「村井さんはやくざに頼んで自殺したんじゃないか」

今もって謎が多い村井秀夫元幹部の刺殺事件。
この事件についても、中川智正さんは裁判中に証言しています。

麻原第193回公判(2001年4月20日)において、
中川智正被告は、
逮捕時の自身の様子について麻原側弁護人から尋問されました。

弁護人:「逮捕にあたっての教団の指示は?」
中川:「なかった。1990年の国土法違反の時は黙秘していたので
    黙秘はするものだと思っていた。黙秘は難しいから死んだ方がいい、ともほかの人と話したが」



弁護人:「どうして死んだ方がいいのか」
中川:「しゃべるぐらいなら。
村井さんはやくざに頼んで自殺したんじゃないかと思っていた
あの人なら、そのくらいやりかねない。ああいう風に死ぬんだったらいいなと」

弁護人:「どうしてしゃべりたくないのか」
中川:「麻原氏のことはしゃべりたくない。
逮捕されたら社会に戻るわけだが、犯罪のもとになっている内的体験とか
信仰をいっても分かってもらえないだろうと思った。」

2001年の教祖公判時に証言として「村井自殺説」を出していた中川智正さん。

その後中川智正被告自身の裁判時に、村井秀夫に関して、
被告人質問で、教団崩壊のもとを作った一人として責任を取らせられる立場だったのではと
次のように話しています。

出典:降幡賢一『オウム法廷13』



弁護人:「そのころ(逃走しながら、さらに事件を起こすことを相談していたころ
どんなことを考えていたのか。」

中川:「(教祖が)村井さんに責任を取らせようとしているのかな、ということです。
武装化でいろんな事件を起こして、教団が崩壊に瀕している。お前、何とかしろ、責任を取らせようとしているのではないかと」

弁護人:「(教祖が自分で)武装化を指示しているにもかかわらず、責任をとらせるのか」
中川:「教義でもあるが、弟子のカルマによって失敗したんだと。
やっている人が村井さんでなければ、別の人であれば成功した、ということです。」

弁護人:「何が悪いと」
中川:「心がけとか運命とかいうことになってしまいますが、
要するに関与したお前が悪い。運が悪いのもお前が悪いと。
それで村井さんが追いつめられているのかな、と。
その時でなく、しばらく暮らしているうちにそう思いました。」
(裁判長)
「それは教団内の責任は、それとも社会的、刑事的責任についてもか」
中川:「事件を起こすことについての刑事責任も含まれていたが、
    宗教的に、事件を起こして自決しろ、というようなことだと思いました。」
(弁護人に戻る)
「くどいようだが、事件を起こしたのは麻原さんの指示だが、
 窮地に陥ったのは村井さんの責任、カルマだから、それで事態を打開するのか」
中川:「打開しようのない状況だったから、打開できるようにしろ、そのくらいのことをしろ、
    と突きつけられているんじゃないかな、と思いました。」

(その後、地下鉄サリン事件後、村井元幹部が4月12日に井上嘉浩被告に、
自衛隊員の信徒を使ってクーデターを起こせと指示してきたことについての質問があり、
中川被告は「あまりにも突拍子のない話」だとし、次のように答えています)

「普通なら、四・五人でクーデターといって殴り込んだら、死んでしまうと思う。
井上君は死ね、と言っているのかと村井さんに反論したと聞いているが、
実際は井上君に死ねといっているのではなくて、
仮谷事件を実行したことを麻原氏は怒っていた
教団がこんなになってしまったのに、お前はどう責任をとるのか
その責任の取り方として、クーデターで突っ込んでいって死ねと、
そういう責任の取り方があるということで言っていたと思った。」

弁護人:「中川さん自身は、(そのころ)教団の先行きをどう思っていたか」

中川:「極めて厳しいと思った。近々潰れると思っていました。(そのことは)麻原氏もわかっているだろうと。
私は、90年のインド旅行のとき、麻原氏からいずれ教団はつぶれると言われている
私のベースはそこなんです。
武装化しても教団の天下がくるとは思っていなくて、どんどんじり貧になっていく。
時々麻原氏がそういうことを漏らしたので、そういうことだ、と思っていました。」

やっぱりあのう・・・責任を取らせるとか、要するに弟子のせいだと、
 弟子が至らないためにそうなった。運が悪いというのも至らないためだと。


弁護人:「だとしたら、結果がでないのはお前たちのせいだというのには反発の気持ちが起きなかったのか」
中川:「そこまで行くと、普通は反発するかと思うが、それはなかったです。
やはり自分たちが悪い、と思っていた。多分
(当時いっしょに行動していた)豊田(亨)君はそう思っている。
富永君はわからないが、林泰男さんはそうだったと、井上君もそういう言動があった)
※5月15日までは、井上、中川、豊田、林泰男、高橋克也は一緒に行動していた。この日井上、豊田が八王子で逮捕されている。
それからは別行動になり、中川、林、富永たちは杉並に逃亡したのか?
中川さんは17日に杉並区内で逮捕、林、富永はその後もしばらく逃亡。

