「サリンまくために出家したんじゃないんです」

教祖の法廷での中川智正さんの言葉として
最もインパクトのあるものだと思います。
「中川智正」という人物を知りたいと思った人が
まず、この言葉をwikipediaなどを見て
まず目に入るだろうこの言葉なのですが・・・。

いったいどのような公判上のやり取りがあって
この言葉が出たのでしょうか。

私が疑問に思うのは、
同じ死刑判決を受けた、豊田亨さんや広瀬健一さん、林(小池)泰男さんの裁判では
「被告人の資質ないし人間性それ自体を取り立てて非難することはできない。
およそ師を誤まるほど不幸なことはなく
この意味において、被告人もまた不幸かつ不運であったと言える」
と言われているのに対して、
中川智正さんの場合、上記の文言を裁判官から言われてはいないのは
なぜなのでしょうか。

もっとも、裁判長が中川智正さんと、豊田亨・広瀬健一さんらと違うのもあると思います。
中川智正さんは公判途中から感応性精神病、解離性精神障害の可能性もあるのでは?と
裁判関係者に思われていたけど、それならば、豊田亨・広瀬健一さんも同じでした。

さらに、中川智正さんの確定死刑囚となってからの拘置所内での活動から
彼を知った者(私もその一人)にとっては、
「麻原との出会いさえなければ・・・」と拘置所内から化学論文を書ける才能を
最初は惜しんでいました。
でも「麻原との出会いさえなければ」とは、中川智正さんの場合は
簡単に言えないのではないでしょうか。

だからこそ、この「サリンをまくために出家したんじゃないです」という言葉が
出る前後の公判の様子を見ていきたいと思います。

これまでのエントリーでは、中川智正さんが教祖の公判などで
オウム三大事件などへの自身の関与をどうとらえていたかを
取り上げてきました。

  • 松本サリン事件
  • 地下鉄サリン事件
  • 公証役場事務長拉致事件
  • 坂本弁護士一家殺害事件
  • そして、中川智正さんが出家した頃の「指導役」でもあった
    村井秀夫さんの刺殺された時の所感。

    これらを語るにあたり、中川智正さんは
    「自分の神秘体験をあるがまま語る」ことに特にこだわっていたことが
    わかりました。

    「光が降ってきた・・・」

    私個人はブログを書くにあたって、
    この光ってどんなものだったのですか?
    と中川さんに聞きたかったです。
    今や永久に不可能ですが・・・。

    文字だけでなく、何か光の写真をと探しても
    中川智正さんが見えた光とは何なのかが
    どうしても想像できなかったのでした。

    だから、どんな美しい光の写真やらイラストを出したとしても
    却って失礼になると思い、出せませんでした。

    中川智正さんにとっては、「神秘体験が(教祖への)尊敬のすべて」
    (教祖第180回公判、2001年1月11日)
    なのだから。

    教祖第199回公判においては(弁護側証人として出廷)
    坂本弁護士一家殺害事件に関する尋問に関連してこんなやりとりがありました。

    (出典:『検察側立証すべて終了―オウム「教祖」法廷全記録〈7〉2002年 毎日新聞社会部)



    弁護人:「捜査当局はあなたの精神状況に関心があったのでは
    中川:「あまり聞きたくなさそうでした。
    (検察官に)『人が亡くなったとき、光が降ってくる』といったら
    笑われて、それで終わりだった。

    弁護人:「(逮捕された)平成7年(1995)年5月頃の神秘体験は」
    中川:「『修行しろ』という声がした
    弁護人:「誰の声」
    中川:「麻原氏」

    弁護人:「脱会のきっかけは早川(紀代秀)さんの脱会でしょ。脱会すれば教団に迷惑がかからないというのもあった?」
    中川:「それもあった」

    弁護人:「教団が間違っているから脱会したのではないのか」
    中川:「教義が受け入れられないのは分かっていた。
    それに改めて気づいたから脱会したのではない


    弁護人:「当時、麻原さんについてどう考えたか。
        『修行しろ』という声を聞いてどう思った」

    中川:「修行した。レンゲ座に足を組んで、心の中を見つめたり、麻原氏のことを考えた」

    弁護人:「(坂本弁護士一家殺害事件の際も)誰かの声がしたというが」
    中川:「ポンと後ろから押されたような感覚」

    弁護人:「声に抵抗しようとは」
    中川:「ない。怒鳴られて姿勢を正す、そういうもの」

    弁護人:「追い込まれた時にやめろというのが神の声ではないのか」
    中川:「主体的に生きている感覚がなかった

    弁護人:「(あなたは)人に責任をなすりつける様子はうかがえない。
    うらみつらみはないのか。」
    中川:「遺族の人たちが私たちを非難するのはよく分かる。加害者の私はそういう立場にない」

