4年ぶりの尋問再開(地下鉄サリン事件)

松本サリン事件について、正確に語りだした中川智正被告。
黙秘をしていた地下鉄サリン事件についても、
麻原第184回公判(2001年2月9日)以降、証言を始めました。

当時の朝日新聞では、このような取り上げ方でした。

かなり大きい。
法廷イラスト入りでした。
しかし、この日の傍聴者は33名

捜査段階では、中川智正さんは
「サリンは地下鉄に使われると知っていた」と認め、
サリンの原料ジフロについても
「教団がそれまでに作ったサリンや中間生成物を1995年1月に処分した時に
もったいなく思い、自分が保管した」と供述していました。

朝日新聞のタイトルには「4年ぶりの尋問再開」とあるように
麻原第24回公判(1997年1月31日)に検察側証人として出廷したときには
中川智正被告は黙秘を続けていました。

ただ、この日、「井上嘉浩さんとは仲は良かったのですか?」と問われた時
よかったと思います。入信して初めてできた知り合いです。
ステージ的には井上くんがかなり上でしたが、ちょこちょこ話をしました。

とは答えたものの、その後は、問いかけには答えず
両手を太ももの上に置き、こわばったように動かなくなってしまいました

麻原弁護人から
「しつこいですが、ジフロを上九一色村に持ってきたひとは」
「保管したのは井上さんであることを否定できますか」
にも
「ふーん」とうなったきり返事をせず、しまいには
「ちょっと勘弁してください」と言い出す感じで、黙秘を続けていました。



それから4年・・・。
中川智正被告は地下鉄サリン事件において
サリンの生成と袋詰めに関与したことを法廷で初めて認めました

中川:(1995年3月)18日夕、村井(秀夫元幹部、故人)さんが私の部屋に来て
『これからサリンを作る』と言いました。
検察官:「その使用目的は」
中川:「聞いていません」
検察官:「生成に着手したのはいつか」
中川「19日夕方だったと思います」
(サリンは19時から20時ぐらいに完成し、村井の指示でビニール袋に詰めたとのこと)
検察官:「何袋作ったのか」
中川:「10個前後です。」
検察官:「個数は誰が決めたのか」
中川:「遠藤(誠一)さんです。」
検察官:「出来上がったサリンはどうしたのか」
中川:「遠藤さんがどこかへ持って行った」

検察官:「(中川が)逮捕された後、しばらくしてから話をするようになった。本当に反省したから真実を供述したのではないのか」
中川:「自分は死ねばいいと思っていただけで、正確に言わなくてもいいやと思っていた
(サリンの使用目的について)私はそうした事柄を教えてもらえる立場になかったと言いたかったが、
捜査員から『知っているはずだ』と言われた

麻原第191回公判(2001年4月6日)においては

弁護人:「1995年3月18日にサリン生成を始めたが、あなた(中川)と遠藤が中心か」
中川:「評価は任せます。そう言われても仕方がない」
弁護人:「前年に松本サリン事件があり、1995年1月1日に読売新聞でサリンの記事が出た。
だからもう発覚を恐れてつくらないことになったのではないか」

中川:「そうです。ぼくはそう思っていた」
弁護人:「サリン生成は教団の方針に反するのでは」

中川:「教団に一貫した方針はない。だから方針に反しているとも思わない
弁護人:「サリンをつくることを上層部は考えていたのか」

中川:「あの、考えたから作ってしまって、まいてしまった」

弁護人:「サリンの使用目的だが、捜査調書では村井から『地下鉄にまく」と聞いたことになっている。
あなたにとっては重要な問題だ。なぜ事実に反した調書に署名したのか。」
中川:「たくさんの人が亡くなっているし、結果は争いがない。ごちゃごちゃいうつもりはなかった
(中略)
弁護人:「松本サリン事件で騒がれた後なのに、また作る気になったのか」
中川:「つくりたいか、つくりたくないかと言われれば、つくりたくない。
    好きではない。でも指示があればやる

麻原第194回公判(2001年5月10日)においては

弁護人:「地下鉄サリン事件が起きたと、どこで知ったの?」
中川:「3月20日の昼頃。第6サティアンの2階で。人が何人も死んだと聞いた。
自分が生成に関与したサリンだと気づいた。教団の仕業だということも分かった。」

