日本一の大杉「杉の大スギ」

明けましておめでとうございます
本年もどうぞよろしくお願いします

なかなかブログ更新できないですが
書ける時は書こうと思います

さて、私は昨年のある日ですが
ついに行きたかったところの一つ
「杉の大杉」(高知県大豊町)に行ってきました。

なかなか高知県まで行くというのは、費用的にも日程的にも
難しいものがありますが
3万ほど(行き帰り新幹線と岡山泊ホテルの1泊2日)で
またも行ってきました。

まずは新幹線で岡山に行き、岡山⇄大杉は特急にての移動
(これが8,000円以上かかります。
それならば、東京⇄高知間のビジネスパックでもいいんじゃない?と
言われましたが、結局岡山に泊まることにしました。)
かなりタイトな旅でした

まだ香川県の旅についても中途半端なままなのに・・・。
こちらはまた後日にします。

JR大杉駅前に降り立ち、橋を渡ると大杉ハイヤーさんがありましたので
まずそこに向かいました。
運転手さんに、
「山下奉文旧邸跡」と「杉の大杉」を何とか一度に回りたいとお願いしたら
快く応じてくれました。
徒歩ではいけない距離ですから・・・。
なので、歩いたのは杉の大杉」からJR大杉駅(1キロ弱)までだけでした。
昔の人の健脚さに驚きました・・・。

山下奉文さんは、幼少期の一時期、現在の高知県大豊町で暮らしていました。
ちょうど、小学校の教師を辞めて医師になったお父さんが開業していたのが
このあたりだったのです。
今で言えば小学校低学年あたりの頃に生活していた場所でした。

もっとも、行くことを決めてからもう一度書籍を読み返すと、
山下奉文少年は、大杉のあたりで生活していたこともあるけれど、
そこから離れた、現在の土佐山田町あたりで生まれ育った時期の方が長かったということでした。
高知に泊まれたなら少しはゆっくり回れたのにと悔やまれます・・・。

タクシーを降りると、八坂神社があり、
その手前に料金所がありました。
この大杉を維持するのに使われるとのこと。

そして「杉の大杉」です

杉の大スギ

素戔嗚尊が植えたと伝えられるこの杉、樹齢3000年と言われる
この大杉。本当に大きかったです・・・。
写真に収まらないほどに
なんとどっしりしているのだろうと
この樹木が出す静けさが素晴らしかったです。

なんと大切にされてきたのだろうと思いました。

タクシーで時間稼ぎをしたので、約50分ほど時間ができました。
なので、樹木の近くにあるベンチでぼーっとしていたり
境内をぐるぐる廻ったりしていました。

そうしたら、小さなお社がありました。

「巨杉の社」と書いてありました。

巨杉の杜

下に碑文がありました。

「陸軍大将山下奉文はこの地大豊町川口出身 
号を巨杉という 
大東亜戦争の緒戦マレーシンガポールの攻略に 
神速なる戦果を挙げ世界の戦史を飾る 
のち満州より転じて比島作戦を継承するも時に利あらず 
詔勅に従い矛を収め部下全将兵の責任を受け 
米国軍法会議の決に服し莞爾として刑死せり 
惜しむべし将軍は皇国の無窮と弥栄を固く信じ 
至誠純忠悠久の大義に殉じ 
その霊魂はここ日本一の大杉に宿る
嗚呼 偉なるかな 萬人巨杉を仰ぐ」

やっとここまで来られた!と思っていたところ
料金所の女性の方が、私に話しかけてこられました。
彼女は、この巨杉の社を詣でる人には特別な資料を見せることもありますと
言われていました。
山下奉文大将関連の資料でした。
やはり、年に数名は、山下奉文大将を慕ってお詣りする方がいらして
その方々が資料を彼女に預けられていくのだそうです。
山下奉文大将関連資料が集まってくるのだそうです。
※私も後日、東京で集められる山下奉文大将関連資料を集めてお送りしました。
年に数名いるかどうかの方々が山下奉文大将を思い出してくれたらと思い・・・。

多くの人は、裏の美空ひばりさんの碑に行ってしまうのだそうですが。

大東亜戦争後、八坂神社の宮司さんは、

釣井正亀宮司

なんとか山下奉文大将を祀ろうと努力されてきたのですが、かなり苦労されたそうです。
戦争犯罪人を祀るとは!とか。
「巨杉神社」としたところ、宗教的な面でこれまたクレームもあり、
「巨杉の杜」としたそうです。
昭和61(1986)年当時は確かに「巨杉神社」だったのに。
(「巨杉会会報 別冊特輯 カンルーバン将官収容所に於ける
   将軍の横顔と句集」(1994年8月)所収の当時の新聞記事より)

