殺害目的はなかった公証役場事務長拉致事件

地下鉄サリン事件の遠因とも評価されている公証役場事務長拉致監禁致死事件。
アンソニー・トゥ博士は、麻酔剤「チオペンタール」を中川智正被告が被害者に注射したこの事件を
一種の科学テロだとも書かれています。(126頁)

公証役場事務長の妹はオウム真理教の信者であったが、脱会しようとして教団から逃亡しました。
教団は「信徒となったのに義務を果たさないので追及するため」に、
兄である仮谷清志氏を誘拐し、妹の居場所を突き止めようとしました。

東京で仮谷氏を誘拐した井上嘉浩、中川智正らは東京から上九一色村へ車で運んだが
仮谷さんを死亡させてしまったというものです。

これは「対話本」に興味深い記述があります。

トゥ博士:「なぜ妹さんの住所を聞き出すために、その兄を誘拐したのですか。
      本人が教団を嫌になったのに、なぜ強引に探し出すのですか」
中川:「その妹は、教団の信徒となったのに義務を果たさないので、
            それを追及するだけのことでした。


トゥ博士が「脱走者を連れ戻すのは教団として当然の話であり、まったく悪いと思っていない」
と中川が答えたことに驚いておられました。

私も改めて驚いた箇所でもありますが、
中川智正さんが特別手配者になったのは、1995年5月12日、
愛知で脱走者を連れ戻すため住居侵入をしようとしたという事件だったのを思い出しました。

中川智正さんだけではなく、教団附属病院に所属する医師たちはこうした脱走信徒を拉致監禁するために
医師の立場を使って麻酔薬を注射したりしていたり、死亡した信徒を火葬まで管理するというような
ことをしていたようです。
「読売新聞」1995年6月8日朝刊によれば、
教団では入信の際に、葬儀は麻原彰晃(本名:松本智津夫)に任せるという趣旨の誓約書もとっていたと
あることから、死亡診断書の作成をしていただろうこともうかがえます。



「読売新聞」1995年5月15日の記事では
教団附属病院所属の医師たちのほとんどが逮捕もしくは指名手配中だと
出身大学まで一覧表にし、彼らは、諜報省のメンバー(井上嘉浩など)と協力し、
教団の非合法活動を支えてきたと見られていると報道していました。

結局は逮捕され医師免許を返上したのは、中川智正と林郁夫のみでした。
(あと出所後に医師免許はく奪者が一名。
その元信者は医師免許を所持していたが、医院附属ではなかった)

教団附属医院は、東京都中野区にありました。
ついでに、あまり知られていないことですが、
中川智正さんは何と「中野区民」だったのでした。
(中川智正さん本人もどこに住民票があるのか分かっていなかったと思います。
本人は7年間富士山麓で生活していたつもりでいたかもしれませんが、
附属医院開設の時に顧問として名前を出す際に住民票が移されてしまっていたのでしょう)
・・・となると、中川智正さんは28年間「東京都民」だったということですかね?

逮捕後、「反省を形にするため」「死刑になるのでもういらない
(麻原第249回公判、2003年2月27日)ということで
自分から医師免許を国に返上したときの手続きで、
初めて中川智正さんの住民票が中野区に登録されていたことが分かったのでした。

本人はおそらくどこに住んでいてもいいという考えでしたが、
医師免許を返上するにあたり折衝に当たったのが、中野北保健所でした。
実家のある岡山市のご両親と連絡をとり、両親が面会の際に本人直筆で署名させて
国に提出したのでした。
中川智正医師免許返上をきっかけに、
オウム真理教附属医院を廃院にすることが出来たのでした。



中野北保健所の職員だった方の貴重な手記です。
医院開設の際も、オウム真理教らしく、提出書類が不備なのを棚に上げて権利を主張してきて
結局開院に至ることとなるし、施設内部も到底医院とは言えない不清潔なものであったこと、
保健所から東京都、厚生省まで書類を上げたりすることに数か月
(中川さん免許返上にしても本人は6月に返上していると言っているけど、
結局国が返上を認めたのは8月。これは書類のやりとりや審査に時間がかかったため。
厚生省の不手際を補うかのような現場の中野北保健所の職員さんたちのマスコミ対応と
国との煩雑な書類のやりとりを乗り切ったチーム力は素晴らしいと思いました。)

