、研修医生活中、いよいよ社会生活を送るのが無理と絶望し、
オウムにお世話になりたく出家。

林郁夫
慶応義塾高等学校のころ医師を目指し、慶応義塾大学医学部に進学

      
※慶応高校から慶応大学医学部に進学するのは成績が上位でないと無理。
 医学部を目指しながら慶応医学部に進学が無理と分かった時点で
 他大医学部受験に切り替える慶応高校生もいる。

医学部卒業後、心臓外科を選ぶ。(研修医時代は普通に2年乗り越えている。)
済生会宇都宮病院、慶応義塾大学病院をへて国立療養所晴嵐荘病院循環器科の初代医長となる。
1990年5月出家。

研修医途中で挫折した中川
医師としてのキャリアを積み、
一つの病院の循環器科を育て上げた成果を認められ医長まで務めた林とは
キャリアはあまりにも違う。
ただ数か月中川の方が出家が早く、教祖に気に入られていたというだけで、
教団内では中川智正の方が上司でした。
それに対して、他の信者もそうだったように、林郁夫にしても疑問を抱くことはなかったようです。

なお、この林被告公判において、林郁夫は、中川に仮谷清志さん拉致事件のことを聞きたかったのだが、
中川は証言を拒絶しています。

中川智正さんとしては、もうこれで林郁夫と会うのも最後にしたい気持ちもあったかと思うような
やりとりでしたが・・・

なんとこのあと、1年後
さらに
再会があるのです

中川智正公判において、検察側証人として林郁夫が出廷するのです。
1997年10月30日のことでした(「朝日新聞」1997年10月31日朝刊)。

林郁夫が中川智正に対し
「あなたも申し訳ない、という気持ちを表現しようとしているけれど、
全身で震えていたその場面に立ち戻るべきだと
思う。人を殺した場面の、相手の声とか動作とかをしっかり思い出して、
もっともっと、自分の気が狂うぐらい、それを突き詰めて考えて向き合って欲しい。
それには、ときには自分を否定しなければならない。
そういうとき、例えばあなたは震えた時に麻原から抱きしめられたそうだけど
だれかに抱きしめてもらいたいようなつらさがある。
中川さんが逃げようとしているのは、その場面を考えたくないからだ。

私の法廷で中川さんが証言してくれたとき、悲しかったのは、あれだけ長いこと一緒にいたのに、
何もお互いのことが分かっていない、ということだった。
もっと分かり合えていたら、(被告同士で法廷に座っている)こんな場面はなかったのではないか、
と思うと麻原が憎らしい。
自分一人の欲望のために若い人たちの人生をメチャメチャにして、
なおかつそれを恥じない麻原が憎い。

でも中川さんが大好きだから

麻原を必要以上にかばわないで話して欲しい。
頑張って、悔いのないようにやってほしい」

この時の林郁夫被告は、「中川さんが大好き」といって泣き崩れました。
その姿を見た中川智正も被告席でそっとポケットからタオルを出して涙をぬぐったとのことでした・・・。

中川智正被告はなぜここで泣いてしまったのか。
後日、関係者にいうには
泣いてしまったのは、林さんがかわいそうだったから
というものでした。

約1か月後の11月29日の中川智正被告公判において、実はまたここで林郁夫被告が
証人出廷をします。(この記事は「読売新聞」1997年11月29日夕刊)

林郁夫被告はあきらめずに
「私たちには何をやったのかしゃべる責任がある」と中川に訴えました。
林郁夫の目をじっと見ながら聞いていた中川智正被告は、一つだけ林郁夫被告に質問したことがあります。
「林さんは淡々と裁判をすすめられている。そろそろ判決が出ると聞いているが、そこらへんの考えを聞いておきたい。
はっきり言えば、林さんにしても僕にしても、判決は甘くない」
それに対して林郁夫被告は
「今、上申書を書いているけど、オウム内のことは思い出したくもない。ほんの数枚書くのに一週間かかることもある。
そういう意味で淡々とはしていない。
自分の出来ることを尽くして、蓄積していくしかない。
極刑になることがあるとしても、私はそれはそれで受け入れていくと思う。
ある弁護士から、面と向かって『死刑になる』と言われた時、
私自身、体が震えたんです。
修行をしてきて、死ぬのは怖くないと思っていたのに」
と丁寧に答えています。

