【再掲】武藤章・軍務局長の部下あつかい

以前のブログに書いたものを
こちらにも再度(一部修正あり)掲載します。
武藤章軍務局長の政党論を読んでくださっている方々が多いので。

http://tenhouinaki7.at.webry.info/201003/article_3.html

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武藤章・軍務局長(少将~中将時代)は、どのように部下に接していたのでしょうか?

武藤章軍務局長

武藤さんは、軍務局長に着任した時の挨拶で、部下たちに

「私は時に暴言を吐きます。
だがしかし他意があるわけではないので覚悟してもらいたい」

といったのだそうな。

「陸軍省軍務局」とはどのような部署でしょうか?

武藤さんに言わせると

「(軍務局)軍事課の仕事が編制、制度、予算、渉外事項など、
陸軍省業務の中枢に触れるものばかりである関係上、
課員は一粒選りの優秀者揃いであり、
頭脳明晰理路整然どっちかというと理性のかった人々の集まりである。

したがって、当時青年将校たちの間に横行するような、感情的に血を燃やす思想や運動には
冷静な批判を加える態度をとっていた・・・」
(武藤さんが中佐のころの軍事課高級課員時代を省みての記述)

よって、高宮太平・元朝日新聞記者が『昭和の将帥』で書いているように

 「軍事課員は一癖も、二癖もある。
 腕に覚えのある侍どもだ。

 大臣がかわろうが局長が動こうが、俺は俺の道をいくという構えでジタバタするものはない。

 それぐらいの面魂は持っているのである・・・」

 このような部下たちを、武藤さんは軍務局長という立場でどう扱ったのか?

 部下は非常に、手ごわい!

 気の弱い上官、能力のない上官ならば、部下はどんどん増長してしまう。

 それをどこで受け止めるかという大変さがあるようですね。

 部下にしてみれば、
「増長しているつもりはない!上官の決断力がないので、自分たちが仕事をせざるを得ないのだ!」

ということになるでしょうか?

武藤軍務局長の部下の一人に、

牧達夫(当時中佐)がいました。軍務課内政班長という立場でした。

この人は、お父さんが牧達之陸軍中将で、その一人息子のお坊ちゃんで頭が良く、
文章も上手いけれど、オッチョコチョイで口が軽いというところがあるらしいです。

(石井秋穂「石井秋穂の手記」『軍務局長武藤章回想録』所収)

たしかにこの人、陸軍大学校の「恩賜の軍刀組」卒業だ!

この牧達夫中佐とのエピソードをご紹介します。

昭和15(1940)年8月

ちょうど近衛文麿が「新体制運動」の先頭に立ったころのこと。

この「新体制運動」は、とりあえず左右両派の人たちが、
「日本の危機を打開しよう」と、普段の思想を超えて集ったものです。

ともすれば、いくらでも瓦解する危険性はある。

武藤軍務局長は、陸軍の事務的な代表としてこれを指導する立場にあったのです。

武藤軍務局長は、若いころマルクスの『資本論』を読み、

さらに文学にも親しむ一面があったせいか、左右両方と話ができるという能力がありました。
彼のもとには、転向左翼も出入りできるほどでした。

だからか、思想の違いを超えてなどという美名のもと、
とにかく寄せ集めの団結ではすぐに瓦解してしまうので、

何とか近衛文麿が新党を結成することを望んでいたということです。

むしろ、立憲民政党のような政党は、
政府、軍部に対する反対政党としてしっかりしてもらいたい、という気持ちがあり、

ナチスのような一国一党を望んだことはないのです。

だからこそ、その民政党がヘナヘナと迎合してしまった時、

軍人やめて代議士になる」と

周囲にもらすほどだったとか。

この年の8月のある日、
牧達夫中佐と、企画院側補佐役の奥村喜和男(「革新官僚」として知られている)が

「政治新体制推進体には、党規確立の意味から軍法会議的な内部裁判機構を具備すること」

を執拗に力説したときのこと、

牧達夫中佐の上官だった武藤軍務局長はどういう態度をとったのでしょうか?

