武藤章中将著「山下奉文小伝」

山下奉文大将に関する伝記で最も古いものは
おそらく沖修二『山下奉文』(山下奉文記念会編 1958)だと思います。

しかし、その元となった伝記があることは
あまり知られてないかもしれません。

フランク・リール『山下裁判〈上〉』 (1952年)に掲載されている
武藤章中将が山下裁判の時に弁護団(フランク・リール大尉たち)のために書いた短い伝記が一番古いものだと思います。
※書物になった時の文章は、武藤が書いた文章が英訳されて、フランク・リール大尉が書物にしたものとなり、
その後日本で許されて出版される際に訳者となった下島連氏が和訳したものです。
よって武藤章中将が裁判の時に書いた時の文言とは相違もあるかもしれません。
けれど、文章が上手いと評判の武藤中将らしさ?が私には伝わるように思います。

武藤章中将の「山下奉文小伝」には、少年時代の山下さんに関する記述があります。

私はこの文章を読んでいたので、「杉の大杉」に行く時に、この文章が頭に浮かんできて、目にする風景を重ね合わせて楽しんでいました。

例えばJR大杉駅前の川を見ながら、こんなところで少年時代の山下さんは水遊びしていたのかな?とか。

JR大杉駅(土讃線)駅舎です。

大杉駅舎

すぐに穴内川(あないがわ)が流れてます。澄んでます。

穴井川

ここが旧邸跡です。

山下奉文旧邸跡

旧邸跡を見ながら、お祖父さんとの菊作りのやりとりはここだったのか?とか妄想していました。

杉の大杉(八坂神社)近くの美空ひばりの碑

美空ひばりの碑

その文章はこんな書き出しでした。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 山下奉文は、1885年12月8日四国のある小村の質朴な田舎医者の子として平民の家に生まれた。
その村は吉野川の上流の盆地にあって、四国の背骨として島の中央を走っている峨々たる山に取り囲まれていた。
 げに幼児こそは大人の父である。
誕生の場所と幼年時代は、未来の将軍の人格と性格の形成に大きな関係を持った。
近代文明の騒音から遮断された山間地方の孤立した静けさに抱かれて、少年奉文はのびのびした、健康な平和的な若者に成長した。
ー青竹を割ったような気質、開け放し、率直、勤勉、直情径行、これらは彼の今日の性格の基礎をなすものである。
 
 周囲の山は濃い緑の草木におおわれ、その間を無数の水晶のように澄んだきらきら輝く小川が縫っていた。
村人たちは世間擦れのした、金銭慾旺盛な都市住民のずるさやたくらみが全くなく、素朴で親切な、満足しきった人々だった。
実に奉文はその形成期をこの自然美と調和の環境、平和と満足の中ですごしたのである。
 山下奉文はのんきな、健康な、肉体的にも精神的にも敏活な少年だった。
彼はひまさえあれば、山や野原を歩きまわっていた。そのために両親と教師、特に教師はいくぶん心配したほどだった。
 
   彼の祖父は、素晴らしい菊を作っていて、毎年適当な季節に、最も優秀な品種の芽をつんで、よく地ならしした苗床に丁寧に植えた。
毎朝、自分で若芽に水をやり、細心に観察するのが、老人の仕事だった。ある年例によって芽を摘んで植えたが、根がつかなかった。

・・・不思議なことに、さし芽は次から次へと枯れた。
菊作りの名人は途方にくれてある朝、早く出て行くと、
孫が立入禁止の畑で、残っている芽を一つ一つ引っこ抜いては根を調べ、植えなおしているではないか。

 物も言えないほど驚いた老人は、すぐそれをやめさせ、この乱暴な行為を厳しく叱責した。ところが返事はこうだった。

「お爺さんは芽に水をやると根が出るとおっしゃいました。僕は毎朝根が出るのを待っていたのです」

  祖父は孫の澄んだ、ビクともしない目を見つめた。
それから、おだやかな態度で気に入っている品種の芽を彼に与えて、この自然児に、実験を続けさせた。
この公明正大さと知的好奇心はいつも同僚や競争者から際立っている彼の特徴だった。
 