話を「対話本」の仮谷さん拉致事件に戻しまして

トゥ博士:「どういう風に仮谷氏に注射して殺したのですか」
中川「これは殺人ではありませんよ。誘拐事件でした。
   裁判の判決結論でも殺人事件ではなく誘拐事件と言っています。」

トゥ博士:「麻酔剤を多く打ちすぎたことによる過失死でしたね」
中川:「違います。多く注射しすぎたのではなく、麻酔の状態が長すぎたのです
   一度に多く注射するのは殺人行為です。
   通常の量を使っていたのですが、麻酔の時間が伸びてしまったのです。
   そのために体内に大量のチオペンタールナトリウムが蓄積し、
   仮谷さんは副作用が起こりやすい状態となり
   その時に私がそばにいなかったために亡くなりました」

この時の中川智正さんは少しムキになって語ったようでした。

さて、この仮谷清志さん拉致監禁致死事件について、教祖の裁判などでは
中川智正さん自身はどのような答え方をしていたのでしょうか。

麻原第166回裁判(2000年9月7日)での証言
(出典は、毎日新聞社会部『名称変更で存続を図る―オウム「教祖」法廷全記録〈6〉2001年。
こちらには、教祖公判142-179回までの記述が掲載されています)



検察官:「拉致事件に関与しましたね」
中川:「はい」
検察官:「いつでしたか」
中川:「平成7(1995)年2月28日の夕方です」
検察官:「車内に仮谷さんを連れ込んだ時、仮谷さんはケガしていましたね」
中川:「頭というか額を打撲して、切れて出血していた。3センチぐらいの傷でした」
検察官:「車を出発させてからどうしたのか」
中川:「仮谷さんのふくらはぎに麻酔薬を打った」
検察官:「何という薬だったのか」
中川:「ケラタール」 
検察官:「通常の量か」
中川:「170ミリグラムぐらい。体重を50キロほどと見積もったので若干少ないかな、という程度」
検察官:「薬を打ったらどうなったのか」
中川:「1分で目の焦点が合わなくなり、2、3分で眠った」
検察官:「それから何かしたか」
中川:「点滴を打った。チオペンタールも投与した」
検察官:「井上嘉浩(被告)が新たな車を借りて戻ってきたときはどうしたか」
中川:「その時使っていたワゴン車と同じ車種だったので、別の車を用意するために出て行った」
検察官:「同じ車種だと、どうなる?」
中川:「目立つという事だった」
検察官:「警察に対して?」
中川:「そういうこともあったかもしれない」
検察官:「仮谷さんの容体はどうだったのか」
中川「息を吸い込んだまま吐かなくなった」
検察官:「何か処置したか」
中川:「体を横向きにしたら呼吸を始めた」

中川智正被告らは上九一色村につくと、治療省トップ林郁夫(当時服役囚)の部屋に仮谷さんを連れていった。
教団を脱会した仮谷さんの妹の居場所を聞き出そうと、
ナルコ(麻酔をかけて半覚醒状態にして情報を聞き出すこと)をかけてほしいと依頼したとのこと。
このあたりの話をしている時の中川智正被告は、肩を回すなどして落ち着きがなかった様子でした。
検察官:「仮谷さんへの睡眠薬の投与量は医者としてどう思うか」
中川:「当時は教団内で非常にたくさん使っていて、多いとは思わなかった。
勉強不足で非常に申し訳ない


※この証言より、当時の教団脱会者や戒律を破った者などの処置に医師免許を信者は
薬物を多用しすぎて、医療行為をすること自体にも麻痺していたことがうかがえます。

検察官:「投与の目的は」
中川:監禁するためです」

検察官:「林郁夫は何か話していたか」
中川:「『多かったですか』と聞いたら、『そんなもんじゃないでしょう』と」
検察官:「ナルコで仮谷さんの妹さんの居場所は分かったのか」
中川:「聞き出せなかった」

検察官:「目覚めたら、また投与すると」
中川:「まあ、そうです。指示があれば帰し、なければ眠らせる。村井(秀夫)さんが
『帰せないかな』といっているのを聞いた。自分もそう思いました。」
検察官:「本当に帰せると思ったの?」
中川:「それは私が決めることではないし・・・」