「本推進体がある程度同志的試練を経たものの、一元的結合体ならばいざ知らず、
当面呉越同舟の異種綜合をもって発足せざるをえない現況において、
もし野望をもつもの、排他的な独裁傾向の人によって、この裁判権が悪用されることは恐ろしい!

この両君(牧中佐・奥村)恐らく範をナチスに採ったであろう内部裁判機構には、
自分は絶対合意できない!」

と断固反対を皆の前で表明しました。

それに対して、奥村氏が「両論対決!長官(村瀬法制局長官)決裁!決裁!」と叫びました。

そのとき武藤軍務局長は

「何をいうか!両名(牧中佐・奥村)即刻退場!」と大喝し、

牧中佐に対しては「お前はおれの補佐役のはずだ!それが何ということだ!」

とさらに癇癪玉を炸裂させて、会議の場をしらけさせたそうです。

でも、私はこの新体制運動において
ナチスのような内部裁判機構がつくられるようなことにならなかったのは良かったと思います。

当時の空気では、それだけ切羽詰まった国際関係だったとしても・・・。

軍務局長のような立場の人は、ある時は自分の意志で、部下を抑えねばならない。

しかし、この牧中佐も強い。
まだ懲りずに武藤軍務局長に反抗しています。

武藤軍務局長が、政界のダラ幹(事なかれ主義的政治家)