  少年奉文は、自然を愛することを学び、自然も、また彼に多くのことを教えたとは言え、
彼は勉強を顧みなかったので、村の小学校で好成績をあげることができなかった。
彼の優しい母親は非常に心配した。
そして、祖母は時々少年を自分の室へ呼んで長々といましめた。しかし、その効果はなかった。
奉文は落第したことはなかったが、一度も優等賞をもらえなかった。
しかし、この田舎少年が、村から四十二キロ離れた町の中学校へやられると、成績が急に良くなって、
学年が終わった時、彼は誇らしげに帽子に優等生のメダルをつけて家へ帰った。
母親は非常に安心した。祖母はかわいい孫をうれし涙で迎えた。
(中略)
山下奉文大将の人柄と性格は、彼の天性、彼の教育と鍛錬、彼の軍人としての閲歴の綜合的産物である。

山下大将の性格を分析するにあたって自然の基本的法則であり、
彼の少年時代、青年時代の山と川と林に示されている調和と秩序を見逃すことはできない。
不和と貪慾は大将が最も憎んだ人性であり、
彼の同胞の中で、彼ほど飾り気や気取りがなく、世俗的野心にわずらわされなかった者は少ない。
・・・人間に対する深い信頼感は純粋で善良な人のみが持つ特質で、
この人物の広い心と高潔な性格に触れる幸運な機会を持った者は、たちまち、この真理を発見する。」

裁判中で、かつ抑留中なのに、武藤章中将はよくこの文章(中略部分は山下大将の軍歴)をかけたなあと思います。
ただでさえ裁判で疲れているのに、文章を書くというのは・・・。どれだけメンタル強い人なのだと
改めて思います。
そして、この内容をきちんと山下大将本人から聞き出して物語にするという文章力、
当時52歳だった武藤章中将の仕事力はすごいものだったと思います。

日本一の大杉「杉の大スギ」

明けましておめでとうございます
本年もどうぞよろしくお願いします

なかなかブログ更新できないですが
書ける時は書こうと思います

さて、私は昨年のある日ですが
ついに行きたかったところの一つ
「杉の大杉」(高知県大豊町)に行ってきました。

なかなか高知県まで行くというのは、費用的にも日程的にも
難しいものがありますが
3万ほど(行き帰り新幹線と岡山泊ホテルの1泊2日)で
またも行ってきました。

まずは新幹線で岡山に行き、岡山⇄大杉は特急にての移動
(これが8,000円以上かかります。
それならば、東京⇄高知間のビジネスパックでもいいんじゃない?と
言われましたが、結局岡山に泊まることにしました。)
かなりタイトな旅でした

まだ香川県の旅についても中途半端なままなのに・・・。
こちらはまた後日にします。

JR大杉駅前に降り立ち、橋を渡ると大杉ハイヤーさんがありましたので
まずそこに向かいました。
運転手さんに、
「山下奉文旧邸跡」と「杉の大杉」を何とか一度に回りたいとお願いしたら
快く応じてくれました。
徒歩ではいけない距離ですから・・・。
なので、歩いたのは杉の大杉」からJR大杉駅(1キロ弱)までだけでした。
昔の人の健脚さに驚きました・・・。

山下奉文さんは、幼少期の一時期、現在の高知県大豊町で暮らしていました。
ちょうど、小学校の教師を辞めて医師になったお父さんが開業していたのが
このあたりだったのです。
今で言えば小学校低学年あたりの頃に生活していた場所でした。

もっとも、行くことを決めてからもう一度書籍を読み返すと、
山下奉文少年は、大杉のあたりで生活していたこともあるけれど、
そこから離れた、現在の土佐山田町あたりで生まれ育った時期の方が長かったということでした。
高知に泊まれたなら少しはゆっくり回れたのにと悔やまれます・・・。

