「原田熊吉命御事歴」

茶園義男『BC級戦犯・チャンギー絞首台』(紀尾井書房・1983)に、「御事歴」の抜粋が
掲載されているのでご紹介します。

同著109頁より

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生立。原田中将は明治21年、原田弥平次男として丸亀に生まれ、日夜蓬莱城を仰いで育ち、父君の訓育と明晰なる頭脳により、小・中学は常に抜群の成績を修め、身体頑健にして、丸亀中学野球部に入り、全国優勝の記録もある。特に丸中時代に於いては、日露戦争の銃後青年として、国防の重要性を痛感し、将来一身を君国に捧げんと決意し、明治四十四年陸軍士官学校に入校、明治四十四年歩兵少尉に任ぜられた。

軍歴。原田中将は陸士入校より、終焉まで正に四十年。身命を君国に捧げて少年時代の初志を貫徹した。軍歴の概要は次の通りである。
(一)高知聨隊付少尉時代には選ばれて聨隊騎手の重責を果たし、中尉進級後陸軍大学に学び、その後陸軍中将進級の直前まで、主として参謀本部と大陸関係の要職を歴任し、国を出ること十五回に及び、日本の国防と東洋平和に肝胆を砕いた。この間大佐時代には輦轂(れんこく)の下、近衛歩兵第四聨隊長として禁闕守衛の大任を果たし、武門最高の名誉に感激した。
(二)昭和十四年同期八名と共に抜擢されて中将に進級、師団長二回、軍司令官二回の大命を拝し、正四位勲一等功四級の恩命に感激した。特に最終は第五十五軍(第十一師団等三個師団基幹)司令官として郷土四国の防衛に粉骨砕身した。

終焉。然るに国運恵まれず、原田中将は終戦後、四国復員監として服務中、昭和二十一年三月旧部下の関係事件につき、突如連合軍の逮捕令を受け、巣鴨入所、六月シンガポールに移送、十月二十五日死刑の宣告を受け、翌二十二年五月二十八日午前九時、六十歳にして無念の最後を遂げられた。将軍は遥かに東方を拝し、天皇陛下の万歳を唱え、辞世のうた「今ぞ立ち天翔ても大君のみたまにかへりつかヘまつらむ」を残し、従容として死につかれた。洵(まこと)に痛ましき限りである。
先賢堂に合祀し、偉勲を永久に顕彰し奉る。

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(引用ここまで)

私が『世紀の遺書』に接し始めた頃、遺書の内容が一番印象に残っていた原田熊吉中将の生涯。
この引用文でようやく少し繋がり始めました。

harada_kumakichi

私が知っている(つもり)なのは、死刑囚としての原田熊吉中将だったから。
死刑囚としての原田熊吉中将は、「すごい方」の一言です。
『世紀の遺書』に収められている遺書の中にも、同時期に処刑されたかつての階級も異なる人たちが皆、原田熊吉中将宛に遺書を託して絞首台に登っていたのが読み取れ、最も屈辱を受けて、惨めな環境の中でも、周囲の精神的な支えになれるタイプの方だと。

それ以前はどのような来歴があった方なのか?
実は、wikipediaでもあまりよくわからなかったのでした。
調べても、出てくるのは断片的なことばかりでした。
本来ならば、もっと取り上げられても良い方だったのではという思いを
ずっと持っていました。

この方は軍人としては、支那通で、指揮官型だった(連隊長、師団長、軍司令官経験あり)方でした。
意外にも、陸軍には幼年学校からではなく、中学校を卒業してから入られた方だったのですね。

武藤章中将のように、陸軍省勤務で、政治的事務に携わっていたタイプでもありません。(武藤章中将が指揮官になれたのは師団長のみ。
軍人ならば指揮官を目指すことが本懐との思いを心に秘めながら、連隊長にはなれなかったのが武藤章中将です)

最後に「蓬莱城(ほうらいじょう)」とは、丸亀城のことです。
今回、何としても善通寺を四時に出なければとしていたのは、
実は外側からだけでも、丸亀城を見たかったからです。
レンタサイクルで周囲しか回れませんでしたが・・・。

蓬莱城(ほうらいじょう)