武藤章中将著「山下奉文小伝」

山下奉文大将に関する伝記で最も古いものは
おそらく沖修二『山下奉文』(山下奉文記念会編 1958)だと思います。

しかし、その元となった伝記があることは
あまり知られてないかもしれません。

フランク・リール『山下裁判〈上〉』 (1952年)に掲載されている
武藤章中将が山下裁判の時に弁護団(フランク・リール大尉たち)のために書いた短い伝記が一番古いものだと思います。
※書物になった時の文章は、武藤が書いた文章が英訳されて、フランク・リール大尉が書物にしたものとなり、
その後日本で許されて出版される際に訳者となった下島連氏が和訳したものです。
よって武藤章中将が裁判の時に書いた時の文言とは相違もあるかもしれません。
けれど、文章が上手いと評判の武藤中将らしさ?が私には伝わるように思います。

武藤章中将の「山下奉文小伝」には、少年時代の山下さんに関する記述があります。

私はこの文章を読んでいたので、「杉の大杉」に行く時に、この文章が頭に浮かんできて、目にする風景を重ね合わせて楽しんでいました。

例えばJR大杉駅前の川を見ながら、こんなところで少年時代の山下さんは水遊びしていたのかな?とか。

JR大杉駅(土讃線)駅舎です。

大杉駅舎

すぐに穴内川(あないがわ)が流れてます。澄んでます。

穴井川

ここが旧邸跡です。

山下奉文旧邸跡

旧邸跡を見ながら、お祖父さんとの菊作りのやりとりはここだったのか?とか妄想していました。

杉の大杉(八坂神社)近くの美空ひばりの碑

美空ひばりの碑

その文章はこんな書き出しでした。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 山下奉文は、1885年12月8日四国のある小村の質朴な田舎医者の子として平民の家に生まれた。
その村は吉野川の上流の盆地にあって、四国の背骨として島の中央を走っている峨々たる山に取り囲まれていた。
 げに幼児こそは大人の父である。
誕生の場所と幼年時代は、未来の将軍の人格と性格の形成に大きな関係を持った。
近代文明の騒音から遮断された山間地方の孤立した静けさに抱かれて、少年奉文はのびのびした、健康な平和的な若者に成長した。
ー青竹を割ったような気質、開け放し、率直、勤勉、直情径行、これらは彼の今日の性格の基礎をなすものである。
 
 周囲の山は濃い緑の草木におおわれ、その間を無数の水晶のように澄んだきらきら輝く小川が縫っていた。
村人たちは世間擦れのした、金銭慾旺盛な都市住民のずるさやたくらみが全くなく、素朴で親切な、満足しきった人々だった。
実に奉文はその形成期をこの自然美と調和の環境、平和と満足の中ですごしたのである。
 山下奉文はのんきな、健康な、肉体的にも精神的にも敏活な少年だった。
彼はひまさえあれば、山や野原を歩きまわっていた。そのために両親と教師、特に教師はいくぶん心配したほどだった。
 
   彼の祖父は、素晴らしい菊を作っていて、毎年適当な季節に、最も優秀な品種の芽をつんで、よく地ならしした苗床に丁寧に植えた。
毎朝、自分で若芽に水をやり、細心に観察するのが、老人の仕事だった。ある年例によって芽を摘んで植えたが、根がつかなかった。

・・・不思議なことに、さし芽は次から次へと枯れた。
菊作りの名人は途方にくれてある朝、早く出て行くと、
孫が立入禁止の畑で、残っている芽を一つ一つ引っこ抜いては根を調べ、植えなおしているではないか。

 物も言えないほど驚いた老人は、すぐそれをやめさせ、この乱暴な行為を厳しく叱責した。ところが返事はこうだった。

「お爺さんは芽に水をやると根が出るとおっしゃいました。僕は毎朝根が出るのを待っていたのです」

  祖父は孫の澄んだ、ビクともしない目を見つめた。
それから、おだやかな態度で気に入っている品種の芽を彼に与えて、この自然児に、実験を続けさせた。
この公明正大さと知的好奇心はいつも同僚や競争者から際立っている彼の特徴だった。
 