タクシーを降りると、八坂神社があり、
その手前に料金所がありました。
この大杉を維持するのに使われるとのこと。

そして「杉の大杉」です

杉の大スギ

素戔嗚尊が植えたと伝えられるこの杉、樹齢3000年と言われる
この大杉。本当に大きかったです・・・。
写真に収まらないほどに
なんとどっしりしているのだろうと
この樹木が出す静けさが素晴らしかったです。

なんと大切にされてきたのだろうと思いました。

タクシーで時間稼ぎをしたので、約50分ほど時間ができました。
なので、樹木の近くにあるベンチでぼーっとしていたり
境内をぐるぐる廻ったりしていました。

そうしたら、小さなお社がありました。

「巨杉の社」と書いてありました。

巨杉の杜

下に碑文がありました。

「陸軍大将山下奉文はこの地大豊町川口出身 
号を巨杉という 
大東亜戦争の緒戦マレーシンガポールの攻略に 
神速なる戦果を挙げ世界の戦史を飾る 
のち満州より転じて比島作戦を継承するも時に利あらず 
詔勅に従い矛を収め部下全将兵の責任を受け 
米国軍法会議の決に服し莞爾として刑死せり 
惜しむべし将軍は皇国の無窮と弥栄を固く信じ 
至誠純忠悠久の大義に殉じ 
その霊魂はここ日本一の大杉に宿る
嗚呼 偉なるかな 萬人巨杉を仰ぐ」

やっとここまで来られた!と思っていたところ
料金所の女性の方が、私に話しかけてこられました。
彼女は、この巨杉の社を詣でる人には特別な資料を見せることもありますと
言われていました。
山下奉文大将関連の資料でした。
やはり、年に数名は、山下奉文大将を慕ってお詣りする方がいらして
その方々が資料を彼女に預けられていくのだそうです。
山下奉文大将関連資料が集まってくるのだそうです。
※私も後日、東京で集められる山下奉文大将関連資料を集めてお送りしました。
年に数名いるかどうかの方々が山下奉文大将を思い出してくれたらと思い・・・。

多くの人は、裏の美空ひばりさんの碑に行ってしまうのだそうですが。

大東亜戦争後、八坂神社の宮司さんは、

釣井正亀宮司

なんとか山下奉文大将を祀ろうと努力されてきたのですが、かなり苦労されたそうです。
戦争犯罪人を祀るとは!とか。
「巨杉神社」としたところ、宗教的な面でこれまたクレームもあり、
「巨杉の杜」としたそうです。
昭和61(1986)年当時は確かに「巨杉神社」だったのに。
(「巨杉会会報 別冊特輯 カンルーバン将官収容所に於ける
   将軍の横顔と句集」(1994年8月)所収の当時の新聞記事より)

昭和末期頃は、まだ山下奉文大将に仕えた部下たちも生きていたのですが
平成に入る頃には戦友会もなくなってしまい、荒廃してしまったところ
なんとか「巨杉の杜」という形で再興したものらしいです。

そんな話を伺っていると、もう15時近く。
電車に乗り遅れそうでした。
最後は小走りをして、なんとか乗りました。
もうクタクタでした。

『世紀の遺書』序文(田嶋隆純師による)

『世紀の遺書』の序文(田嶋隆純師)を以下掲載します。

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それでは、横書きで読みやすいように
適宜、私の独断と偏見で改行を入れて、文章をそのまま入力します
ここでは巣鴨拘置所で、岡田資中将(元・東海軍管区司令官兼第13方面軍司令官)
をはじめとする方々の心のささえとなられたことで
しられる教誨師・田嶋隆純先生の文章に尽きる、と思うからです。

序 文

第二次大戦の終結の中にすでに次の大戦の兆が生れ、
正義と平和を実現しようとする国々の努力が、
却つて世界を自殺的な危機に駆り立てるとは
何と云う大きな矛盾でありましようか。

今日の日本の政治経済或は思想上の混乱も
謂わばこの世界的矛盾の一環に過ぎません。

第三次世界大戦が起れば幾千年の文化は破壊され
人類は滅亡に瀕すると云われていますが、
このような暴力の源は原子兵器でもなければ細菌戦でもなく、
実にかかる戦争を生むに至つた近代文化に内在するものであり、
更に遡れば現代人個々の心にひそんでいるものと云わねばなりません。