    弁護人:「オウムに入って後悔しているのか」
    中川:「坂本事件で、薬物を取ってこいと言われたところで、
    ひょっとしたら(引き返せた)と思うが、
    オウムに入ったのは神秘体験の話になる。
    誰の責任でもない。少なくとも教団側の責任ではない。
    麻原氏がそれを起こしたとしても責めるわけにはいかない。」

    弁護人:「ぶつぶつ言っている麻原さんを見て笑っているが
    中川:「しょうがないと思っている。憎いという感情がない
    弁護人:「最後に麻原さんに言っておきたいことは」
    中川:「急に言われても困る・・・・・。考えさせて下さい」

    この日の尋問中、中川智正さんは教祖の「ぶつぶつ」を聞いて
    笑っていたのですね。
    そして、「最後に麻原さんに言いたいことは」と問われて
    「急には答えられない」と答えています。
    この点は、豊田亨さんや井上嘉浩さんたちとは異なる部分だと思います。

    その翌日、麻原第200回公判が開かれました。(2001年6月22日)
    この時は検察側証人として出廷し、麻原弁護側の反対尋問に答える形となりました。

    弁護人:「神秘体験を聞いていると、うそとは思わないが、
    一般の人には異常ではないかと思える

    それでも(自分の刑事)責任能力を争う気はないのか」
    中川:「病気ではないと思う。この世界から逸脱したものだと思う。
    裁判で争うのはどうかな。麻原氏も教団の人も、ちゃんと説明できない。事件の本質だと思う。」

    弁護人:「死刑になろうと言っていたが」
    中川:「それ以外に責任の取り方があるのか」

    弁護人:「麻原氏に言いたいことは」
    中川:「(拉致事件で死亡した)仮谷さんと松本サリン事件の民事裁判に出た。
    本当は麻原氏に話を聞きたいが、
    麻原氏が証言する見込みがないと、代わりに証人として出た。
    私の話を聞いて仮谷さんの息子さんも遺族の方も泣いていた。
    死んでお詫びをしますとしかいいようがなかった。麻原氏にもそれを分かってほしい」

    弁護人:「ほかには」
    中川:「地下鉄サリン事件で、医者をしている友達が、
    『まさかお前が作ったサリンとは思わなかった』と人づてで聞いた。
    教団の構成員は麻原氏に従わざるを得なかった。マ
    インドコントロールされていたともいうが、もともと特殊な人が集まっていたと思う。
    世俗的なものを捨てて活動していた。
    それが捜査が入り、活動を止められて、司法の場に引き出され、現世に戻された。
    現世的なケアがなされないと
    井上(嘉浩)くんらが口を極めて非難している。
    彼らのステージが低いとか、それだけではない。
    麻原氏、尊師、分かって欲しいです。」

    弁護人:「宗教的なケアがない?」
    中川:「現世的なケア。お前たちが悪いんじゃない、と口で伝えないと
    教団はシバ大神の名を標ぼうしていた。
    尊師、神々についてどうお考えか。
    何らかの形で信じていた人たちに示してほしい。
    サリンを作ったり、人の首を絞めるために出家したんじゃないです

    その時の教祖は、ぶつぶつ口を動かし目を閉じていたそうです。

    以上は毎日新聞社会部の書物から引用しましたが、

    朝日新聞(2001年6月23日朝刊)
    となると、より細かく記されています。

    毎日新聞の記事では教祖側から見たイラストはこちらです。



    「サリンをまくために出家したんじゃないです」と言ったとき
    こらえていた涙が突然に噴きだしたように声をあげて泣き出したのだ。
    泣き声は数分間続いた。
    (中略)
    「教祖」への恨みつらみはない。
    「何が一番悪かったかといえば、
    やはり自分が生まれてきたことが悪かったと、
    そこまで行ってしまう

    (一連の事件は)麻原氏のせいという気持ちはない。
    たしかに教祖である麻原氏がいなければ事件はなかったが、
    私たちがいなければまた、事件はなかったんです」

    「尊師は教団がやがて破滅するといったことがあった。でもこんな風に
    誰からも指弾される形で破滅するとは思っていなかったのではないか」

    本年7月6日の報道時に、
    中川さんの「サリンをまくために出家したんじゃないです」を引用した報道もありました。
    その言葉が出てきた背景までは、どの局も、マスコミも触れていませんでした。
    これは本当に残念に思います。
    中川智正さんも、あの世で「予想はしていたけど、残念」と思っていたのではないかと想像しています。

    中川智正さんは、医学部を出て医師免許を取っていたのを教祖に目を付けられ
    出家させられて、マインドコントロールを受けていた。
    それで各種犯罪に手を染めてしまった。
    それがこの2001年の教祖公判時にマインドコントロールが解けて
    「私たちはサリンをまくために出家したんじゃない」
    いきなり言ったのではないのです。