検察官:「ニューナルコって何ですか」
中川:「頭部に電気を流し、記憶を消す方法です。村井さんは、『帰しても、警察で問題にならないか』と」
検察官:「で、結果は?」

中川:「村井さんは、『やはり帰せない』と
検察官:「村井は、「塩化カリウムを注射してはどうか』と話したが」
中川:「殺害するためと思いました
『(事件の時に来ていた服は)早く燃やした方がいい』とも言われました」

検察官:「村井は戻って来てから何か話しましたか」
中川:「仮谷さんを殺すということで、男性信者に首を絞めさせる、と」

検察官:「どうして麻原の指示と思ったのか」

中川:「村井さんの言っていた話が最初言っていたことから変わったからです

ここで、中川被告は、男性信者を誰か連れてくるよう井上嘉浩被告に電話で伝えるため、仮谷さんのそばから離れたことを
話しました。

検察官:「戻るとどうなっていましたか」
中川:「(仮谷さんは)亡くなっていました。何が起こったのかと、脈を見ました」
検察官:「死因は窒息」
中川:「そうです、(原因は)麻酔薬です」

この次(第167回、2000年9月8日)の麻原公判では、
時期を遡り、滝本弁護士殺害未遂事件に関する尋問でしたが、

ここで、検察側証人として出廷した中川被告は林郁夫被告について、こんな風に表現しています。

麻原弁護人:「(滝本弁護士殺害にあたり)林さんを連れて行こうと思った理由は」
中川:「何となく不安があった。
試験の時にお守りを持っていくのと同じで、いてくれると安心する
また、(実行役の女性が誤ってサリンを吸ったときに)私が治療したら怒られると思った」
麻原弁護人:「なぜそう思ったのか」
中川:「私は麻原さんから女性に甘いと言われ、
女性に治療をして楽しんでいる
と見られていた」

結局この事件の時には林郁夫被告とは合流に失敗しています。

当時、麻原は林郁夫が信徒の拉致に失敗していることを挙げ、
中川に『あいつは心が弱いから積極的に使え』と言っていました。

中川智正さんと林郁夫さん、教団内において、同じ医師同士の関係ですが、
中川智正さんは、研修医途中で教団に出家しているため、医療技術に自信が今一つもてなかったようです。
心臓外科医としてのキャリアを持つ林郁夫さんの医療技術を信頼し、頼っていたことがわかります。

ぞのような中川智正さんの医療技術を未熟と感じた林郁夫さんは、
教団内でも麻酔薬の大量投与による信徒死亡例があるにも関わらず、
中川に情報共有しようとはしなかったこと、
仮谷さん事件でも責任を中川智正さんに押し付ける傾向があるらしく、
中川智正さんは
治療省の人間に聞いてほしい。
林さんがしていたこと、事実が明らかになる。
仮谷さんが狭心症を患っていると知って不安になって中川が林に相談した時、林は「大丈夫でしょう」といったから
ナルコを始めた、林さんが心臓の専門家だから信頼したのに
」という内容の不満を漏らしました。
(このあたりの記述は、降幡賢一『オウム法廷』12)



中川智正さんは坂本弁護士一家殺害事件での殺人経験
教祖や村井に買われてしまったのだと思います。
それが教団内での序列にも影響していたのでしょう。

なお、殺人経験の面では、青山弁護士や遠藤誠一さんは教団に大切にされていたので、
殺人現場に行かない人だったと、中川智正被告は答えています。
(この部分は、麻原第166回公判)
中川智正さん自身は、殺人経験が教団に買われたため、
その後の事件でも使われてしまっていたことを自分でも意識はしていたけれど、
やはり殺人行為は嫌だったということがわかります。

中川智正さんは、教団附属医院顧問の肩書はあれど、
他の医師免許を持つ信徒でさえ、何をしているのかわからないことが多々あったようでした。
「くったくのない、子供ような明るさがある人でした。
でも何をやっているのか私たちにも分かりませんでした。
時々、『借りていくね』と注射器をもっていったことはありましたが、
何に使うかもわからないし、特別なワークがあるんだろうな
と思っていました」
とは、元信者の言葉です。(出典:『週刊文春』1995年8月17-24)

仮谷清志さん拉致監禁致死事件を裁判の記述で改めてみると、
最初は拉致して居場所を聞き出すことで精一杯なところに、
突然、麻原の意を受けた村井の一声で
殺害するという方向に転換したことが分かりました