私たちはこの混沌の底に在つて、
理性と善意に絶望する前に今一度赤裸々な人間に立ち返り
一切を見直す必要に迫られております。
然るに茲に強制された逆境を契機として、
この様な深い内省をして来た一群の同胞があります。
それは所謂「戦犯」として斃れた人々であつて、その最後の声を
私たち同胞は心から耳を傾けるべきだと思います。

戦犯者に対する見方は種々ありましようが、
高所より見ればこれも世界を覆う矛盾の所産であつて、
千人もの人々が極刑の判決のもとに、
数ヶ月或は数年に亘つて死を直視し、
そして命を断たれていつたと云うことは
史上曾つてなかつたことであります。

おそらくこれ程現代の矛盾を痛感し、これと格闘した人々はありますまい。
一切から見離された孤独な人間として単身この矛盾に対し
刻々迫る死を解決しなければなりませんでした。
それは自身との対決であり、同時に真理を求める静かな闘いでもあつたのです。

戦争は直接の目的として相手の死を求め、手段として自身の死をも要求します。
このため日本人は「死」そのものを最高善の如くされ教え込まれてきました。
然るにこの人々は強制された死に直面して生きる喜びを知り、
最後の瞬間まで自身をより価値あらしめようと懸命に努力しております。
それは自己の尊厳と生命の貴さへの覚醒でありました。

「己の如く隣人を愛せよ」と云われますが、
自己を真に愛することを知らずして他を愛することは出来ず、
最高の徳とされる犠牲的精神も正しい意味の自愛の反転に他なりません。
「死に直面して一切が愛されてならない」と云う
或遺書の一節は端的にこれを物語つております。

この心は即ち肉親愛でもありまして、
すべての人が言葉をつくしてその父母妻子に切々たる情を伝え
身の潔白を叫ぶのも寧ろ遺族の将来の為に汚名を除かんとする努力なのであります。
更に愛は郷土へ祖国へと拡がり、遂には人類愛に迄高められております。
人道の敵と罵られ祖国からも見離された絶望の底に於て、
尚損われることのなかつた純粋なこの愛国心は改めて深く見直されるべきであり、
この基盤なくしては人類愛もまた成立し得ないものと思うのであります。

この書に収められた701篇の遺書遺稿は何れも
窮極に於て日本人は何を思い、何を希うかを
赤裸々に訴え、同時に人間の真の姿を如実に示しております。
固より思考力の差や死刑囚生活の長短によつて、
その到達している段階は種々でありますが、
そこには力強い一つの流れが明かに感じられます。
そうして純粋にして豊かな人間性の叫びは、私共の徹底的な反省を促し、
新たな思惟に貴重な示唆を与え、更に私たちを鼓舞してやまないのであります。

戦犯死刑囚の多くと接しその最期を見送つて来た私には、
この人々のために戦争裁判について訴えたいことが鬱積しておりますが、
この書の目的がこれらの人々の切々たる叫びを世に生かさんとする
未来への悲願であることを思い
寧ろ黙して故人と共に一切の批判をも将来に委ねたいと思うのであります。

この書を読んで私はその一篇々々に滂沱たる涙を禁じ得ませんでした。
それは悲痛の涙であると同時に
美しく逞しい日本人の心に浸つた感激の涙でありました。
かくも厖大な資料により人間窮極の叫びを集成したこの書は
世界に例のない貴重な文献として、国境を超え時代を超え、
不易の生命を以て絶えず世に叫びかけるものと信ずるものであります。

昭和28年8月15日

巣鴨教誨師
大正大学教授

田嶋隆純

以上が田嶋師の記された序文でした。
私自身はこの書物を神田神保町の古書店で見つけたとき
宝物を発見したように嬉しかったことを思い出します。
そして、この書物を当時のまま読みたいと思ったのでしたが
特に1984年復刻版では、空白ページがあったので、
「お話を聴いてみたい」と思ってページを開いても空白の方の思いを
知りたくても知ることができなかったです。