とつきあっていることが気に入らないということで

意見を皆でいうことになっているとし、武藤軍務局長のブレーンであり友人でもある矢次一夫氏に

「今日、武藤軍務局長に対して、われわれ青年将校の有志が意見をいうことになっているので、
局長の友人ということで立ち会ってもらいたい」とお願いをしています。

矢次氏も「面白い」として承諾し、軍務局長室に向かいました。

武藤軍務局長の前で、牧中佐たちは直立不動の姿勢をとり

「閣下、われわれ青年将校として、本日申し入れたいことがあります。これから読みあげます。
一つ、武藤軍務局長は政界のダラ幹と組んで・・・」と言ったところ、

武藤局長は

「馬鹿っ!貴様ら、下手な勧進帳の真似でもしとるのか!下がれっ!」と大喝。

牧中佐は気合負けして、挙手の礼をして逃げ出したらしい・・・。

さらに数カ月後、日米開戦前

「局長の行動がけしからんので、大いに文句をいうので立ち会ってください」

とまた矢次氏にお願いに行き、
矢次氏から「今度は逃げ出さないか?」と言われたとき、
「大丈夫です」と力んでいたらしいです。

ともに局長室に入ったところ、

武藤局長は目も赤いままで必死に書類と格闘しているのをやめて、

笑いながら「また牧が文句を言いに来たのか」と

「戦争になったら大変だと思って、一生懸命交渉しているけれど、上手くいかなくて、とうとう眠れなかった。
今日は頭も痛いし、目も痛い。けれど休めなくて・・・」

といったところで、この牧中佐

「局長、寝られないほど苦労しているんですかぁーーーーー!すみません。・゜・(/Д`)・゜・。うわぁぁぁぁん 」

と突然泣き出して出て行ってしまったらしい。

何だか「男の大奥」だなあと思いました。そして、熱い!部下も上官も。

軍だから厳しい秩序はあるにせよ、
その中で激しい意見具申のやりとりは日常茶飯だったのだなあと思いました。

武藤軍務局長も、石原莞爾作戦部長との激しいやり取りが知られてますが、

彼自身が上官になった時、こんな「止め方」をしていたことは、あまり知られていないのではないでしょうか?
何だか軍人さんって、個性ゆたかだなあと思います・・・。

厳しい訓練をはね返すぐらいの強さとしぶとさから出てくる豊かな個性のぶつかり合い。

よく、「意志の強さ」が大切とはいいますが、武藤さんぐらいの立場の方って、
本当に意志が強くないとやってられないなあと、

その大変さの一端を見ることができました。

また、「軍部の独走」云々という人に対して一言・・・。
軍部を利用しようとしていた政治家・官僚も
ある意味、軍部以上に独走していた部分もあると思います・・・。

最後に、武藤章中将は、部下の意見をとりあえず

「受け止めた」上で、怒鳴る!という姿勢だったので、

部下としたら、とりあえず「話は聞いてくれる上官」と見ていたのではないか?
無視はしていないし、何らかの反応は示している・・・。

中々真似できないのではないでしょうか?

参考文献:

牧達夫「私と新体制運動 軍の期待と幻滅」(『中央公論 歴史と人物』1974年5月)

昭和17年・武藤家の正月

明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い申し上げます。

以前のブログよりは、更新できるようになってきたような
(それでも、ブロガーさんといわれる方から見れば・・・)

izusan_jinjya

☆伊豆山神社の茅の輪・・・八の字に三回回ると厄払いができるというもの。
お正月の時期しか見られないものです。ここから徒歩20分ぐらいに
興亜観音があります(武藤さんたちの遺骨が安置されていた場で、元松井石根大将の邸宅近く)。

何とか自分のペースで頑張っていきたいと思います

大東亜戦争が始まった直後の、陸軍省軍務局長家のお正月とは
どのようなものだったのでしょう。

こんな資料を見つけました。

の中の194頁あたり。

武藤軍務局長が大東亜戦争開戦を何とか食い止めようと奮闘するも
結局開戦の覚悟を(軍事事務的に)決めようとしている
怒涛の時期から一転、実は静かなお正月を過ごされていたようです。
もちろん、世論は「打倒米英」の叫びや運動で沸き立ち、青年将校たちも
あちこちの集会に招かれたりなど忙しかったようです。
マスコミは大勝利の快報を伝えるのに忙しかったはずなのですが、
なぜか陸軍省軍務局長家は静かだったとのことです。

しかしそれは、武藤章さん個人としても、最後の家庭での正月だったのですが・・・。

武藤さんとよく論争していた矢次一夫氏も自宅でゆっくり過ごしていたようですが
そんなときに武藤さんから
なぜ正月だというのに、酒をのみにこないのか?

「戦勝気分で、いまや大軍務局長としてときめくところなど、素寒貧書生の
近づくところではあるまいよ」と誘いを断ってはみたものの
結局は武藤家(陸軍省軍務局長官舎=麹町にあった)を訪問することに。

行ってみると、一人も年賀客がいない・・・

このころの武藤さんは、軍内部でも孤立して少数人だったように、矢次さんには見えたとのこと。
矢次さんは、頑固な武藤さんが癇癪をおこして部下を縮み上がらせたりということも知っていたので、
武藤さんが孤立することで、非戦論の孤立化になることを恐れた」ということでした。

おそらく武藤さんは、矢次さん相手にゆっくり話をしたかったのではないでしょうか。

矢次さんは、武藤さんに対してかなり「きわどい」質問をしてます。

和戦の決定に悩みぬき、必勝の確算がないというのに、なぜ戦争に踏み切ったのか

武藤さんの答えは

「古今の戦史を見ると、戦うべきときに戦わなかった国家は、
相手国の屈辱に甘んずる結果、国民は志操を失い、領土や資源の多くを
奪われる結果、再起の力を持つに至らない。したがって
戦うべきとき、いやしくも腰に武器を帯びるものは、いかに必勝の自信がもてぬにせよ、
剣をとって戦うべきであり、恥に生きるよりも、名を重んじて死を選ぶべきである。
そして勝敗に拘らず、義を重んじ、名を惜しみつつ戦うことによって
敗れたりとしても、後世の国民は、戦いぬいた父祖の志操と勇気を伝承することにより、
またいつの日にか復興し得ることがあろう」

