軍人会館には地下浴場が存在していた!

さて、昨日のエントリーの問いの結果です。

ありました!

九段会館(軍人会館)には

かつて、地下に大浴場が

あったのです!!!

出典は『軍人会館競技設計図集』(洪洋社編集部 1931(昭和6年))です。

これによると、この設計コンペで一等になったのが
小野武雄氏の作品でした。

小野武雄氏の設計を基本として、建設に入ったということです。

その設計図がこの書物にありました。

これです。

EPSON MFP image

確かに「大浴室」とあります(あまり大きいとは考えられませんが)。

もう一度、図面をみてみましょう!

軍人会館の地下浴場

この小野武雄氏の「軍人会館透視図」はこんな感じです。

軍人会館透視図

東から(内堀通り側)

EPSON MFP image

ほぼ、現在の外観と同じですね。

「ガンダム」なところは、おそらく伊東忠太先生の好み?が反映されているのか
この小野氏のデザイン通りではないですが。

伊東忠太という建築家は、築地本願寺のような
独特な世界観を表現した建築を残しています。

この人は、建物の中に何かの精神性を表現しようとしていたのではと
建築好きだけど、かなりど素人な私から見ても感じられます。

築地本願寺を見ると・・・。

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日本にいながら、インドに行ったかのような気分になれると
感じました。
特に本堂屋根の蓮の花!
私はこの蓮の花を見て、蓮の美しさを再確認しました!

さらにこの方は妖怪などにも造詣があり、言葉にもかなりこだわりがあったようです。

伊東忠太さんは、軍人会館とは目と鼻の先にある
靖国神社の遊就館も設計されています。

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よって、建設にあたっては、靖国神社と一体となるような後世に残る建築をと
いうことで特に力をいれたものと思います。

おっと、話がそれました。

軍人会館のお風呂は思ったより、小さいように思いました。

二人か三人ぐらい入ればいっぱいではないかなあという感じがしました。

それでもビッテル神父さまは大きな風呂と思われたらしいけど
それは、神父様自身が、このお風呂を大きいと思われるほど
当時からユニットバスのような小さな、ただ汗を流す程度の風呂しか
接してなかったためではないかと思います。
特に修道院だと、大浴場というのはないはず。
他人にハダカを見せるということが、修道者はないらしいと聞いたことがあるからです。

以前に、私自身が某修道院に「黙想」と称して泊まりにいったことがありますが、
ユニットバスのような風呂でした。一人ずつしか入れないようになっていて
出るときにはそれぞれきれいにして出るようになっていました。
ちなみに、黙想という名目で修道院にとまりに行くと、部屋は個室が与えられますが、
風呂は共用でした。しかし一人ずつ入り、出るときにはきれいにするのが
マナーなので、次に誰が入ってもよいようにしていました。

そんな修道院での生活を送っていた神父さまからすれば
軍人会館の地下浴場は、さぞのびのびできたのだろうと思います。

ちなみにこの地下浴場は、1983(昭和58)年の改修まで存在していたことが、
中野裕之氏「昭和初期の建築を保存した 九段会館改修工事」(『建築技術』1989.8)にありました。

それによると、宿泊客と、会議とか、講演会などの宿泊しない客がバッティングしてしまうことが
問題となったらしいです。
それは当然だと思います。

会議のために九段会館を使いに来た人が、普通に浴衣姿でお風呂に入りに行く宿泊客の姿を
見ることになるのだから。
これでは、会議で来たひと、浴衣姿でくつろぐ予定で来た人ともに
違和感を持つだろうと思います。

それで、宿泊室にユニットバスを設置し、地下の浴場を廃止することに
したのでした。

・・・ビッテル神父さまの聞き取り本が書かれた当時
普通に、九段会館(軍人会館)の風呂のことが取り上げられていたのは
昭和48年当時の九段会館には、地下に風呂があることが「当たり前」だったからだと
思います。

軍人会館には地下浴場はあったのか?

九段会館には地下浴場があったのだろうか?
※九段会館とは、1957(昭和32)年以降の呼称であり、連合国に接収されるまでは
「軍人会館」でした。よってここでは「軍人会館」にします。

これは私自身がこの方に出会ってからずっと感じてきた疑問でありました。

ブルーノ・ビッテル神父

ブルーノ・ビッテル神父さま(Bruno Bitter 1898年~1989年)です。

※本来歴史的人物でもある方でもあるので、「神父」にしたいところでありますが、
実は私自身が、受洗こそしていないものの、時折カトリック教会のごミサに与ることが
ある、カトリック求道者でもあります。よって、カトリック教会では
司祭に対しては「〇〇神父さま」とお呼びするのが一般的で、それに慣れているため
「神父さま」と表記させていただきます。

ビッテル神父さまは、1932(昭和7)年に来日された方で、こちらに住まわれていました。
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上智大学内にある、「クルトゥルハイム」です。
この建築については以前のブログでも
少し触れています。
千代田区紀尾井町にあります。

ビッテル神父さまと軍人会館。
一見、何の関係があるのだろうと不思議に思いますが・・・。
何と、ビッテル神父さまは、軍人会館の風呂で我が国の憲兵将校と
「ハダカのつきあい」をされたという記述をみました。

それによると、1941(昭和16)年、戦争に突入するかしないかの頃
ビッテル神父さまは、イエズス会の渉外的仕事もされていました。

渉外的仕事とはいうけれど、かなり危険な仕事でもあったと思います。
当時入国拒否になった修道者も多かったし、
夙川教会の建設に携わったブスケ神父様は投獄され、昇天されるほどだったし、
自主的にかどうかはわからないけど、「空気をよんだ」キリスト教系学校は
校名変更をしていました。(例:「東洋英和女学院」→「東洋和」)
雙葉高等女学校などでも、外国人修道女に変わって、日本人の修道女が校長に
なるなど、「キリスト教」「カトリック」に対する嫌悪感が高かったことは
否めなかったのではと思います。