弁護人:「知った時の気持ちは」

中川:「一言でなかなか言えない。知った時点でですか。
もちろん遺族の方、知り合いの方は嘆くだろうとは考えた」

弁護人:「今はどう思う」

中川:「やっぱり、やってはいけないことだろうと思います。」
弁護人:「なんだよそれ、当たり前のことでしょう」(苦笑)

中川被告はしばらくうつむいて、苦悩しているような様子を見せたあとで

「そうですね。それ以外、何をしても償えない。
亡くなった人を生き返らせればいいのだけど、私にはできない
責任の取り方は結局そこに行きつきます。
私が起訴された事件だけで24人もの人が亡くなっている。
関係した事件ではもっと多い。
私がのうのうといきていること自体、まずい。いけないことだと思います

そして、麻原第193回・194回公判において、朝日新聞の降幡賢一記者によると



中川被告は、これまでかばっていた共犯者、
特に井上嘉浩被告に対して告発姿勢に出るようになりました。

どうしてこれまでかばっていたのか。
「捜査当時は地下鉄サリン事件の殺人容疑で、4,50名の仲間が逮捕されていた。
僕は死刑になるか獄死するからいいが、
僕がサリンをつくったことを認めることで彼らは関係ないことを証明したかった。
そしてその後、僕は黙秘するつもりだった」
とのことでした。

しかし、この2001年以降は
地下鉄サリン事件の提案者は実は井上嘉浩被告だったとまでいうようになりました。
「それは事件後サリンのことや、ジフロのことも井上嘉浩被告が言っていたので、井上が事件を提案したのかと思った」
そして、井上嘉浩さんが中川さんに
マンちゃん(村井秀夫)なんて、なんにもしていないんだよ
私が犯行には車が必要だといったのに、
マンちゃんは新幹線で帰ってくればいい、というくらいだったので、
車を使うように言ったのも私(井上)だ」と。
このときすでに、サリン事件実行犯・林泰男被告も、
同様の提案を井上が言っていたと裁判で証言していたので、
中川被告としてはもう自分がかばわなくてもいいだろうと
思うようになったのかもしれません。

この中川被告の証言も、井上嘉浩被告の裁判に与えたインパクトは大きかったと思います。

また、村井秀夫さんの教団内の権力は大きかったけれど、
実行力がなく部下任せ
実現不可能なことを命令するので、部下からみて無責任な人だということも言われるようになります。
井上嘉浩さんが村井秀夫さんを、
本人がいないところでは
「マンちゃん」
(村井のホーリーネームが「マンジュシュリー・ミトラ」より)
と呼んでいたあたりは、あまり知られていないところかと思います。

2016年、すでに中川智正・井上嘉浩さんとも、確定死刑囚となっていたときに
中川智正さんが書いた論文によれば、
サリンの原料ジフロの原料は、村井秀夫さんの指示で井上嘉浩さんが保管。
中川智正さんとしては、嘘をついたのは、まだVX事件が発覚していなかったからとのことでした。

井上嘉浩さんは自分に不利な事を自分からは言わないと思われたので、中川さんは

自分ががサリンをつくるために隠し持ったこととして、
上九一色村の教団施設のクーラーボックスに放置したことにしたと。
そして、それはそのまま裁判として確定しました。

その後、中川智正被告本人の裁判となったときにはすでにVX事件が発覚していた後だったので、
法廷で実は井上嘉浩さんがサリンの原料ジフロを持っていたことを話すことにしたと
書かれています。
朝日新聞の降幡賢一記者や毎日新聞社会部の記者がいうような
「オウム真理教幹部内の美学」があったかどうかについては
この論文からはうかがえないのですが、
それは化学論文の雑誌に掲載するもののため
人間の気持ちなどは極力排して書くものとして、気持ちの面は書かないよう努めたのでしょう。

中川智正「当事者が初めて明かす サリン事件の一つの真相」(『現代化学』2016年8月号)


故・中川智正氏、被告時代の苦悩

7月6日(金曜日)午前、次々に入ってくる死刑執行のニュースに驚いた私は、
仕事をしていても、なぜか中川智正さんについて、気になって仕方がなかったです。

そしてそして、完全文系な私ですが中川智正関係記事をあさりはじめ、
ついには

と、お金もない、化学の知識もないのに、論文とか本とか買ってしまいました。
多分オウム真理教元幹部の本など発売されないだろうと思い、まずは2014年発売本をAmazonでぽちりほっまだ値上がりしていない。

