「サリンまくために出家したんじゃないんです」

教祖の法廷での中川智正さんの言葉として
最もインパクトのあるものだと思います。
「中川智正」という人物を知りたいと思った人が
まず、この言葉をwikipediaなどを見て
まず目に入るだろうこの言葉なのですが・・・。

いったいどのような公判上のやり取りがあって
この言葉が出たのでしょうか。

私が疑問に思うのは、
同じ死刑判決を受けた、豊田亨さんや広瀬健一さん、林(小池)泰男さんの裁判では
「被告人の資質ないし人間性それ自体を取り立てて非難することはできない。
およそ師を誤まるほど不幸なことはなく
この意味において、被告人もまた不幸かつ不運であったと言える」
と言われているのに対して、
中川智正さんの場合、上記の文言を裁判官から言われてはいないのは
なぜなのでしょうか。

もっとも、裁判長が中川智正さんと、豊田亨・広瀬健一さんらと違うのもあると思います。
中川智正さんは公判途中から感応性精神病、解離性精神障害の可能性もあるのでは?と
裁判関係者に思われていたけど、それならば、豊田亨・広瀬健一さんも同じでした。

さらに、中川智正さんの確定死刑囚となってからの拘置所内での活動から
彼を知った者(私もその一人)にとっては、
「麻原との出会いさえなければ・・・」と拘置所内から化学論文を書ける才能を
最初は惜しんでいました。
でも「麻原との出会いさえなければ」とは、中川智正さんの場合は
簡単に言えないのではないでしょうか。

だからこそ、この「サリンをまくために出家したんじゃないです」という言葉が
出る前後の公判の様子を見ていきたいと思います。

これまでのエントリーでは、中川智正さんが教祖の公判などで
オウム三大事件などへの自身の関与をどうとらえていたかを
取り上げてきました。

  • 松本サリン事件
  • 地下鉄サリン事件
  • 公証役場事務長拉致事件
  • 坂本弁護士一家殺害事件
  • そして、中川智正さんが出家した頃の「指導役」でもあった
    村井秀夫さんの刺殺された時の所感。

    これらを語るにあたり、中川智正さんは
    「自分の神秘体験をあるがまま語る」ことに特にこだわっていたことが
    わかりました。

    「光が降ってきた・・・」

    私個人はブログを書くにあたって、
    この光ってどんなものだったのですか?
    と中川さんに聞きたかったです。
    今や永久に不可能ですが・・・。

    文字だけでなく、何か光の写真をと探しても
    中川智正さんが見えた光とは何なのかが
    どうしても想像できなかったのでした。

    だから、どんな美しい光の写真やらイラストを出したとしても
    却って失礼になると思い、出せませんでした。

    中川智正さんにとっては、「神秘体験が(教祖への)尊敬のすべて」
    (教祖第180回公判、2001年1月11日)
    なのだから。

    教祖第199回公判においては(弁護側証人として出廷)
    坂本弁護士一家殺害事件に関する尋問に関連してこんなやりとりがありました。

    (出典:『検察側立証すべて終了―オウム「教祖」法廷全記録〈7〉2002年 毎日新聞社会部)



    弁護人:「捜査当局はあなたの精神状況に関心があったのでは
    中川:「あまり聞きたくなさそうでした。
    (検察官に)『人が亡くなったとき、光が降ってくる』といったら
    笑われて、それで終わりだった。

    弁護人:「(逮捕された)平成7年(1995)年5月頃の神秘体験は」
    中川:「『修行しろ』という声がした
    弁護人:「誰の声」
    中川:「麻原氏」

    弁護人:「脱会のきっかけは早川(紀代秀)さんの脱会でしょ。脱会すれば教団に迷惑がかからないというのもあった?」
    中川:「それもあった」

    弁護人:「教団が間違っているから脱会したのではないのか」
    中川:「教義が受け入れられないのは分かっていた。
    それに改めて気づいたから脱会したのではない


    弁護人:「当時、麻原さんについてどう考えたか。
        『修行しろ』という声を聞いてどう思った」

    中川:「修行した。レンゲ座に足を組んで、心の中を見つめたり、麻原氏のことを考えた」

    弁護人:「(坂本弁護士一家殺害事件の際も)誰かの声がしたというが」
    中川:「ポンと後ろから押されたような感覚」

    弁護人:「声に抵抗しようとは」
    中川:「ない。怒鳴られて姿勢を正す、そういうもの」

    弁護人:「追い込まれた時にやめろというのが神の声ではないのか」
    中川:「主体的に生きている感覚がなかった

    弁護人:「(あなたは)人に責任をなすりつける様子はうかがえない。
    うらみつらみはないのか。」
    中川:「遺族の人たちが私たちを非難するのはよく分かる。加害者の私はそういう立場にない」

