「中川さんが大好きだから」と泣き崩れた林郁夫被告

中川智正さんと林郁夫さん(現在服役囚)の共通点は
医師であるということでしょう。
この二人の関係はどのようなものだったのでしょうか。

一番想像しやすいのが、佐木隆三著『慟哭ー小説・林郁夫裁判」において
林郁夫裁判に検察側証人として出廷したときの中川智正の次の証言内容でしょう。
(1996年12月17日 林郁夫第8回公判)



「長い間お世話になりました。
まぁ、同じ釜のメシを何年も食ったわけですから、
私と林さんにしかわからない気持ちもたくさんあると思います。
私の立場としては、今の自分の境遇から、尊師との関係をふくめて出直したいと思っている。
そうして修行することによって、いったい麻原彰晃とは何者かを、考えてみるつもりです。
正直いって私は、林郁夫さんを扱いかねているところがあった。
年齢、医師としての経験、縁の深さ。
教団の先輩として、林さんに対して宗教的な指示を、与えなければならなかったのです。

林さんが苦しんでいる気持ちは理解することができます。
非常に苦しんで、悲しみの感情を怒りに変えていらっしゃる部分がある。
思うようにやられるといいけれども、やはり林さんは、怒りを尊師に向けている。
(中略)
怒りの感情を静めて、なぜ自分自身がこうなったかを考えるエネルギーに役立てていただきたい。
怒りを外へ向けると、結局は林さん自身を傷つけると思うからです。
尊師に対して怒っているから、こんなことをいうのではありません。
まぁ、林さんにはお世話になりました。お元気で」

「年下で医師の経験もない中川智正に、年上で医師の経験も豊富な心臓外科医が
無茶苦茶な指示をだされている。よくあるベンチャーでブラック企業にありがちな
関係」というところかと思います。

医師としてのキャリアを比較してみると
中川智正
京都府立医科大学時代、飲んで遊んで学長に呼び出されたり、留年乗り切ればいいという感じで何とか卒業。
医師国家試験の時からストレスを溜め、オウムの道場に通う。
病院に就職し、研修医生活中、いよいよ社会生活を送るのが無理と絶望し、
オウムにお世話になりたく出家。

林郁夫
慶応義塾高等学校のころ医師を目指し、慶応義塾大学医学部に進学

      
※慶応高校から慶応大学医学部に進学するのは成績が上位でないと無理。
 医学部を目指しながら慶応医学部に進学が無理と分かった時点で
 他大医学部受験に切り替える慶応高校生もいる。

医学部卒業後、心臓外科を選ぶ。(研修医時代は普通に2年乗り越えている。)
済生会宇都宮病院、慶応義塾大学病院をへて国立療養所晴嵐荘病院循環器科の初代医長となる。
1990年5月出家。

研修医途中で挫折した中川
医師としてのキャリアを積み、
一つの病院の循環器科を育て上げた成果を認められ医長まで務めた林とは
キャリアはあまりにも違う。
ただ数か月中川の方が出家が早く、教祖に気に入られていたというだけで、
教団内では中川智正の方が上司でした。
それに対して、他の信者もそうだったように、林郁夫にしても疑問を抱くことはなかったようです。

なお、この林被告公判において、林郁夫は、中川に仮谷清志さん拉致事件のことを聞きたかったのだが、
中川は証言を拒絶しています。

中川智正さんとしては、もうこれで林郁夫と会うのも最後にしたい気持ちもあったかと思うような
やりとりでしたが・・・

なんとこのあと、1年後
さらに
再会があるのです

中川智正公判において、検察側証人として林郁夫が出廷するのです。
1997年10月30日のことでした(「朝日新聞」1997年10月31日朝刊)。

林郁夫が中川智正に対し
「あなたも申し訳ない、という気持ちを表現しようとしているけれど、
全身で震えていたその場面に立ち戻るべきだと
思う。人を殺した場面の、相手の声とか動作とかをしっかり思い出して、
もっともっと、自分の気が狂うぐらい、それを突き詰めて考えて向き合って欲しい。
それには、ときには自分を否定しなければならない。
そういうとき、例えばあなたは震えた時に麻原から抱きしめられたそうだけど
だれかに抱きしめてもらいたいようなつらさがある。
中川さんが逃げようとしているのは、その場面を考えたくないからだ。

私の法廷で中川さんが証言してくれたとき、悲しかったのは、あれだけ長いこと一緒にいたのに、
何もお互いのことが分かっていない、ということだった。
もっと分かり合えていたら、(被告同士で法廷に座っている)こんな場面はなかったのではないか、
と思うと麻原が憎らしい。
自分一人の欲望のために若い人たちの人生をメチャメチャにして、
なおかつそれを恥じない麻原が憎い。

でも中川さんが大好きだから

麻原を必要以上にかばわないで話して欲しい。
頑張って、悔いのないようにやってほしい」

この時の林郁夫被告は、「中川さんが大好き」といって泣き崩れました。
その姿を見た中川智正も被告席でそっとポケットからタオルを出して涙をぬぐったとのことでした・・・。