教祖から「弟子の心がけが悪いから教団が崩壊するので責任を取れ」という言動を受けていたと話した後、
村井秀夫刺殺事件の所感について弁護人から問われました。

「4月23日に村井さんが殺害された。殺させたのは教団だと思ったのか」
中川:「当時の気持ちを言えば、(教団は)関係ない。
ただし、ちょっと思ったのは、村井さんであれば、自分で自分の口封じをしかねない。
俺を殺してくれと頼んで刺してもらう。そういうことでもしかねないと思いました。」

弁護人:「どうして知ったか」
中川:「刺された瞬間をテレビで見ていました。ちょっと瞑想したが、もう助からないという声が聞こえました。
その旨を井上君らに伝えた。音声だが、他の人には聞こえなかったと思います。」



弁護人:「麻原さんの声か」
中川:「ではないが男の声です。その声が教えてくれたので伝えました。
それからちょっと後、亡くなる前ごろから亡くなった時、光が降ってきた。
亡くなったと聞いたときか、ちょっと後だが、光が降ってきました。
それで麻原氏が村井さんをポアしたと思った
殺したという意味ではないが、高い世界に生まれ変わったんだと私は思いました。」

弁護人:「村井さんの件、亡くなったとわかったとき、どんな思いがしたか」

中川:「そのときですか。
一つは村井さんがいなくなったということで、心にぽっかり穴があいた気がした
もう一つは高い世界にポアされてよかった、という気持ち。
歓喜が出てくる感覚が加わった。」

弁護人:「あなた自身と引き比べて何かあったのか」
中川:「自分と比べてですか。あの、うらやましかった。一つは高い世界に生まれ変わった。
あと一つは、何かあの、煩わしいことから解放されたように見えた。
随分大変だったと思うが、解放され、全部投げ出して、こちらでやれと言って、
何かうらやましかったですね。
自分がああいうふうに殺されたくないとかではなく、ああいいな、と考えました」

なお、教祖の四女は、著書の中で村井秀夫さんの死について


父親で教祖が直接村井秀夫さんに
お前の今生の役目は終わった。」と伝えているのを聞いています。
その言葉が今もよみがえって来て背筋が寒くなると書いています。

中川智正さんが、村井秀夫さんと最後にあったのは4月12日と
『ジャム・セッション』7号(2015)に記されています。
この文章の中では、意識的に自分の神秘体験については触れていません。

その後10日の間、遠く離れて行動していたにもかかわらず、中川智正さんは
自分の神秘体験をもとに、村井秀夫さんが教祖によってポアされたという証言をされました。
教祖四女の証言と不思議に一致していることに、私も今回驚きました。
その上、逃亡先でテレビ放送を見て、そういう神秘体験をしていることにも。
このテレビ放送が今も、Youtubeで手軽に見られるのですが、
当時この動画をテレビで見ていた中川智正さんの神秘体験が
このようなものだったのかとも。

確かに村井秀夫さんは教祖からポアを言い渡されています。
そのポアの解釈を、村井さんは自身を誰かに殺してもらうということで、
あの刺殺事件に至ったのであれば、
これは裁判では不明のままの扱いにはなりますが、
中川智正さんの神秘体験を無視できないのではないかと
私は思いました。
なお、村井秀夫刺殺事件について、中川智正さん自身が初めて証言したのは
教祖の公判で、教祖の前であったということもまた注目すべき点です。
ぶつぶついっていたのか、寝ていたのかわかりませんが・・・。

「子どもを何とかしろ」という声が聞こえた(坂本弁護士一家殺害事件)

中川智正被告が一番語るのが辛かった事件が、坂本弁護士一家殺害事件と思います。
中川智正さんにとっては、
オウム真理教に出家して2か月後に加担した殺人事件だったのだから。
坂本弁護士一家殺害事件について法廷で証言をし始めたのが、
2000年7月の自身の公判でした。
(「朝日新聞」2000年7月28日朝刊)

坂本弁護士一家殺害の謀議の場で、教祖の指示は何という言葉だったのでしょう。
例えば、岡﨑一明さんは「ポア」という言葉を教祖が使ったといい、
それに対して、教祖は「ポアなんて言ってません!」と言い返していました。
※この件に関する動画は、青沼陽一郎氏作成の動画が詳しいです。



中川智正被告の証言によると
殺害を意味する宗教用語の「ポア」ではなく
「やる」などという直接的な言葉で指示した
ということでした。
これは他の被告とは異なることでした。

さらに、坂本弁護士の息子さんだけではなく、妻の都子(さとこ)さんを殺害したことも
認めました。

事件については、
「二日前に実行犯らが松本被告の部屋に集められ、
教団を批判する記事を掲載していた週刊誌『サンデー毎日』の当時の編集長を
教祖と村井秀夫幹部が話し合った結果殺害する計画になった」

しかし、編集長が家に帰らないという話が出た時に
教祖が突然「坂本弁護士はどうだ」と言ったことで
殺害対象が坂本弁護士に変わったと主張しました。

坂本弁護士の名前が出た理由については
「説明がなかった」とのこと。

犯行の状況については、村井秀夫幹部が都子さんの首を絞めていたのを見て
「けい動脈を押さえなければ」と自分から言い、
村井秀夫が「代わってくれ」と答えたため
柔道の絞め技を使って首を絞めたと供述。
「私が絞めている間に奥さんが亡くなった可能性が高いと思う」と。

