日本の歴史、世界の歴史に汚点として残ることをした

1999年に入っても
中川智正被告は相変わらず証言しようとはしませんでした。

麻原の第103回法廷(1999年1月14日)に出廷した際に
麻原弁護人側から
「世間はあなたの気持ちを理解していない。分かってもらえないのは寂しいとは思わないか」
といわれた時
中川智正さんは
それは分かっていないでしょうね
両手をひざにのせ、天井を見上げ続けたまま。

その時教祖も、口をすぼめて目を閉じて、うつむいたままでした。

なお、中川被告のあとに出廷した遠藤誠一被告は、明確に
「松本被告がサリン噴霧を指示した」と、
麻原が直接松本サリン事件時に、弟子に直接指示を出していたことを初めて証言しました。

遠藤誠一さんと中川智正さんでは、
後に、確定死刑囚になったあとも沈黙をしていた遠藤誠一さんに対して
逆に拘置所内において論文を発表したりとアクティブだった中川智正さんの姿から

中川智正さんの方が先に教祖のサリン事件関与に関して証言し始めたように思えるかもしれませんが、

裁判内においての証言は、遠藤誠一さんの方が先であったのは
意外かもしれません。

2000年2月3日の中川智正公判において、VX襲撃事件の被害者・永岡弘行さんが検察側証人として出廷しました。
自分が犯した事件について「時期が来たら話す」としか言わない中川智正被告に対して
生ある限り、今日ただいまから事実を述べていただきたい。
誰が見ても、後悔の念がにじみ出ていると思える態度でそうしてほしい。
前途ある青年が、二度とあのような大罪を犯すことのないよう
現役の信者に、それは間違っている、というひとことを中川くんが残してほしい

という言葉に対しても、

中川智正被告は、ずっとうつむいたままで、時に泣き出しそうな表情でした。

この日に、永岡弘行さんは被告に対する被害者としての処罰感情を主に聞かれました。
オウム真理教家族の会(旧・被害者の会)の会員として、ともに息子を奪回するために
活動をしてきた中川智正被告のご両親を思うと、
正直、こうしてほしいと申し上げることはできない」といい、
永岡弘行さんを襲撃するために使った注射器にVXを注入したのが中川智正被告だと判明したときに
まず、中川被告の母親から電話を貰ったが、お母さんは私が電話に出た途端
何も言えなくなり泣くばかりだったとも証言しています。

裁判の休憩が終わり、再開したときに、少し遅れて入ってきた中川智正被告を見た永岡さんは、
思わずその顔を見ると、
中川智正被告が永岡さんの目を見てそっと会釈しているのが分かったと。

なんでこの子が、この青年が」とたまらなくなったとのことでした。
(以上、「朝日新聞」2000年2月4日朝刊)

その一月後、2000年3月末でした
中川智正被告の心変わりがあったのは。

地下鉄サリン事件について、いつもより詳細に語ろうとする姿勢を見せた中川智正被告に対して
どうせ自分は死刑と、なげやりになって調書の内容はどうでもいいと思った」といったあなたが
なぜ今詳細に語ろうとするのか、心境の変化があったのかと聞かれると

「自分が死刑になっても償いができる性質のものでない。
ものすごく大きな事件、
日本の歴史、世界の歴史に汚点として残ることをした、と少しずつ分かってきた。

これで自分の人生は終わり、どうでもいい、という感覚が消え
生存したい、というのではないが、残りの人生をちゃんとやらなきゃいけないと思うようになった
(以上、「朝日新聞」2000年3月31日朝刊)
おそらくこの裁判の時であったと思いますが、

青沼陽一郎『私が見た21の死刑判決』(文春新書)の中に詳細な内容もあります。



これについては、故・中川智正氏、被告時代の苦悩(その2)
でも引用していますが、
今回も再引用したいと思います。

「家族や友人から、きちんと話した方がいいというアドバイス、
あるいは法廷で証言する最後の機会がこの時であるという進言を弁護人から受けたことがあった。」
と言い、
「それと・・・私事ではあるんですが、実は最近、親戚が増えたんです」
・・・私は子供をつくれないけど、身内に子供を生んだものがいるんです。
その子は私が何をしたかを知らない。
おそらく一生会うことはないでしょう。
むしろ会わないほうがいい・・・。
だけど何十年か経って、身内の私のことを考えて
『この人はいったい何を考えてこんなことをしたのかな?』と理解されないのでは
残念な気がしたんです。
言っていること、わかってもらえます?
自分が死刑なるとわかってて、
人間の世界が終われば、別の世界に転生すればいいと思ってた。
でも私が居るいないに関係なく、
この世界は増えて、続いていくんだな。
きちんとしないといけないな、そう思ったんです。
あと、麻原氏の念というか、想念を感じることが一時あったが、
それがなくなった


