殺害目的はなかった公証役場事務長拉致事件

地下鉄サリン事件の遠因とも評価されている公証役場事務長拉致監禁致死事件。
アンソニー・トゥ博士は、麻酔剤「チオペンタール」を中川智正被告が被害者に注射したこの事件を
一種の科学テロだとも書かれています。(126頁)

公証役場事務長の妹はオウム真理教の信者であったが、脱会しようとして教団から逃亡しました。
教団は「信徒となったのに義務を果たさないので追及するため」に、
兄である仮谷清志氏を誘拐し、妹の居場所を突き止めようとしました。

東京で仮谷氏を誘拐した井上嘉浩、中川智正らは東京から上九一色村へ車で運んだが
仮谷さんを死亡させてしまったというものです。

これは「対話本」に興味深い記述があります。

トゥ博士:「なぜ妹さんの住所を聞き出すために、その兄を誘拐したのですか。
      本人が教団を嫌になったのに、なぜ強引に探し出すのですか」
中川:「その妹は、教団の信徒となったのに義務を果たさないので、
            それを追及するだけのことでした。


トゥ博士が「脱走者を連れ戻すのは教団として当然の話であり、まったく悪いと思っていない」
と中川が答えたことに驚いておられました。

私も改めて驚いた箇所でもありますが、
中川智正さんが特別手配者になったのは、1995年5月12日、
愛知で脱走者を連れ戻すため住居侵入をしようとしたという事件だったのを思い出しました。

中川智正さんだけではなく、教団附属病院に所属する医師たちはこうした脱走信徒を拉致監禁するために
医師の立場を使って麻酔薬を注射したりしていたり、死亡した信徒を火葬まで管理するというような
ことをしていたようです。
「読売新聞」1995年6月8日朝刊によれば、
教団では入信の際に、葬儀は麻原彰晃(本名:松本智津夫)に任せるという趣旨の誓約書もとっていたと
あることから、死亡診断書の作成をしていただろうこともうかがえます。



「読売新聞」1995年5月15日の記事では
教団附属病院所属の医師たちのほとんどが逮捕もしくは指名手配中だと
出身大学まで一覧表にし、彼らは、諜報省のメンバー(井上嘉浩など)と協力し、
教団の非合法活動を支えてきたと見られていると報道していました。

結局は逮捕され医師免許を返上したのは、中川智正と林郁夫のみでした。
(あと出所後に医師免許はく奪者が一名。
その元信者は医師免許を所持していたが、医院附属ではなかった)

教団附属医院は、東京都中野区にありました。
ついでに、あまり知られていないことですが、
中川智正さんは何と「中野区民」だったのでした。
(中川智正さん本人もどこに住民票があるのか分かっていなかったと思います。
本人は7年間富士山麓で生活していたつもりでいたかもしれませんが、
附属医院開設の時に顧問として名前を出す際に住民票が移されてしまっていたのでしょう)
・・・となると、中川智正さんは28年間「東京都民」だったということですかね?

逮捕後、「反省を形にするため」「死刑になるのでもういらない
(麻原第249回公判、2003年2月27日)ということで
自分から医師免許を国に返上したときの手続きで、
初めて中川智正さんの住民票が中野区に登録されていたことが分かったのでした。

本人はおそらくどこに住んでいてもいいという考えでしたが、
医師免許を返上するにあたり折衝に当たったのが、中野北保健所でした。
実家のある岡山市のご両親と連絡をとり、両親が面会の際に本人直筆で署名させて
国に提出したのでした。
中川智正医師免許返上をきっかけに、
オウム真理教附属医院を廃院にすることが出来たのでした。



中野北保健所の職員だった方の貴重な手記です。
医院開設の際も、オウム真理教らしく、提出書類が不備なのを棚に上げて権利を主張してきて
結局開院に至ることとなるし、施設内部も到底医院とは言えない不清潔なものであったこと、
保健所から東京都、厚生省まで書類を上げたりすることに数か月
(中川さん免許返上にしても本人は6月に返上していると言っているけど、
結局国が返上を認めたのは8月。これは書類のやりとりや審査に時間がかかったため。
厚生省の不手際を補うかのような現場の中野北保健所の職員さんたちのマスコミ対応と
国との煩雑な書類のやりとりを乗り切ったチーム力は素晴らしいと思いました。)

話を「対話本」の仮谷さん拉致事件に戻しまして

トゥ博士:「どういう風に仮谷氏に注射して殺したのですか」
中川「これは殺人ではありませんよ。誘拐事件でした。
   裁判の判決結論でも殺人事件ではなく誘拐事件と言っています。」