中川智正被告はなぜここで泣いてしまったのか。
後日、関係者にいうには
泣いてしまったのは、林さんがかわいそうだったから
というものでした。

約1か月後の11月29日の中川智正被告公判において、実はまたここで林郁夫被告が
証人出廷をします。(この記事は「読売新聞」1997年11月29日夕刊)

林郁夫被告はあきらめずに
「私たちには何をやったのかしゃべる責任がある」と中川に訴えました。
林郁夫の目をじっと見ながら聞いていた中川智正被告は、一つだけ林郁夫被告に質問したことがあります。
「林さんは淡々と裁判をすすめられている。そろそろ判決が出ると聞いているが、そこらへんの考えを聞いておきたい。
はっきり言えば、林さんにしても僕にしても、判決は甘くない」
それに対して林郁夫被告は
「今、上申書を書いているけど、オウム内のことは思い出したくもない。ほんの数枚書くのに一週間かかることもある。
そういう意味で淡々とはしていない。
自分の出来ることを尽くして、蓄積していくしかない。
極刑になることがあるとしても、私はそれはそれで受け入れていくと思う。
ある弁護士から、面と向かって『死刑になる』と言われた時、
私自身、体が震えたんです。
修行をしてきて、死ぬのは怖くないと思っていたのに」
と丁寧に答えています。

深いやりとりだと思います。
私は、佐木隆三さんの小説だけを読んでいたなら
中川智正被告の林郁夫被告に対する上から目線ぶりに、ブラックかつベンチャー企業で
なぜか威張っている若手社員様を見るような思いがしていたのですが、
それ以上のものがありました。

そして、読売新聞まで見ると・・・。
何だか、佐木隆三さんワールドを超えた深いものを感じます。
どう深いのか・・・。
これは人それぞれだと思います・・・。

なお、映像では、平田満さんが林郁夫被告役で主演のドラマが限界だと思っています。
(実際、2004年にTBSで放送されたとのこと。私はそれを観ていません)


あくまで中川智正は、「生意気なベンチャー若手社員」のままの方が、
演じる若手俳優の精神的負担も少ないはずだから。

本気で演じたなら、おそらくその後の社会生活に支障をきたしてしまう
私は最近いろいろ資料を読んでいて思っている次第です。

僕は二つの世界に住んでいる。

「毎日新聞」1996年7月9日東京夕刊の記事より。
VX襲撃事件の審理に入った中川智正被告に関して。
以下、引用
「柔道で鍛えたがっちりした体を窮屈そうにかがめ、
法廷内にいる知人と目であいさつを交わし、被告席に座った。
事件にかかわっていたことを認めたが、
松本智津夫被告との共謀については、これまで同様触れなかった」
のあとに
僕は二つの世界に住んでいる。
一つは、この世界。もう一つはオウムの世界。
どちらも僕にとっては現実の世界なんだ


中川被告は、関係者にそう語ったことがある。
松本被告への帰依、
教団での生活にこだわりを持ち続け、一方で自分の犯した罪がこの世では到底受け入れられず、
被害者の家族を苦しめていることに強い自責の念があるという。
(中略)中川被告は捜査段階で、
「なぜ数々の事件に関わったかといえば、
教団が決めたことだったから、それに従い行動した。
自分は教団でしか生きていけない人間であり、
教団から逃げ出したとしても生きていくことは出来ないと思った」
と供述している。
医師免許も持ち、世間的に恵まれている若者が、
なぜ「ここでしか生きていけない」という結論を出したのか
中川被告がその「答え」を語る時を待ちたい
(引用おわり)

1、医師免許を持っていれば、世間的に恵まれている、といえるのか。

本当はこの答えは、生きていた時の中川智正さんに質問してほしかったです。
しかし、もう「この世」の人ではないので
残っている言葉などを、こちらがつぎはぎして「語ってもらうしか」ありません。
中川智正さんが生きていてくれたら・・・
と思う研修医の方いらっしゃるのではないかと思います。
中川さん御自身は、林郁夫被告第六回公判にて、弁護側証人として出廷した際語っています。

「医大を卒業して大阪鉄道病院に入り、専門は消化器内科だった。
初めに勉強したのは、胃カメラ・超音波、大腸バリウム透視で、入院患者は20人も30人も担当した。
大病院では若い医師が「戦力だから」
ところが、私は患者を診ていると、患者と同じ状態になる。
精神的にも肉体的にも。1989年5月、とうとう手術室で倒れ、
その時の症状は、名医といわれる人でも診断がつかずしばらく休職したあと、病院をやめてしまった。」
と語っています。

「週刊文春」1995年8月17、24号には、
研修医時代の中川智正について
病院関係者には印象が薄いようだ、と書かれた後で
「中川先生には他に三人の同級生と一緒に来られたのですが、一番目立たない存在でした
。一人の患者さんと、一時間以上も話し込んでいることもあって、
患者さんからの評判はよかったんですけど、
そんなに時間をかけていいのかなという感じもあったし、
他のドクターに比べてもの足りない印象でした。」
との評価でした。
おそらく、それでも、私がこれまで見てきた中川さんのことだから
自分が病院に入って使えない人材と思われていることもよくわかっていただろうし、
その中でも空回りして、全力で頑張っていたのだと思います。