  少年奉文は、自然を愛することを学び、自然も、また彼に多くのことを教えたとは言え、
彼は勉強を顧みなかったので、村の小学校で好成績をあげることができなかった。
彼の優しい母親は非常に心配した。
そして、祖母は時々少年を自分の室へ呼んで長々といましめた。しかし、その効果はなかった。
奉文は落第したことはなかったが、一度も優等賞をもらえなかった。
しかし、この田舎少年が、村から四十二キロ離れた町の中学校へやられると、成績が急に良くなって、
学年が終わった時、彼は誇らしげに帽子に優等生のメダルをつけて家へ帰った。
母親は非常に安心した。祖母はかわいい孫をうれし涙で迎えた。
(中略)
山下奉文大将の人柄と性格は、彼の天性、彼の教育と鍛錬、彼の軍人としての閲歴の綜合的産物である。

山下大将の性格を分析するにあたって自然の基本的法則であり、
彼の少年時代、青年時代の山と川と林に示されている調和と秩序を見逃すことはできない。
不和と貪慾は大将が最も憎んだ人性であり、
彼の同胞の中で、彼ほど飾り気や気取りがなく、世俗的野心にわずらわされなかった者は少ない。
・・・人間に対する深い信頼感は純粋で善良な人のみが持つ特質で、
この人物の広い心と高潔な性格に触れる幸運な機会を持った者は、たちまち、この真理を発見する。」

裁判中で、かつ抑留中なのに、武藤章中将はよくこの文章(中略部分は山下大将の軍歴)をかけたなあと思います。
ただでさえ裁判で疲れているのに、文章を書くというのは・・・。どれだけメンタル強い人なのだと
改めて思います。
そして、この内容をきちんと山下大将本人から聞き出して物語にするという文章力、
当時52歳だった武藤章中将の仕事力はすごいものだったと思います。

山下奉文大将のクリスマス

久しぶりの更新になります。
本日はクリスマスイブですねえ。

それにふさわしい記事になるのかどうか・・・。

小林よしのり氏「米国の「戦争犯罪」を認めない安倍首相」

には、安倍首相はアメリカのファルージャで民間人虐殺を行っていた「戦争犯罪」を頑として認めない姿勢のご様子。それどころか米軍が行った日本への原爆投下や都市空襲ですら「戦争犯罪だった」と明言しないのだ!とあり

現日本の「宗主国」の戦争犯罪は認められないのだそうな。

敗戦国・日本において、昭和27年(1952)に日本語訳で刊行され、深刻な影響を及ぼした書物があります
『山下裁判」上・下(フランク・リール著 下島連訳)。

ポツダム宣言受諾後、戦争犯罪人として一番初めに起訴されたのが
当時、マニラで拘留されていた山下奉文大将でした。
書物の著者・フランク・リール氏は、ハーバード大学出身のアメリカ軍陸軍大尉でした。
なので山下大将と初対面時はまだ敵対心と疑いの心で接してしまったようですが、すぐ山下大将と打ち解けました。
山下大将の持つ人格がそうさせた部分もあると思いますが、それだけではなかったのです。

リール氏たちはこの軍事裁判の意義がそもそもおかしいと感じ始めていました。
山下大将がなぜ起訴されたのか?
それは、ルソン島(フィリピン)における部下の残虐行為の全てに、軍司令官として責任を負わねばならず、それを怠ったという理由でした。

となると、山下大将と戦火を交えた側のマッカーサー元帥の罪もあるのでは?
どんな軍隊にも悪人はいる。ルソン島にて戦う際、アメリカ軍には一切残虐行為はなかったと言えるのか?
歴史的な結果としては、マッカーサー元帥は、山下大将たちを裁き
山下大将は裁かれ、絞首台へと送られた・・・。

そのようなことが書かれている本で、昭和20年代の日本においては、深刻な影響を及ぼす書物だったとのことです。
今も読む価値があるはずですが、中々手に入らないし
そもそも、公立図書館でも読むことができない。
いつしか廃棄本とされてしまった。
もし読みたければ、東京の国立国会図書館にでも行かねばならない。

そこまでできる人といえば、ライターとかしかいないのではないでしょうか?
それで本の存在さえも忘れられてしまう
その結果が、小林よしのり氏の先のコラムとなるのではないでしょうか。

この書物の下巻表紙に恐ろしいことが書かれています。

ノーマン・トマス
今後、アメリカの将軍、大統領は絶対に降伏する気にならないにちがいない。
戦争というものは、山下裁判の前例に基づいて、読者は敗者を絞首刑に処する理由をいくらでも発見できる性質のものであるから。