    確かに中川智正さんも、出家者として各種の訓練を受けたとは思います。
    その効果の結果考え方が変わった部分ももちろんあるでしょう。
    でも大切なことは、
    出家したのは、自分の神秘体験が原因であり
    その神秘体験については教団の誰も、
    麻原氏でさえも理解しなかったものである
    という部分ではないでしょうか。

    神秘体験のため日常生活に非常な支障をきたし、
    救いを求めて絶望感から出家をした中川智正さん。
    出家はしても、いつも孤独でした。

    いやいや、恋人まで出家したのだからそうではないという人もあるでしょう。

    恋人も教祖も含めて、理解されない神秘体験をどう捉えたらいいのか。
    まったくわからない。
    説明しようにも言葉がない。

    そのような、言語化できない孤独感の中で、教祖に光を見て、それに従って生きていた中川さん。
    教祖が、常識から言って理不尽やおかしなことを沢山してきたのを(破戒の部分も)受け止めてきたのだと思います。

    教祖が光だったから。

    オウム関係者が、中川さんも含めて逮捕され、現世に戻されて
    教祖が何か自分たちに現世のケアをしてくれることを期待もしていたのでしょう。
    しかし、教祖は語らない。ケアもしない。だんまりを決め込み、ぶつぶつ言っているだけ。

    むしろこの言葉を裁判で叫んだことで、中川智正さんとしては
    絶望的な孤独感と、強い希死念慮に苛まれて
    今すぐにでも死刑執行してほしいと強く願ったのでしょう。
    死刑執行されて早く現世から消えたいと。

    しかし実際には、中川智正さんが「自分が生まれてこなければよかった」と発言したことが
    自身の裁判でも再度蒸し返されてしばらく苦しむこととなります。

    「こっちを向いてしゃべるように」

    青沼陽一郎氏の「麻原法廷物語」を見て、
    オウム真理教裁判の様子に驚いた人は多かったと思います。
    厳粛な裁判の場を激情のまま、「劇場」に変えてしまった。
    私も驚きました。



    さて、この裁判に33回(いやもっとかも。正しい数字がぱっと出てこない)
    出廷した中川智正さんがこの場にいたら
    どんな感じになるのでしょう。

    例えば、第28回公判(1997年2月28日)

    出典は



    中川智正被告は麻原裁判の弁護側証人として出廷でした。
    この人は、裁判中、紺色のジャケットにグレーのスラックスという
    きちんとした服装をしています。

    淡々と宣誓したあと、「本題」
    検察官:「あなたは坂本弁護士殺害に関与しましたか」
    中川:「今日それについてはお答えできません」
    検察官:「その理由は」
    中川:「自己の裁判で有罪判決を受ける恐れがあるからです」
    検察官:「将来もするつもりがないということですか」
    (中川、少し考えこみ)「もう一度お願いします」。
    中川:「ええと、全くないというわけではありません。弁護士に相談の上」
    検察側がここで、1995年9月26日から10月11日までに取られた検察官調書8通を1通ずつ示す
    検察官:「末尾の署名、指印は証人がしたものですか」
    中川:「それも今日は確認できません。」
    ※これを8通あるため、8回くりかえした。

    麻原の主任弁護人:「このまえはいくつか話してくれたんですか。今日は話してもらえないんですか」
    麻原:「話せばいいんだよ」
    (中川、下を向いて困ったように黙り込む)


    弁護人:「今日は、証言するのをやめようと思って法廷に見えたんですか」
    麻原:「弁護人がそんなこと効くのがおかしいんだよ」
    (法廷に失笑がもれる)

    弁護人:「証言するかどうか、葛藤があるのですか」
    中川:「それは常にあるんですけど」
    (ここで、弁護人からいろいろ問い詰められる中川)

    「地下鉄サリン事件についてもそうだったが、すべてを話したわけではない。
    坂本事件に関してもどうしようかとおもっているところがある」
    2時20分、「あなたがたは・・・・何を・・・」麻原がつぶやく、
    テーブルを手のひらでバンバンたたく。絶え間なく動いている・・・。

    その間も弁護人の説得が続いている・・・。

    弁護人:「取り調べで検事が質問するしつこさと、私が質問するのとでは、
    どちらがしつこいかなあ」
    中川:「それはもう、比べ物にならないくらい・・・」
    弁護人:「私の方がしつこい」
    (と、言葉を引き取ると、法廷内に爆笑が起きた)
    弁護人:「でもね、あなたには本当のことを証言してほしいんだよ。
    ここは取調室よりは自由に話せると思うが」
    中川:「それは、話しやすいと思う」と吐息交じりに応じる。
    麻原:「何を聞いているのか。私は意見陳述したいんだ」
    阿部裁判長:「弁護人の質問が続いているのだから」
    麻原:「私が弁護人だ。私が麻原彰晃ですから」
    尋問がおわり、ほっとした表情を見せる中川被告に、主任弁護人が
    「ちょっと一つだけ」と申し出る。
    座りなおす中川
    弁護人:「この前も今日も、何か書き物を持ってきているけど、何に使うの?」
    中川:「記憶が混乱しないように」