この2000年7月の公判の時以上に中川智正被告自身が落ち着きを失ってしまったのが
2001年3月9日の麻原第187回公判でした。
(「朝日新聞」2001年3月28日朝刊)

殺害場面に関する尋問の際、異様に興奮し、何度も証言台に突っ伏してしまいました。
法廷イラストはこちら。

証言によれば、共犯者の一番後ろから寝室に入った中川智正被告は、
他の共犯者が一斉に坂本弁護士に攻撃するのを
しばらく室内でぼうぜんと立ったまま眺めていたと。

すると、足元で、幼児が泣き始めました。
そのとき、中川智正被告には「子供を何とかしろ
という声が聞こえたといいます。
それは仲間の誰かが叫んだのではなく、
自分の心臓の中からの声」だと思ったと。
その後、隣で奥さんを攻撃していた「村井さん」の首の絞め方が十分ではないのが
分かったので、思わず「けい動脈!けい動脈!」と口走りました。
自分が過去世で『麻原尊師』にけい動脈を絞められて殺された記憶が
あり、それには宗教的意味合いがあると考え

「村井さん」に代わって柔道の技で奥さんの首を絞めたーーーというのでした。

この話は捜査段階ではなかったと検察側が追及

「そう主張するのは、自分の責任能力を争って軽くしようと考えているからではないか?」

それを言われてますます中川智正被告は興奮。
「たしかに書いてない。
検事さんはその話をしたとき、
笑って聞いてくれなかったじゃありませんか


そう言って、それまでも何度もメガネを外して、
証言台に顔を伏せるようにしていた中川智正被告は
そこに突っ伏して、長い時間、何も話そうとはしなかったとのことでした

さらに「朝日新聞」2002年4月20日朝刊。

この前日19日に、自身の公判において坂本弁護士事件関係の最後の被告人質問がありました。
その時にも「おわびのしようがない」と証言台に突っ伏して泣きだしました。

「自分の中には『教祖』松本智津夫(麻原彰晃)被告の想念が入り込んで来て、
自分は教祖と一緒にいるいう
笑い出したいような歓喜を感じた』」とまで供述。

なぜ事件に関与したのかの問いには

「一言で言えば、麻原氏の意識と自分の区別ができなかったから

「自首という発想はなかったが、
麻原氏がしろといったらしたし、死ねといったら死んでいた」と語りました。
この日の供述中、中川智正被告はずっと泣き続け、興奮し続けていたようですが、
たった一度、涙で途切れたのは。

オウム真理教被害者の会の一員として活動していた自分の母親が
事件後も息子の関与を知らずに、坂本弁護士一家の墓参りをしていることを
最後に語ったとき、ただ一度だけでした。

「遺族ははりつけにしてほしい、言っているというが、返す言葉はない」と
謝罪の言葉を語ってしばらく泣いた後、

それでも以後教祖の側近でいて事件に関与し続けた心境を聞かれると
中川被告は
怒られるのは嫌だったが、そばにいることが無条件にうれしかった
と「教祖」への思いを繰り返して泣き続けるという様子でした。

おそらく2002年の最後の被告人質問の時は、
中川さん自身がすべてありのままに語る覚悟で供述していたのだと思います。
特に神秘体験について。
言葉にするだけで自分自身何を語っているのか分からなくなるのを分かったうえで
壊れた姿を法廷で晒してまでも、神秘体験についてこだわって話していたことが
わかります。
これは、最初に新聞記事を読まなかったから、
私は分かったような気持ちになっているのだと思います。
これまで、私も中川さんの神秘体験を読んできています。



自分の母親が、自分の殺害した人物の墓参りをしているところは
泣かないで話すことが出来ていたけど、
自分の「心臓の中の声」について語るとなると
興奮状態になってしまっている姿がよくわかります。

当時の「朝日新聞」記事では、
「中川被告は自分のためにしか泣いてないのではないか」と書かれています。
それは、当然かと思います。
まさか、「巫病」「感応性精神病」「解離性精神障害」であるとは
新聞記者も、読者もわからない。
何で中川被告はこんなに興奮しているのだろうという
不思議な気持ちになったのではないでしょうか。

教祖との関わりは過去世からとも感じていたことも
宗教に疎い傍聴席の存在がないかのように
泣きながら言葉を探して語る姿。
これもまた、一つの人間の姿なのだ、と。
とりあえずでしか、理解できないです。
ここで、中川智正さんの中では
母親<教祖(過去世)と
教祖の存在が自分の中で親よりも大きいと考えていたことも
また、事実だったのでした。
坂本弁護士事件関連の新聞記事は、毎日新聞より、朝日新聞
(降幡賢一記者)の記事が詳細でした。