ちなみに、早川喜代秀さんの著書はすさまじい。



3万近くに値上がりしている。
こういう本はまず、図書館ではあまりお目にかかれないので
こういう時にここぞとばかりに値上がりするらしい。
中川智正さんの本は、まだ1300円だったので、やった!!!と思ってAmazonでぽちったところ、斜め上の情報が入ってきました。
「死刑執行されたら出版してください」との約束で元オウム真理教・中川智正元死刑囚と面会を重ねた世界的毒物学者の書籍を緊急刊行。



ええええええええええーーーーー。本の衝動買いに走りまくってしまった・・・。
読みこなせるかどうかわからないけど、
買ってしまったものは何とか読もう、自分なりに
というわけで、
今回はこの中川智正氏とアンソニー・トゥ名誉教授との共著を読む前に中川智正氏に関する予習をしておきたいと思います。

化学的な知識に関する予習のサイトとしては、こちらが素晴らしかったです。
「オウム死刑囚が執筆した論文をレビューする」

特にこの部分を読んですごい!と思ってしまいました。

「論文の文章から漂うのは、圧倒的な「当事者感」である。特に以下の記述がすごい。

There is no documentation regarding the toxic nature of the two types of VX (salt-free and HCl) in the literature; however, this was actually shown by Aum Shirikyo’s terrorist action. This was known only by two persons who were involved in the manufacture of VX. The first author of this paper was actually involved in such manufacturing [unpublished observation].

-この二種類のタイプのVXの毒性に言及した文書は存在しない。しかし、その毒性はオウム真理教事件によって証明されている。
これはVXの製造に携わっていた2人(つまり、中川智正と土谷正実)だけが知っている。
この論文の筆頭著者は実際に製造に関わっていた(未発表)。

このサイト運営者は人工知能の研究をイギリスで深めている方とのことで
理系知識ないに等しい私でもすごさの一端に触れることができました。

今回のエントリーでは、私自身が中川智正氏の著書が発売されるまでに中川智正氏に関して予習をしたいと思います。
彼がオウム真理教に入り、被告になってからどのような苦悩を抱いてこの23年間を過ごしたのか。
すべての資料を読む予習は難しいけれど、
たまたま行きつけの図書館で、この本を借りることができました。
この本を読んで予習しようと思います。



この本には中川智正氏について
「医師の使命」なき男 中川智正 として一章が記されています。
おそらく、ウィキペディアで中川智正を見た人たちには(私も含め)知らない面が書かれています。
それはどのような面なのか、以下に記していきたいと思います。

意外にオウム真理教との縁が切れなかった

中川智正が逮捕されたのは、1995年5月17日のことでした。
それからすぐに、脱会届けを出したとのことですが、
それは、岡山に住むご両親が、私選弁護人をつけるために、脱会届けを書き、息子を取り返したものでした。

当の中川智正は、林郁夫受刑者の公判にて、こう述べています。
「親としては、私を教団から取り返したのであり、ある意味では取引のようなものでした。
ほんとうの意味で、麻原尊師と私が切れているかどうかは、ちょっと申し上げられません」

オウムに出家するときに猛反対した親が、
自分が逮捕されたから、自分をオウムから切り離すためにそうした、というニュアンスが感じられます。
ご両親は、私選弁護人を雇ったものの、息子の罪状が次々に増えていき、さらに「サリン」「VX」などで25人を殺害し、
6000人に被害を与えた事件を起こした息子のために弁護士の交通費、宿泊費を工面するのは、
経済的にも困難になり、
そこまでしてもまだ息子の心はオウムにあることがわかり、
どうすればいいのか途方、絶望にくれていたようです。
さらに息子はその弁護人と意見の対立を起こし、国選弁護人に代わったとのことです。
その国選弁護人はオウム真理教が経済援助してつけた感じがし、
1998年ぐらいにはご両親は、息子は脱会こそ書類上ではしているものの、教団に復帰しているようなもの、と捉えていたようです。