深いやりとりだと思います。
私は、佐木隆三さんの小説だけを読んでいたなら
中川智正被告の林郁夫被告に対する上から目線ぶりに、ブラックかつベンチャー企業で
なぜか威張っている若手社員様を見るような思いがしていたのですが、
それ以上のものがありました。

そして、読売新聞まで見ると・・・。
何だか、佐木隆三さんワールドを超えた深いものを感じます。
どう深いのか・・・。
これは人それぞれだと思います・・・。

なお、映像では、平田満さんが林郁夫被告役で主演のドラマが限界だと思っています。
(実際、2004年にTBSで放送されたとのこと。私はそれを観ていません)


あくまで中川智正は、「生意気なベンチャー若手社員」のままの方が、
演じる若手俳優の精神的負担も少ないはずだから。

本気で演じたなら、おそらくその後の社会生活に支障をきたしてしまう
私は最近いろいろ資料を読んでいて思っている次第です。

僕は二つの世界に住んでいる。

「毎日新聞」1996年7月9日東京夕刊の記事より。
VX襲撃事件の審理に入った中川智正被告に関して。
以下、引用
「柔道で鍛えたがっちりした体を窮屈そうにかがめ、
法廷内にいる知人と目であいさつを交わし、被告席に座った。
事件にかかわっていたことを認めたが、
松本智津夫被告との共謀については、これまで同様触れなかった」
のあとに
僕は二つの世界に住んでいる。
一つは、この世界。もう一つはオウムの世界。
どちらも僕にとっては現実の世界なんだ


中川被告は、関係者にそう語ったことがある。
松本被告への帰依、
教団での生活にこだわりを持ち続け、一方で自分の犯した罪がこの世では到底受け入れられず、
被害者の家族を苦しめていることに強い自責の念があるという。
(中略)中川被告は捜査段階で、
「なぜ数々の事件に関わったかといえば、
教団が決めたことだったから、それに従い行動した。
自分は教団でしか生きていけない人間であり、
教団から逃げ出したとしても生きていくことは出来ないと思った」
と供述している。
医師免許も持ち、世間的に恵まれている若者が、
なぜ「ここでしか生きていけない」という結論を出したのか
中川被告がその「答え」を語る時を待ちたい
(引用おわり)

1、医師免許を持っていれば、世間的に恵まれている、といえるのか。

本当はこの答えは、生きていた時の中川智正さんに質問してほしかったです。
しかし、もう「この世」の人ではないので
残っている言葉などを、こちらがつぎはぎして「語ってもらうしか」ありません。
中川智正さんが生きていてくれたら・・・
と思う研修医の方いらっしゃるのではないかと思います。
中川さん御自身は、林郁夫被告第六回公判にて、弁護側証人として出廷した際語っています。

「医大を卒業して大阪鉄道病院に入り、専門は消化器内科だった。
初めに勉強したのは、胃カメラ・超音波、大腸バリウム透視で、入院患者は20人も30人も担当した。
大病院では若い医師が「戦力だから」
ところが、私は患者を診ていると、患者と同じ状態になる。
精神的にも肉体的にも。1989年5月、とうとう手術室で倒れ、
その時の症状は、名医といわれる人でも診断がつかずしばらく休職したあと、病院をやめてしまった。」
と語っています。

「週刊文春」1995年8月17、24号には、
研修医時代の中川智正について
病院関係者には印象が薄いようだ、と書かれた後で
「中川先生には他に三人の同級生と一緒に来られたのですが、一番目立たない存在でした
。一人の患者さんと、一時間以上も話し込んでいることもあって、
患者さんからの評判はよかったんですけど、
そんなに時間をかけていいのかなという感じもあったし、
他のドクターに比べてもの足りない印象でした。」
との評価でした。
おそらく、それでも、私がこれまで見てきた中川さんのことだから
自分が病院に入って使えない人材と思われていることもよくわかっていただろうし、
その中でも空回りして、全力で頑張っていたのだと思います。

たとえば、「読売新聞」1995年5月24日東京夕刊によると
「おれが患者の手を握ってあげると、苦痛がとれるんだ」
「そのかわり、自分の中に悪いものがたまるから、何リットルもお湯を飲んで体を清める」
ということをするなど、
自分なりには最大の努力をして、
何とか一人前の医者になろうともがき、あがいていました。

しかし、実社会、実務の世界では評価はされません
ましてや、一人の患者と1時間以上も話し込んでいるところなどは、
先輩医師に注意されるところではないかと思います。


例えば、「お前は若いから患者は面白がって話に来ているけど、仕事になってないから
一時間も患者の話聞く暇あるなら、もっとやることあるだろう!