軍事裁判中の山下大将と武藤中将の動画です。

武藤章中将のはこちらです(山下大将と間違えている人がいますが、これは間違い無く武藤章中将です)

この軍事裁判で絞首刑宣告を受けた山下大将は、12月8日以降参謀長であった武藤章さんたちと引き離され、一人で既決囚として隔離されていました。

フランク・リール氏たちは、山下裁判はアメリカの恥となると、今度はクリスマス返上で、アメリカ最高裁へと訴えるために準備に追われることとなりました。
もし山下大将が判決通り死刑になるなら、これはアメリカの恥となるので食い止めようと、アメリカ本国の最高裁判所を巻き込むこととしたのです。
それで12月23日午前、死刑囚としての生活を送っている山下大将に会いに行ったのです。その時の記述は以下の通りです。

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ピラミッド型のテントを取り巻く有刺鉄線の柵の中に案内された。彼(山下大将)は出てきて私たちを迎えた。
すり切れた陸軍の作業衣を着ているだけで、幾分やせたように見えたが、山下は依然として司令官だった。
まるで昨日会ったばかりであるかのように、彼はからからと笑い、微笑し、冗談を言った。

しかし明らかに彼は私たちに会えて非常にうれしがっていたのだ。

私達は彼を訪問することができなかった理由と、なぜ今日許可を得ることができたかを説明した。
私達は過去16日間の出来事、処刑の様々な延期、1月7日に最高裁判所が審問を許すことに決定したことなどを詳細に物語った。

法廷の審問はマニラの裁判とは違うであろうということ、それは法律に関係することで、事実に関することでないであろうということ。
私達の勝利の見込みは少なく、たとえ勝ったとしても、私達が望みうる最良のものは新しい裁判であろうということ。
私達は他の出来事の話をした。
ー彼の判決を終身刑に減刑するか、もしくは彼に自決の機会を与えるようにと、
86000人の日本人によって署名された嘆願書が東京のマッカーサー元帥に提出されたという新聞の報道。山下は微笑した。
そしてその嘆願書を回した男の名前を知らないと言った

それから山下は真面目になった。
彼は私達がしていることに対して私達に感謝した。私達は彼のために多大の犠牲を払っており、そのことが彼を深く感動させると彼は言った。
私達は「はるばるアメリカへ」行くところだった。
私達はクリスマスを捨てた。
「私達は空中でクリスマスを祝うでしょう」私は空を指差して言った。

「あなたがたがアメリカの法廷で論ずる問題は、私の有罪無罪に関係がないことを私は知っています。
決定しなければならない重要な法律問題、司法的問題があり、
そのあるものは、世界平和のために決定されなければならないということを私は知っています。」

そして、彼はまた懐かしい笑顔を浮かべた。

「そのことは、私がその結果に個人的利害を持っているということを理解しないと言っているのではありません」

収容所長はセキ払いをした。それは別れるべき時だった。
私達はさよならを言った。
「次の裁判のためにマニラに帰ってきた時、またお目にかかりましょう」

「大将は非常に感動していました」
と浜本(日本人通訳で山下裁判時にリール氏と協力していた浜本正勝氏。
彼は山下大将が絞首刑判決後、武藤参謀長たちとともに有刺鉄線の外に抑留されていたので、ここでも通訳として登場)はいった。
「彼はほとんど泣かんばかりでした。彼はそれを見せません。しかし私は知っていますー私は知っていますー。」

私達が車に乗り込む時、私は振り返った、山下はまだテントの正面に立っていた。
彼の色あせた作業衣が熱帯のそよ風で揺れていた。
彼は手を挙げて振った。

山下奉文ー四国の庭で花の成長を見守った小さな少年。
難攻不落のシンガポールを征服したマレーの虎、色あせた青い作業衣を来て、テントの正面に立って待っていた老人。
私達は家路についていた。
そして、彼もそうだったと私は思う。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

アメリカの最高裁判所は、フランク・リール氏らの請願を受理したものの、結果として却下しました。理由は、事件は軍事裁判の対象であり、アメリカ最高裁の管轄外だとのことでした。
マーフィー判事・ラトレッジ判事のみ、山下裁判の不当性を認めたがそれは少数派に過ぎなかったのでした。