    阿部裁判長:「ついでに聞くけど、さっきメモとっていたのは、何を書いていたの」
    中川:「さっきはあの、時期を思い出すため。
    それから弁護人が『こっちをむいてしゃべるように』といったのを、メモ取るつもりもなく
    書いてしまいました。


    法廷にどっと笑いが起きて休廷。(その後新実被告の証言になる)
    —————————————————————————————–
    青沼陽一郎さんの動画で中川智正があまり登場しないので
    麻原法廷に中川智正が出廷した時、どんな雰囲気になるのかと
    その一つを毎日新聞の第28回法廷から引用してみました。

    当時中川智正さんが書いたんじゃないかな?というメモを、
    本人の書いた字を想像しながら昨日、復元してみました。



    教祖は、中川が出てきたとき、明らかに意識しています。
    中川に圧力をかけているのがわかります。
    中川には圧力かければ、黙り込むのがわかるから。井上嘉浩とは違って。
    おそらく中川が知っていることを話されるのが怖いから。
    不規則発言も、「私が弁護人だ。私が麻原彰晃だ」と
    まだ中川に対して、「教祖」であることを誇示するような態度をして
    発言させないようにしているのがうかがえます。

    毎日新聞の記者は、証言をしない中川被告に対して
    「自分自身に対する有罪判決への恐怖感から証言しない」と書きました。
    私も当時読んだなら、このあとに大阪府警の隠語である、「戒名」(罪名のこと)
    が中川被告に与えられるのは無理だと思いました。

    しかし、この人には「戒名」以上の何かがあるとは、当時はまだ感づいている人も
    いなかったのではないか・・・。

    僕は二つの世界に住んでいる。

    「毎日新聞」1996年7月9日東京夕刊の記事より。
    VX襲撃事件の審理に入った中川智正被告に関して。
    以下、引用
    「柔道で鍛えたがっちりした体を窮屈そうにかがめ、
    法廷内にいる知人と目であいさつを交わし、被告席に座った。
    事件にかかわっていたことを認めたが、
    松本智津夫被告との共謀については、これまで同様触れなかった」
    のあとに
    僕は二つの世界に住んでいる。
    一つは、この世界。もう一つはオウムの世界。
    どちらも僕にとっては現実の世界なんだ


    中川被告は、関係者にそう語ったことがある。
    松本被告への帰依、
    教団での生活にこだわりを持ち続け、一方で自分の犯した罪がこの世では到底受け入れられず、
    被害者の家族を苦しめていることに強い自責の念があるという。
    (中略)中川被告は捜査段階で、
    「なぜ数々の事件に関わったかといえば、
    教団が決めたことだったから、それに従い行動した。
    自分は教団でしか生きていけない人間であり、
    教団から逃げ出したとしても生きていくことは出来ないと思った」
    と供述している。
    医師免許も持ち、世間的に恵まれている若者が、
    なぜ「ここでしか生きていけない」という結論を出したのか
    中川被告がその「答え」を語る時を待ちたい
    (引用おわり)

    1、医師免許を持っていれば、世間的に恵まれている、といえるのか。

    本当はこの答えは、生きていた時の中川智正さんに質問してほしかったです。
    しかし、もう「この世」の人ではないので
    残っている言葉などを、こちらがつぎはぎして「語ってもらうしか」ありません。
    中川智正さんが生きていてくれたら・・・
    と思う研修医の方いらっしゃるのではないかと思います。
    中川さん御自身は、林郁夫被告第六回公判にて、弁護側証人として出廷した際語っています。

    「医大を卒業して大阪鉄道病院に入り、専門は消化器内科だった。
    初めに勉強したのは、胃カメラ・超音波、大腸バリウム透視で、入院患者は20人も30人も担当した。
    大病院では若い医師が「戦力だから」
    ところが、私は患者を診ていると、患者と同じ状態になる。
    精神的にも肉体的にも。1989年5月、とうとう手術室で倒れ、
    その時の症状は、名医といわれる人でも診断がつかずしばらく休職したあと、病院をやめてしまった。」
    と語っています。

    「週刊文春」1995年8月17、24号には、
    研修医時代の中川智正について
    病院関係者には印象が薄いようだ、と書かれた後で
    「中川先生には他に三人の同級生と一緒に来られたのですが、一番目立たない存在でした
    。一人の患者さんと、一時間以上も話し込んでいることもあって、
    患者さんからの評判はよかったんですけど、
    そんなに時間をかけていいのかなという感じもあったし、
    他のドクターに比べてもの足りない印象でした。」
    との評価でした。
    おそらく、それでも、私がこれまで見てきた中川さんのことだから
    自分が病院に入って使えない人材と思われていることもよくわかっていただろうし、
    その中でも空回りして、全力で頑張っていたのだと思います。