私が1995年のこの事件を当時テレビや新聞で見た時には、オウム真理教の恐ろしさ、カルト宗教の恐怖さを
まず第一に感じたものでした。
自分は絶対にカルトには関わらない自信をもってテレビ番組を見ていたことを思い出します。

それから23年経った今、こうして毎日新聞社会部の公判を読み直すと、
オウム真理教の計画の立て方の行き当たりばったりさに目がいってしまいます。
それは、まるでどこかの企業での人使い(直接手を下す殺人までには至っていないけど)
の酷さによる自殺事件や労働トラブルを想起させるものです。

毎日、我が国の組織のどこかであるようなことでは・・・。
当初の計画が倒れて、それを埋めるために人を酷使し、組織も人も破滅に至る。

だから、中川智正さんの証言を読んで、
中川さんが冷酷とも曖昧模糊だとも思えなくなっている自分がいます。

自分自身もまた、組織の歯車として、派遣社員としていくつかの企業の末端に連なり、
日々人間扱いされないことに慣れてしまっているから。

オウム真理教は、我が国全体よりも20年先を行っていたのではないか?と

中川智正さんと、私との絶対的な違いとは・・・

麻原第180回公判(2001年1月11日)
(こちらは、毎日新聞社会部『検察側立証すべて終了―オウム「教祖」法廷全記録〈7〉2002年)

弁護人:「仮谷さんの呼吸が止まっていたことに気づいた時、何が異常だと思いましたか」
中川:「私は人が死んだとき、わかるんです
あれ、おかしいな。誰かなと思っていたんですが、仮谷さんが亡くなっていたのです。」
弁護人:「どういう感じですか」
中川:「光が床に降ってくるんです
その時は別の信者と話していて、仮谷さんが亡くなったとは思っていなかったので、あれとおもったのです」

この感覚が私にはない、ということです。

これが、のちに佐々木雄司先生らによって
「感応性精神病」「巫病」と判定され、
信仰と科学の谷間に陥ってしまった一人の人間の姿なのだと、
とりあえず受け止めておきます。

「中川さんが大好きだから」と泣き崩れた林郁夫被告

中川智正さんと林郁夫さん(現在服役囚)の共通点は
医師であるということでしょう。
この二人の関係はどのようなものだったのでしょうか。

一番想像しやすいのが、佐木隆三著『慟哭ー小説・林郁夫裁判」において
林郁夫裁判に検察側証人として出廷したときの中川智正の次の証言内容でしょう。
(1996年12月17日 林郁夫第8回公判)



「長い間お世話になりました。
まぁ、同じ釜のメシを何年も食ったわけですから、
私と林さんにしかわからない気持ちもたくさんあると思います。
私の立場としては、今の自分の境遇から、尊師との関係をふくめて出直したいと思っている。
そうして修行することによって、いったい麻原彰晃とは何者かを、考えてみるつもりです。
正直いって私は、林郁夫さんを扱いかねているところがあった。
年齢、医師としての経験、縁の深さ。
教団の先輩として、林さんに対して宗教的な指示を、与えなければならなかったのです。

林さんが苦しんでいる気持ちは理解することができます。
非常に苦しんで、悲しみの感情を怒りに変えていらっしゃる部分がある。
思うようにやられるといいけれども、やはり林さんは、怒りを尊師に向けている。
(中略)
怒りの感情を静めて、なぜ自分自身がこうなったかを考えるエネルギーに役立てていただきたい。
怒りを外へ向けると、結局は林さん自身を傷つけると思うからです。
尊師に対して怒っているから、こんなことをいうのではありません。
まぁ、林さんにはお世話になりました。お元気で」

「年下で医師の経験もない中川智正に、年上で医師の経験も豊富な心臓外科医が
無茶苦茶な指示をだされている。よくあるベンチャーでブラック企業にありがちな
関係」というところかと思います。

医師としてのキャリアを比較してみると
中川智正
京都府立医科大学時代、飲んで遊んで学長に呼び出されたり、留年乗り切ればいいという感じで何とか卒業。
医師国家試験の時からストレスを溜め、オウムの道場に通う。
病院に就職し、研修医生活中、いよいよ社会生活を送るのが無理と絶望し、
オウムにお世話になりたく出家。