トゥ博士:「麻酔剤を多く打ちすぎたことによる過失死でしたね」
中川:「違います。多く注射しすぎたのではなく、麻酔の状態が長すぎたのです
   一度に多く注射するのは殺人行為です。
   通常の量を使っていたのですが、麻酔の時間が伸びてしまったのです。
   そのために体内に大量のチオペンタールナトリウムが蓄積し、
   仮谷さんは副作用が起こりやすい状態となり
   その時に私がそばにいなかったために亡くなりました」

この時の中川智正さんは少しムキになって語ったようでした。

さて、この仮谷清志さん拉致監禁致死事件について、教祖の裁判などでは
中川智正さん自身はどのような答え方をしていたのでしょうか。

麻原第166回裁判(2000年9月7日)での証言
(出典は、毎日新聞社会部『名称変更で存続を図る―オウム「教祖」法廷全記録〈6〉2001年。
こちらには、教祖公判142-179回までの記述が掲載されています)



検察官:「拉致事件に関与しましたね」
中川:「はい」
検察官:「いつでしたか」
中川:「平成7(1995)年2月28日の夕方です」
検察官:「車内に仮谷さんを連れ込んだ時、仮谷さんはケガしていましたね」
中川:「頭というか額を打撲して、切れて出血していた。3センチぐらいの傷でした」
検察官:「車を出発させてからどうしたのか」
中川:「仮谷さんのふくらはぎに麻酔薬を打った」
検察官:「何という薬だったのか」
中川:「ケラタール」 
検察官:「通常の量か」
中川:「170ミリグラムぐらい。体重を50キロほどと見積もったので若干少ないかな、という程度」
検察官:「薬を打ったらどうなったのか」
中川:「1分で目の焦点が合わなくなり、2、3分で眠った」
検察官:「それから何かしたか」
中川:「点滴を打った。チオペンタールも投与した」
検察官:「井上嘉浩(被告)が新たな車を借りて戻ってきたときはどうしたか」
中川:「その時使っていたワゴン車と同じ車種だったので、別の車を用意するために出て行った」
検察官:「同じ車種だと、どうなる?」
中川:「目立つという事だった」
検察官:「警察に対して?」
中川:「そういうこともあったかもしれない」
検察官:「仮谷さんの容体はどうだったのか」
中川「息を吸い込んだまま吐かなくなった」
検察官:「何か処置したか」
中川:「体を横向きにしたら呼吸を始めた」

中川智正被告らは上九一色村につくと、治療省トップ林郁夫(当時服役囚)の部屋に仮谷さんを連れていった。
教団を脱会した仮谷さんの妹の居場所を聞き出そうと、
ナルコ(麻酔をかけて半覚醒状態にして情報を聞き出すこと)をかけてほしいと依頼したとのこと。
このあたりの話をしている時の中川智正被告は、肩を回すなどして落ち着きがなかった様子でした。
検察官:「仮谷さんへの睡眠薬の投与量は医者としてどう思うか」
中川:「当時は教団内で非常にたくさん使っていて、多いとは思わなかった。
勉強不足で非常に申し訳ない


※この証言より、当時の教団脱会者や戒律を破った者などの処置に医師免許を信者は
薬物を多用しすぎて、医療行為をすること自体にも麻痺していたことがうかがえます。

検察官:「投与の目的は」
中川:監禁するためです」

検察官:「林郁夫は何か話していたか」
中川:「『多かったですか』と聞いたら、『そんなもんじゃないでしょう』と」
検察官:「ナルコで仮谷さんの妹さんの居場所は分かったのか」
中川:「聞き出せなかった」

検察官:「目覚めたら、また投与すると」
中川:「まあ、そうです。指示があれば帰し、なければ眠らせる。村井(秀夫)さんが
『帰せないかな』といっているのを聞いた。自分もそう思いました。」
検察官:「本当に帰せると思ったの?」
中川:「それは私が決めることではないし・・・」

検察官:「ニューナルコって何ですか」
中川:「頭部に電気を流し、記憶を消す方法です。村井さんは、『帰しても、警察で問題にならないか』と」
検察官:「で、結果は?」

中川:「村井さんは、『やはり帰せない』と
検察官:「村井は、「塩化カリウムを注射してはどうか』と話したが」
中川:「殺害するためと思いました
『(事件の時に来ていた服は)早く燃やした方がいい』とも言われました」