    たとえば、「読売新聞」1995年5月24日東京夕刊によると
    「おれが患者の手を握ってあげると、苦痛がとれるんだ」
    「そのかわり、自分の中に悪いものがたまるから、何リットルもお湯を飲んで体を清める」
    ということをするなど、
    自分なりには最大の努力をして、
    何とか一人前の医者になろうともがき、あがいていました。

    しかし、実社会、実務の世界では評価はされません
    ましてや、一人の患者と1時間以上も話し込んでいるところなどは、
    先輩医師に注意されるところではないかと思います。


    例えば、「お前は若いから患者は面白がって話に来ているけど、仕事になってないから
    一時間も患者の話聞く暇あるなら、もっとやることあるだろう!

    (このあたりは、対人援助職における若い新人の方は覚えがあるでしょう)

    患者が亡くなった直後は神妙な顔をしていても、
    医局に戻ってくると笑っている。そういう態度が疑問だ

    とも中川さん自身は家族に漏らしていたあたりは、
    先輩医師のやり方や態度がとうてい自分には受け入れられないとけれど、
    恐らくそうでもしないと「やっていけない」のが医師の世界なのだと思います。

    そんな中川さん自身の唯一の癒しの場、拠り所がオウム真理教の大阪道場だったのでした。
    ここで恋人に「今日の患者はひどかった」と疲れた顔で話しこみ、
    「オウムに行かないと体がどうしようもない」
    「オウムの道場へ行ってパワーを注入してもらわないと、もたない」
    などと言い出しました。
    「毎日新聞」1995年9月10日朝刊によると、
    病院の退職理由は「突然の失踪」ということです。

    中川智正さんは、研修医生活を普通ならば2年やらねばならないところ、
    1年ぐらいしか「出来なかった」
    そんな自分が社会で生きていけるのか。
    他の職業になれるのか。
    フリーターにでもなるのか。
    なら今まで成績悪かったかもしれないけど自分なりに頑張ってきたことはいったい何なのか・・・。

    そんなことを思い詰めていたのかもしれません。
    今でこそ、このような記事がネット上に掲載されるようになりました。
    医師が先に燃え尽きてしまう

    どんなに学力があって医学部、医大にいったとしても、
    燃え尽きてしまったら動けなくなります。
    そのような側面には当時から世間は見向きもしません。

    中川智正さんが出家してから1年後に
    オウム真理教附属医院が設立されましたが、
    在籍している医師の中には、中川さん同様、研修医さえ終えてない医師がいました。

    中川さんとは違うかもしれませんが、
    研修医時代の何かに不適応を起こして、オウムに入信するしかないと
    思っていた若い医師の卵がやってきていたということは注目点と思います。

    オウムだけは、その燃え尽きた、実社会では実務者として「使えない」人材を
    医師として待遇してくれる、と期待して・・・。



    今でも、毎年このような進学特集が出されます。
    医学部に入るのは頭がいい人。
    将来金持ち安定という見方と、
    医師の使命を崇高なものとしたい世間の常識では
    中川智正さんのことは理解されないだろうと思います。

    Tu博士でさえ、この部分は理解していなかったと思います。

    『サリン事件』の最後の文章
    医学部を卒業した将来性のある息子の現状を見る親の悲しみは同情せざるを得ない

    2、「尊師は自爆の道を選んでいた」

    中川智正さんの住むもう一つの世界、「オウム真理教」ではどうだったのか。
    中川智正さんは、「入信前から、尊師がある種の自滅行為をすることはわかっていた」と
    語っています。
    (「朝日新聞」1998年3月24日)
    「私は教団にいたころから、単純に尊師を信じていたのではない」
    「尊師に殺されるというような、他の人が感じた恐怖をかんじたことはない。
    それとは違って、例えば私を何物だと思うかと尊師に聞かれた時
    僕は化け物だと思いますと答えた。そういう恐怖だった。
    出来れば関わりたくなかったけれど、
    入信前にいろいろと神秘体験をして、普通の社会生活ができないと思ったので
    助けてくれという感じで入信した。仕方なかった。
    僕としては、その後いろいろなことがあっても、しょうがない、という感じで冷めていた。」

    先のエントリーで中川智正さんにエールを送った
    豊田亨・広瀬健一・杉本繁郎の3名の公判に出廷した(1997年4月30日)際、
    豊田・廣瀬・杉本の三名は、
    「松本智津夫を批判する気にもならない」
    「いかなる理由でも起こしてはならない犯罪であった」と悔いていたのですが、