昭和末期頃は、まだ山下奉文大将に仕えた部下たちも生きていたのですが
平成に入る頃には戦友会もなくなってしまい、荒廃してしまったところ
なんとか「巨杉の杜」という形で再興したものらしいです。

そんな話を伺っていると、もう15時近く。
電車に乗り遅れそうでした。
最後は小走りをして、なんとか乗りました。
もうクタクタでした。

江ノ島の隠れたパワースポット

江ノ島と言えば、日本三大弁天の一つである
「江島神社」とか、しらすぼしグルメなどで有名ですよね。

この江ノ島に、隠れたパワースポットがあります。

それは

kodama_syaden

児玉神社です。

勝利のパワースポットだということです。

結構江ノ島全体は混んでましたが

江ノ島参道

ここまで行くひとは少なかったですね。
ちょっとわかりにくいところにあります。

この児玉神社のご祭神は、この方です。

児玉源太郎

日露戦争時の満州軍総参謀長として、司令官・大山巌元帥を輔佐した名参謀と言われた方です。
台湾統治にも手腕を発揮された方ですね。

この児玉源太郎大将が、なぜ江ノ島にゆかりがあるのでしょう・・・。

日露戦争直前、児玉大将が一人になろうとして江ノ島の別荘に引きこもっていたのに
その別荘にいることを知った政府や軍のひとたちなどがたくさんやってくるように
なり、江ノ島周辺の人たちは「何でそんな偉いひとたちが、ここにやってくるのだろう」と
思ったらしいです。
それで、あとになって日本を勝利に導いた児玉源太郎大将がいらしたからだとわかり
神社を造ってお祀りしたということです。
神社の資材は台湾から取り寄せたもので、日本と台湾の関係もわかる
勝利のパワースポットです。

ここからの見晴しは素晴らしいものでした。

児玉神社

日露戦争時の満州軍総司令部内における「大山・児玉コンビ」というのが
日本陸軍における「司令官と参謀のあるべき姿」となっていったようですね。
大山さんは何もいわず、児玉参謀長にすべてを任せる。

実際の大山さんは万事に細かく、その細かさに耐えられる参謀長というのが
児玉参謀長だったということは忘れてはならないと思います。

司令官は何も言わないのが良しというのではなく、細かいことを承知しながら
自分の信頼している参謀長以下に任せて責任を取るという姿勢は
中々誰もができるものではないと思います。

なお、この日露戦争時の満州軍総司令部には、参謀兼大山元帥専属副官として
尾野実信(おの みのぶ)少佐(のち陸軍大将)がいました。
この尾野実信大将は、武藤章さんの義理のお父様です!
尾野実信さんは、満州軍総司令部時代に大山元帥の専属副官としても務めていたので
大山元帥から信頼されていたことを誇りに思っていたようです。

大山元帥の妻・捨松夫人が、「主人の好きなのは、児玉さんと尾野さんとビーフステーキ」と
言っていたことを講演で話されていました。
児玉さんとは別の立場で参謀と副官やっていた尾野実信少佐についても
関心があります・・・。

よく、山下・武藤コンビを大山・児玉コンビになぞらえる向きがあると思います。
山下・武藤コンビもそれを意識していた部分もありますが、
ちょっと違うんではないかなあとも思います。
山下さんも武藤さんも、結構口を出す部分多かったし。
両方ともかなりうるさ型上司であったと思いますが、
両名ともそれを意識してか、山下さんが参謀に雷を落としているときは
武藤さんは、母親のようなまなざしでフォローするというような感じで
救われたと、元参謀であった渡辺博・元陸将(大東亜戦争時は少佐)が回想してました。

ちょっと変わったパワースポットで、江ノ島の中でも静かな場である児玉神社、
もし行く機会があれば行ってみてください!