検察官:「村井は戻って来てから何か話しましたか」
中川:「仮谷さんを殺すということで、男性信者に首を絞めさせる、と」

検察官:「どうして麻原の指示と思ったのか」

中川:「村井さんの言っていた話が最初言っていたことから変わったからです

ここで、中川被告は、男性信者を誰か連れてくるよう井上嘉浩被告に電話で伝えるため、仮谷さんのそばから離れたことを
話しました。

検察官:「戻るとどうなっていましたか」
中川:「(仮谷さんは)亡くなっていました。何が起こったのかと、脈を見ました」
検察官:「死因は窒息」
中川:「そうです、(原因は)麻酔薬です」

この次(第167回、2000年9月8日)の麻原公判では、
時期を遡り、滝本弁護士殺害未遂事件に関する尋問でしたが、

ここで、検察側証人として出廷した中川被告は林郁夫被告について、こんな風に表現しています。

麻原弁護人:「(滝本弁護士殺害にあたり)林さんを連れて行こうと思った理由は」
中川:「何となく不安があった。
試験の時にお守りを持っていくのと同じで、いてくれると安心する
また、(実行役の女性が誤ってサリンを吸ったときに)私が治療したら怒られると思った」
麻原弁護人:「なぜそう思ったのか」
中川:「私は麻原さんから女性に甘いと言われ、
女性に治療をして楽しんでいる
と見られていた」

結局この事件の時には林郁夫被告とは合流に失敗しています。

当時、麻原は林郁夫が信徒の拉致に失敗していることを挙げ、
中川に『あいつは心が弱いから積極的に使え』と言っていました。

中川智正さんと林郁夫さん、教団内において、同じ医師同士の関係ですが、
中川智正さんは、研修医途中で教団に出家しているため、医療技術に自信が今一つもてなかったようです。
心臓外科医としてのキャリアを持つ林郁夫さんの医療技術を信頼し、頼っていたことがわかります。

ぞのような中川智正さんの医療技術を未熟と感じた林郁夫さんは、
教団内でも麻酔薬の大量投与による信徒死亡例があるにも関わらず、
中川に情報共有しようとはしなかったこと、
仮谷さん事件でも責任を中川智正さんに押し付ける傾向があるらしく、
中川智正さんは
治療省の人間に聞いてほしい。
林さんがしていたこと、事実が明らかになる。
仮谷さんが狭心症を患っていると知って不安になって中川が林に相談した時、林は「大丈夫でしょう」といったから
ナルコを始めた、林さんが心臓の専門家だから信頼したのに
」という内容の不満を漏らしました。
(このあたりの記述は、降幡賢一『オウム法廷』12)



中川智正さんは坂本弁護士一家殺害事件での殺人経験
教祖や村井に買われてしまったのだと思います。
それが教団内での序列にも影響していたのでしょう。

なお、殺人経験の面では、青山弁護士や遠藤誠一さんは教団に大切にされていたので、
殺人現場に行かない人だったと、中川智正被告は答えています。
(この部分は、麻原第166回公判)
中川智正さん自身は、殺人経験が教団に買われたため、
その後の事件でも使われてしまっていたことを自分でも意識はしていたけれど、
やはり殺人行為は嫌だったということがわかります。

中川智正さんは、教団附属医院顧問の肩書はあれど、
他の医師免許を持つ信徒でさえ、何をしているのかわからないことが多々あったようでした。
「くったくのない、子供ような明るさがある人でした。
でも何をやっているのか私たちにも分かりませんでした。
時々、『借りていくね』と注射器をもっていったことはありましたが、
何に使うかもわからないし、特別なワークがあるんだろうな
と思っていました」
とは、元信者の言葉です。(出典:『週刊文春』1995年8月17-24)

仮谷清志さん拉致監禁致死事件を裁判の記述で改めてみると、
最初は拉致して居場所を聞き出すことで精一杯なところに、
突然、麻原の意を受けた村井の一声で
殺害するという方向に転換したことが分かりました


私が1995年のこの事件を当時テレビや新聞で見た時には、オウム真理教の恐ろしさ、カルト宗教の恐怖さを
まず第一に感じたものでした。
自分は絶対にカルトには関わらない自信をもってテレビ番組を見ていたことを思い出します。

それから23年経った今、こうして毎日新聞社会部の公判を読み直すと、
オウム真理教の計画の立て方の行き当たりばったりさに目がいってしまいます。
それは、まるでどこかの企業での人使い(直接手を下す殺人までには至っていないけど)
の酷さによる自殺事件や労働トラブルを想起させるものです。