    弁護人:「オウムに入って後悔しているのか」
    中川:「坂本事件で、薬物を取ってこいと言われたところで、
    ひょっとしたら(引き返せた)と思うが、
    オウムに入ったのは神秘体験の話になる。
    誰の責任でもない。少なくとも教団側の責任ではない。
    麻原氏がそれを起こしたとしても責めるわけにはいかない。」

    弁護人:「ぶつぶつ言っている麻原さんを見て笑っているが
    中川:「しょうがないと思っている。憎いという感情がない
    弁護人:「最後に麻原さんに言っておきたいことは」
    中川:「急に言われても困る・・・・・。考えさせて下さい」

    この日の尋問中、中川智正さんは教祖の「ぶつぶつ」を聞いて
    笑っていたのですね。
    そして、「最後に麻原さんに言いたいことは」と問われて
    「急には答えられない」と答えています。
    この点は、豊田亨さんや井上嘉浩さんたちとは異なる部分だと思います。

    その翌日、麻原第200回公判が開かれました。(2001年6月22日)
    この時は検察側証人として出廷し、麻原弁護側の反対尋問に答える形となりました。

    弁護人:「神秘体験を聞いていると、うそとは思わないが、
    一般の人には異常ではないかと思える

    それでも(自分の刑事)責任能力を争う気はないのか」
    中川:「病気ではないと思う。この世界から逸脱したものだと思う。
    裁判で争うのはどうかな。麻原氏も教団の人も、ちゃんと説明できない。事件の本質だと思う。」

    弁護人:「死刑になろうと言っていたが」
    中川:「それ以外に責任の取り方があるのか」

    弁護人:「麻原氏に言いたいことは」
    中川:「(拉致事件で死亡した)仮谷さんと松本サリン事件の民事裁判に出た。
    本当は麻原氏に話を聞きたいが、
    麻原氏が証言する見込みがないと、代わりに証人として出た。
    私の話を聞いて仮谷さんの息子さんも遺族の方も泣いていた。
    死んでお詫びをしますとしかいいようがなかった。麻原氏にもそれを分かってほしい」

    弁護人:「ほかには」
    中川:「地下鉄サリン事件で、医者をしている友達が、
    『まさかお前が作ったサリンとは思わなかった』と人づてで聞いた。
    教団の構成員は麻原氏に従わざるを得なかった。マ
    インドコントロールされていたともいうが、もともと特殊な人が集まっていたと思う。
    世俗的なものを捨てて活動していた。
    それが捜査が入り、活動を止められて、司法の場に引き出され、現世に戻された。
    現世的なケアがなされないと
    井上(嘉浩)くんらが口を極めて非難している。
    彼らのステージが低いとか、それだけではない。
    麻原氏、尊師、分かって欲しいです。」

    弁護人:「宗教的なケアがない?」
    中川:「現世的なケア。お前たちが悪いんじゃない、と口で伝えないと
    教団はシバ大神の名を標ぼうしていた。
    尊師、神々についてどうお考えか。
    何らかの形で信じていた人たちに示してほしい。
    サリンを作ったり、人の首を絞めるために出家したんじゃないです

    その時の教祖は、ぶつぶつ口を動かし目を閉じていたそうです。

    以上は毎日新聞社会部の書物から引用しましたが、

    朝日新聞(2001年6月23日朝刊)
    となると、より細かく記されています。

    毎日新聞の記事では教祖側から見たイラストはこちらです。



    「サリンをまくために出家したんじゃないです」と言ったとき
    こらえていた涙が突然に噴きだしたように声をあげて泣き出したのだ。
    泣き声は数分間続いた。
    (中略)
    「教祖」への恨みつらみはない。
    「何が一番悪かったかといえば、
    やはり自分が生まれてきたことが悪かったと、
    そこまで行ってしまう

    (一連の事件は)麻原氏のせいという気持ちはない。
    たしかに教祖である麻原氏がいなければ事件はなかったが、
    私たちがいなければまた、事件はなかったんです」