矢次さんは、この武藤さんの答えについてもかなりどぎつく批判しています。

「今回の戦争が、日清・日露戦争の如く、ロシアのアジア侵略の防止、清韓保全という大義名分が
あったのと対比し、大東亜共栄圏建設とか、米英のアジアからの追放というような
帝国主義とみられる要素が多いこと、これらを事前に処理し、むしろ国内政治革新を先行さすべきで
あった」と。

武藤さんはこのようなことを言われても感情的にならずに

「わかっていた。その通り。だからこそ近衛(文麿氏)をかついで
新体制運動を起こしたのだが、失敗したねえ。
もう、それを言うてくれるな」と苦笑されていたと。

武藤さんは、これからの最大の課題は、「終戦」であり、一日も早く、一刻も早く
好チャンスを求めて少しでも有利に「和平」をやることだ。
今日、君に来てもらったのも、そのことを今から考え、努力してほしいからだ」と力説されていたとのことです。

ちなみに、山下奉文中将統率の第25軍がシンガポール攻略するのは
昭和17年2月15日のことです。
武藤さんは、マスコミやら、青年将校の動向やら、軍内部の人間関係の煩わしさから
一時解放されたのがこの時だったと思います。
その時に、友達にこんなことを言い残していたのでした。

私自身も、一瞬、「大東亜戦争は侵略戦争的要素があったと、武藤さんのような方だっていっているではないか」
と思ってしまいます。多分私自身が楽だから。考えこまなくていいから。
多分、私の周囲で、わりと「日本はかつて他国を侵略したのだから・・・」という考えの方に
私自身が阿りそうな惧れもある。

でも・・・どのような原因があったにせよ、国民自ら開戦を支持したのだから。

武藤さんの立場は、一般国民とは違う。
政治的な要素が多い軍事事務の中枢だったのですから。
さんざん、マスコミ・国民の動向、政治家たちの動向に振り回されてきて
苦しんでこられた結果だったのです。

私個人は、直接的に「侵略戦争」と、その対極にある「聖戦」の用語を簡単に使うのは
避けたいと思っています。
自国の歴史から気概と誇りを持つのは大切です。
だからといって、あまりにも力を込めて「気概と誇り!」というのが好きではないです。
また、「過去の戦争を反省しましょう」という「謝罪史観」も好きではないです。

いま日本の中だけでも、かなりせわしなく時が過ぎているように思いますが、
そんな時でも、せめて物事を複眼的に考えられるようになりたいものです。
そのためには、多分時間が必要です。
一つの考えを、ゆっくり自分のなかで咀嚼してとらえなおす・・・。
そんな時間を少しでも持ちたいなと思います。

武藤さん、あなたは
「古今の戦史を見ると、戦うべきときに戦わなかった国家は、
相手国の屈辱に甘んずる結果、国民は志操を失い、領土や資源の多くを
奪われる結果、再起の力を持つに至らない」と言われていますが、

それはいったい、どこの国の戦史を例にとられたのでしょうか?
どうか教えてくれませんか?

人の一生には晴れたり曇つたりする日が交互にやつてくる

今年もこの時期が来ましたね。

クリスマス?

確かに、私個人は、カトリック未受洗者のまま
たまにですが、ミサに与ったりもします。

でもそれ以上に・・・。

興亜観音

東京裁判で判決を受けられた方々が処刑された日のことを
思ってしまいます。

武藤章中将は、東京裁判において、唯一陸軍中将の階級で死刑判決を受けられた方です。
それはずっと前から知っていました。

この人、東條大将の腹心だったからじゃない?てな理解でしたが・・・。

実際はそのようなことではなかったと思います。
軍務局長としての役目の他、近衛師団長として、フィリピンの第14方面軍参謀長としての
立場での責任追及をされたことが原因だったと考えております。
軍務局長という立場で御前会議に陪席したぐらいでは、処刑にはならない。
海軍の岡敬純軍務局長は終身刑だったのだから。