そして昭和21年(1946)年2月23日、山下奉文大将は絞首刑を執行されてしまいました。
なお、サダム・フセイン裁判時にも、マーフィー判事・ラトレッジ判事のことが新聞記事だか何かで触れられていたのを覚えています。

クリスマス・イブ的には、すでに死を待つ山下奉文大将が、リール大尉たちと別れる際に微笑みをたたえて
いつまでも、いつまでも手を振り続けられた姿が目に浮かんでしまいます・・・。

オステルン祭

本当に久しぶりの更新となってしまいました。

ところで本日は、キリスト教圏ではご復活祭りということで
各教会ではキリストのご復活を祝っていたことと思います。

私もどこかのカトリック教会のごミサに与りたかった・・・。
しかしながら、土日ともなると、日常の疲労がどっと出てしまい
なかなか教会にも行けないぐらいです。

さて、本日はその「ご復活」祭にちなんで
武藤章さんが、まだ大尉の頃
ドイツに留学していた時に、義理妹さんに宛てて書かれた手紙が
あるので

それをご紹介したいと思います。

オステルン・アイ
(画像はwikipediaより)

「豊子様 万歳!!
(※以下義理妹・豊子さんが学校に合格されたことを祝う言葉があります)

今日、当地はオステルン祭といって、
基督の磔になった日の御祭りの日です。

子供はオステルン・アイ(オステルンの卵)を両親から頂くのです。
それは昨日お母様が家の中に何処か知らんがかくして置くのです。
それを子供達は家中捜してまわるのです。
卵は真当なものもありますが、
大抵チョコレートから出来ております。
御祭りは日曜まで続きます。

二、三日前に洋服屋に参りましたら
御父様(※武藤さんの妻の父・尾野実信大将)の何時も作っていらっしゃった
服屋で、尾野大佐の寸法が六着も古い帳面にありました。
又、尾野大尉と書いたもっと古い帳面もありました。
服屋さんは大変正直者ですが、只今は随分貧乏して居るようです。

それから昨日、蓄音機を買いました。
レコードも六枚買いました。
下宿の連中大喜びで、六枚のレコードを夜の十時までかわるがわる
かけて居りました。

お終いにはダンスを教えるといって、私を廊下に引張り出しました。
そしたら私が足を踏んだので止めました。
独逸の人、大変音楽がすきで、一度ぐらいご飯を食べないでも
音楽を聞いたほうがよいというぐらいです。

もう日本は暖かになったことと思います。
伯林は一日置き位に寒い日と暖かな日とが来ます。
毎日寒暖計を見て冬と夏のマントを着て外出せねばなりません。
女学生になったら、お転婆を止めて電車にご注意!!

皆様によろしくよろしく」

出典:澤地久枝『暗い暦』(文春文庫 1982年)より

ドイツの復活祭って「オステルン(Ostern)」というのか・・・。
一つ勉強になりました!

武藤さんが独逸に留学していたのは
1923(大正12)年からです。

最初はベルリンに滞在していましたが、当時のドイツは第一次世界大戦の敗戦国。
人心は荒廃し、夜のベルリンはとても寒く、雪解け水の汚水にまみれた陰惨なものだった
と、武藤さん自身は巣鴨拘置所内で書かれた『比島から巣鴨へ』で書かれていますが、
義理妹への手紙ではそうした暗さを一切見せずに
異国での生活を伝えています。

武藤さんは軍事を学ぶためにドイツ留学したはずなのに
ドイツは当時敗戦国として軍備撤廃を国際連盟から監視されており、
日本人もドイツの軍隊を見ることができず、さらに加えて
日本人同士でつるんでしまう(当時、日本人留学生がベルリンに多くいた)のも
あり、武藤さんは意識的に彼らと離れて、この後ドレスデンにてドイツ生活を送ります。

なお、武藤さんに「ドイツに行って本当に勉強するなら、日本人のいないところがいいよ」
とアドバイスしたのが、何と山下奉文さんだったのです!
山下さんと武藤さんは、陸軍部内でのドイツ留学組というつながりでもあったのですね!