    証人出廷した中川智正さんは相変わらず

    麻原被告が光を発するのが見える」と証言しています。

    このブログの今後のエントリーの中で、上に書いたような「神秘体験」の数々を書いていくことにもなりますが
    私は書きながら、理解できないです。
    でも、通常の社会生活に耐えきれなくなった時に、別の世界を作り出してしまう人間の可能性についてという
    捉え方で見るならば、
    少し理解できそうかもしれません。

    【毎日新聞1995/10/24夕刊】中川被告初公判

    なぜかこの時の中川智正初公判は注目度が高かったのでした。
    一つには、麻原教祖が初公判前に横山弁護士を解任したり、
    当の横山弁護士自身が入院したりとかで、
    麻原に一番近い側近だった立場と報道され、注目されたのではないかと思いました。

    以下、記事を引用
    ———————————————————–

    おなかが少し出て、上着が窮屈に見える。
    午前10時の開廷。
    ゆったりとした足取りで入廷した中川被告の、
    ふっくらした顔に表情はなかった。

    初公判時の中川被告

    中央の陳述台に立ち、胸を張り、
    裁判官を見上げるように、真剣に答える。

    「名前は?」
    「中川智正です」
    「生年月日は?」
    「昭和37(1962)年10月25日です」
    「職業は?」
    淡々とした答えが詰まった。
    間をおいて
    「無職です」
    「住んでいる場所は?」
    「・・・・・決まっていません」
    検事が起訴状を読み上げる。中川被告は両足を踏ん張り
    両手の指を開いたり閉じたりする。
    起訴事実の認否。
    「地下鉄サリン事件について認めますか」と裁判長に問われ
    中川被告は答えようとして、喉を一、二度そらした。
    声が出ない。
    約10秒後、やっと「はい」と認めた。
    「えー、まず、サリンを発散させる経過に、尊師とか村井さんとかと共謀して、
    事前に知っていたわけではありません。どこで発散させるかも聞いていませんでした」
    と答えた。
    「サリンの生成は村井さんの指示で確かに行いました。
    正確にはサリンは未知の生成法で、私が合成したことは間違いありません」
    と一気に語る。
    裁判長が殺意について念を押すと、
    「ですから、サリンは危険なものと認識はありました。
    事前には知りませんでした。
    新聞、マスコミで報道され、サリンが巻かれたのは間違いありません」
    と語気が強まった。

    元信者の落田さん殺害。
    肩を大きく後ろにそらせて
    「他の人が押さえ、落田君を絞めていました。落田君は苦しそうで、
    私も早く楽にさせてあげたいと思いました。」
    裁判長が、「押さえつけたのですか」と確認を求める。
    「はい。関与しました」。
    はっきりとした声だった。
    10時20分過ぎ、検察側の冒頭陳述に入った。
    被告席に戻った中川被告は向かい側の検察側をジッと見据える、
    落田さんのリンチ殺人事件に立ち会った場面で
    まばたきが激しくなり、唇をかみしめ
    ひざにのせた手を握り締めた。
    地下鉄サリン事件の場面では、改めて自分の造った物質の恐ろしさを
    突きつけられ、組んだ手をほどいて、つばを飲み込んだ。
    11時50分過ぎ、いったん休廷。
    中川被告は促されて立ち上がると、傍聴席に目を向けた。
    何を思ったのか、一瞬ゆるんだ表情を見せた。

    ———————————————————————–
    当時、家でとっていた別の新聞で、だいたい似たような記事を読んだ記憶がありましたが
    そこそこ事件認めているじゃないか。
    サリン事件に関わっていることも。
    これであとは麻原がどう出てくるかだなと感じていました。

    多分、私は、「対話本」だけを買って読んだならば、
    この後の何回かの裁判の時に、ウィキペディアにあった
    「尊師がどう考えているか、弟子たちに何らかの形で示してもらいたい。
    私たちはサリンを作ったり、ばらまいたり、
    人の首を絞めて殺すために出家したんじゃない」と麻原に対して叫び、証言台で泣き崩れた
    シーンについても、この後ほどなくしてあるものだと
    読み飛ばしていたと思います。
    実際は、証言台で泣き崩れたのは、ここから6年以上後の話であり、
    その6年の間に何があったのか
    おそらく裁判関係者以外にはあまり知られていないことではないかと
    思いました。

    私は、「対話本」



    のTu博士宛最期のメールに
    そもそも社会への貢献が考慮されるのであれば、
    裁判で検察側に全面的に協力した井上君、広瀬君、豊田君などは、林郁夫さんのように
    無期懲役になっていたと思います。
    」という一文に
    とてもひっかかりを持ちました。

    中川智正さんは裁判中何をしていたのか?検察側に協力的ではなかったのか?
    と、いろいろ改めて疑問を持つようになりました。
    それで、また自分なりに調べなおしているところです。

    中川智正さんが、「豊田君」と呼んでいる人
    この方は、先月26日に処刑された豊田亨さんのことです。
    この方については、中川智正さんとTu博士のような関係の方がいらっしゃり、
    今も大学で教鞭をとっていらっしゃる方です。
    豊田亨さんをモチーフにしたノンフィクションを出されています。