武藤さんは、陸軍側の軍務局長の役目を解かれて、
指揮官・参謀長として外地で闘っていた方だったから。
ある人を処刑に追い込みたいときに、特に目を付けやすいのは
指揮官とか参謀長、収容所長的な立場経験だと思っています。
武藤さんは、そのうち指揮官と参謀長経験者だから、かつての役目に事寄せて
処刑という結果になられたのだと考えています。

武藤さんが、65年前のこの時間、どう過ごされていたのだろうということを
毎年この時期になると、いろいろ思いめぐらしてしまうのが私の性分だったりします。
本を紐解きながら、武藤さんが話された内容をもとにあれこれ思いめぐらすのですが、
実は毎年、いろんな発見を自分勝手にしています。

今年は、この書物を紐解いてみました。

死の直前に、教誨師の花山信勝師に、妻と娘あての手紙を渡していました。

「十分覚悟ができた。少しノドを痛めておるほか至極健康だ。
カード遊びや読書などをしている。
私の死は絶対だ。
衝動的に死を恐れることもある。他の人にもそれはあるらしい。
安政大獄中の松蔭にも、この気持ちはあつたろう。
それは生への執着である。
理性では、どうすることも出来ない。
私は宗教には、気づかずにやつて来た。

日本復興は必ず出来ると考えている。戦争で一切を焼いてしまつた。
現在の簡素な生活に満足するよう、物質的欲求を制限することが大切である。
過去の物質的生活を思うことはよくない。
物質的な生活よりも精神生活の高いものへ。汝らの宗教を指図はしないが、
人間には宗教心の絶対的必要なことだけはいいうる。(中略)

法名も「光壽無量院」ともらつておる。私を見たければ南無阿弥陀佛と称えよ。
必ず会うことができる。
何年かの後には必ず来いよ。それ以前には来るな。
佛ということは光である。死を覚悟しながら、ぎくっとくると書きだしたから、
心配するかも知れぬから書くが、
私にも武人として戦争の時の覚悟はある、心の準備はすでにできている。
それをいうのではない。
静かに死を待つ時の人間としての、生への執着をいうたのである。
決して刑場には遅れはせぬ。今夜九時から花山さんからだといつて、
順次よばれたときに、いよいよ刑の執行と考えた。そして宣告を受けた。
心は落ち着いた。体重を計った。
それから独房に帰って、タバコを吸つて、よく眠つた。
二十二日にはお経を読んで、タバコを吸つて、
今生最後の日と思うと面白い。

今夜半と思うと、他人事のように思われる。不思議なほどである。
歎異抄の第九章のごとく、決して死を嬉しいとは思わない。
しかし、私には何の不安もない。私が成佛した暁には、今の如く離れ離れではない。
必ずお前たちを幸福にすることができるのだ。

人の一生には、晴れたり曇ったりする日が交互にやってくる。

午後十時には感想録の手を止めて、夜十二時までに静かに時を過ごすであろう」

この文章の中で、個人的には、
人の一生には、晴れたり曇ったりする日が交互にやってくる
という一文に目を留めました。

一人の我が国の歴史に名前を留められた方でありながら、ハンドルネームに一字いただくほど
勝手に「近しい」と親しみを抱かせていただいている方から

人の一生には、晴れたり曇ったりする日が交互にやってくる

という諭し声が聞こえてきた感じがした、というのが
私の今年の「この日」における正直な気持ちです。
いろんな捉え方ができる深い言葉だなあと思って、静かに味わいながら
静かな時を過ごそうと思います。

武藤章中将の「あだな」

武藤章中将は、御自身でも

「私は告白するが、私は自信を以て常に直言する。
従つて私を真に理解し又永い交際の者はよいが
初めての人々は私の言葉つきや風貌から私を誤解する
ものの多いことを知つてゐる。この私が軍務局長に
二年七ヶ月もゐたのであるから、相当敵も出来たらうことは
否定できない」