出典:降幡賢一『オウム法廷13』



毎日新聞社会部:『検察側立証すべて終了―オウム「教祖」法廷全記録〈7〉』

僕は二つの世界に住んでいる。

「毎日新聞」1996年7月9日東京夕刊の記事より。
VX襲撃事件の審理に入った中川智正被告に関して。
以下、引用
「柔道で鍛えたがっちりした体を窮屈そうにかがめ、
法廷内にいる知人と目であいさつを交わし、被告席に座った。
事件にかかわっていたことを認めたが、
松本智津夫被告との共謀については、これまで同様触れなかった」
のあとに
僕は二つの世界に住んでいる。
一つは、この世界。もう一つはオウムの世界。
どちらも僕にとっては現実の世界なんだ


中川被告は、関係者にそう語ったことがある。
松本被告への帰依、
教団での生活にこだわりを持ち続け、一方で自分の犯した罪がこの世では到底受け入れられず、
被害者の家族を苦しめていることに強い自責の念があるという。
(中略)中川被告は捜査段階で、
「なぜ数々の事件に関わったかといえば、
教団が決めたことだったから、それに従い行動した。
自分は教団でしか生きていけない人間であり、
教団から逃げ出したとしても生きていくことは出来ないと思った」
と供述している。
医師免許も持ち、世間的に恵まれている若者が、
なぜ「ここでしか生きていけない」という結論を出したのか
中川被告がその「答え」を語る時を待ちたい
(引用おわり)

1、医師免許を持っていれば、世間的に恵まれている、といえるのか。

本当はこの答えは、生きていた時の中川智正さんに質問してほしかったです。
しかし、もう「この世」の人ではないので
残っている言葉などを、こちらがつぎはぎして「語ってもらうしか」ありません。
中川智正さんが生きていてくれたら・・・
と思う研修医の方いらっしゃるのではないかと思います。
中川さん御自身は、林郁夫被告第六回公判にて、弁護側証人として出廷した際語っています。

「医大を卒業して大阪鉄道病院に入り、専門は消化器内科だった。
初めに勉強したのは、胃カメラ・超音波、大腸バリウム透視で、入院患者は20人も30人も担当した。
大病院では若い医師が「戦力だから」
ところが、私は患者を診ていると、患者と同じ状態になる。
精神的にも肉体的にも。1989年5月、とうとう手術室で倒れ、
その時の症状は、名医といわれる人でも診断がつかずしばらく休職したあと、病院をやめてしまった。」
と語っています。

「週刊文春」1995年8月17、24号には、
研修医時代の中川智正について
病院関係者には印象が薄いようだ、と書かれた後で
「中川先生には他に三人の同級生と一緒に来られたのですが、一番目立たない存在でした
。一人の患者さんと、一時間以上も話し込んでいることもあって、
患者さんからの評判はよかったんですけど、
そんなに時間をかけていいのかなという感じもあったし、
他のドクターに比べてもの足りない印象でした。」
との評価でした。
おそらく、それでも、私がこれまで見てきた中川さんのことだから
自分が病院に入って使えない人材と思われていることもよくわかっていただろうし、
その中でも空回りして、全力で頑張っていたのだと思います。

たとえば、「読売新聞」1995年5月24日東京夕刊によると
「おれが患者の手を握ってあげると、苦痛がとれるんだ」
「そのかわり、自分の中に悪いものがたまるから、何リットルもお湯を飲んで体を清める」
ということをするなど、
自分なりには最大の努力をして、
何とか一人前の医者になろうともがき、あがいていました。

しかし、実社会、実務の世界では評価はされません
ましてや、一人の患者と1時間以上も話し込んでいるところなどは、
先輩医師に注意されるところではないかと思います。


例えば、「お前は若いから患者は面白がって話に来ているけど、仕事になってないから
一時間も患者の話聞く暇あるなら、もっとやることあるだろう!

(このあたりは、対人援助職における若い新人の方は覚えがあるでしょう)

患者が亡くなった直後は神妙な顔をしていても、
医局に戻ってくると笑っている。そういう態度が疑問だ

とも中川さん自身は家族に漏らしていたあたりは、
先輩医師のやり方や態度がとうてい自分には受け入れられないとけれど、
恐らくそうでもしないと「やっていけない」のが医師の世界なのだと思います。

そんな中川さん自身の唯一の癒しの場、拠り所がオウム真理教の大阪道場だったのでした。
ここで恋人に「今日の患者はひどかった」と疲れた顔で話しこみ、
「オウムに行かないと体がどうしようもない」
「オウムの道場へ行ってパワーを注入してもらわないと、もたない」
などと言い出しました。
「毎日新聞」1995年9月10日朝刊によると、
病院の退職理由は「突然の失踪」ということです。

中川智正さんは、研修医生活を普通ならば2年やらねばならないところ、
1年ぐらいしか「出来なかった」
そんな自分が社会で生きていけるのか。
他の職業になれるのか。
フリーターにでもなるのか。
なら今まで成績悪かったかもしれないけど自分なりに頑張ってきたことはいったい何なのか・・・。