林郁夫
慶応義塾高等学校のころ医師を目指し、慶応義塾大学医学部に進学

      
※慶応高校から慶応大学医学部に進学するのは成績が上位でないと無理。
 医学部を目指しながら慶応医学部に進学が無理と分かった時点で
 他大医学部受験に切り替える慶応高校生もいる。

医学部卒業後、心臓外科を選ぶ。(研修医時代は普通に2年乗り越えている。)
済生会宇都宮病院、慶応義塾大学病院をへて国立療養所晴嵐荘病院循環器科の初代医長となる。
1990年5月出家。

研修医途中で挫折した中川
医師としてのキャリアを積み、
一つの病院の循環器科を育て上げた成果を認められ医長まで務めた林とは
キャリアはあまりにも違う。
ただ数か月中川の方が出家が早く、教祖に気に入られていたというだけで、
教団内では中川智正の方が上司でした。
それに対して、他の信者もそうだったように、林郁夫にしても疑問を抱くことはなかったようです。

なお、この林被告公判において、林郁夫は、中川に仮谷清志さん拉致事件のことを聞きたかったのだが、
中川は証言を拒絶しています。

中川智正さんとしては、もうこれで林郁夫と会うのも最後にしたい気持ちもあったかと思うような
やりとりでしたが・・・

なんとこのあと、1年後
さらに
再会があるのです

中川智正公判において、検察側証人として林郁夫が出廷するのです。
1997年10月30日のことでした(「朝日新聞」1997年10月31日朝刊)。

林郁夫が中川智正に対し
「あなたも申し訳ない、という気持ちを表現しようとしているけれど、
全身で震えていたその場面に立ち戻るべきだと
思う。人を殺した場面の、相手の声とか動作とかをしっかり思い出して、
もっともっと、自分の気が狂うぐらい、それを突き詰めて考えて向き合って欲しい。
それには、ときには自分を否定しなければならない。
そういうとき、例えばあなたは震えた時に麻原から抱きしめられたそうだけど
だれかに抱きしめてもらいたいようなつらさがある。
中川さんが逃げようとしているのは、その場面を考えたくないからだ。

私の法廷で中川さんが証言してくれたとき、悲しかったのは、あれだけ長いこと一緒にいたのに、
何もお互いのことが分かっていない、ということだった。
もっと分かり合えていたら、(被告同士で法廷に座っている)こんな場面はなかったのではないか、
と思うと麻原が憎らしい。
自分一人の欲望のために若い人たちの人生をメチャメチャにして、
なおかつそれを恥じない麻原が憎い。

でも中川さんが大好きだから

麻原を必要以上にかばわないで話して欲しい。
頑張って、悔いのないようにやってほしい」

この時の林郁夫被告は、「中川さんが大好き」といって泣き崩れました。
その姿を見た中川智正も被告席でそっとポケットからタオルを出して涙をぬぐったとのことでした・・・。

中川智正被告はなぜここで泣いてしまったのか。
後日、関係者にいうには
泣いてしまったのは、林さんがかわいそうだったから
というものでした。

約1か月後の11月29日の中川智正被告公判において、実はまたここで林郁夫被告が
証人出廷をします。(この記事は「読売新聞」1997年11月29日夕刊)

林郁夫被告はあきらめずに
「私たちには何をやったのかしゃべる責任がある」と中川に訴えました。
林郁夫の目をじっと見ながら聞いていた中川智正被告は、一つだけ林郁夫被告に質問したことがあります。
「林さんは淡々と裁判をすすめられている。そろそろ判決が出ると聞いているが、そこらへんの考えを聞いておきたい。
はっきり言えば、林さんにしても僕にしても、判決は甘くない」
それに対して林郁夫被告は
「今、上申書を書いているけど、オウム内のことは思い出したくもない。ほんの数枚書くのに一週間かかることもある。
そういう意味で淡々とはしていない。
自分の出来ることを尽くして、蓄積していくしかない。
極刑になることがあるとしても、私はそれはそれで受け入れていくと思う。
ある弁護士から、面と向かって『死刑になる』と言われた時、
私自身、体が震えたんです。
修行をしてきて、死ぬのは怖くないと思っていたのに」
と丁寧に答えています。