    この書物の最後に、豊田亨さんからの呼びかけ文が掲載されています。
    (2006年9月16日)
    さらに、豊田亨さん自身が気持ちが変化した部分については
    麻原彰晃こと松本智津夫被告は10月26日に予定されていた公判を
    故意に引き延ばしました。
    説法などで、『自らの宗教的確信は、たとえ断頭台に立たされても揺るがない』と
    語っていたから
    みずからの公判において、その宗教的確信が語られることを期待していたのです」
    「教祖の言動に一貫性がないという次元では、もはや済まされない。
    これが最終解脱者を自認していた人の発言かと思うと、
    失望、落胆、憤りを通り越して、悲しいというほかないのです


    豊田亨さんは1995年12月には教祖と精神的にも決別をしていた。脱会もしていた。
    私はそんなものだろうと中川智正さんについても思っていたところがありました。
    (脱会しているというのは、別の新聞で当時読んでいました。
    せっかく取得した医師免許を返上したのも反省されているのだと思っていた)
    しかしブログを書いていくうちに、そうではないという部分が沢山あり、
    「どうして見抜けなかったのだろう」と思うようになり、
    また、つらつらと書き連ねている次第です。
    ※実際は、少しずつ中川智正さんについて「免疫」が出来たため
    何となくは見抜けなかった理由も自分なりに理解しているつもりですが・・・。

    なお、中川智正さん自身が初公判の時のことを記しているのが
    『ジャム・セッション』5号 2014年にあります。

    「95年の10月に私の初公判が行われることになりました。
    初公判の朝、私は浅草署の1階にあるガレージに下りて
    そこで車に乗り込みました。
    ガレージのシャッターが開き、署の周囲を取り巻くように群衆がいるのが
    見えました。百人を超えていたと思います。
    手前には報道陣がカメラを持って陣取り、
    その向こうには店番や台所仕事からちょっと抜け出してきたような
    おじさん、おばさんが沢山いました。
    私が絶句していると、付き添いの警官が
    「外から見えないから大丈夫」と言ってくれました。
    確かに車の窓はスモークになっていて、車内から外を見ることが出来るものの、
    外から車内が見えないようになっています。
    署員が人をかき分けて、車は東京地裁へと出発しました。
    上空にはヘリコプターが何台か飛び、
    私の乗った車にはテレビ朝日の放送車が並走しました。
    アナウンサーがマイクを持ち、プロレスを中継しているのかと思うような表情で
    私の方を見て何か喋ってます。
    何を喋っているのか聞こえませんでした。
    (中略)
    浅草署を出る時、巨大ストロボで写真を撮られてしまったことがあります。
    ボンというすごい音がして窓ガラス越しにも熱感が伝わってきました。
    今でもマスコミでその写真を見ることがあります。
    警察の留置係は、写真を撮らせない工夫をもっとすると
    言っていました。以後、移動中に写真を撮られたことはありませんでした」

    中川さん、ちゃんと自分の写真とか見ているのか・・・。
    感想までは書けないのでしょうねーーー。

    ※※豊田亨さんに関しての書物を見つけられたのは嬉しかったです。
    そこで、どうか広瀬健一さんの文章も書籍化してほしいと
    切に願う次第です。
    webにあるのはわかりますが、リンクが切れていたりすると読みたくても
    読めないことがあります。
    だからこそなんですが
    心ある出版社さん、
    今後の教訓を共有するために
    どうか出版してくれませんか?

    【毎日新聞1995年10月24日夕刊】支える覚悟、固めた母

    今日は仕事帰り、マッサージを受ける予定でした
    が、
    なんと、すっぽかされてしまいました!(怒)
    (予約の時間にいったら、お店が閉まっていた)
    で、都内だったので
    時間を無駄にするまい、と
    閉館一時間前の「東京都立中央図書館」まで行ってまいりました。

    新聞記事あさりに。

    さて、私のブログを「最近になって」訪問してくださる方は
    恐らく題名をみただけで
    何のテーマか、もうお分かりでしょう。

    故・中川智正さんです。

    題名と年月からは、もうわかる人にはわかるでしょう。
    この日は、中川智正被告の初公判の日でした。
    傍聴希望者が4158人という過去最高を記録しました。

    その日の毎日新聞に、中川智正被告のお母様がインタビューに答えている記事がありました。
    このお母様、きちんとマスコミに向き合うところがすごい強い方。
    息子がオウム真理教に出家してから
    「オウム真理教被害者の会」にも入り、永岡会長とともに活動されておられた方。

    中川智正さんのお母様は、他のオウム関連死刑囚にも
    立派なお母さんだと言われていた(岡崎一明さんとか)。
    おそらく中川智正さんとしては頭が上がらない人だったのではないか・・・。

