武藤章中将著「山下奉文小伝」

山下奉文大将に関する伝記で最も古いものは
おそらく沖修二『山下奉文』(山下奉文記念会編 1958)だと思います。

しかし、その元となった伝記があることは
あまり知られてないかもしれません。

フランク・リール『山下裁判〈上〉』 (1952年)に掲載されている
武藤章中将が山下裁判の時に弁護団(フランク・リール大尉たち)のために書いた短い伝記が一番古いものだと思います。
※書物になった時の文章は、武藤が書いた文章が英訳されて、フランク・リール大尉が書物にしたものとなり、
その後日本で許されて出版される際に訳者となった下島連氏が和訳したものです。
よって武藤章中将が裁判の時に書いた時の文言とは相違もあるかもしれません。
けれど、文章が上手いと評判の武藤中将らしさ?が私には伝わるように思います。

武藤章中将の「山下奉文小伝」には、少年時代の山下さんに関する記述があります。

私はこの文章を読んでいたので、「杉の大杉」に行く時に、この文章が頭に浮かんできて、目にする風景を重ね合わせて楽しんでいました。

例えばJR大杉駅前の川を見ながら、こんなところで少年時代の山下さんは水遊びしていたのかな?とか。

JR大杉駅(土讃線)駅舎です。

大杉駅舎

すぐに穴内川(あないがわ)が流れてます。澄んでます。

穴井川

ここが旧邸跡です。

山下奉文旧邸跡

旧邸跡を見ながら、お祖父さんとの菊作りのやりとりはここだったのか?とか妄想していました。

杉の大杉(八坂神社)近くの美空ひばりの碑

美空ひばりの碑

その文章はこんな書き出しでした。

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 山下奉文は、1885年12月8日四国のある小村の質朴な田舎医者の子として平民の家に生まれた。
その村は吉野川の上流の盆地にあって、四国の背骨として島の中央を走っている峨々たる山に取り囲まれていた。
 げに幼児こそは大人の父である。
誕生の場所と幼年時代は、未来の将軍の人格と性格の形成に大きな関係を持った。
近代文明の騒音から遮断された山間地方の孤立した静けさに抱かれて、少年奉文はのびのびした、健康な平和的な若者に成長した。
ー青竹を割ったような気質、開け放し、率直、勤勉、直情径行、これらは彼の今日の性格の基礎をなすものである。
 
 周囲の山は濃い緑の草木におおわれ、その間を無数の水晶のように澄んだきらきら輝く小川が縫っていた。
村人たちは世間擦れのした、金銭慾旺盛な都市住民のずるさやたくらみが全くなく、素朴で親切な、満足しきった人々だった。
実に奉文はその形成期をこの自然美と調和の環境、平和と満足の中ですごしたのである。
 山下奉文はのんきな、健康な、肉体的にも精神的にも敏活な少年だった。
彼はひまさえあれば、山や野原を歩きまわっていた。そのために両親と教師、特に教師はいくぶん心配したほどだった。
 
   彼の祖父は、素晴らしい菊を作っていて、毎年適当な季節に、最も優秀な品種の芽をつんで、よく地ならしした苗床に丁寧に植えた。
毎朝、自分で若芽に水をやり、細心に観察するのが、老人の仕事だった。ある年例によって芽を摘んで植えたが、根がつかなかった。

・・・不思議なことに、さし芽は次から次へと枯れた。
菊作りの名人は途方にくれてある朝、早く出て行くと、
孫が立入禁止の畑で、残っている芽を一つ一つ引っこ抜いては根を調べ、植えなおしているではないか。

 物も言えないほど驚いた老人は、すぐそれをやめさせ、この乱暴な行為を厳しく叱責した。ところが返事はこうだった。

「お爺さんは芽に水をやると根が出るとおっしゃいました。僕は毎朝根が出るのを待っていたのです」

  祖父は孫の澄んだ、ビクともしない目を見つめた。
それから、おだやかな態度で気に入っている品種の芽を彼に与えて、この自然児に、実験を続けさせた。
この公明正大さと知的好奇心はいつも同僚や競争者から際立っている彼の特徴だった。
 
  少年奉文は、自然を愛することを学び、自然も、また彼に多くのことを教えたとは言え、
彼は勉強を顧みなかったので、村の小学校で好成績をあげることができなかった。
彼の優しい母親は非常に心配した。
そして、祖母は時々少年を自分の室へ呼んで長々といましめた。しかし、その効果はなかった。
奉文は落第したことはなかったが、一度も優等賞をもらえなかった。
しかし、この田舎少年が、村から四十二キロ離れた町の中学校へやられると、成績が急に良くなって、
学年が終わった時、彼は誇らしげに帽子に優等生のメダルをつけて家へ帰った。
母親は非常に安心した。祖母はかわいい孫をうれし涙で迎えた。
(中略)
山下奉文大将の人柄と性格は、彼の天性、彼の教育と鍛錬、彼の軍人としての閲歴の綜合的産物である。

