江ノ島の隠れたパワースポット

江ノ島と言えば、日本三大弁天の一つである
「江島神社」とか、しらすぼしグルメなどで有名ですよね。

この江ノ島に、隠れたパワースポットがあります。

それは

kodama_syaden

児玉神社です。

勝利のパワースポットだということです。

結構江ノ島全体は混んでましたが

江ノ島参道

ここまで行くひとは少なかったですね。
ちょっとわかりにくいところにあります。

この児玉神社のご祭神は、この方です。

児玉源太郎

日露戦争時の満州軍総参謀長として、司令官・大山巌元帥を輔佐した名参謀と言われた方です。
台湾統治にも手腕を発揮された方ですね。

この児玉源太郎大将が、なぜ江ノ島にゆかりがあるのでしょう・・・。

日露戦争直前、児玉大将が一人になろうとして江ノ島の別荘に引きこもっていたのに
その別荘にいることを知った政府や軍のひとたちなどがたくさんやってくるように
なり、江ノ島周辺の人たちは「何でそんな偉いひとたちが、ここにやってくるのだろう」と
思ったらしいです。
それで、あとになって日本を勝利に導いた児玉源太郎大将がいらしたからだとわかり
神社を造ってお祀りしたということです。
神社の資材は台湾から取り寄せたもので、日本と台湾の関係もわかる
勝利のパワースポットです。

ここからの見晴しは素晴らしいものでした。

児玉神社

日露戦争時の満州軍総司令部内における「大山・児玉コンビ」というのが
日本陸軍における「司令官と参謀のあるべき姿」となっていったようですね。
大山さんは何もいわず、児玉参謀長にすべてを任せる。

実際の大山さんは万事に細かく、その細かさに耐えられる参謀長というのが
児玉参謀長だったということは忘れてはならないと思います。

司令官は何も言わないのが良しというのではなく、細かいことを承知しながら
自分の信頼している参謀長以下に任せて責任を取るという姿勢は
中々誰もができるものではないと思います。

なお、この日露戦争時の満州軍総司令部には、参謀兼大山元帥専属副官として
尾野実信(おの みのぶ)少佐(のち陸軍大将)がいました。
この尾野実信大将は、武藤章さんの義理のお父様です!
尾野実信さんは、満州軍総司令部時代に大山元帥の専属副官としても務めていたので
大山元帥から信頼されていたことを誇りに思っていたようです。

大山元帥の妻・捨松夫人が、「主人の好きなのは、児玉さんと尾野さんとビーフステーキ」と
言っていたことを講演で話されていました。
児玉さんとは別の立場で参謀と副官やっていた尾野実信少佐についても
関心があります・・・。

よく、山下・武藤コンビを大山・児玉コンビになぞらえる向きがあると思います。
山下・武藤コンビもそれを意識していた部分もありますが、
ちょっと違うんではないかなあとも思います。
山下さんも武藤さんも、結構口を出す部分多かったし。
両方ともかなりうるさ型上司であったと思いますが、
両名ともそれを意識してか、山下さんが参謀に雷を落としているときは
武藤さんは、母親のようなまなざしでフォローするというような感じで
救われたと、元参謀であった渡辺博・元陸将(大東亜戦争時は少佐)が回想してました。

ちょっと変わったパワースポットで、江ノ島の中でも静かな場である児玉神社、
もし行く機会があれば行ってみてください!