(このあたりは、対人援助職における若い新人の方は覚えがあるでしょう)

患者が亡くなった直後は神妙な顔をしていても、
医局に戻ってくると笑っている。そういう態度が疑問だ

とも中川さん自身は家族に漏らしていたあたりは、
先輩医師のやり方や態度がとうてい自分には受け入れられないとけれど、
恐らくそうでもしないと「やっていけない」のが医師の世界なのだと思います。

そんな中川さん自身の唯一の癒しの場、拠り所がオウム真理教の大阪道場だったのでした。
ここで恋人に「今日の患者はひどかった」と疲れた顔で話しこみ、
「オウムに行かないと体がどうしようもない」
「オウムの道場へ行ってパワーを注入してもらわないと、もたない」
などと言い出しました。
「毎日新聞」1995年9月10日朝刊によると、
病院の退職理由は「突然の失踪」ということです。

中川智正さんは、研修医生活を普通ならば2年やらねばならないところ、
1年ぐらいしか「出来なかった」
そんな自分が社会で生きていけるのか。
他の職業になれるのか。
フリーターにでもなるのか。
なら今まで成績悪かったかもしれないけど自分なりに頑張ってきたことはいったい何なのか・・・。

そんなことを思い詰めていたのかもしれません。
今でこそ、このような記事がネット上に掲載されるようになりました。
医師が先に燃え尽きてしまう

どんなに学力があって医学部、医大にいったとしても、
燃え尽きてしまったら動けなくなります。
そのような側面には当時から世間は見向きもしません。

中川智正さんが出家してから1年後に
オウム真理教附属医院が設立されましたが、
在籍している医師の中には、中川さん同様、研修医さえ終えてない医師がいました。

中川さんとは違うかもしれませんが、
研修医時代の何かに不適応を起こして、オウムに入信するしかないと
思っていた若い医師の卵がやってきていたということは注目点と思います。

オウムだけは、その燃え尽きた、実社会では実務者として「使えない」人材を
医師として待遇してくれる、と期待して・・・。



今でも、毎年このような進学特集が出されます。
医学部に入るのは頭がいい人。
将来金持ち安定という見方と、
医師の使命を崇高なものとしたい世間の常識では
中川智正さんのことは理解されないだろうと思います。

Tu博士でさえ、この部分は理解していなかったと思います。

『サリン事件』の最後の文章
医学部を卒業した将来性のある息子の現状を見る親の悲しみは同情せざるを得ない

2、「尊師は自爆の道を選んでいた」

中川智正さんの住むもう一つの世界、「オウム真理教」ではどうだったのか。
中川智正さんは、「入信前から、尊師がある種の自滅行為をすることはわかっていた」と
語っています。
(「朝日新聞」1998年3月24日)
「私は教団にいたころから、単純に尊師を信じていたのではない」
「尊師に殺されるというような、他の人が感じた恐怖をかんじたことはない。
それとは違って、例えば私を何物だと思うかと尊師に聞かれた時
僕は化け物だと思いますと答えた。そういう恐怖だった。
出来れば関わりたくなかったけれど、
入信前にいろいろと神秘体験をして、普通の社会生活ができないと思ったので
助けてくれという感じで入信した。仕方なかった。
僕としては、その後いろいろなことがあっても、しょうがない、という感じで冷めていた。」

先のエントリーで中川智正さんにエールを送った
豊田亨・広瀬健一・杉本繁郎の3名の公判に出廷した(1997年4月30日)際、
豊田・廣瀬・杉本の三名は、
「松本智津夫を批判する気にもならない」
「いかなる理由でも起こしてはならない犯罪であった」と悔いていたのですが、

証人出廷した中川智正さんは相変わらず

麻原被告が光を発するのが見える」と証言しています。

このブログの今後のエントリーの中で、上に書いたような「神秘体験」の数々を書いていくことにもなりますが
私は書きながら、理解できないです。
でも、通常の社会生活に耐えきれなくなった時に、別の世界を作り出してしまう人間の可能性についてという
捉え方で見るならば、
少し理解できそうかもしれません。