現在のように、ネットなどのSNSもない時代は、
何か人に教えをこうとき、その相手の私宅をアポイントとって訪問するというのが
普通だったのでしょう。
山下さんと武藤さんが直接若い頃から互いの顔を知っていたことは、
単なる陸軍部内の先輩後輩関係だけでない、何かがあったのかな?と
後年の生死をともにしたときの関係からみると思ってしまいます。

二人とも、同じような考え方を持ち、組織人として苦悩し、悲劇的な死を遂げたという
事実からも・・・。
なお、大切なことは、この二人とも
盲目的にドイツを礼賛していなかった、ということです。
武藤さんは、東京裁判中に「ヒットラー礼賛者」と言われていましたが、
そんなことはないです。
なぜなら、この時期、ヒトラーがミュンヘン一揆を起こし、すぐに鎮圧されており

”Hitler ist verrückt”(ヒトラーは狂気だ)
とドイツ国民が口々に評していたのを直に感じる機会があったことが
とても大きいのではと思います。

武藤さん自身はヒトラーを「成金は信用できない」という思いをずっと持っていたのです。
それは、ヒトラーが無謀な行為をして失敗しても、ドイツにおいては
一代の英雄として一時名をはせるぐらいであろうと。

・・・キリストのご復活のことを書くつもりが
こんな話になってしまいました。

武藤さんという人は、なぜかヒトラーを評価してないのに、ヒトラー礼賛者とされてしまったり、
ドイツを過大評価しすぎた当事者(陸軍省軍務局長)とされてしまうなんて
本当に悲劇な立場だったのだと思うのと、
武藤さん的立場の人の、自分を殺して組織として動くときの冷静さは
すごいと思うけれど、相当なストレスだったと思います。
これに耐えられる人ってなかなかいないと思います。

「武藤は政治家にでもなる素質がある・・・」

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写真は、昭和14年、北支那方面軍参謀副長時代の武藤章少将(天津英仏租界事件の際に東京にやってきたとき
朝日新聞が撮影)

これは、停戦後、俘虜生活中(まだ戦争裁判の前)に
身の回りのお世話をしていた元参謀・一木千秋少佐に
山下大将が言っていたことです。

出典:一木千秋 著 ; 吉田勉 編 『アシンー回想の比島戦』(早稲田速記 1999)

山下さんは武藤参謀長を密かに?
「政治家にでもなる素質がある」と評価していたのだと
すごく意外に思うのではないでしょうか。

山下さんは、まず人を評価するに「あれはこうこうで、ダメなやつ」というそうです。
(おそらく「床屋漫談的」に毒舌がきつい人なんだろうなと思いますが
私はその毒舌ぶりを資料で読んでは、
ひとりほくそ笑んでいますε=ヘ( .∀・)ノ.∀・).∀・)ノ゙アヒャヒャヒャ)
同郷(高知県)の政治家濱口雄幸のことも「ダメなやつ」と連発していたとのことです。

そんな山下大将が、自分の参謀長でもあった
武藤中将をそう評価していたんだなあ・・・、と。
山下大将こそ、「総理大臣になってほしい!」という声が
特に青年将校たちからあがるぐらいではありました。
一方で武藤さんは「無徳」(ムトク)と言われるほど
人望がないという評価を下されがちであるのですが・・・。

一番武藤中将を信頼していた山下大将の武藤中将の人物評価として
こんなことを言っていたというのは
山下将軍自身の現在でも誤解されている言動の数々を考えたりするのに
役にたつのではないかなあと、以前から思っていたところです。

例えば「岡田(首相)なんてぶちぎれ!」と青年将校たちに言ったことなど・・・。

興亜観音

以前のブログでも、興亜観音については
たくさんの力を頂いてきました」という記事で書いております。

前回の記事では、久保山斎場関連のことを書いたので、
荼毘に付されたご遺骨・遺灰が各地を転々としながら
一時的に保管された場所・興亜観音について書いてみたいと思います。

興亜観音

この観音様は、伊豆山の山の中。
熱海駅から本数の少ないバスに15分ほど揺られ、
そのあと険しい坂を登らないと拝むことができません。

でもここはとても見晴らしがよいところです。

遺骨になられた受難者の方々も、やっと一息つけたのでは?と
思わせられる景観でした。

2012-01-19 19.29.51

なぜここに観音様がいらっしゃるのでしょうか。

松井石根陸軍大将が、退役後熱海伊豆山に暮らしていらしたからです。
松井大将は、陸軍大学校卒業後、支那在勤が多かった方です。
ちなみに、あとで詳しく触れたい方の一人
原田熊吉中将は、松井大将を先輩として尊敬していたといいます。