毎日、我が国の組織のどこかであるようなことでは・・・。
当初の計画が倒れて、それを埋めるために人を酷使し、組織も人も破滅に至る。

だから、中川智正さんの証言を読んで、
中川さんが冷酷とも曖昧模糊だとも思えなくなっている自分がいます。

自分自身もまた、組織の歯車として、派遣社員としていくつかの企業の末端に連なり、
日々人間扱いされないことに慣れてしまっているから。

オウム真理教は、我が国全体よりも20年先を行っていたのではないか?と

中川智正さんと、私との絶対的な違いとは・・・

麻原第180回公判(2001年1月11日)
(こちらは、毎日新聞社会部『検察側立証すべて終了―オウム「教祖」法廷全記録〈7〉2002年)

弁護人:「仮谷さんの呼吸が止まっていたことに気づいた時、何が異常だと思いましたか」
中川:「私は人が死んだとき、わかるんです
あれ、おかしいな。誰かなと思っていたんですが、仮谷さんが亡くなっていたのです。」
弁護人:「どういう感じですか」
中川:「光が床に降ってくるんです
その時は別の信者と話していて、仮谷さんが亡くなったとは思っていなかったので、あれとおもったのです」

この感覚が私にはない、ということです。

これが、のちに佐々木雄司先生らによって
「感応性精神病」「巫病」と判定され、
信仰と科学の谷間に陥ってしまった一人の人間の姿なのだと、
とりあえず受け止めておきます。

4年ぶりの尋問再開(地下鉄サリン事件)

松本サリン事件について、正確に語りだした中川智正被告。
黙秘をしていた地下鉄サリン事件についても、
麻原第184回公判(2001年2月9日)以降、証言を始めました。

当時の朝日新聞では、このような取り上げ方でした。

かなり大きい。
法廷イラスト入りでした。
しかし、この日の傍聴者は33名

捜査段階では、中川智正さんは
「サリンは地下鉄に使われると知っていた」と認め、
サリンの原料ジフロについても
「教団がそれまでに作ったサリンや中間生成物を1995年1月に処分した時に
もったいなく思い、自分が保管した」と供述していました。

朝日新聞のタイトルには「4年ぶりの尋問再開」とあるように
麻原第24回公判(1997年1月31日)に検察側証人として出廷したときには
中川智正被告は黙秘を続けていました。

ただ、この日、「井上嘉浩さんとは仲は良かったのですか?」と問われた時
よかったと思います。入信して初めてできた知り合いです。
ステージ的には井上くんがかなり上でしたが、ちょこちょこ話をしました。

とは答えたものの、その後は、問いかけには答えず
両手を太ももの上に置き、こわばったように動かなくなってしまいました

麻原弁護人から
「しつこいですが、ジフロを上九一色村に持ってきたひとは」
「保管したのは井上さんであることを否定できますか」
にも
「ふーん」とうなったきり返事をせず、しまいには
「ちょっと勘弁してください」と言い出す感じで、黙秘を続けていました。



それから4年・・・。
中川智正被告は地下鉄サリン事件において
サリンの生成と袋詰めに関与したことを法廷で初めて認めました

中川:(1995年3月)18日夕、村井(秀夫元幹部、故人)さんが私の部屋に来て
『これからサリンを作る』と言いました。
検察官:「その使用目的は」
中川:「聞いていません」
検察官:「生成に着手したのはいつか」
中川「19日夕方だったと思います」
(サリンは19時から20時ぐらいに完成し、村井の指示でビニール袋に詰めたとのこと)
検察官:「何袋作ったのか」
中川:「10個前後です。」
検察官:「個数は誰が決めたのか」
中川:「遠藤(誠一)さんです。」
検察官:「出来上がったサリンはどうしたのか」
中川:「遠藤さんがどこかへ持って行った」

検察官:「(中川が)逮捕された後、しばらくしてから話をするようになった。本当に反省したから真実を供述したのではないのか」
中川:「自分は死ねばいいと思っていただけで、正確に言わなくてもいいやと思っていた
(サリンの使用目的について)私はそうした事柄を教えてもらえる立場になかったと言いたかったが、
捜査員から『知っているはずだ』と言われた

麻原第191回公判(2001年4月6日)においては

弁護人:「1995年3月18日にサリン生成を始めたが、あなた(中川)と遠藤が中心か」
中川:「評価は任せます。そう言われても仕方がない」
弁護人:「前年に松本サリン事件があり、1995年1月1日に読売新聞でサリンの記事が出た。
だからもう発覚を恐れてつくらないことになったのではないか」

中川:「そうです。ぼくはそう思っていた」
弁護人:「サリン生成は教団の方針に反するのでは」

中川:「教団に一貫した方針はない。だから方針に反しているとも思わない
弁護人:「サリンをつくることを上層部は考えていたのか」

中川:「あの、考えたから作ってしまって、まいてしまった」

弁護人:「サリンの使用目的だが、捜査調書では村井から『地下鉄にまく」と聞いたことになっている。
あなたにとっては重要な問題だ。なぜ事実に反した調書に署名したのか。」
中川:「たくさんの人が亡くなっているし、結果は争いがない。ごちゃごちゃいうつもりはなかった
(中略)
弁護人:「松本サリン事件で騒がれた後なのに、また作る気になったのか」
中川:「つくりたいか、つくりたくないかと言われれば、つくりたくない。
    好きではない。でも指示があればやる