山下大将の性格を分析するにあたって自然の基本的法則であり、
彼の少年時代、青年時代の山と川と林に示されている調和と秩序を見逃すことはできない。
不和と貪慾は大将が最も憎んだ人性であり、
彼の同胞の中で、彼ほど飾り気や気取りがなく、世俗的野心にわずらわされなかった者は少ない。
・・・人間に対する深い信頼感は純粋で善良な人のみが持つ特質で、
この人物の広い心と高潔な性格に触れる幸運な機会を持った者は、たちまち、この真理を発見する。」

裁判中で、かつ抑留中なのに、武藤章中将はよくこの文章(中略部分は山下大将の軍歴)をかけたなあと思います。
ただでさえ裁判で疲れているのに、文章を書くというのは・・・。どれだけメンタル強い人なのだと
改めて思います。
そして、この内容をきちんと山下大将本人から聞き出して物語にするという文章力、
当時52歳だった武藤章中将の仕事力はすごいものだったと思います。

「武藤は政治家にでもなる素質がある・・・」

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写真は、昭和14年、北支那方面軍参謀副長時代の武藤章少将(天津英仏租界事件の際に東京にやってきたとき
朝日新聞が撮影)

これは、停戦後、俘虜生活中(まだ戦争裁判の前)に
身の回りのお世話をしていた元参謀・一木千秋少佐に
山下大将が言っていたことです。

出典:一木千秋 著 ; 吉田勉 編 『アシンー回想の比島戦』(早稲田速記 1999)

山下さんは武藤参謀長を密かに?
「政治家にでもなる素質がある」と評価していたのだと
すごく意外に思うのではないでしょうか。

山下さんは、まず人を評価するに「あれはこうこうで、ダメなやつ」というそうです。
(おそらく「床屋漫談的」に毒舌がきつい人なんだろうなと思いますが
私はその毒舌ぶりを資料で読んでは、
ひとりほくそ笑んでいますε=ヘ( .∀・)ノ.∀・).∀・)ノ゙アヒャヒャヒャ)
同郷(高知県)の政治家濱口雄幸のことも「ダメなやつ」と連発していたとのことです。

そんな山下大将が、自分の参謀長でもあった
武藤中将をそう評価していたんだなあ・・・、と。
山下大将こそ、「総理大臣になってほしい!」という声が
特に青年将校たちからあがるぐらいではありました。
一方で武藤さんは「無徳」(ムトク)と言われるほど
人望がないという評価を下されがちであるのですが・・・。

一番武藤中将を信頼していた山下大将の武藤中将の人物評価として
こんなことを言っていたというのは
山下将軍自身の現在でも誤解されている言動の数々を考えたりするのに
役にたつのではないかなあと、以前から思っていたところです。

例えば「岡田(首相)なんてぶちぎれ!」と青年将校たちに言ったことなど・・・。

昭和20年8月15日前後の山下軍司令部

毎年、今の時期になると、テレビでは「終戦記念日」シリーズの番組が放映されているようです。
しかしながら、私はテレビは見ないので、もっぱらFacebookやTwitterなどで、大体どんな内容だったのかな?
とつかむだけでした。
もっとも、今年はそんなゆとりもなかったですが。
本当は「九段会館」ネタを書きたかったけれど、労働で疲労している中で、
頑張って、酷暑の中休日にまで東京に行って資料の確認するのも体力的に無理です。
よって、今回は8月15日前後の山下大将・武藤参謀長の行動について書いてみたいと思います。

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この写真は、バギオ(フィリピンの観光地であるけど、もう野戦生活に入ったころで
二人ともゴルフクラブを杖かわりにして持っているところから、戦況の厳しさが伝わってきます。
当初の司令部があったマニラ郊外の豪奢な司令部を率先して離れることで、
隷下部隊に、戦況の厳しさを示す意図もありました)での一コマでありますが、
二人とも、厳しい戦況の中でも穏やかな表情で、互いを信頼し合っている雰囲気が
伝わってきます。私個人は、このツーショットも好きな写真の一つであります。

参考文献は以下になります。

山下大将・武藤参謀長が、停戦を知ったのは、8月14日のことでした。
海軍側からの情報でした。当時の海軍は、陸軍とともに行動していました。

武藤参謀長たちは、ポツダム宣言なるものを受諾したことは承知したが、
ではそのポツダム宣言とは何か、ということはまったく理解していなかったとのことでした。
その数日前から、アメリカ軍の飛行機からは日本の降伏を知らせるビラが落ちてきたとのことでしたが、
武藤さん自身は、その情報を信じたくなかったとのこと。