武藤章中将の手記『比島から巣鴨へ』の中には、かつての上官でもあった
松井石根大将に触れている箇所があります。

「もともと松井大将は青年将校時代から支那関係の仕事をして来た人で、真に支那人の知友であつた。
支那人側から見たる松井大将がどんなであるか知らぬが、我々参謀
(注:武藤章さんは南京事件中は大佐で中支那方面軍参謀副長)
として同大将の言動を見聞していると
心底からの日支親善論者であつた。

作戦中も随分無理と思われる位支那人の立場を尊重された。
この松井大将の態度は、某軍司令官や某師団長の如き作戦本位に考える人々から
抗議され、南京の宿舎で大議論をされる声を隣室から聞いたこともあつた。
松井大将が南京において支那人に対する暴行を命じたとか、あるいはこれを許容したとかいう告発は
全然誣告といわざるを得ない。」

武藤章さんも実は南京事件には当事者として関わっていました。
中支那方面軍参謀副長(大佐)として。
しかし不思議なことに、東京裁判では参謀副長だったので「責任はない」とされましたが、
なぜか近衛師団長(在スマトラ)時代と山下大将の参謀長という立場で有罪とされました。
(比島では8年前の南京事件と同じことを今度は参謀長として実施したゆえに有罪とか)

話を戻しまして
この興亜観音は、昭和15年(1940年)2月、支那事変における日中双方の犠牲者を「怨親平等」として
弔うために松井大将の発願で建立された観音様でした。
松井大将は当時からあまり健康ではなかったため、奥様におぶってもらって
この観音様を詣でて祈りを捧げていたとのことです。

今もこの興亜観音に行くと、一人の尼さんが温かく迎えてくださいます。
この興亜観音を守るというのは、大変だと思います。
いろんな考えの方がいるから。
爆破されそうになったこととかもあったらしいですが、
尼さんはそんなことを一切お話にならず、微笑みを湛えています。

そして興亜観音のお堂には
松井大将の遺品の数々が今もあります。

興亜観音

松井大将の書

2012-01-06 14.49.17

松井大将の外套

2012-01-06 14.49.35

昭和20年8月15日前後の山下軍司令部

毎年、今の時期になると、テレビでは「終戦記念日」シリーズの番組が放映されているようです。
しかしながら、私はテレビは見ないので、もっぱらFacebookやTwitterなどで、大体どんな内容だったのかな?
とつかむだけでした。
もっとも、今年はそんなゆとりもなかったですが。
本当は「九段会館」ネタを書きたかったけれど、労働で疲労している中で、
頑張って、酷暑の中休日にまで東京に行って資料の確認するのも体力的に無理です。
よって、今回は8月15日前後の山下大将・武藤参謀長の行動について書いてみたいと思います。

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この写真は、バギオ(フィリピンの観光地であるけど、もう野戦生活に入ったころで
二人ともゴルフクラブを杖かわりにして持っているところから、戦況の厳しさが伝わってきます。
当初の司令部があったマニラ郊外の豪奢な司令部を率先して離れることで、
隷下部隊に、戦況の厳しさを示す意図もありました)での一コマでありますが、
二人とも、厳しい戦況の中でも穏やかな表情で、互いを信頼し合っている雰囲気が
伝わってきます。私個人は、このツーショットも好きな写真の一つであります。

参考文献は以下になります。

山下大将・武藤参謀長が、停戦を知ったのは、8月14日のことでした。
海軍側からの情報でした。当時の海軍は、陸軍とともに行動していました。

武藤参謀長たちは、ポツダム宣言なるものを受諾したことは承知したが、
ではそのポツダム宣言とは何か、ということはまったく理解していなかったとのことでした。
その数日前から、アメリカ軍の飛行機からは日本の降伏を知らせるビラが落ちてきたとのことでしたが、
武藤さん自身は、その情報を信じたくなかったとのこと。

武藤さんの理性では、一年前にサイパンが奪われたときに負けを確信していたが、
この8月15日フィリピンの山奥での感情では、
「敗戦を信じたくなかった
この日のフィリピン・プログ山の大和基地では、秋雨が降っていたと。
それを武藤さん自身は生涯忘れることがない、と書かれています。

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この地図を見ると、全ての方面より敵の米軍から包囲されていることが
よくわかります。
米軍は山が苦手だということを理解していた山下軍司令官は、とにかく高い山へと登って
何とか戦うことしかできなかった。
日本側も戦死よりはむしろ餓死者、戦病死者を多数だしながらも、
十分な医薬も食糧もなかったこと。
兵隊が死んでいるのを毎日目にするのはどんなにつらかったことだろうと
思いました。