麻原第194回公判(2001年5月10日)においては

弁護人:「地下鉄サリン事件が起きたと、どこで知ったの?」
中川:「3月20日の昼頃。第6サティアンの2階で。人が何人も死んだと聞いた。
自分が生成に関与したサリンだと気づいた。教団の仕業だということも分かった。」

弁護人:「知った時の気持ちは」

中川:「一言でなかなか言えない。知った時点でですか。
もちろん遺族の方、知り合いの方は嘆くだろうとは考えた」

弁護人:「今はどう思う」

中川:「やっぱり、やってはいけないことだろうと思います。」
弁護人:「なんだよそれ、当たり前のことでしょう」(苦笑)

中川被告はしばらくうつむいて、苦悩しているような様子を見せたあとで

「そうですね。それ以外、何をしても償えない。
亡くなった人を生き返らせればいいのだけど、私にはできない
責任の取り方は結局そこに行きつきます。
私が起訴された事件だけで24人もの人が亡くなっている。
関係した事件ではもっと多い。
私がのうのうといきていること自体、まずい。いけないことだと思います

そして、麻原第193回・194回公判において、朝日新聞の降幡賢一記者によると



中川被告は、これまでかばっていた共犯者、
特に井上嘉浩被告に対して告発姿勢に出るようになりました。

どうしてこれまでかばっていたのか。
「捜査当時は地下鉄サリン事件の殺人容疑で、4,50名の仲間が逮捕されていた。
僕は死刑になるか獄死するからいいが、
僕がサリンをつくったことを認めることで彼らは関係ないことを証明したかった。
そしてその後、僕は黙秘するつもりだった」
とのことでした。

しかし、この2001年以降は
地下鉄サリン事件の提案者は実は井上嘉浩被告だったとまでいうようになりました。
「それは事件後サリンのことや、ジフロのことも井上嘉浩被告が言っていたので、井上が事件を提案したのかと思った」
そして、井上嘉浩さんが中川さんに
マンちゃん(村井秀夫)なんて、なんにもしていないんだよ
私が犯行には車が必要だといったのに、
マンちゃんは新幹線で帰ってくればいい、というくらいだったので、
車を使うように言ったのも私(井上)だ」と。
このときすでに、サリン事件実行犯・林泰男被告も、
同様の提案を井上が言っていたと裁判で証言していたので、
中川被告としてはもう自分がかばわなくてもいいだろうと
思うようになったのかもしれません。

この中川被告の証言も、井上嘉浩被告の裁判に与えたインパクトは大きかったと思います。

また、村井秀夫さんの教団内の権力は大きかったけれど、
実行力がなく部下任せ
実現不可能なことを命令するので、部下からみて無責任な人だということも言われるようになります。
井上嘉浩さんが村井秀夫さんを、
本人がいないところでは
「マンちゃん」
(村井のホーリーネームが「マンジュシュリー・ミトラ」より)
と呼んでいたあたりは、あまり知られていないところかと思います。

2016年、すでに中川智正・井上嘉浩さんとも、確定死刑囚となっていたときに
中川智正さんが書いた論文によれば、
サリンの原料ジフロの原料は、村井秀夫さんの指示で井上嘉浩さんが保管。
中川智正さんとしては、嘘をついたのは、まだVX事件が発覚していなかったからとのことでした。

井上嘉浩さんは自分に不利な事を自分からは言わないと思われたので、中川さんは

自分ががサリンをつくるために隠し持ったこととして、
上九一色村の教団施設のクーラーボックスに放置したことにしたと。
そして、それはそのまま裁判として確定しました。

その後、中川智正被告本人の裁判となったときにはすでにVX事件が発覚していた後だったので、
法廷で実は井上嘉浩さんがサリンの原料ジフロを持っていたことを話すことにしたと
書かれています。
朝日新聞の降幡賢一記者や毎日新聞社会部の記者がいうような
「オウム真理教幹部内の美学」があったかどうかについては
この論文からはうかがえないのですが、
それは化学論文の雑誌に掲載するもののため
人間の気持ちなどは極力排して書くものとして、気持ちの面は書かないよう努めたのでしょう。

中川智正「当事者が初めて明かす サリン事件の一つの真相」(『現代化学』2016年8月号)