今回、写真加工でPhotoshopCS6を頑張って使ってみました。
株式会社LIGさんの
この記事を参考にしながら・・・。
http://liginc.co.jp/web/camera/65147

昭和17年・武藤家の正月

明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い申し上げます。

以前のブログよりは、更新できるようになってきたような
(それでも、ブロガーさんといわれる方から見れば・・・)

izusan_jinjya

☆伊豆山神社の茅の輪・・・八の字に三回回ると厄払いができるというもの。
お正月の時期しか見られないものです。ここから徒歩20分ぐらいに
興亜観音があります(武藤さんたちの遺骨が安置されていた場で、元松井石根大将の邸宅近く)。

何とか自分のペースで頑張っていきたいと思います

大東亜戦争が始まった直後の、陸軍省軍務局長家のお正月とは
どのようなものだったのでしょう。

こんな資料を見つけました。

の中の194頁あたり。

武藤軍務局長が大東亜戦争開戦を何とか食い止めようと奮闘するも
結局開戦の覚悟を(軍事事務的に)決めようとしている
怒涛の時期から一転、実は静かなお正月を過ごされていたようです。
もちろん、世論は「打倒米英」の叫びや運動で沸き立ち、青年将校たちも
あちこちの集会に招かれたりなど忙しかったようです。
マスコミは大勝利の快報を伝えるのに忙しかったはずなのですが、
なぜか陸軍省軍務局長家は静かだったとのことです。

しかしそれは、武藤章さん個人としても、最後の家庭での正月だったのですが・・・。

武藤さんとよく論争していた矢次一夫氏も自宅でゆっくり過ごしていたようですが
そんなときに武藤さんから
なぜ正月だというのに、酒をのみにこないのか?

「戦勝気分で、いまや大軍務局長としてときめくところなど、素寒貧書生の
近づくところではあるまいよ」と誘いを断ってはみたものの
結局は武藤家(陸軍省軍務局長官舎=麹町にあった)を訪問することに。

行ってみると、一人も年賀客がいない・・・

このころの武藤さんは、軍内部でも孤立して少数人だったように、矢次さんには見えたとのこと。
矢次さんは、頑固な武藤さんが癇癪をおこして部下を縮み上がらせたりということも知っていたので、
武藤さんが孤立することで、非戦論の孤立化になることを恐れた」ということでした。

おそらく武藤さんは、矢次さん相手にゆっくり話をしたかったのではないでしょうか。

矢次さんは、武藤さんに対してかなり「きわどい」質問をしてます。

和戦の決定に悩みぬき、必勝の確算がないというのに、なぜ戦争に踏み切ったのか

武藤さんの答えは

「古今の戦史を見ると、戦うべきときに戦わなかった国家は、
相手国の屈辱に甘んずる結果、国民は志操を失い、領土や資源の多くを
奪われる結果、再起の力を持つに至らない。したがって
戦うべきとき、いやしくも腰に武器を帯びるものは、いかに必勝の自信がもてぬにせよ、
剣をとって戦うべきであり、恥に生きるよりも、名を重んじて死を選ぶべきである。
そして勝敗に拘らず、義を重んじ、名を惜しみつつ戦うことによって
敗れたりとしても、後世の国民は、戦いぬいた父祖の志操と勇気を伝承することにより、
またいつの日にか復興し得ることがあろう」

矢次さんは、この武藤さんの答えについてもかなりどぎつく批判しています。

「今回の戦争が、日清・日露戦争の如く、ロシアのアジア侵略の防止、清韓保全という大義名分が
あったのと対比し、大東亜共栄圏建設とか、米英のアジアからの追放というような
帝国主義とみられる要素が多いこと、これらを事前に処理し、むしろ国内政治革新を先行さすべきで
あった」と。

武藤さんはこのようなことを言われても感情的にならずに

「わかっていた。その通り。だからこそ近衛(文麿氏)をかついで
新体制運動を起こしたのだが、失敗したねえ。
もう、それを言うてくれるな」と苦笑されていたと。

武藤さんは、これからの最大の課題は、「終戦」であり、一日も早く、一刻も早く
好チャンスを求めて少しでも有利に「和平」をやることだ。
今日、君に来てもらったのも、そのことを今から考え、努力してほしいからだ」と力説されていたとのことです。

ちなみに、山下奉文中将統率の第25軍がシンガポール攻略するのは
昭和17年2月15日のことです。
武藤さんは、マスコミやら、青年将校の動向やら、軍内部の人間関係の煩わしさから
一時解放されたのがこの時だったと思います。
その時に、友達にこんなことを言い残していたのでした。

私自身も、一瞬、「大東亜戦争は侵略戦争的要素があったと、武藤さんのような方だっていっているではないか」
と思ってしまいます。多分私自身が楽だから。考えこまなくていいから。
多分、私の周囲で、わりと「日本はかつて他国を侵略したのだから・・・」という考えの方に
私自身が阿りそうな惧れもある。

でも・・・どのような原因があったにせよ、国民自ら開戦を支持したのだから。

武藤さんの立場は、一般国民とは違う。
政治的な要素が多い軍事事務の中枢だったのですから。
さんざん、マスコミ・国民の動向、政治家たちの動向に振り回されてきて
苦しんでこられた結果だったのです。