神父様の渉外的仕事の中には、日本国民にも恐れられていた「憲兵」との折衝も
ありました。

しかし、ビッテル神父さまは、何と憲兵将校と意気投合されたとのこと。

日本の、憲兵将校が、仮にカトリック信徒であったならば
日本語が通じなくてもストレスは少ないだろうと思います。
現実には、異国に布教にやってくる神父様は
相当なストレスを抱えていらっしゃるだろうと思います。
それでも、神父様になる方は、基本的に心身ともに健康でなければなれないはず。
異国で布教するにあたって、精神的な苦痛を喜びにかえるぐらいの意気込みがないと
つとまらないと思います。

ただ現実には、日本人、特に折衝相手で言葉の通じない憲兵などと話をしたり
修道兄弟がどこかで「殉教」されたというニュースを聞くとやりきれない思いをされるのは
当然あったと考えられ、東京を離れて箱根に行かれた方もいらしたとか。

ビッテル神父さまが、本川貞少尉(当時は東京憲兵隊本部外事課所属。最終階級は中尉)
と出会ったのは、山口で司祭が投獄された時に救助要請があったときでした。
ビッテル神父さまから、本川少尉に
「帝国ホテルでランチしませんか?」と誘ったとか。
特に、その時にはホンネ(司祭を救助すること)はいわずに・・・。

本川少尉は「ご招待には応じますが、そのかわり夕食はこちらで差し上げたいので
軍人会館へ来てくれますか」と条件付きで答えたとか。

なぜ、多くの司祭が投獄されたり疑いをかけられたりしているのに
ビッテル神父さまには何も起こらなかったのか?

ビッテル神父さまは、修道者になる前はドイツの陸軍中尉までいかれた
方だったのでした。

「日本の憲兵もまた、やはり一国の軍務に服す軍人である限り、
それなりに評価しなければならない」と思って接していたのが
神父に接する軍人たちに伝わったのでしょう。

また、神父さまは、冒険が大好きだったので、敵の本部である
軍人会館に行ってみるのも「面白そう」と思ったらしい。

かくしてビッテル神父様と、本川憲兵少尉が会見し、
投獄されている司祭は転任させるということで話をつけたあと、
何と、本川少尉から

「風呂に入りませんか」

と言われたとか。

このお風呂に関する記述は以下の通りです。

「軍人会館の地下にはかなり広い職員用の風呂場があった。
神父あは石がいっぱいあり、一種の岩風呂だったといっているが、
ごく普通の浴場だった。
本川は湯につかりながら、サケの飲み比べをしようといいだした。
神父は、日本酒はいけるほうで、それは望むところだった」

それで、飲み比べをして、勝ったのは何と、ビッテル神父さまでした。

この戦いはわが軍の勝ちですな

と本川憲兵少尉に言われたと。

ビッテル神父さまは、何と軍人なんだろうと思ったのと、
「九段会館の地下にお風呂場があるのか?」という疑問を持つきっかけとなりました。

果たして、本当に九段会館(元・軍人会館)にはビッテル神父様がいうように
お風呂場があったのでしょうか?

さらば、九段会館

ついに九段会館の取り壊しが決まりました。

いつかこの日がくるのではないかとは思っていましたが・・・。

東京新聞より

>東日本大震災による天井崩落事故で多数の死傷者を出し、閉館した東京都千代田区の九段会館が取り壊されることになった。
一九三四年に軍人会館として建設され、三六年の二・二六事件では戒厳司令部が置かれた歴史を持つ会館だった。
老朽化もあって震災後の営業再開はできず、
「帝冠様式」と呼ばれる特徴ある建物が姿を消す。
取り壊し後は、民間資本による新たなビル建築が予定されている。 (新開浩)
 会館は鉄筋コンクリートづくり地上四階、地下一階。「帝冠様式」の外観は、洋館ながら日本の城のような屋根が特徴だった。戦後は一時、連合国軍総司令部(GHQ)に接収された。
土地と建物が国に返還された後、五三年から日本遺族会に無償で貸し出され、同会がホテルや事務所を運営してきた。

東日本大震災による事故で多数の犠牲者を出してしまい
そのまま営業再開もされないまま、ついに取り壊しになってしまうのは
予想できたこととはいえ、さびしいです。
震災当時、九段会館で天井が崩落し、多数の死傷者が出るほどだったということを
知った時、私も東京某所(別の区の築40年のビル)にいたこともあって
恐ろしい気持ちになったことを思い出します。
この天井事故にて亡くなられた方々の御冥福を今一度祈るとともに
昭和初期の建築がこれでまた、一つ姿を消すということで
これまで、私自身が写していた写真を出してみたいと思います。

まずは全体を

九段会館

上部には「ガンダムのような飾りが」
何の意味があるのでしょう?

九段会館の「ガンダム」

参考:お台場のガンダム
ガンダムお台場

最後に「おそらく山下奉文大将がフィリピンに赴任する前夜を過ごされた部屋」(外から)

山下奉文大将日本最後の日

この部屋については、震災よりずっと前に写真を撮りに行った時に
駐車場にいらした方に聞いてみました。
「山下将軍が日本最後の日を過ごした部屋ってあの辺りでしょうか?」と。

「よくわかりませんが、偉い方の宿泊された部屋はあの辺りだったとは思うんですがね」
と言われました。

この駐車場にいらした方、とても九段会館に詳しく
いろんなお話をしてくださったことを思い出します。
震災後にこの職場を離れていると思いますが
どこかで元気にしていてくださいと遠くより念じております。