横須賀鎮守府司令長官官舎

Facebookで親しくお付き合いさせていただいている
中久保勲さんからの情報で知りました。

神奈川新聞社の記事です。

>旧海軍の横須賀鎮守府司令長官官舎の竣工(しゅんこう)100年を記念した講演会と見学会が
22、24の両日、横須賀市田戸台の海上自衛隊田戸台分庁舎(旧長官官舎)などで開かれる。

 「横須賀の文化遺産を考える会」(長浜つぐお代表)の主催。22日は午前10時半から、
郷土史研究家の長浜代表による講演を横須賀市西逸見町の市生涯学習センターで行う
。24日は午前10時から、田戸台分庁舎で現地見学会を実施する。

 分庁舎は1913年に建てられた洋風館と和風館の接続住宅。34代にわたる歴代の長官が居住したが、
戦後は米軍に接収されて在日米海軍司令官らの住居として使われた。69年に返還され、海自横須賀地方総監部が管理している。

 講演は、創建時から戦後の混乱期を乗り越えて現在に至る100年を検証する内容。
設計に当たった日本人初の英国公認建築士の称号を持つ桜井小太郎の足跡や米軍に接収されていた当時の使われ方、
近年明らかになったステンドグラスの逸話などを紹介する。

 参加費は全2回で千円、定員は先着60人で、18日が締め切り。問い合わせは同会電話046(826)0848へ

http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1309040029/

この横須賀鎮守府長官官舎は、桜の時期しか開館されておらず
私はその時期を探って、頑張って行ってきました。

京急県立大学駅で下車して、徒歩15分ぐらい。
坂をのぼります。

すばらしい桜と邸宅が見られて幸せな気持ちになりました!(^^)!

このようなところです。

●桜の時期の外観

yokotin_kansya

●執務室

DVC00033.JPG

●和室

washitu_yokotin
ここに一時期長官として住まわれた方には、
米内光政大将(1935年2月〜)などがいらっしゃいます。
米内光政大将はちょうど2・26事件の時に横須賀鎮守府長官でした。

また、築100年ということで、実は横須賀鎮守府長官をつとめられたことが
なかった東郷平八郎元帥や、日露戦争直後に横須賀鎮守府長官になられた
上村彦之丞大将は、ここに住まわれたことはありません。

中々行けない場所でもあるので、もしこの日行けるならば行っておいた方が
よいと思います。

私だったら、ランチは料亭小松で頂き、

2009-05-31 14.59.21

料亭小松のHP
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ryoutei-komatsu/

★約5,000円ほどで、予約が必要との事。

そのあと、タクシーでこちらに向かい、
しばし、横須賀鎮守府長官になった気分に浸りたいものです!
贅沢だなあ〜〜〜。

大西瀧治郎中将のお墓

oonishi

この写真は、先日ブログで取り上げました
大西瀧治郎中将のお墓です。

鶴見の総持寺にあります。

このお墓の左側にある観音様。

「海鷲観音」というのだそうです。

この観音様の建立は、大西中将の奥様・淑恵さんの発願です。
大西中将の奥様は、戦後の混乱時に、何とか夫の墓を建てたいと願い、
飴売りの行商を一人で始めました。

「元海軍中将の奥様がねえ・・・」
「特攻隊の名折れだから、行商やめろ!」
という非難や冷笑に耐えながら・・・。

ようやく昭和28(1953)年に、鶴見の総持寺に、中将のお墓と、
特攻隊員の霊をまつるための観音様が建立されるに至りました。
この観音様は、「海鷲観音」と名付けられました。

先の記事で、「イカリのマークは鷲のマークになおせ!」といったこととも
関わってくるのかしらんとも思いますが、
この観音様は、大西中将の奥様・淑恵さんの飴売りの利益で特攻隊員の霊を
慰めるために建てられたものです。
今でも写真のとおり、きれいにお花と、何とペットボトルのお茶まで備えられています。
奥様は、昭和54(1979)にお亡くなりになりましたが、
その後も大西中将を慕う人たちによって、維持されてきたのでしょう。
ちなみに、大西中将と奥様とのあいだには、子供はいませんでした。

大西中将は、自身の「お通夜」のあとに官舎に戻り
従兵に「カヤの中に、机と硯箱を置いて、床をとってくれないか」と
頼み(多分この時に遺書を書いたのであろう)、
その従兵は、日時が変わる頃にまたお茶を入れて大西中将の部屋に持っていったところ、
大西中将は
「ありがとう。・・・ゆっくり休みたまえ」とねぎらいの言葉をかけたとのことです。

そろそろ空が白みかかる午前4時頃、従兵が突然目を覚ましました。
何だか、巨大なうなり声が聞こえてきたような感じだったとのことです。

胸騒ぎがした従兵が急いで大西中将の部屋のドアをあけると、
部屋の中央の真っ白いシーツを敷いた上で、大西中将が血まみれになって突っ伏していました。
その姿をみた従兵は、大西中将に思わず動転してすがりつきました。

「うん、うん、そう騒ぐな・・・。これだけの出血だから、もう時間の問題だよ。
お前に武士の情けがあるなら、絶命するまで、誰にもいうな・・・」

軍刀で心臓を刺し、返す刀で頸動脈を切っていました。
普通の体格の方なら、とっくに死んでいたほどでした。
すぐ軍医が呼ばれ、軍医は大西中将にとりあえず応急処置を施しましたが、
その最中も、大西中将は軍医をにらみつけていました。

「あの形相は、ぞっとするほどのものすごさだった」というぐらい。

応急処置をしてもすでに手遅れだったようで、
「次長(大西中将)、どうやら次長のご満足いくような結果になりそうです。」

それを聞くと、大西中将は満足げに「児玉誉士夫を呼んでくれないか」と頼み、
児玉誉士夫(1911〜1984 政財界のフィクサーと呼ばれた人物で、大西中将と親友)が駆けつけてきました。
彼に向かい大西中将は、
「貴様が鈍刀をくれたから、死に切れないよ」
「バカを言え、それは名刀なんだ。もし生きていたら、頭を下げてもらいうけるよ」

そして、奥さんに自分の死を伝えることを児玉にお願いしたあと、
「自分が入る棺桶と骨壺を見て死ねるなんて、おれは幸せな男だよ」とほほえみ、
「もう時間の問題だな、そろそろ葬式の準備をしたらどうだ」とまで言ったとか。

そして意識を失い、いきなり身を起こして正座しようとされて、大西中将は絶命されたのです。
この動作は、「おそらく皇居を拝する姿勢をとろうとしたのだろう」と考えられています。

奥様が疎開先の群馬から東京に駆けつけたときは、大西中将はもうこの世の人ではありませんでした。

覚悟されていたとはいえ、奥様ご自身も後を追うことを何度も考えられたそうです。
それを何度も思いとどまり、お墓の隣に、特攻隊員全員の霊を慰める観音様まで
建てられたのでした。

参考文献:
妻たちの太平洋戦争―将軍・提督の妻17人の生涯 (光人社NF文庫) 文庫 – 1994/1
東条英機とその時代 (1980年) - 1980/7

総持寺は、晩秋の雰囲気がとてもよかったです。
大きなお寺で、ちょっと京都の大きなお寺にいったかのような感じに
なれるような雰囲気でした。

CIMG2595