「法皇内庁長官」

在りし日の中川智正氏詰め合わせ

オウム真理教幹部の中では「ボンボン」「坊ちゃんタイプ」(端本悟・死刑囚)いうイメージで見られており、
教祖に迎合する傾向はあれど、
教祖が、端本死刑囚に30キロの減量を命じようとしたのを止めさせるよう進言できる人物との評価でありました。
教祖の主治医ではあれど、教祖の身体に触れるようなことはなかったということです。
麻原が逮捕されるときに、弟子たちにさえ、身体を触られたことはない!と言ったことからも
医師免許を持つものとして教祖を診察するということはなく
単に健康アドバイザーのようなものだったとのことです。
もう一人、医師として有名なオウム真理教幹部として、林郁夫受刑者がいますが、
彼は20年の臨床経験をもつけれど、臨床経験が1年の中川智正よりステージは下だったとのことです。
創価学会の池田大作殺害未遂事件の時に、
ガスを吸い込んだ新実智光氏をおんぶしてはこんでは来たが臨床経験1年しかない中川は治療もできなかったと。
林郁夫は、
「自分よりステージが上の中川が何も出来ず、それでいつも指示だされていたので意外に思った」と公判で証言しています。
医師でありながら、臨床経験が少ないために無理をさせられて失敗エピソードはここからきているのかと思いました。

なお中川智正によると、彼よりも村井秀夫の方が教祖の身体に触れているのを見たとのことで、
扱いは、村井秀夫、遠藤誠一、中川智正の順で重用され、
村井は食事の給仕や買い物などあらゆることができ、
遠藤と中川は同じ程度だったと言っています。
また、医師の使命について麻原弁護団から尋問されたときに
そもそも、私は医師という人種になったのではありません。医療技術の資格をもっただけなんです
私には医師の使命というのが嘘くさく思えるんです」と、
医師を志し、真面目に勤務していたことを自分自身で否定するほどの状態の頃があったのでした。

研修医時代

「医師の使命が嘘くさい」というほど、医師という職業を嫌悪しているような感じのある中川智正の研修医時代とはどんなものだったでしょう。
勤務した病院では、最初は消化器内科に配属され、胃カメラ、超音波、バリウムなど勉強し1日に30人ほど診察し。
即戦力として期待され、数をこなすことを求められる激務だったようです。

それでも、患者の症状を親身になって受け止めていると、
いつしか自分が同じ症状になっていく感覚があり、
それを上司に相談したら、
「そんなアホなことあるか!」といわれ、どうしたらよいかわからず、悶々として過ごしていたとのことです。


私も、「対人援助職」として親身になり受け止めようとして、
心身ともに疲労困憊なのに無理をしたことがありますが、
私の頃はうつ病、燃え尽き症候群などの病名や、「感情労働」という言葉が使われるようになったけれど、
昭和末期ではまだその考えはなかったなか、一人苦しまれていたのかもしれないと思いました。

それがオウム真理教出家の原因でもあったのか・・・と。

裁判では、「医師という人種になったのではありません」などと答えていたのも、
もしかしたら研修医時代の煩悶が尾を引いていたのではないか、と平成の今、
この部分を読み返して思う人が結構いるのではないかと思います。
当時はなかったのが中川智正氏にとって不幸だったのかどうか。

もう一つ、出家をしたばかりの中川智正は、
村井秀夫にいきなり「人を殺せる薬はないか」と言われて、
元勤務先の病院に盗みにはいっています。
これも昭和だったからできたのか、とも思います。
平成の今であれば、まずセキュリティカードで管理されているので、盗みに入るのは困難だと思います。

この時盗んだものが、坂本堤弁護士殺害事件で使われています。
結局静脈注射はできず筋肉注射しかできなかったけれど、
3人の命が奪ったのは中川智正の注射行為だったと共犯者たちは見ていましたが、
中川智正本人は、
「子供の口と鼻をふさいで死なせたのは自分だ」と悩む日々で、
それを理解してもらえない中で、さらに犯罪を重ねていくことになります。

被告時代の苦悩

自身の第一回公判で、地下鉄サリン事件関与を認め、
「村井秀夫さんから指示され、私がサリンを生成し、袋詰めにしたことは間違いありません。
しかし尊師らと共謀した事実はなく、どこで発散させるのかは、事前に知りませんでした」

一人で責任を負うつもりだったのでしょうか・・・。
さらに第四回公判では、坂本弁護士殺人事件について
「殺害する共謀があったのは事実です。
ただ奥さんや赤ちゃんを殺す話はなく、
現場で「泣いている子供をなんとかしろ」と言われて、
タオルで口と鼻をふさぎました。
もう私は迷惑をかけたくない。気持ちとしては、「消えてなくなりたい」