武藤さんの理性では、一年前にサイパンが奪われたときに負けを確信していたが、
この8月15日フィリピンの山奥での感情では、
「敗戦を信じたくなかった
この日のフィリピン・プログ山の大和基地では、秋雨が降っていたと。
それを武藤さん自身は生涯忘れることがない、と書かれています。

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この地図を見ると、全ての方面より敵の米軍から包囲されていることが
よくわかります。
米軍は山が苦手だということを理解していた山下軍司令官は、とにかく高い山へと登って
何とか戦うことしかできなかった。
日本側も戦死よりはむしろ餓死者、戦病死者を多数だしながらも、
十分な医薬も食糧もなかったこと。
兵隊が死んでいるのを毎日目にするのはどんなにつらかったことだろうと
思いました。

停戦の情報をいち早く入手してきたのが、
『運命の山下兵団』を著した栗原賀久(よしひさ)中佐でした。
栗原参謀自身は、その情報を伝えたあとのことをこんなふうに書かれています。

「気持ちも身体も泥のように疲れて、そのままそこへへたばってしまいたい気持ちであった。
負けた。負けた・・・。たちまち血汐が沸き上がってくるのを感じた。
しかし、その後で何よりも一番本心らしいものは、
なんといってもほっとした気持であった。
恥ずかしいかもしれないが、実感であった」と

その気持ちのまま、まずは武藤参謀長に申告に行った。
武藤さん自身も実は気持ちの動揺が沸き上がってきながらも、
部下の参謀からみた限りでは、平然としていつもと同じだったとのこと。
幕僚たちに、自分の心中を見せまいと努力していたと思います。

武藤参謀長は、まず宇都宮直賢参謀副長(少将)らを呼び、
次のことをとりあえず決められました。

●全比島にある日本軍に、命令を徹底せしむること
●軍紀・風紀を厳粛にして、皇軍最後の面目を発揮
●患者・一般邦人をもれなく山岳地から救出する
●兵器・弾薬・機密文書の処置
●停戦期間中における食糧の処置

このあと、各参謀たちは自分たちの寝所に戻ったが、
武藤参謀長と山下大将は、深夜までいろいろ話し合ったとのこと。

こうなった上は、一人でも多く生還させることが、我々に課せられた
責務で最後のご奉公だということに一致したそうです。

そのあと、栗原参謀の手記には興味深いことが書かれています。

武藤参謀長が山下大将の小屋をでると、そこには山下大将の専属副官・樺沢大尉が歩哨をしていた。
その樺沢大尉にむかって

「おい、樺沢。今晩は気をつけてくれよ」
「はい、わかっています。」

「分かってる?何が分かっているんだ?」
「はい、これでしょう?」

樺沢副官は真剣な面持ちで、手で腹を切るしぐさをしてみせた。
すると、武藤参謀長は、はじめてにっこり笑い
「うん、そうだ。よろしく頼むぞ!」
そしてくるりと背を向けると、足の短い蟹股で自分の小屋に帰っていったと。

それから樺沢副官が山下大将の小屋に入って、黙って隅の腰掛に腰を下ろしました。
山下大将は、じろりと見ただけで、何も言わなかった
毛布をかぶりかけた大将が、副官を振り返り

「おい、もう帰って寝ていいよ」

といったが、樺沢副官は少しも離れようとはしなかった。

「閣下、今晩はここにおかしてください!」

「おい樺沢、心配するな。俺は決して自分一人で行きやせんから。
ルソンにいる兵隊を内地に返す大任が、まだ俺には残っているんだ
今更俺一人が死んだって、どうにもならんよ。
いいから、安心して、寝ろ寝ろ」

山下大将は、世間的には「マレーの虎」と渾名され
剛将と見られているけれど、
実は、感情的になる部分があることを、最も身近にいる
専属副官や、参謀長にはお見通しであったのではないでしょうか?

武藤参謀長は、長年の山下大将との付き合いで、
山下大将の責任感は強いけど、感情的に脆い部分を
しっかりとありのまま受け止めていたと思います。

山下さんは「俺が死ねばいいのだろう?」ぐらいのことを武藤さんに
話していたのかもしれません。
だから武藤さんは、万が一、山下司令官が一人で切腹されたらと心配して
念には念をいれて、山下大将の専属副官にもしっかり言い含めていたのではないか。

一方山下大将も、自分の弱さを見せられるのは武藤参謀長と信頼していたので、
樺沢副官が小屋に入って寝ずの番を決め込んだのも
武藤参謀長が言い含めたことも、自分の専属副官が自らの直感より
山下大将が自決しないように見張りにきたことを察知していたと
思います。
そこで、「ルソンにいる兵隊たちを内地に返す大任がある」と副官にいうことで
安心させたのではないでしょうか。

私は、ここで自決をしなかった山下大将は、すごい人だと思います。
こういうのって、敗軍の将の言動だったりするので、あまり顧みられることは
ないように思うのですが。