そんなことを思い詰めていたのかもしれません。
今でこそ、このような記事がネット上に掲載されるようになりました。
医師が先に燃え尽きてしまう

どんなに学力があって医学部、医大にいったとしても、
燃え尽きてしまったら動けなくなります。
そのような側面には当時から世間は見向きもしません。

中川智正さんが出家してから1年後に
オウム真理教附属医院が設立されましたが、
在籍している医師の中には、中川さん同様、研修医さえ終えてない医師がいました。

中川さんとは違うかもしれませんが、
研修医時代の何かに不適応を起こして、オウムに入信するしかないと
思っていた若い医師の卵がやってきていたということは注目点と思います。

オウムだけは、その燃え尽きた、実社会では実務者として「使えない」人材を
医師として待遇してくれる、と期待して・・・。



今でも、毎年このような進学特集が出されます。
医学部に入るのは頭がいい人。
将来金持ち安定という見方と、
医師の使命を崇高なものとしたい世間の常識では
中川智正さんのことは理解されないだろうと思います。

Tu博士でさえ、この部分は理解していなかったと思います。

『サリン事件』の最後の文章
医学部を卒業した将来性のある息子の現状を見る親の悲しみは同情せざるを得ない

2、「尊師は自爆の道を選んでいた」

中川智正さんの住むもう一つの世界、「オウム真理教」ではどうだったのか。
中川智正さんは、「入信前から、尊師がある種の自滅行為をすることはわかっていた」と
語っています。
(「朝日新聞」1998年3月24日)
「私は教団にいたころから、単純に尊師を信じていたのではない」
「尊師に殺されるというような、他の人が感じた恐怖をかんじたことはない。
それとは違って、例えば私を何物だと思うかと尊師に聞かれた時
僕は化け物だと思いますと答えた。そういう恐怖だった。
出来れば関わりたくなかったけれど、
入信前にいろいろと神秘体験をして、普通の社会生活ができないと思ったので
助けてくれという感じで入信した。仕方なかった。
僕としては、その後いろいろなことがあっても、しょうがない、という感じで冷めていた。」

先のエントリーで中川智正さんにエールを送った
豊田亨・広瀬健一・杉本繁郎の3名の公判に出廷した(1997年4月30日)際、
豊田・廣瀬・杉本の三名は、
「松本智津夫を批判する気にもならない」
「いかなる理由でも起こしてはならない犯罪であった」と悔いていたのですが、

証人出廷した中川智正さんは相変わらず

麻原被告が光を発するのが見える」と証言しています。

このブログの今後のエントリーの中で、上に書いたような「神秘体験」の数々を書いていくことにもなりますが
私は書きながら、理解できないです。
でも、通常の社会生活に耐えきれなくなった時に、別の世界を作り出してしまう人間の可能性についてという
捉え方で見るならば、
少し理解できそうかもしれません。

「なんていうのか、中川にはなんかあるな~」

昨日のエントリーの続きです。

題名は、この書物の290頁から取りました。



この言葉は、東京拘置所内にて、中川智正氏を変わらず「ケツ」と呼ぶ親友に同行した
NHKディレクターが、中川智正本人から聞いたエピソードです。

「あるとき取調官に麻原氏の写真を見せられて
『光っているか?』と聞かれたことがあった。
写真をみて光るのか、想起するから光るのか分からないが
目の前が明るくなったので、正直にそう言った。
だから、向こうは接触しにくかったと思う。
ただ、段々付き合っていくうちに、取調官は
『なんていうのか、中川にはなんかあるな~』と思ってくれたようだった。
それは検事もそうだった。
裁判長も弁護士に、『嘘をついているわけではない、彼はなんですか?」と言っていた。
・・・だけど一審のときは、それが解離性精神障害だとは、僕も分かっていなかった」

解離性精神障害とは、精神疾患の分類のひとつで、
自分が自分であるという感覚が失われている状態。
ある時期の記憶が全くなかったり、いつの間にか自分の知らない場所にいるなどが
日常的に起こり、生活上での様々な支障をきたしている状態を指すと言われるものです。

中川被告時代の控訴審(初公判2006年3月1日、2007年7月13日判決)について
控訴審の中川弁護団は、まず、中川智正の神秘体験について理解がなく、宗教精神医学の
知識が不足しており、中川から十分な供述を引き出すことが出来ず、関係者の証言を得ることが
出来なかった、ということです。

そこで、登場するのが佐々木雄司医師(1932年-2017年)です。
佐々木医師は、青年時代にはシャマニズム研究に没頭。
学位論文『我国における巫者(shaman)』(『精神神経学雑誌』1967年5月)で国際的に評価を受け
今でも有効性を維持しているのと、地域や職場のメンタルヘルスの開拓者でもありました。

佐々木雄司医師について、中川智正氏は『ジャム・セッション』2013年6月号 で次のように書いています。
※以下、『ジャム・セッション』という雑誌を引用箇所ありますが、
読みたい方は、直接「ジャム・セッション 中川智正」で検索していってみてください。

「佐々木先生は、私のような事例の専門家で、同様な事例を収集、研究なさっていました。
先生によると、私の当時の「体験」は、激しい部類に入り、
精神科治療、あるいは「カミ(神)の道」の二つしかありえないとのことでした。