私が入手した『世紀の遺書』(1984年復刻版)の裏には
元の所有されていた方が貼られたのであろう
一枚の雑誌記事がありました。

「空白ページが語る遺族の痛み」

「この項は、今回の復刻に際し、遺族の希望により削除しました」
と。
1984年(昭和59)ということは戦後39年の間に
実は昭和受難者のご遺族がどれだけ同胞の心無い仕打ちに苦しんでいたかを
想像させられます。
本来であれば最も理解してほしかった同胞が理解してくれないことの苦しみが
どれほどだったのかと思いました。

すぐに理解してほしいとは言わないけれど
せめて私たちの傷口を抉るような仕打ちをこれ以上しないで!と
ご遺族の方々が叫んでいるような様子がうかがえました。
親戚からも「戦犯だから」と絶交されて故郷を追われて
職を転々とせざるを得なかったご遺族の方々が多かったということです。

私は空白ページをぜひ読んでみたくて
その後1953(昭和28)年初版本を探したのは
云うまでもないです。

チャンギー殉難者慰霊塔

先日の桜残る池上本門寺の中の「照栄院」の横の妙見坂を登ると

ありました。

チャンギ―慰霊碑

「チャンギー受難者慰霊塔」

この時はもう、慰霊祭が終わったあとだったのか
きれいなお花が手向けられていました。

しかし悲しいことに
関係者の方々にお目にかかることが出来ず
妙見堂を管理されている方にお願いして
お線香を手向けてきたところでした。
私がここに着いたのは午後1時過ぎだったのですが
それにしても、参列者もお坊さんもどこかに行かれてしまったらしい。

(照栄院ではリアルに初七日が行われていたようで、受付の方に問い合わせることもできない空気だった)

照栄院の横のこの坂をのぼった

妙見坂

妙見堂の慰霊塔付近がすべてだったようでした。

この慰霊祭の一週間前に
照栄院に電話を入れてみました。

「あ、あの・・・私は、ただチャンギー刑務所という場で心ならずも受難された方々に
本を読んで興味を持ったもので・・・」と聞いたところ
何と、田中日淳上人の娘さん(?)が対応してくださいました。

「最近は関係者も高齢化してしまって・・・。」というお話から
住職さまである田中日淳上人もお亡くなりになられたということの話なd
いろいろ伺うことができました。

なので慰霊祭は、疲れていても何とか参列したいという気持ちでしたが
終わってしまっていました。

でも、だからこそひとりで、この慰霊塔に静かな気持ちで向かうことができたとも
思います。
それが私なりの、参列方法なのかとも思っています。
あまり大勢で賑やかに参列するような場だと、私自身が疲れてしまうから。

チャンギー刑務所、とはシンガポールに現存する刑務所です。
大東亜戦争停戦後には、新たに捕虜から支配者となったイギリス・オーストラリア両軍側が
立場の変わった我が国の将兵に対して裁判を行い、130名近くを死刑にした
刑務所なのです。
この刑務所の警備は厳重で、英豪軍の虐待も多く発生していました。
立場かわって捕虜になった我が国の将兵は
それこそ、生命を辛うじて維持するぐらいの待遇を甘受せざるを得ず、
さらに裁判にかけられる恐怖との闘い

裁判にかけられたなら、今度は不名誉極まる死刑囚になる恐怖との闘い

死刑囚となったなら、同じ立場の人たちが絞首台に向かう姿を
間近で見聞することで受ける精神的苦痛と、もしかしたら
自分は救われるかもしれないという一縷の望みとの闘いを強いられるという
人間の苦しみの内でもっとも酷なものと直面させられる場であったと
云えると思います。

私がそのような場で最期を遂げられた方々の存在を知ったとき
本当に寝られなくなってしまうぐらいのショックを受けました。
その後、なぜか私はチャンギーで最期を遂げられた方々の最期から
いろいろ学ばせていただいております。

だから、この慰霊塔の存在を知った時は、ぜひ一度お詣りしたいという気持ちでした。

この慰霊塔の周りを一人でぐるぐる回っていたときに
通りがかりの、おそらく本門寺関係の方だと思いますが

「この塔の後ろをみてごらん」と教えてくれました。

見てみると

慰霊碑裏側

私が、書物上で一方的に見聞きしたことのある方のお名前が
ずらりと彫られていたのです。

人の一生には晴れたり曇つたりする日が交互にやつてくる

今年もこの時期が来ましたね。

クリスマス?