停戦の情報をいち早く入手してきたのが、
『運命の山下兵団』を著した栗原賀久(よしひさ)中佐でした。
栗原参謀自身は、その情報を伝えたあとのことをこんなふうに書かれています。

「気持ちも身体も泥のように疲れて、そのままそこへへたばってしまいたい気持ちであった。
負けた。負けた・・・。たちまち血汐が沸き上がってくるのを感じた。
しかし、その後で何よりも一番本心らしいものは、
なんといってもほっとした気持であった。
恥ずかしいかもしれないが、実感であった」と

その気持ちのまま、まずは武藤参謀長に申告に行った。
武藤さん自身も実は気持ちの動揺が沸き上がってきながらも、
部下の参謀からみた限りでは、平然としていつもと同じだったとのこと。
幕僚たちに、自分の心中を見せまいと努力していたと思います。

武藤参謀長は、まず宇都宮直賢参謀副長(少将)らを呼び、
次のことをとりあえず決められました。

●全比島にある日本軍に、命令を徹底せしむること
●軍紀・風紀を厳粛にして、皇軍最後の面目を発揮
●患者・一般邦人をもれなく山岳地から救出する
●兵器・弾薬・機密文書の処置
●停戦期間中における食糧の処置

このあと、各参謀たちは自分たちの寝所に戻ったが、
武藤参謀長と山下大将は、深夜までいろいろ話し合ったとのこと。

こうなった上は、一人でも多く生還させることが、我々に課せられた
責務で最後のご奉公だということに一致したそうです。

そのあと、栗原参謀の手記には興味深いことが書かれています。

武藤参謀長が山下大将の小屋をでると、そこには山下大将の専属副官・樺沢大尉が歩哨をしていた。
その樺沢大尉にむかって

「おい、樺沢。今晩は気をつけてくれよ」
「はい、わかっています。」

「分かってる?何が分かっているんだ?」
「はい、これでしょう?」

樺沢副官は真剣な面持ちで、手で腹を切るしぐさをしてみせた。
すると、武藤参謀長は、はじめてにっこり笑い
「うん、そうだ。よろしく頼むぞ!」
そしてくるりと背を向けると、足の短い蟹股で自分の小屋に帰っていったと。

それから樺沢副官が山下大将の小屋に入って、黙って隅の腰掛に腰を下ろしました。
山下大将は、じろりと見ただけで、何も言わなかった
毛布をかぶりかけた大将が、副官を振り返り

「おい、もう帰って寝ていいよ」

といったが、樺沢副官は少しも離れようとはしなかった。

「閣下、今晩はここにおかしてください!」

「おい樺沢、心配するな。俺は決して自分一人で行きやせんから。
ルソンにいる兵隊を内地に返す大任が、まだ俺には残っているんだ
今更俺一人が死んだって、どうにもならんよ。
いいから、安心して、寝ろ寝ろ」

山下大将は、世間的には「マレーの虎」と渾名され
剛将と見られているけれど、
実は、感情的になる部分があることを、最も身近にいる
専属副官や、参謀長にはお見通しであったのではないでしょうか?

武藤参謀長は、長年の山下大将との付き合いで、
山下大将の責任感は強いけど、感情的に脆い部分を
しっかりとありのまま受け止めていたと思います。

山下さんは「俺が死ねばいいのだろう?」ぐらいのことを武藤さんに
話していたのかもしれません。
だから武藤さんは、万が一、山下司令官が一人で切腹されたらと心配して
念には念をいれて、山下大将の専属副官にもしっかり言い含めていたのではないか。

一方山下大将も、自分の弱さを見せられるのは武藤参謀長と信頼していたので、
樺沢副官が小屋に入って寝ずの番を決め込んだのも
武藤参謀長が言い含めたことも、自分の専属副官が自らの直感より
山下大将が自決しないように見張りにきたことを察知していたと
思います。
そこで、「ルソンにいる兵隊たちを内地に返す大任がある」と副官にいうことで
安心させたのではないでしょうか。

私は、ここで自決をしなかった山下大将は、すごい人だと思います。
こういうのって、敗軍の将の言動だったりするので、あまり顧みられることは
ないように思うのですが。