「どうしてもっと早く捕まえてくれなかったんでしょうか」

『朝日新聞』1996年5月21日夕刊より。

この日は、中川智正被告の第5回公判の日。
東京都庁小包爆弾と新宿駅青酸ガスの二事件が審理されました。

東京都庁小包爆弾事件とは

1995年5月16日午後7時頃都庁の知事秘書室で、当時44歳の東京都職員の男性が青島幸男知事宛の小包の梱包を開封し、
中に入っていた単行本を開いたところ、突然本が爆発してしまい、
都職員の男性が左手の指全てと、右手の親指が吹き飛ぶ重傷を負った事件のことです。

オウム真理教側の犯罪関与者は、井上嘉浩、中川智正、 富永昌宏、豊田亨、高橋克也などでした。
オウム真理教における一連事件の最後となるものでした。

なぜなら、教祖が逮捕されてしまい、
さらに中川智正も翌日23時ぐらいに杉並区の路上をふらついているところに
逮捕されてしまったから。

※井上嘉浩、豊田亨は5月15日に秋川市(現あきる野市)にて同時逮捕されている。



この事件においての被告側意見陳述において
中川智正被告は殺意を否認したあと、
公安警察は、八王子アジトで潜伏中の私たちの行動を監視していた。
逮捕後の調べで知った捜査報告書にあった人の出入りや服装チェックも正確だった」と指摘し
「それなら、私が都庁の職員の指を飛ばす前に逮捕してほしかった。
悪いのは私だし
すべての責任は私たちにある。
声高々に『宗教弾圧』というつもりもない。
どうしてもっと早く捕まえてくれなかったのでしょうか
」と
泣きながら意見を述べたとのことです。

この記述は朝日新聞が一番詳しかったです。
中川智正被告が、法廷で泣きながら
どうしてもっと早く捕まえてくれなかったんでしょうか!」という部分まで詳細に書いてくれています。

この事件の少し前
オウム真理教関係者の逮捕が相次ぎ、「悪業を積みたくない」と泣き出した中川智正が
一瞬にして教祖が乗り移ったかのように変化するのはこの事件のときです。
その様子については、こちらのエントリーにあります。
「なんていうのか、中川にはなんかあるな~」

この事件に、豊田亨さんが関わっていたのも、意外でした。

この豊田亨さんが1996年12月3日の中川公判に検察側証人として出廷した記事があります。
(「朝日新聞」1996年12月4日朝刊)

この公判において、豊田亨さんは弁護人から
「中川くんに言っておきたいことはないか」と促され、
次のように答えています。

頑張ってください。
こういう場で申上げるのは妥当ではないかもしれないが、
頑張ってください、といいたいです。
言葉の意味は中川さんだけに考えていただければいい。
自分と中川さんでは考えに違う点があるかもしれないが、
それをどうこういうつもりはない。
中川さんのことは素晴らしい先輩だと思っていたし
それは今でも変わらない

と断言されました。

それを被告席で聞いていた中川智正さんはどうしていたのでしょう。
豊田亨さんの証言の途中で眼鏡を外し、目を真っ赤にして聞いていた、そうです。

当時の中川智正さんはまだ、「尊師」と仰いでいる時期で
豊田さんは、決別していたという点で違いがあるのですが、
それをも超えて中川智正さんに対し
端的な言葉で励まされた豊田亨さんの姿が
なんだか新鮮に見えました。
豊田亨さんは、決して緘黙でもない。
いうべきときに、適切な言葉を端的に使って断言する方です。

中川智正さんは裁判中でも号泣したり、突っ伏したり、拒絶したりと
記事を読んでいるだけでハラハラさせられます。
この「都庁小包爆弾事件」については
泣きながら警察を説教するという新しい姿を見ることが出来ました。

中川智正さんは95年になっても、警察としてはノーマークでした。
この人の名前が朝日新聞に登場するのが1995年5月12日でした。

実は、中川智正さんと井上嘉浩さんについては
あの滝本太郎弁護士が、


の86頁にて
(麻原第153回公判 2000年4月3日)

仮谷清志さん拉致事件が起きた後、神奈川県警察に掛け合って
2人(中川・井上)がオウム真理教でのシークレットワークに入っているので尾行してくれ、と頼んだけど
頼んだ相手が悪かった。
尾行体制もとらず
地下鉄にサリンがまかれてしまった。
警視庁公安部に頼んでいたらよかったのかもしれない
と非難しています。

このように、実は日本の警察は、微罪には厳しいが、
宗教がらみや面倒くさい事件には実はノータッチになりがちなのが
わかりました。

中川智正被告は、そんな警察を泣いて非難していたのですねー。