私個人は、直接的に「侵略戦争」と、その対極にある「聖戦」の用語を簡単に使うのは
避けたいと思っています。
自国の歴史から気概と誇りを持つのは大切です。
だからといって、あまりにも力を込めて「気概と誇り!」というのが好きではないです。
また、「過去の戦争を反省しましょう」という「謝罪史観」も好きではないです。

いま日本の中だけでも、かなりせわしなく時が過ぎているように思いますが、
そんな時でも、せめて物事を複眼的に考えられるようになりたいものです。
そのためには、多分時間が必要です。
一つの考えを、ゆっくり自分のなかで咀嚼してとらえなおす・・・。
そんな時間を少しでも持ちたいなと思います。

武藤さん、あなたは
「古今の戦史を見ると、戦うべきときに戦わなかった国家は、
相手国の屈辱に甘んずる結果、国民は志操を失い、領土や資源の多くを
奪われる結果、再起の力を持つに至らない」と言われていますが、

それはいったい、どこの国の戦史を例にとられたのでしょうか?
どうか教えてくれませんか?

撮影成功ヽ(○`∀´)bィェィ成功♪d(`∀´●)ノ

やっと撮影成功しました。

御霊神社と江ノ電

ここは、鎌倉坂ノ下にある御霊神社です。
江ノ電だと、長谷駅が近いです。
でも、長谷駅といったら、鎌倉大仏の最寄駅。
こちらに行ってしまうひとのほうが多いと思います。

私は以前から、大仏よりも、こちらの神社に注目してました。
それは、鳥居のすぐ近くに江ノ電が通過していく様子を
何とか写真に残したいと思ったからです。
江ノ電に乗っていて、もしこの神社の手前で電車が緊急停止したとしたら
すぐにお詣りできそうな感じです。

今まで2回チャレンジしましたが、いずれも電車が通過してからなど
シャッターチャンスを逃すことが多く、
江ノ電そのものが10分に一回しか通過しないので、
あまりこの写真にばかり捉われていては他の場所を観光できないので
地元民ではない私はあきらめてました。

でも今回は無事、成功しました!
やったーーーー(●≧∀≦)ノ成功したョォ.+゚*。:゚+

新しい年は良い年になりますように。

ちなみにこちらの御霊神社(権五郎神社ともいいます)、
後三年の役の際に、源義家に従って戦った
鎌倉権五郎景政をお祀りしてます。
鎌倉周辺には、なぜか御霊神社というのがいくつもあるのですが・・・。
この鎌倉権五郎景政という人は、武人でもあり
さらに、大庭御厨(おおばのみくりや)
の開発領主(かいほつりょうしゅ、とよみます)でもありました。
御厨というのは、伊勢神宮に寄進された荘園のことです。
さらに、「大庭」という地名は、現在も神奈川県藤沢市に現存しています。

武士たちは、自ら開発した土地を守るため、それはそれは苦労をしていました。
所領争いに明け暮れる毎日でした。
その苦肉の策として、天皇家や、伊勢神宮などの権力者に寄進し、自分たちは実質上の土地所有者となっていました。

鎌倉権五郎景政という人は、できれば自力で土地を守れればそれに越したことはなかったのではないでしょうか。
でも、隣近所の武力抗争の中で生まれて、武人となった彼は、土地を守る手段として
後三年の役に従軍したのではなかったでしょうか。
鎌倉権五郎景政は、この戦の中で、目を射られてしまいます。
それでも奮闘したという言い伝えがあります。

ということは、この御霊神社、眼病にきくのではないでしょうか?
また、視力がよくなりたい人にとっては効験があるらしいとは
江戸時代から言われています。

それにしても、なぜ鎌倉権五郎景政をまつった神社を「御霊神社」というのでしょうか?
よくわかりません。
この鎌倉氏という一族は、結局鎌倉全体の支配者になれなかったからではないか?
その後も大庭御厨をめぐって源義朝(頼朝の父)がねらっていたり、
さらに鎌倉氏一族も、平安末期から鎌倉時代初期にかけて、数々の関東武士による騒乱に
まきこまれて分裂していったという隠れた悲劇があるように思います。

社殿は、明治時代に再建されたとのことですが、実に立派なものです。
坂ノ下の住人が、先祖代々この神社を大切にしてきたことが
本当によくわかる神社でした。
なお、この神社内には、日清・日露戦役で命を落とされた23柱がお祀りされています。

御霊神社本殿