深いやりとりだと思います。
私は、佐木隆三さんの小説だけを読んでいたなら
中川智正被告の林郁夫被告に対する上から目線ぶりに、ブラックかつベンチャー企業で
なぜか威張っている若手社員様を見るような思いがしていたのですが、
それ以上のものがありました。

そして、読売新聞まで見ると・・・。
何だか、佐木隆三さんワールドを超えた深いものを感じます。
どう深いのか・・・。
これは人それぞれだと思います・・・。

なお、映像では、平田満さんが林郁夫被告役で主演のドラマが限界だと思っています。
(実際、2004年にTBSで放送されたとのこと。私はそれを観ていません)


あくまで中川智正は、「生意気なベンチャー若手社員」のままの方が、
演じる若手俳優の精神的負担も少ないはずだから。

本気で演じたなら、おそらくその後の社会生活に支障をきたしてしまう
私は最近いろいろ資料を読んでいて思っている次第です。

僕は二つの世界に住んでいる。

「毎日新聞」1996年7月9日東京夕刊の記事より。
VX襲撃事件の審理に入った中川智正被告に関して。
以下、引用
「柔道で鍛えたがっちりした体を窮屈そうにかがめ、
法廷内にいる知人と目であいさつを交わし、被告席に座った。
事件にかかわっていたことを認めたが、
松本智津夫被告との共謀については、これまで同様触れなかった」
のあとに
僕は二つの世界に住んでいる。
一つは、この世界。もう一つはオウムの世界。
どちらも僕にとっては現実の世界なんだ


中川被告は、関係者にそう語ったことがある。
松本被告への帰依、
教団での生活にこだわりを持ち続け、一方で自分の犯した罪がこの世では到底受け入れられず、
被害者の家族を苦しめていることに強い自責の念があるという。
(中略)中川被告は捜査段階で、
「なぜ数々の事件に関わったかといえば、
教団が決めたことだったから、それに従い行動した。
自分は教団でしか生きていけない人間であり、
教団から逃げ出したとしても生きていくことは出来ないと思った」
と供述している。
医師免許も持ち、世間的に恵まれている若者が、
なぜ「ここでしか生きていけない」という結論を出したのか
中川被告がその「答え」を語る時を待ちたい
(引用おわり)

1、医師免許を持っていれば、世間的に恵まれている、といえるのか。

本当はこの答えは、生きていた時の中川智正さんに質問してほしかったです。
しかし、もう「この世」の人ではないので
残っている言葉などを、こちらがつぎはぎして「語ってもらうしか」ありません。
中川智正さんが生きていてくれたら・・・
と思う研修医の方いらっしゃるのではないかと思います。
中川さん御自身は、林郁夫被告第六回公判にて、弁護側証人として出廷した際語っています。

「医大を卒業して大阪鉄道病院に入り、専門は消化器内科だった。
初めに勉強したのは、胃カメラ・超音波、大腸バリウム透視で、入院患者は20人も30人も担当した。
大病院では若い医師が「戦力だから」
ところが、私は患者を診ていると、患者と同じ状態になる。
精神的にも肉体的にも。1989年5月、とうとう手術室で倒れ、
その時の症状は、名医といわれる人でも診断がつかずしばらく休職したあと、病院をやめてしまった。」
と語っています。

「週刊文春」1995年8月17、24号には、
研修医時代の中川智正について
病院関係者には印象が薄いようだ、と書かれた後で
「中川先生には他に三人の同級生と一緒に来られたのですが、一番目立たない存在でした
。一人の患者さんと、一時間以上も話し込んでいることもあって、
患者さんからの評判はよかったんですけど、
そんなに時間をかけていいのかなという感じもあったし、
他のドクターに比べてもの足りない印象でした。」
との評価でした。
おそらく、それでも、私がこれまで見てきた中川さんのことだから
自分が病院に入って使えない人材と思われていることもよくわかっていただろうし、
その中でも空回りして、全力で頑張っていたのだと思います。

たとえば、「読売新聞」1995年5月24日東京夕刊によると
「おれが患者の手を握ってあげると、苦痛がとれるんだ」
「そのかわり、自分の中に悪いものがたまるから、何リットルもお湯を飲んで体を清める」
ということをするなど、
自分なりには最大の努力をして、
何とか一人前の医者になろうともがき、あがいていました。

しかし、実社会、実務の世界では評価はされません
ましてや、一人の患者と1時間以上も話し込んでいるところなどは、
先輩医師に注意されるところではないかと思います。


例えば、「お前は若いから患者は面白がって話に来ているけど、仕事になってないから
一時間も患者の話聞く暇あるなら、もっとやることあるだろう!