確かに、私個人は、カトリック未受洗者のまま
たまにですが、ミサに与ったりもします。

でもそれ以上に・・・。

興亜観音

東京裁判で判決を受けられた方々が処刑された日のことを
思ってしまいます。

武藤章中将は、東京裁判において、唯一陸軍中将の階級で死刑判決を受けられた方です。
それはずっと前から知っていました。

この人、東條大将の腹心だったからじゃない?てな理解でしたが・・・。

実際はそのようなことではなかったと思います。
軍務局長としての役目の他、近衛師団長として、フィリピンの第14方面軍参謀長としての
立場での責任追及をされたことが原因だったと考えております。
軍務局長という立場で御前会議に陪席したぐらいでは、処刑にはならない。
海軍の岡敬純軍務局長は終身刑だったのだから。

武藤さんは、陸軍側の軍務局長の役目を解かれて、
指揮官・参謀長として外地で闘っていた方だったから。
ある人を処刑に追い込みたいときに、特に目を付けやすいのは
指揮官とか参謀長、収容所長的な立場経験だと思っています。
武藤さんは、そのうち指揮官と参謀長経験者だから、かつての役目に事寄せて
処刑という結果になられたのだと考えています。

武藤さんが、65年前のこの時間、どう過ごされていたのだろうということを
毎年この時期になると、いろいろ思いめぐらしてしまうのが私の性分だったりします。
本を紐解きながら、武藤さんが話された内容をもとにあれこれ思いめぐらすのですが、
実は毎年、いろんな発見を自分勝手にしています。

今年は、この書物を紐解いてみました。

死の直前に、教誨師の花山信勝師に、妻と娘あての手紙を渡していました。

「十分覚悟ができた。少しノドを痛めておるほか至極健康だ。
カード遊びや読書などをしている。
私の死は絶対だ。
衝動的に死を恐れることもある。他の人にもそれはあるらしい。
安政大獄中の松蔭にも、この気持ちはあつたろう。
それは生への執着である。
理性では、どうすることも出来ない。
私は宗教には、気づかずにやつて来た。

日本復興は必ず出来ると考えている。戦争で一切を焼いてしまつた。
現在の簡素な生活に満足するよう、物質的欲求を制限することが大切である。
過去の物質的生活を思うことはよくない。
物質的な生活よりも精神生活の高いものへ。汝らの宗教を指図はしないが、
人間には宗教心の絶対的必要なことだけはいいうる。(中略)

法名も「光壽無量院」ともらつておる。私を見たければ南無阿弥陀佛と称えよ。
必ず会うことができる。
何年かの後には必ず来いよ。それ以前には来るな。
佛ということは光である。死を覚悟しながら、ぎくっとくると書きだしたから、
心配するかも知れぬから書くが、
私にも武人として戦争の時の覚悟はある、心の準備はすでにできている。
それをいうのではない。
静かに死を待つ時の人間としての、生への執着をいうたのである。
決して刑場には遅れはせぬ。今夜九時から花山さんからだといつて、
順次よばれたときに、いよいよ刑の執行と考えた。そして宣告を受けた。
心は落ち着いた。体重を計った。
それから独房に帰って、タバコを吸つて、よく眠つた。
二十二日にはお経を読んで、タバコを吸つて、
今生最後の日と思うと面白い。

今夜半と思うと、他人事のように思われる。不思議なほどである。
歎異抄の第九章のごとく、決して死を嬉しいとは思わない。
しかし、私には何の不安もない。私が成佛した暁には、今の如く離れ離れではない。
必ずお前たちを幸福にすることができるのだ。