たとえば、「読売新聞」1995年5月24日東京夕刊によると
「おれが患者の手を握ってあげると、苦痛がとれるんだ」
「そのかわり、自分の中に悪いものがたまるから、何リットルもお湯を飲んで体を清める」
ということをするなど、
自分なりには最大の努力をして、
何とか一人前の医者になろうともがき、あがいていました。

しかし、実社会、実務の世界では評価はされません
ましてや、一人の患者と1時間以上も話し込んでいるところなどは、
先輩医師に注意されるところではないかと思います。


例えば、「お前は若いから患者は面白がって話に来ているけど、仕事になってないから
一時間も患者の話聞く暇あるなら、もっとやることあるだろう!

(このあたりは、対人援助職における若い新人の方は覚えがあるでしょう)

患者が亡くなった直後は神妙な顔をしていても、
医局に戻ってくると笑っている。そういう態度が疑問だ

とも中川さん自身は家族に漏らしていたあたりは、
先輩医師のやり方や態度がとうてい自分には受け入れられないとけれど、
恐らくそうでもしないと「やっていけない」のが医師の世界なのだと思います。

そんな中川さん自身の唯一の癒しの場、拠り所がオウム真理教の大阪道場だったのでした。
ここで恋人に「今日の患者はひどかった」と疲れた顔で話しこみ、
「オウムに行かないと体がどうしようもない」
「オウムの道場へ行ってパワーを注入してもらわないと、もたない」
などと言い出しました。
「毎日新聞」1995年9月10日朝刊によると、
病院の退職理由は「突然の失踪」ということです。

中川智正さんは、研修医生活を普通ならば2年やらねばならないところ、
1年ぐらいしか「出来なかった」
そんな自分が社会で生きていけるのか。
他の職業になれるのか。
フリーターにでもなるのか。
なら今まで成績悪かったかもしれないけど自分なりに頑張ってきたことはいったい何なのか・・・。

そんなことを思い詰めていたのかもしれません。
今でこそ、このような記事がネット上に掲載されるようになりました。
医師が先に燃え尽きてしまう

どんなに学力があって医学部、医大にいったとしても、
燃え尽きてしまったら動けなくなります。
そのような側面には当時から世間は見向きもしません。

中川智正さんが出家してから1年後に
オウム真理教附属医院が設立されましたが、
在籍している医師の中には、中川さん同様、研修医さえ終えてない医師がいました。

中川さんとは違うかもしれませんが、
研修医時代の何かに不適応を起こして、オウムに入信するしかないと
思っていた若い医師の卵がやってきていたということは注目点と思います。

オウムだけは、その燃え尽きた、実社会では実務者として「使えない」人材を
医師として待遇してくれる、と期待して・・・。



今でも、毎年このような進学特集が出されます。
医学部に入るのは頭がいい人。
将来金持ち安定という見方と、
医師の使命を崇高なものとしたい世間の常識では
中川智正さんのことは理解されないだろうと思います。

Tu博士でさえ、この部分は理解していなかったと思います。

『サリン事件』の最後の文章
医学部を卒業した将来性のある息子の現状を見る親の悲しみは同情せざるを得ない

2、「尊師は自爆の道を選んでいた」

中川智正さんの住むもう一つの世界、「オウム真理教」ではどうだったのか。
中川智正さんは、「入信前から、尊師がある種の自滅行為をすることはわかっていた」と
語っています。
(「朝日新聞」1998年3月24日)
「私は教団にいたころから、単純に尊師を信じていたのではない」
「尊師に殺されるというような、他の人が感じた恐怖をかんじたことはない。
それとは違って、例えば私を何物だと思うかと尊師に聞かれた時
僕は化け物だと思いますと答えた。そういう恐怖だった。
出来れば関わりたくなかったけれど、
入信前にいろいろと神秘体験をして、普通の社会生活ができないと思ったので
助けてくれという感じで入信した。仕方なかった。
僕としては、その後いろいろなことがあっても、しょうがない、という感じで冷めていた。」

先のエントリーで中川智正さんにエールを送った
豊田亨・広瀬健一・杉本繁郎の3名の公判に出廷した(1997年4月30日)際、
豊田・廣瀬・杉本の三名は、
「松本智津夫を批判する気にもならない」
「いかなる理由でも起こしてはならない犯罪であった」と悔いていたのですが、

証人出廷した中川智正さんは相変わらず

麻原被告が光を発するのが見える」と証言しています。

このブログの今後のエントリーの中で、上に書いたような「神秘体験」の数々を書いていくことにもなりますが
私は書きながら、理解できないです。
でも、通常の社会生活に耐えきれなくなった時に、別の世界を作り出してしまう人間の可能性についてという
捉え方で見るならば、
少し理解できそうかもしれません。