佐々木先生は、自然科学者としてのスタンスを保ちつつ、宗教学や文化人類学の知見や手法を
精神医学の研究や臨床に取り入れていらっしゃったのです。

先生との面会は気持ちが落ち着くものでした。
(中略)
私にとっては、自分の状態が学問の対象になっていると知ったことが
非常に大きかったのです。


とあるように、前回エントリーで裁判所中が荒唐無稽としか受け取られかねない中川智正の神秘体験を
重視すべきとの考えが取り入れられ、中川智正の深刻な状況が解明され始めました。
一例として、「麻原の想念が入ってくる」現象が
中川智正自身の生命をも危うくした事実が語られました。

参考文献はこちら


例えば、1990年のボツリヌス菌培養のとき、麻原などが、ボツリヌス菌に侵されないように
馬血清を打とうという事になり、中川智正は自ら点滴で馬血清を打ちました。
たちまち全身に発疹が出て息苦しくなったため
中川智正は麻原に医学的説明を行い、点滴を止める許可を求めました。
麻原は中川智正の頭頂に手を置き、点滴を続けよといいました。
すると麻原の意識が中川智正に入り込み、医者としての知識が失せ
全身がぼこぼこに晴れ、呼吸困難になった」とのことでした。
こんな状態の中で、中川智正はまだ麻原のエネルギーをもらいに行ったとのことでした。
このエピソードは、佐々木医師によると
中川智正は医師とは思えぬ自殺行為的暴挙を行い、麻原の言語に絶する壮絶な影響下にあったかを
示してあまりある
」との評価でした。

このような佐々木医師の知見を採り入れた弁護団は、
当時の中川智正の責任能力がないか著しく減弱していたと死刑の破棄を要求しました。
これに対し検察側は、解離性精神障害や神秘体験を全面否定はしなかったけれど、
各事件の刑事責任に疑問を生じさせるものでないとして
死刑の宣告を下しました。

それでも、中川智正氏としては、佐々木医師に恵まれ、
弁護団や検事が「中川にはなんかあるな~」と受け止めてくれようとしていることが
救いだったのかもしれません。

中川智正氏が処刑される前年に、この佐々木雄司医師は亡くなられました。

佐々木医師について、中川智正氏自身も最後の『ジャム・セッション』12号 2018年1月に
次のように書かれています。

佐々木先生は、私のように科学の空白の世界に迷い込んだ者をたくさん診察されました。
そして、とにかく話を聞いてくれました。
ただし、ある種不思議な出来事がどうして起こるのかを
先生は考えないのです。
聞いても答えてくれませんでした。
そして、先生は発言内容を肯定も否定もせず
記録されるのです。
簡単に書きましたが、これは奇跡的な技術です

(中略)
佐々木先生には、悪名高い私の他にも
たくさんの患者たちが感謝していることと思います。」

佐々木雄司先生のような精神科医に巡り合えた
中川智正氏は恵まれていると思いました。

精神疾患を患った者の中で、精神科医に恵まれているといえる人は
実は少ないと思います。
患者が多すぎるのかどうか、「カップラーメン状態(3分治療)」で投薬
これで終わりという人も多くいます。

これからもまだまだ、精神疾患は増加していくでしょう。
そんななかで、この1年の間に、佐々木医師と中川智正氏両方が故人となってしまったのは
残念でなりません。

最後に、『ジャム・セッション』7号 2015年6月号にある
中川智正氏のこの言葉を書いて、両人の冥福をお祈りいたします。

イスラム国に参加してしまっては、自らの意思に基づく活動をするのは不可能と思います。
私の経験や、精神科医の佐々木雄司先生から
伺ったお話からすると
イスラム国に限らずあのような組織に何か説明できない魅力を感ずる人がいるとすれば、
その人は身を投ずる前に一度、その組織からの
距離を取ってみることです。
十分な時間をかけるべきです。
周囲はその手伝いをすれば良いと思います。
強く説得するだけでは話がすれ違うだけで
良い結果にはならない気がします。

故・中川智正氏の神秘体験

中川智正氏の最期については、人の手を借りずに自分で歩いて刑場に向かうなど
立派なものだったと言われています。
そして、wikiを見るに、
ますます、「なぜ善良で、医学を志した、能力の高い者がカルトに走ったのか」
と疑問を持つ人が多いと思います。
私も中川智正氏の行動については、まったく理解できていません

私個人は、中川智正氏が「法皇内庁長官」という立場であったことは当時から知っていました。
(フライデーかなんかでオウム特集号があってその表をみながら報道を見ていました)

しかし、当初オウム真理教関連裁判で目立った被告といえば、教祖を除けば
林郁夫受刑者と、故井上嘉浩さんだと思います。

中川智正氏については、「なんとなく」逮捕されたんだろうぐらいにしか知らなかったです。
むしろ、確定死刑囚として金正男殺害事件のことで意見を述べた人というので思い出した部分が
あります。

中川智正氏が裁判で目立たなかったのは、
マスメディアのオウム報道が少なくなってから語りだしたということがあります。
当初は黙秘をしていたのが、
2001年ぐらいからようやく口を開くようになったけれど
裁判所全体がその内容を全く理解できないということが多かったらしいとしか
言いようがないとのことです。