中川智正被告はその後、一転して発言をするようになります。
すると教祖はどういう態度をするようになったでしょうか。

麻原第161回公判(2000年6月22日)において
麻原はこのような不規則発言をしています。

お前の大好きなブッダを」
「お前、やめろ」
「麻原彰晃、松本智津夫はお前の父親」
「脚力は強いんだ


以前であれば、黙り込んでしまっていた中川智正さんでしたが、
はっきりと不愉快な態度を見せています。

阿部文洋裁判長は、そんな中川智正さんに対して
「何も聞かなかったことにしましょう」と声をかけました。

この麻原被告の態度にも変化がありました。
これまでは「どうせ中川くんは話さないから」と思っていたから
口をすぼめていたのでしたが、
中川智正さんまで話すようになってから
必死になって止めようと、
お前の父親は俺だとか言い出すあたりは、
きっと麻原は不規則発言をしながら、法廷の内容を理解していたのではないか
と思えてなりません。

中川智正さん自身も、この2000年の心境の変化が大きかったと思います。

死刑が確定しているのに論文を拘置所から発表するなどの行為に
つながっていくのではないでしょうか。
中川智正さんのしたこと自体
「日本の歴史、世界の歴史に汚点」

自分は死刑になるけど、その後も世界は続くのだ。

だからこそ、自分は自分のしたことについて、
出来る限り正確に語っていきたいと。

中川智正さんの論文発表については賛否両論でることは
おそらく中川智正さん自身が「想定の範囲内」だったと思います。

事件の内容を語ることに意欲的だったのはなぜだったのか。
死刑執行後に出版することにこだわったのはなぜだったのか。

中川智正さんとしては
第一に、「自分が確実に死刑執行されて罪を償うこと」
第二に、「死刑執行前に自分のしたことを正確に書き残すこと」
と決めていたからではないでしょうか。
こうした自身の身の処し方をみても、2000年3月末というのは
大きな意味を持つのかと思います。
しかし、麻原の想念が入らなくなったと自覚してからも
苦悩はさらに続くこととなります。

【毎日新聞1995年10月24日夕刊】支える覚悟、固めた母

今日は仕事帰り、マッサージを受ける予定でした
が、
なんと、すっぽかされてしまいました!(怒)
(予約の時間にいったら、お店が閉まっていた)
で、都内だったので
時間を無駄にするまい、と
閉館一時間前の「東京都立中央図書館」まで行ってまいりました。

新聞記事あさりに。

さて、私のブログを「最近になって」訪問してくださる方は
恐らく題名をみただけで
何のテーマか、もうお分かりでしょう。

故・中川智正さんです。

題名と年月からは、もうわかる人にはわかるでしょう。
この日は、中川智正被告の初公判の日でした。
傍聴希望者が4158人という過去最高を記録しました。

その日の毎日新聞に、中川智正被告のお母様がインタビューに答えている記事がありました。
このお母様、きちんとマスコミに向き合うところがすごい強い方。
息子がオウム真理教に出家してから
「オウム真理教被害者の会」にも入り、永岡会長とともに活動されておられた方。

中川智正さんのお母様は、他のオウム関連死刑囚にも
立派なお母さんだと言われていた(岡崎一明さんとか)。
おそらく中川智正さんとしては頭が上がらない人だったのではないか・・・。