今回、写真加工でPhotoshopCS6を頑張って使ってみました。
株式会社LIGさんの
この記事を参考にしながら・・・。
http://liginc.co.jp/web/camera/65147

副官の務め

副官とは・・・。

軍隊においては、役職者(高級幹部)個人付のもの(専属副官)と、司令部などの組織に関する副官がいたようです。
(多分、詳しいことは部隊の編制についての施行細則などに細かく職務規定されているはず)

いずれも職務はさまざまで、臨機応変さを要求されることから、優秀者が抜擢されることが多いとのことですが・・・。

武藤章中将が近衛師団長に補任されたときに、専属副官にいきなり任命されたのが、
いくつかのエントリーにも出てもらっている稲垣忠弘中尉です。

稲垣中尉は、予備役の将校というだけで、まさか抜擢されるとは
思っていなかったようです。
自身に力量のないことを痛感させられながらも、
何とか武藤章中将についていこうと一生懸命だったようです。
「副官」という職務経験者のなかには、山縣有朋元帥の副官
をつとめた渡邉錠太郎大将(このひとは、陸士→陸軍大学校首席)がいます。

稲垣中尉は、自身の役目を「戦地における女房役」とし、

〇師団長の健康維持(絶対に病気にかかられないように注意)
〇雑務に師団長の神経を一切、使わせないこと

これだけを気を付けられたらしいです。

これって、私の母(専業主婦)のやり方と同じではないか?と思いました。
私の母は、子供のことや、近所のことなどで面倒なことがあっても、
なるべく父の仕事に支障がないように胸の内にしまい、
父が仕事に専念できるよう健康管理だけはしっかりしていた。実は大変だったと
いっていたので、「専業主婦と同じぐらい大変な仕事」なんだなあと思いました。

他国の軍はわかりませんが、
日本陸軍(海軍もかも?)においては、上下関係の中に、さらに「女房役」とか「父親の威厳(山下大将など指揮官)」の
ような、疑似家族関係をつくりあげていたのではないかと思わせられます。
その疑似家族のほうが、プライベートの家族関係よりも信頼関係が強固であったように思うのは
私だけでしょうか。

稲垣副官から見た武藤章中将とはどのような人だったのでしょうか?

〇まず自分の意見を「ズバリ」と直言する
〇実は口が堅い
〇茫洋とした人を包み込むような人徳があり、この人のためなら
身を投げ出してもよいと思わせられた

ということです。

武藤章師団長は、昭和19(1944)年10月に、山下大将が司令官となった
第14方面軍参謀長となり、フィリピンに赴任する時に
まっさきに稲垣副官に、フィリピンの戦況を率直に話したとのこと。
山下大将がいまごろ行かれても遅い。もう後は米軍をひきつけてどれだけ叩くかしかない。
もし君がついてきてくれるなら助かるけれど

稲垣中尉は即座に「お供します!」

武藤章中将は「いや!!」と一度止めました。

「これは死の宣告と同じだから、一晩よく考えて明朝返事をしてくれ」と。

稲垣副官は、武藤章中将のために死ぬことを恐れてなかったので
「閣下、お供させていただきます」と朝、伝えたと。

武藤章中将は一言

「有り難う」

武藤章中将は、「比島から巣鴨へ」の中で

「稲垣副官は、昭和17年5月上旬、私がスマトラの近衛師団長着任以来の副官である。
当時彼は、幹部候補生出身の少尉であった。昭和19年10月スマトラから比島に転任になるときにも
少し無理をして連れてきたのだ。
足かけ4年における我々の友情は、平和時における中年男子の間における友交をもって
想像することはできない。
私は師団長であり、方面軍参謀長であり、彼は尉官であり、副官であった。
齢は親子ほど違ふ。
然し、戦時、砲爆撃下に於ける吾々の間はそれらを超越するものがあった。
生命の危機に直面しては、位階や職権や年齢やを越え、生身の人間そのものが
相触れる。魂の交わりである。私が友情と云ふのはそれだ。

私の衣・食・住一切は稲垣副官に任せ切った。防空壕の出入りまで
彼の云ふ通りにしたから、生命も彼の手に委ねたと云へるかも知れぬ。
私の我儘は相当彼を手古摺らせたこともあらう。
が私は常に心から感謝してゐる。

もし私が師団長として、参謀長として何等かの功績を樹てたとしたら
その半分は彼の功績と云はねばならぬ」

と、稲垣副官に感謝の言葉を書かれていました。