(このあたりは、対人援助職における若い新人の方は覚えがあるでしょう)

患者が亡くなった直後は神妙な顔をしていても、
医局に戻ってくると笑っている。そういう態度が疑問だ

とも中川さん自身は家族に漏らしていたあたりは、
先輩医師のやり方や態度がとうてい自分には受け入れられないとけれど、
恐らくそうでもしないと「やっていけない」のが医師の世界なのだと思います。

そんな中川さん自身の唯一の癒しの場、拠り所がオウム真理教の大阪道場だったのでした。
ここで恋人に「今日の患者はひどかった」と疲れた顔で話しこみ、
「オウムに行かないと体がどうしようもない」
「オウムの道場へ行ってパワーを注入してもらわないと、もたない」
などと言い出しました。
「毎日新聞」1995年9月10日朝刊によると、
病院の退職理由は「突然の失踪」ということです。

中川智正さんは、研修医生活を普通ならば2年やらねばならないところ、
1年ぐらいしか「出来なかった」
そんな自分が社会で生きていけるのか。
他の職業になれるのか。
フリーターにでもなるのか。
なら今まで成績悪かったかもしれないけど自分なりに頑張ってきたことはいったい何なのか・・・。

そんなことを思い詰めていたのかもしれません。
今でこそ、このような記事がネット上に掲載されるようになりました。
医師が先に燃え尽きてしまう

どんなに学力があって医学部、医大にいったとしても、
燃え尽きてしまったら動けなくなります。
そのような側面には当時から世間は見向きもしません。

中川智正さんが出家してから1年後に
オウム真理教附属医院が設立されましたが、
在籍している医師の中には、中川さん同様、研修医さえ終えてない医師がいました。

中川さんとは違うかもしれませんが、
研修医時代の何かに不適応を起こして、オウムに入信するしかないと
思っていた若い医師の卵がやってきていたということは注目点と思います。

オウムだけは、その燃え尽きた、実社会では実務者として「使えない」人材を
医師として待遇してくれる、と期待して・・・。



今でも、毎年このような進学特集が出されます。
医学部に入るのは頭がいい人。
将来金持ち安定という見方と、
医師の使命を崇高なものとしたい世間の常識では
中川智正さんのことは理解されないだろうと思います。

Tu博士でさえ、この部分は理解していなかったと思います。

『サリン事件』の最後の文章
医学部を卒業した将来性のある息子の現状を見る親の悲しみは同情せざるを得ない

2、「尊師は自爆の道を選んでいた」

中川智正さんの住むもう一つの世界、「オウム真理教」ではどうだったのか。
中川智正さんは、「入信前から、尊師がある種の自滅行為をすることはわかっていた」と
語っています。
(「朝日新聞」1998年3月24日)
「私は教団にいたころから、単純に尊師を信じていたのではない」
「尊師に殺されるというような、他の人が感じた恐怖をかんじたことはない。
それとは違って、例えば私を何物だと思うかと尊師に聞かれた時
僕は化け物だと思いますと答えた。そういう恐怖だった。
出来れば関わりたくなかったけれど、
入信前にいろいろと神秘体験をして、普通の社会生活ができないと思ったので
助けてくれという感じで入信した。仕方なかった。
僕としては、その後いろいろなことがあっても、しょうがない、という感じで冷めていた。」

先のエントリーで中川智正さんにエールを送った
豊田亨・広瀬健一・杉本繁郎の3名の公判に出廷した(1997年4月30日)際、
豊田・廣瀬・杉本の三名は、
「松本智津夫を批判する気にもならない」
「いかなる理由でも起こしてはならない犯罪であった」と悔いていたのですが、

証人出廷した中川智正さんは相変わらず

麻原被告が光を発するのが見える」と証言しています。

このブログの今後のエントリーの中で、上に書いたような「神秘体験」の数々を書いていくことにもなりますが
私は書きながら、理解できないです。
でも、通常の社会生活に耐えきれなくなった時に、別の世界を作り出してしまう人間の可能性についてという
捉え方で見るならば、
少し理解できそうかもしれません。