「どうしてもっと早く捕まえてくれなかったんでしょうか」

『朝日新聞』1996年5月21日夕刊より。

この日は、中川智正被告の第5回公判の日。
東京都庁小包爆弾と新宿駅青酸ガスの二事件が審理されました。

東京都庁小包爆弾事件とは

1995年5月16日午後7時頃都庁の知事秘書室で、当時44歳の東京都職員の男性が青島幸男知事宛の小包の梱包を開封し、
中に入っていた単行本を開いたところ、突然本が爆発してしまい、
都職員の男性が左手の指全てと、右手の親指が吹き飛ぶ重傷を負った事件のことです。

オウム真理教側の犯罪関与者は、井上嘉浩、中川智正、 富永昌宏、豊田亨、高橋克也などでした。
オウム真理教における一連事件の最後となるものでした。

なぜなら、教祖が逮捕されてしまい、
さらに中川智正も翌日23時ぐらいに杉並区の路上をふらついているところに
逮捕されてしまったから。

※井上嘉浩、豊田亨は5月15日に秋川市(現あきる野市)にて同時逮捕されている。



この事件においての被告側意見陳述において
中川智正被告は殺意を否認したあと、
公安警察は、八王子アジトで潜伏中の私たちの行動を監視していた。
逮捕後の調べで知った捜査報告書にあった人の出入りや服装チェックも正確だった」と指摘し
「それなら、私が都庁の職員の指を飛ばす前に逮捕してほしかった。
悪いのは私だし
すべての責任は私たちにある。
声高々に『宗教弾圧』というつもりもない。
どうしてもっと早く捕まえてくれなかったのでしょうか
」と
泣きながら意見を述べたとのことです。

この記述は朝日新聞が一番詳しかったです。
中川智正被告が、法廷で泣きながら
どうしてもっと早く捕まえてくれなかったんでしょうか!」という部分まで詳細に書いてくれています。

この事件の少し前
オウム真理教関係者の逮捕が相次ぎ、「悪業を積みたくない」と泣き出した中川智正が
一瞬にして教祖が乗り移ったかのように変化するのはこの事件のときです。
その様子については、こちらのエントリーにあります。
「なんていうのか、中川にはなんかあるな~」

この事件に、豊田亨さんが関わっていたのも、意外でした。

この豊田亨さんが1996年12月3日の中川公判に検察側証人として出廷した記事があります。
(「朝日新聞」1996年12月4日朝刊)

この公判において、豊田亨さんは弁護人から
「中川くんに言っておきたいことはないか」と促され、
次のように答えています。

頑張ってください。
こういう場で申上げるのは妥当ではないかもしれないが、
頑張ってください、といいたいです。
言葉の意味は中川さんだけに考えていただければいい。
自分と中川さんでは考えに違う点があるかもしれないが、
それをどうこういうつもりはない。
中川さんのことは素晴らしい先輩だと思っていたし
それは今でも変わらない

と断言されました。

それを被告席で聞いていた中川智正さんはどうしていたのでしょう。
豊田亨さんの証言の途中で眼鏡を外し、目を真っ赤にして聞いていた、そうです。

当時の中川智正さんはまだ、「尊師」と仰いでいる時期で
豊田さんは、決別していたという点で違いがあるのですが、
それをも超えて中川智正さんに対し
端的な言葉で励まされた豊田亨さんの姿が
なんだか新鮮に見えました。
豊田亨さんは、決して緘黙でもない。
いうべきときに、適切な言葉を端的に使って断言する方です。

中川智正さんは裁判中でも号泣したり、突っ伏したり、拒絶したりと
記事を読んでいるだけでハラハラさせられます。
この「都庁小包爆弾事件」については
泣きながら警察を説教するという新しい姿を見ることが出来ました。

中川智正さんは95年になっても、警察としてはノーマークでした。
この人の名前が朝日新聞に登場するのが1995年5月12日でした。

実は、中川智正さんと井上嘉浩さんについては
あの滝本太郎弁護士が、


の86頁にて
(麻原第153回公判 2000年4月3日)

仮谷清志さん拉致事件が起きた後、神奈川県警察に掛け合って
2人(中川・井上)がオウム真理教でのシークレットワークに入っているので尾行してくれ、と頼んだけど
頼んだ相手が悪かった。
尾行体制もとらず
地下鉄にサリンがまかれてしまった。
警視庁公安部に頼んでいたらよかったのかもしれない
と非難しています。

このように、実は日本の警察は、微罪には厳しいが、
宗教がらみや面倒くさい事件には実はノータッチになりがちなのが
わかりました。

中川智正被告は、そんな警察を泣いて非難していたのですねー。