以下、藤田庄一氏「ルポ 彼はなぜ凶悪犯罪を実行したのか
 ーーーオウム真理教・中川智正被告裁判」(『世界』2004.4)

藤田庄一氏『宗教事件の裏側ー精神を呪縛される人々』2008を参考に、概略を説明したいと思います。


中川智正氏の幼少期からの友人の話、および最後の中川智正氏のぼやきは、こちら


中川智正氏はなぜオウム真理教に入り、凶悪犯罪に手を染めたのか?
藤田庄一氏は、2002年になって基本的に氷解したと言われています。
「巫病(ふびょう)」
私はそう言われても、まったく理解できなかったです。
過労から精神疾患かとは思っていましたが、それよりも重いものらしいです。

中川智正氏の供述内容というのが、入信前後の神秘体験になると
普通の弁護士、検察、法廷傍聴人すべてが理解できないという事態となってしまったようです。

「神に従わない限り、心身の異常が持続する。通常の生活が送れない。精神病とは
診断されにくい現象」とのことらしいです。

供述には、医師国家試験受験頃にオウム真理教の演奏会に行ったあとの
パニック状態が数日続いたとのこと。

「夕刻、黙想中に尾骶骨付近が白く光り始め、光が胸のあたりまで昇ってきた。
光はそこで急激に明るくなり、見るに耐えず目を開けると、真っ白い光は胸付近にあった。
すると昇ってこいと、心臓から男の声がし、光が上昇した。
目のあたりに近づくと、またあの声がした。
「お前はこのために生まれてきた」
なぜこんなことが自分の身におこるのか。茫然とするばかりであった。
オウム真理教には関係がある。しかし入信する気がない。
「パニックでした」

医師国家試験に受かり、医師となろうとしている中川智正氏は、
自分でもどうにかしたくて、光や過去世が見えたり、声が聞こえたりするのは
側頭てんかんや側頭に腫瘍が生じた場合だった、そういう病気と思いたかった。
そんな時に、先輩の脳神経外科医に診てもらったが「異常なし」。
脳腫瘍では手術でなおるが、不治の精神病であれば自分の人生どうなるのか。

中川智正氏は、家族や友人に自分の神秘経験を懸命に話した。
家族とは、双方怒鳴りあい、泣きながら混乱するばかり。
まったく自分の辛さをわかってくれない。
お母様は「気が違ってしまったのか。なにもかもがおかしい。
元の息子ではなくなった気がした」とのこと。
ご両親とは、普通に話す間柄だからこそ真剣に話しているのだけど
神秘体験を話しても理解されない・・・。
本人も辛いだろうけど、お母様としても何をどうしたらいいのか
まったくわからない状態だったらしいです。

幼稚園から中学校まで一緒の親友に、神秘体験や空中浮揚までしてみせた
ことがありました。
親友は、
ただの床はね状態にしか見えないですが、本人が
超真面目にやっているので、その姿が怖かった。
『もうわかったからやめてくれ!』
彼の肩を押さえて床に押し付けた行動にでました

もう半狂乱・・・半狂乱とは言いませんけど、半分泣いたような状態で
ここまで追い込まれているんだというのを全身から臭わせていました。
その姿を含めて、何とかならんもんかと。

ケツ(中川智正氏のあだな。丸っこい体つき、お尻の様子からそう呼んでいたらしい
→本人はそれで返事しているので嫌ではなかったらしい)には、アドバイスしたものの
彼は医者ですので
そんなことすべて調べた。でも原因がわからんのだ」と言われてしまいました。

こうして家族も親友も止められず、彼女もまたオウム真理教側から
「中川がぐずぐずしているから出家して」と言われてしまい
中川さんとともに病院を辞め(彼女は看護師)、出家してしまいました。

(彼女が出家したときのことが記されたブログ→http://aonumazezehihi.blog.fc2.com/blog-entry-56.html )
こちらは、彼女が出家したときのことが書かれていますが、中川智正本人よりも悲壮感がありません。
おそらくですが、彼女も交際中の中川智正氏が半狂乱状態で親や親友相手にバトルをしていたとは
知らないで出家してしまったように思えます。

ちなみに中川智正氏の最初の弁護人はお父様が金銭的に工面して資金を出して雇いましたが、
同じく逮捕された彼女の事件までも担当したようです。
費用は中川家持ち。
彼女は無事に釈放されて今は一般人として生活していることに
中川智正氏は涙を流したそうです。

話を中川智正に戻して・・・。
研修医になりたてで、たくさん勉強をしなければならないときに
仕事も勉強もおろそかになってしまいました。
そんな困憊状態の中川智正が回復できる唯一の場所がオウム真理教でした。

中川智正は麻原のシャクティーパット(手かざしのような)を受けると病院で悪くなった体調が
スーーーと抜けていく感覚があったとのことです。
それでいよいよ麻原を畏怖するようになりました。

自分は医師として患者に触れるだけでこんなに苦しい思いをしているのに、
麻原氏は信徒100人にいっぺんにエネルギーを注入できる。
このメカニズムや精神力はどういうものだのか。