    このお母様が、中川智正被告と7年ぶりに再会したのは
    中川智正が逮捕されてから5日後、5月22日のことでした。



    「どんな顔をして会おう。何を話せばいいの」と戸惑いながら
    息子がいる警察署に意を決して会いに行かれました。

    以下記事を引用
    ———————————–
    接見室のドアが開き、息子も困ったように入ってきた。
    瞬間目が合い、涙があふれた。
    息子も涙がほおからあごを伝い、ぽたぽたと落ちた。
    互いに言葉は出ない。
    「この子はまだ大丈夫。私の顔を見て泣けるんだ」
    と母は思った。
    息子はよほど照れくさかったのか
    「タオル、タオル」と立会いの警官に声を掛けた。
    一息ついて話しだした。
    遠いところをありがとう。
    僕がこうなったことを
    世間では『親の育て方が悪い』というかもしれないけれど
    これは全部、僕のせいなんだ

    母が、弁護士を頼むつもりだ、というと
    「僕は出家して、いったん親子の縁を切った。
    都合のいいときだけ甘えることはできない」と断った。
    「一緒の家族なんだから。そんなこと言わなくてもいいんだよ」
    母は優しく言った。
    親子の縁は簡単に切れるもんじゃない。
    オウムに切られてたまるか・・・。
    そう思い詰めていたと、母は振り返る。
    「そこまで言ってくれるのですか。ありがとう」
    息子も応じた。
    息子の口から「脱会する」という言葉が出た。
    分厚い強化ガラスに遮られていても、
    息子は「母の情」に閉ざされた心を開き始めたのか。
    「やっと家族に戻れた」と、母は実感した。
    取り調べの捜査員からも
    「お母さんにあってから(中川被告は)顔つきが穏やかになった」
    と聞いた。
    だが、面会を重ねる中で母は息子の
    「妙に冷静な態度」
    が気になっている。
    麻原被告への怒りや憎しみは口にしない。
    「麻原ってひどいヤツよね」と水を向けても
    息子は反論も同意もしない。聞き流しているようにも見える。
    「まだ麻原のマインドコントロールが解けていないのでは」
    息子から麻原被告を非難する言葉を聞くまで
    母は決して気が休まらない。
    「多くの人の命を奪った。
    麻原の洗脳を脱して、そのことを本当に恐れおののいてほしい。
    心から謝罪して・・・」
    小柄な母は、小さな肩を震わせる。
    次第に声は細った。
    逮捕後、医師免許を返上し、卒業した学校の名簿からも名前の削除を求めた中川被告。
    早い段階から一連の事件の核心を供述したとされ
    周辺にも極刑を覚悟していると漏らしている。
    そうした突き詰めた気持ちが母との面会でも冷静さを保たせていたのだろうか。
    でも私は思う。中川被告は悔いるなら、自ら関わった罪に正面から向き合い
    苦しみぬいてほしい。犯した罪におののく姿を、さらけだしてほしい。
    少なくとも母はそれを支えていく覚悟をしているのだから。
    (社会部・東海林智)
    ——————————————————-
    この記事、私は当時別の新聞で読んだかもと思いながら読んでみました。
    そして、ブログでも少しずつ書いているけど
    この時は、まだ中川智正さんは自分の罪とも病気にも向き合ってはいない。
    これからあと、5年以上も事件について取り調べには答えるも、大切な部分で
    沈黙を続けることになります。

    しかし私は当時この記事を読んで、多分中川智正さんがすべて白状すれば
    解決しそうではないか・・・と思いながら
    いつしか忘れてしまっていました。
    本当に中川智正さんが罪に直面するときには、傍聴希望者が2桁に減った頃
    つまり世間がオウム真理教を忘れた頃だったころなのか・・・と。

    林郁夫さんや井上嘉浩さん、広瀬健一さん、豊田亨さんは
    わりと早くに教祖との縁を切っていたので
    この人もきっとそうなんだろうなーーーと思いつつ
    そうではなかったのだと、調べれば調べるほど深みにはまってしまう・・・。

    と、いうわけで、私もネタが尽きるまでは
    しばらくはこの人を追っていきたいと思います。
    (もちろん、気が向いたら、従来のエントリーを続けたいと
    思っています)
    いやいや、Twitterで出会う方々の熱意に私も影響されています。
    おそらく中川智正さんネタで何か書きたいという方のために
    お役にたてることが小さくてもあるなら
    きちんとした資料を提供させていただきたいと思います。
    早速ですが、今日は

    〇中川智正さんは、自身のことを「」と言っています。
    〇これ、裁判中もです
    なので、何か書かれるときは、「僕」と使ってみてください!
    反対に、井上嘉浩さん、土谷正実さんは「俺」じゃないかなーと勝手に思っていますが
    どうなんでしょうか。