と書いておられるように、相当誤解されやすい方で、敵も多かったのは
事実だったろうと思います。

私自身の武藤章さんとの出会いは、書店にあった
東京裁判関係の書物でした。
その時に、山下大将が降伏されるときにとなりにいたので
あまり陸軍関係の知識がなかった私は、
「なんで、この人軍務局長だったはずなのに、山下大将のとなりに
いるんだろう。きっと陸軍中央部からの監視として派遣されてきたんじゃないかなあ」

と思っていました。

何だか近寄り難そうな雰囲気だとも感じたからです。

そんな武藤さん自身には、いろんなあだ名がつけられてます。

「無徳」(ムトウではなく、「ムトク」)
「傲慢不遜」(これは良く知られている)

マイナーなあだ名が一つあります。

それは、何と

カメレオンです!

Disney 米ディズニー公式 プリンセス Princess ラプンツェル Rapunzel カメレオン パスカル pascal?財布

画像どうしようかと思いましたが、
個人的には「かわいらしい」のがいいなあとおもったので
ディズニーのものにしました。
これ、改めてみると、かわいい(ディズニーのキャラクターはあまり知らないのですが、
今度チェックしてみたくなりました!)。

なぜ、カメレオンなのか?

武藤章中将の同郷(熊本)の後輩である
松村秀逸少将(陸士33期。=武藤さんより8期下)の著書『三宅坂』によると

「武藤さんは巾の広い性格だった。
物わかりもよかった。視野の狭い連中からはカメレオンなどと
悪口を言われたものである。

理想を固執するよりも現実的だった。
いつも目標は、低いところにとっていた。
だが、これを達成するためには全力を尽くした。

その全力の尽くし方が猛烈だったので、
盛望四隣を圧した感があったが、
話せばわかるひとだった」

と書き記しています。

おそらく武藤さんの猛烈さと、考えが変わったときに部下として対処できない
人たちが言っていたのだろうなと思います・・・。

さらに、松村氏は武藤さんの第14方面軍参謀長時代のことについて

「山下さんの方がイライラしそうになると、『閣下が余りにこまかいことを
いわれると、参謀長のいうことがなくなりますヨ』という感じで
輔佐していたとのこと。

何だか世に伝わっている「大山・児玉コンビ」とは少し違う感じがしますね。

山下さんの方がかなり細かかったとは意外に思う人も多いかもしれないけれど、
そうだったということです。
山下さんが細かいことをいわないで済むように輔佐をする・・・。
これって誰もができることではないなあと、改めて思いました。

武藤章中将は「傲慢不遜」だったのか?

武藤章中将は、どうも「傲慢不遜」な人物だととらえられがちです。

武藤章中将とゾウさん

〇日中戦争の不拡大を主張する石原莞爾作戦部長に対し、課長(大佐)の身分で
ありながら、堂々と反対し上司を孤立させた。
〇大東亜戦争前後、東條英機首相兼陸相の腹心であった。
〇大東亜戦争開始後、インドネシアの視察に行った時に、
第16軍司令官今村均中将に対し、「やり方が生ぬるい」と伝えたこと

などなど

おそらく、今村均さんの『回顧録』の一部分でそのように捉えられ、
さらにもともと直接的なものの言い方をするということを自分でも認めているところから
そのようなイメージが定着していたのではないでしょうか?