突然に大氷山がそびえているのに出くわした気持ちだったとのこと。
一方で研修医としての中川智正は、身体が動かなくなり、消えてなくなりたい気持ちだった。
病院勤務どころか、医者を続けることも無理、もはや出家しかないと思い詰めました。
そんなときに、ついに手術中に棒が倒れるように転倒してしまいました。
上司の医師は、数日休むよう指示。精神科医を紹介してもくれたけど、
いざ中川智正が精神科医を前に体験を伝えようとすると、またもパニックが襲ってくる。
勤務を続けることは絶望的でした。

「結局私は、入信から出家までの一年半、もがいてももがいても現実生活を抱きしめてつかまっていた。
それを引きはがすように、何をしようと自分の内的体験が続き身体・精神的に影響が続き、抵抗できなくなった」
これは証言時(2002年1月15日)の見解と断りながらそう証言台で供述し、
ハァーと大きなため息をつきました

他の信徒が、解脱や悟りを目指して出家したのに比べ、中川智正の場合は、絶望感からの出家というものでした。
その後二か月して、「坂本堤一家弁護士殺害事件」に加わり殺人犯となります。
そのことについて

「たくさん理由はある。やっぱり麻原氏に言われたから。当時麻原氏の前世からの弟子とわかり
いう事を全部聞かなきゃいけないと思っていた。非常に勢いというか、麻原の言葉が心の中にすごく重く響いた。
言われると否定できない。

なお、この時の中川は、プルシャを現場に落としてしまい、村井秀夫によって
「ポアの間」に二週間入れられた。
そのポアの間に入っている時、麻原が入ってきて
「(プルシャは)いいよ、気にするな、中川君も緊張していたんだろ」と言われて
泣き崩れてしまった。
なお、2002年の段階で中川智正氏は「麻原の精神操作の一環」と見ている。
このポアの間の体験により、麻原への霊的隷属は無限の深みにはまっていきました。
世間にはわかりやすい「殺人をしてしまったから抜けられない」のではなく、
殺人をするほど自分は麻原氏の世界にはまり込んでしまった」と自己分析。

光っている麻原を見、そばにいると喜びが湧いてくる霊的隷属の中で中川は次々と犯罪を重ね、
麻原の指示があれば、そのとたんに抵抗感があったにしても消えた。
麻原の身体、手足となって動いてしまい判断力も倫理観も失っていきました。
これを中川は「無力感、他動感」と表現しています。

裁判中に
あったまま、お話します
理解していただけないと思いますが」と何度も口にしていました。

前回エントリーで、滝本太郎弁護士のHPから拾った林泰男死刑囚のエピソードで
中川智正が「これ以上悪業を積みたくない」と逮捕前に泣いたのがありました。

私はこれを誤って解釈していました。

私は、中川智正が泣き崩れ、もうどうでもいいと放心状態で杉並付近をふらついて逮捕されたのだ
と思い、林泰男からみれば、中川智正の弱気と見ていたのではという見方でした。
そうではありません。

むしろ中川智正のもつ狂気の部分だったのです。

中川智正が泣いて「悪業を積みたくない」と震えて怯えたあと、
平田悟元信者が中川に対し「尊師を意識して!」と元気づけるや
彼は突然、「これから頑張る」と元気になったとか。
その急変さが尋常ではなく
恐ろしい感じがした。豹変ぶりは。
一瞬のうちに別の人格に変わってしまったようでした。
これまで長く話して心を見せあっていたのに
中川さんの中に麻原が、怪物か魔物のように取り憑いているのをみて怖い感じがしました。
」と

林泰男死刑囚は、そんな中川を見たのはこの時が初めてだったのですが、
「法皇内庁」内での中川の部下女性信者は
麻原と中川がダブって、どこからどこまでが中川さんなのかわからず不気味でした」と。
もう一人の部下は中川裁判にて、中川の強い印象として
「彼に他人の状態が移ってよく体調を崩してました」
「顔がむくみ、鼻をグズグズさせ、顔色がわるい」
それでも麻原と会い、部屋からでてくると回復して調子が良くなっていることが
何回もありました、と答えています。

裁判においてこの神秘体験はどう対処されたのでしょうか。
嘘・不合理に満ちている」と一刀両断に切って捨てました。
まことに都合のよいエピソード」で「珍妙な主張」で責任を回避しようとしている、と。
地下鉄サリン事件に至っては、「麻原の側近中の側近として地位を確立するための打算と推認し
身勝手極まりないもので言語道断」と死刑を求刑しました。

ああ、またまた長くなってしまいました。
佐々木雄司先生との出会いも書きたかったけれど、これもまたエントリーを改めたほうがいいかもしれません。

最後に2011年頃の中川智正氏が、NHKディレクターに話した「ぼやき」を紹介します。

すべてを裁判で解明するのは無理ですよ。システム的に。あそこでは麻原氏は犯罪者でしかない。
極めて優秀な面があったことは問題にされない。そういうといまだに帰依しているということになる。
ああいう人物が出た時にどう対処したらいいのか、わかっていない。
結局自分がバカでしたとしか言えない。それでは話にならない