法廷で「ぼくは死刑になる。教団の教義でも、人を殺したら自分が殺されるか、悲惨な死に方をする
ということがあり、
何とか麻原元側近として、麻原自身に
「お前たちは悪くない」と言って欲しかったらしいです。

村井秀夫の死については、
麻原裁判の第193回公判にて
村井さんはヤクザに頼んで刺してもらい、自殺したんだと思う。あの人なら、それくらいやりかねない。自分もああいうふうに死にたかった
と言われています。
そして、2001年の麻原二百回公判において、

「医師をしている友人から、『地下鉄サリン事件で使われたサリンを、まさかお前がつくったとは思わなかった』といわれました。
しかし教団の構成員である以上は麻原氏の命令に従わざるを得なかったのです。
もともとオウムには、特殊な人たちがあつまり、世俗を捨てて活動していました。
そこへ捜査が入り、司法の場へ引き出され、現世に戻されています。
麻原氏にはそのことをわかってほしい。
教団はシヴァ大神をいつもかかげていました。
シヴァ大神が『お前たちが悪いんじゃない』といっておられるならそれを言葉で伝えていただきたい。
尊師がどう考えておられるのかを、帰依していた弟子たちに何らかの形で示してもらえませんか。私たちは、サリンをつくったり、人の首を絞めるために出家したんじゃないです」と証言台で泣き崩れるエピソードを残しています。

その翌年の2002年2月25日の中川智正裁判の時に出廷したかつての尊師は、宣誓書に署名を拒絶しました。
そのときに、中川智正氏は呼びかけました。
尊師、なんとか署名していただけないでしょうか。
ぜひ尊師のお話をうかがいたいのです。
これが多分、最後の機会だと思います。
私だけではなく、いろんな人たちが、否応なしに事件にかかわっています。
そういうことも考えて、お話いただきたいのです


それに対して、かつての教祖は、手で振り払うようなしぐさをするだけだった・・・。
医師免許を自主的に返納したり、サリンをまいたことを認めたりと
当初からわりと幹部の中では洗脳が解けていたイメージのある中川智正氏。
実際は、このような苦悩につぐ苦悩の末、
すこしずつ「麻原は何も言わない」と理解していくようになったのだと思います。
佐木隆三氏の著書では2002年で止まっているので、
その後、どのような過程を経てVXに関する論文発表と、自分の死刑執行を淡々と受け止めていくのかまではわかりませんでした。
「結審までの見通しは立っていない」で筆が結ばれています。

「元に戻ってくれました」(中川智正氏のお母様)

(朝日新聞の記事より)
「あの子がいつ、この世からいなくなったとしても当然だと思っています。
それしかありませんから、償いは。いえ、そんなことしたって償いにはなりませんけど」
 西日本のある都市に夫と暮らす。せめてもの願いは息子より1年でも長く生きること。
死刑が執行されたら迎えに行き、「連れて帰りたい」からだ。そう語ると、突然、嗚咽(おえつ)した。
 「骨つぼは仏壇に置いておきます。私たちが死んだら遺骨を一緒に入れてもらいたい。長男なのに、生きているときは何もしてくれなかったんだから、あの世で世話してもらおうって
 2カ月に1度、面会のために上京する。午前中はいつも、弁護士一家の墓がある神奈川県の寺へ。手を合わせ、ひたすらわびる。
母親は「インチキに決まっているじゃない」と止めようとした。とうとう説得できなかったことを今も悔やむ。
 同時に、矛盾しているようだが
「あれだけ止めてもどうにもならなかったことが、慰めになっているのかも……」。
力が足りなかったんじゃない、オウムはとてつもない相手だったのだ、という自身への言い訳だ。
 中川死刑囚は裁判で罪を全面的に認め、涙を流した。
母親との面会では、足が弱って上京しにくい父親の体調や、きょうだいの様子をよく尋ねる。
元教団代表の松本智津夫(麻原彰晃)死刑囚のことは「あれ」と呼ぶ。
「教えを信じたまま死んでいくのだったら、つらかった。でも、昔に戻ってくれました。だから本当に覚悟しています」

発売される著書がどのようなものであるか、楽しみに待ちたいと思います。
それにしても、最近は軍人の話とは逸れることが多い・・・。
でも忘れたわけでもありません。