今村均さんの回顧録とはこちら

実際はどのような方だったのか?
武藤章さんが、近衛師団長(昭和17年4月~)から第14方面軍参謀長(昭和19年10月~)まで
側に副官として仕えた稲垣忠弘中尉が書き残している文章から見ていきたいと思います。

出典:稲垣忠弘「武藤中将、副官の思い出」(『巨杉会会報』第7号 昭和62年8月)

稲垣副官は、武藤さんが近衛師団長として赴任するに伴い、
なぜか突然抜擢をうけて師団長副官となったとか。
その際に、小畑信良・近衛師団参謀長にこういわれたとか。

「キミが武藤中将の副官になるにあたって、一言注意をしておく。
武藤中将は、陸軍にとってかけがえのない貴重な人だ。
どんな戦況になっても、絶対に死なせてはならん。
覚悟してお仕えしてくれ。

それからもう一つ、君は叱られ役ということを肝に銘じておけ。
武藤閣下は陸軍きっての秀才であると同時にうるさ型だ
閣下の御小言の防波堤になって、適宜に参謀部に連絡してくれると
参謀たちが助かるからなあ、ハッハッハ、しっかりやってくれたまえ」

稲垣さんは、予備役の将校だったので、なぜ自分が抜擢されたのか
よくわからず、やはり武藤さんという方に慣れるまで
時間がかかったそうです。

そんなある日、スマトラにいる武藤さんのもとに、今村第16軍の参謀から
連絡があり、近く武藤師団長が今村軍司令官に会うということとなりました。
これは、武藤さんが軍務局長時代、「ジャワの軍政は生ぬるい」と今村軍司令官に伝えた
ことで激論となって以来のことでした。
この部分が、映画『ムルデカ17805』でも描かれていたのを覚えています。
武藤章さん役が、夏八木勲さんでした。

武藤さんは、師団長となってからいろいろ第一線を視察した結果、
今村さんのやり方が正しかったことを認め、いつか謝りたかったということで、
この今村軍司令官との再会を楽しみにしていたそうです。

私は間違っていた。現地の状態を本当に把握できていなかった。
今村中将にお会いできる日が楽しみだ
」とも稲垣副官に話していました。

今村中将に会見し、軍務局長時代の件を謝ったあと、
「私も、今村閣下の軍政に負けないよう、しっかり実施します」と言いました。
そんな武藤さんの姿勢を、「素直だ」と今村均さんは回顧録に書かれていますが、
どうも見落とされているようですね。

私は武藤さんは「傲慢不遜」ではないと思っていますが・・・。

武藤章軍務局長の政党論

武藤章中将といえば、特に陸軍省軍務局長時代の活躍で
戦前も、戦後もかれこれと批判されていた方だと思います。

そのような武藤章中将は、政党にどのようなことを期待していたのでしょうか?

以前のブログ記事にも少しだけ書きましたが

立憲民政党のような、わりと大きい野党は、政府や軍部の反対政党として
しっかりしてもらいたいという考えを持っていました。
最後まで、近衛文麿さんが党首である新党結成の望みを持ち続けました。

一国一党というものは、政党がないのと同じであって、必ず腐敗堕落するとの
見解をもっていました。」とは東京裁判の時の武藤さんの証言です。

さらに、ナチスのような内部裁判機構をもつ一国一党制を支持したこともありません。

それでもなぜか、戦後になると、かつて武藤さんが軍務局長時代にヨイショし、

彼の言動を利用していた政治屋さんほど、「武藤は陸軍部内で強力な発言力を持っていた。

ナチスドイツを熱烈に支持していた。その証拠に当時のドイツからも勲章を授与されている」とまで

言う人も。

結果として責任を取らなかったひとほど、死人に口なしをいい事に

無責任なことをいうのだなあと改めて感じさせられました。

日本がいろいろな面で危機的な状況であるからこそ、実は今こそ、武藤章軍務局長の当時の考え方を

見直してみることも必要ではないでしょうか。

話が変わりまして

下に掲載した史料は、武藤章中将が、東京裁判中、自分の弁護人コール氏に宛てた依頼状です。

国立国会図書館憲政資料室で見つけました。

初めて見たとき、武藤さんて何と美しい文字を書かれるのだろう!と

思ってしまいました。

武藤章中将依頼状(昭和22年3月31日)(国立国会図書館蔵)