このお母様が、中川智正被告と7年ぶりに再会したのは
中川智正が逮捕されてから5日後、5月22日のことでした。



「どんな顔をして会おう。何を話せばいいの」と戸惑いながら
息子がいる警察署に意を決して会いに行かれました。

以下記事を引用
———————————–
接見室のドアが開き、息子も困ったように入ってきた。
瞬間目が合い、涙があふれた。
息子も涙がほおからあごを伝い、ぽたぽたと落ちた。
互いに言葉は出ない。
「この子はまだ大丈夫。私の顔を見て泣けるんだ」
と母は思った。
息子はよほど照れくさかったのか
「タオル、タオル」と立会いの警官に声を掛けた。
一息ついて話しだした。
遠いところをありがとう。
僕がこうなったことを
世間では『親の育て方が悪い』というかもしれないけれど
これは全部、僕のせいなんだ

母が、弁護士を頼むつもりだ、というと
「僕は出家して、いったん親子の縁を切った。
都合のいいときだけ甘えることはできない」と断った。
「一緒の家族なんだから。そんなこと言わなくてもいいんだよ」
母は優しく言った。
親子の縁は簡単に切れるもんじゃない。
オウムに切られてたまるか・・・。
そう思い詰めていたと、母は振り返る。
「そこまで言ってくれるのですか。ありがとう」
息子も応じた。
息子の口から「脱会する」という言葉が出た。
分厚い強化ガラスに遮られていても、
息子は「母の情」に閉ざされた心を開き始めたのか。
「やっと家族に戻れた」と、母は実感した。
取り調べの捜査員からも
「お母さんにあってから(中川被告は)顔つきが穏やかになった」
と聞いた。
だが、面会を重ねる中で母は息子の
「妙に冷静な態度」
が気になっている。
麻原被告への怒りや憎しみは口にしない。
「麻原ってひどいヤツよね」と水を向けても
息子は反論も同意もしない。聞き流しているようにも見える。
「まだ麻原のマインドコントロールが解けていないのでは」
息子から麻原被告を非難する言葉を聞くまで
母は決して気が休まらない。
「多くの人の命を奪った。
麻原の洗脳を脱して、そのことを本当に恐れおののいてほしい。
心から謝罪して・・・」
小柄な母は、小さな肩を震わせる。
次第に声は細った。
逮捕後、医師免許を返上し、卒業した学校の名簿からも名前の削除を求めた中川被告。
早い段階から一連の事件の核心を供述したとされ
周辺にも極刑を覚悟していると漏らしている。
そうした突き詰めた気持ちが母との面会でも冷静さを保たせていたのだろうか。
でも私は思う。中川被告は悔いるなら、自ら関わった罪に正面から向き合い
苦しみぬいてほしい。犯した罪におののく姿を、さらけだしてほしい。
少なくとも母はそれを支えていく覚悟をしているのだから。
(社会部・東海林智)
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この記事、私は当時別の新聞で読んだかもと思いながら読んでみました。
そして、ブログでも少しずつ書いているけど
この時は、まだ中川智正さんは自分の罪とも病気にも向き合ってはいない。
これからあと、5年以上も事件について取り調べには答えるも、大切な部分で
沈黙を続けることになります。

しかし私は当時この記事を読んで、多分中川智正さんがすべて白状すれば
解決しそうではないか・・・と思いながら
いつしか忘れてしまっていました。
本当に中川智正さんが罪に直面するときには、傍聴希望者が2桁に減った頃
つまり世間がオウム真理教を忘れた頃だったころなのか・・・と。

林郁夫さんや井上嘉浩さん、広瀬健一さん、豊田亨さんは
わりと早くに教祖との縁を切っていたので
この人もきっとそうなんだろうなーーーと思いつつ
そうではなかったのだと、調べれば調べるほど深みにはまってしまう・・・。

と、いうわけで、私もネタが尽きるまでは
しばらくはこの人を追っていきたいと思います。
(もちろん、気が向いたら、従来のエントリーを続けたいと
思っています)
いやいや、Twitterで出会う方々の熱意に私も影響されています。
おそらく中川智正さんネタで何か書きたいという方のために
お役にたてることが小さくてもあるなら
きちんとした資料を提供させていただきたいと思います。
早速ですが、今日は

〇中川智正さんは、自身のことを「」と言っています。
〇これ、裁判中もです
なので、何か書かれるときは、「僕」と使ってみてください!
反対に、井上嘉浩さん、土谷正実さんは「俺」じゃないかなーと勝手に思っていますが
どうなんでしょうか。