人の一生には、晴れたり曇ったりする日が交互にやってくる。

午後十時には感想録の手を止めて、夜十二時までに静かに時を過ごすであろう」

この文章の中で、個人的には、
人の一生には、晴れたり曇ったりする日が交互にやってくる
という一文に目を留めました。

一人の我が国の歴史に名前を留められた方でありながら、ハンドルネームに一字いただくほど
勝手に「近しい」と親しみを抱かせていただいている方から

人の一生には、晴れたり曇ったりする日が交互にやってくる

という諭し声が聞こえてきた感じがした、というのが
私の今年の「この日」における正直な気持ちです。
いろんな捉え方ができる深い言葉だなあと思って、静かに味わいながら
静かな時を過ごそうと思います。

武藤章中将はインパール作戦をどう思っていたか?

武藤章中将は、昭和17年4月に、「栄転」と称されて
近衛師団長(在スマトラ・メダン)に赴任しました。

実際の着任は、5月11日だったようです。
(4月20日付ですが、それ以後、武藤さん自身が熊本に寄り
お墓参りなどしてから出発された)

武藤さん自身が陸軍省軍務局長という、陸軍大臣の補佐という立場を
離れるにあたっては、いろいろと噂もあったし、武藤さん自身も
いいたいことがたくさんありましたが、これはここでは触れません。

武藤さん自身は、支那事変の時は拡大論者で、陸軍部内での多数派代表だったけれど、
その後かなり反省をして、「支那事変を収束させ、アメリカなどとの戦争は絶対避けるべし」
という、当時としては「マイノリティ」な立場の中で、いろんな方面からバッシングを
受けていました。

そのような武藤さんが、実際初めて、シンガポール戦でも功績をあげた
近衛師団の長になって赴任し、驚いたこととは何でしょう?

軍隊一般はもう(大東亜)戦争には勝ったと信じている者が多かった」ということ
です。
さらに、スマトラの日系農園経営者なども、戦争によって更に利益が増えると考え
利益の分け前争いをやっていたということも。

そういう人たちに
戦争の将来は予測を許さぬから、戦力強化を第一に」というのは
相当な反発を買ったと思います。

比島から巣鴨へ―日本軍部の歩んだ道と一軍人の運命 (中公文庫)

耳障りのよいことをいうのは簡単だけど、
自分の思うところが、相手にとって耳障りのよくないことでも
きちんと伝えるのが、武藤さん流だったりします。
おそらく、山下大将は、武藤さんのそういう正直なところを
すごく信頼していたのではないかと思います。

武藤さんの近衛師団長時代からの副官・稲垣忠弘中尉によると、
武藤さん着任後3ヶ月かかってようやく、スマトラ島の空気が
戦勝気分ではなくなったとか。
これは武藤さん自身が、師団司令部にこもっておらず、
隷下部隊を視察し、指揮官たちに自分の意志を伝えるということを
何度もやったからだと思います。
これはかなり地味なことで、忍耐が強くないとできないことです。

その頃、近衛師団参謀長であった(武藤さんの参謀長)小畑信良大佐(陸士30期)が
少将に進級し、第15軍参謀長に栄転が決まりました。
小畑信良少将

稲垣副官によると、
武藤師団長の宿舎に挨拶にやってきた小畑少将と、随分長く話していたようで、
時々、武藤師団長の大声が聞こえてくるという
珍しいことがあったようです。

★武藤章さんは、よく怒鳴りそうに思われるかもしれませんが、
そんなことはなかった人だとは、近くに仕えた人の評価なのが
意外に思う方も多いと思います。

「インパール作戦」が計画されていたことに対する大反対<(`^´)>
だったようです。(副官の立場ではそれが精いっぱいだと思います)

何とか参謀長として赴任するにあたり、作戦を実行せぬよう
司令官を説得しろ!!!!

という様子だったとか。

それからひと月後、小畑少将が突然武藤師団長の宿舎を
訪ねてきて、
閣下!!力及ばず。クビになって帰ってきました
と無念そうに報告されたとのことです。

その後しばらくして、「死の行軍」インパール作戦が開始されました。