    「尊師は教団がやがて破滅するといったことがあった。でもこんな風に
    誰からも指弾される形で破滅するとは思っていなかったのではないか」

    本年7月6日の報道時に、
    中川さんの「サリンをまくために出家したんじゃないです」を引用した報道もありました。
    その言葉が出てきた背景までは、どの局も、マスコミも触れていませんでした。
    これは本当に残念に思います。
    中川智正さんも、あの世で「予想はしていたけど、残念」と思っていたのではないかと想像しています。

    中川智正さんは、医学部を出て医師免許を取っていたのを教祖に目を付けられ
    出家させられて、マインドコントロールを受けていた。
    それで各種犯罪に手を染めてしまった。
    それがこの2001年の教祖公判時にマインドコントロールが解けて
    「私たちはサリンをまくために出家したんじゃない」
    いきなり言ったのではないのです。

    確かに中川智正さんも、出家者として各種の訓練を受けたとは思います。
    その効果の結果考え方が変わった部分ももちろんあるでしょう。
    でも大切なことは、
    出家したのは、自分の神秘体験が原因であり
    その神秘体験については教団の誰も、
    麻原氏でさえも理解しなかったものである
    という部分ではないでしょうか。

    神秘体験のため日常生活に非常な支障をきたし、
    救いを求めて絶望感から出家をした中川智正さん。
    出家はしても、いつも孤独でした。

    いやいや、恋人まで出家したのだからそうではないという人もあるでしょう。

    恋人も教祖も含めて、理解されない神秘体験をどう捉えたらいいのか。
    まったくわからない。
    説明しようにも言葉がない。

    そのような、言語化できない孤独感の中で、教祖に光を見て、それに従って生きていた中川さん。
    教祖が、常識から言って理不尽やおかしなことを沢山してきたのを(破戒の部分も)受け止めてきたのだと思います。

    教祖が光だったから。

    オウム関係者が、中川さんも含めて逮捕され、現世に戻されて
    教祖が何か自分たちに現世のケアをしてくれることを期待もしていたのでしょう。
    しかし、教祖は語らない。ケアもしない。だんまりを決め込み、ぶつぶつ言っているだけ。

    むしろこの言葉を裁判で叫んだことで、中川智正さんとしては
    絶望的な孤独感と、強い希死念慮に苛まれて
    今すぐにでも死刑執行してほしいと強く願ったのでしょう。
    死刑執行されて早く現世から消えたいと。

    しかし実際には、中川智正さんが「自分が生まれてこなければよかった」と発言したことが
    自身の裁判でも再度蒸し返されてしばらく苦しむこととなります。

    「村井さんはやくざに頼んで自殺したんじゃないか」

    今もって謎が多い村井秀夫元幹部の刺殺事件。
    この事件についても、中川智正さんは裁判中に証言しています。

    麻原第193回公判(2001年4月20日)において、
    中川智正被告は、
    逮捕時の自身の様子について麻原側弁護人から尋問されました。

    弁護人:「逮捕にあたっての教団の指示は?」
    中川:「なかった。1990年の国土法違反の時は黙秘していたので
        黙秘はするものだと思っていた。黙秘は難しいから死んだ方がいい、ともほかの人と話したが」



    弁護人:「どうして死んだ方がいいのか」
    中川:「しゃべるぐらいなら。
    村井さんはやくざに頼んで自殺したんじゃないかと思っていた
    あの人なら、そのくらいやりかねない。ああいう風に死ぬんだったらいいなと」

    弁護人:「どうしてしゃべりたくないのか」
    中川:「麻原氏のことはしゃべりたくない。
    逮捕されたら社会に戻るわけだが、犯罪のもとになっている内的体験とか
    信仰をいっても分かってもらえないだろうと思った。」

    2001年の教祖公判時に証言として「村井自殺説」を出していた中川智正さん。

    その後中川智正被告自身の裁判時に、村井秀夫に関して、
    被告人質問で、教団崩壊のもとを作った一人として責任を取らせられる立場だったのではと
    次のように話しています。

    出典:降幡賢一『オウム法廷13』



    弁護人:「そのころ(逃走しながら、さらに事件を起こすことを相談していたころ
    どんなことを考えていたのか。」

    中川:「(教祖が)村井さんに責任を取らせようとしているのかな、ということです。
    武装化でいろんな事件を起こして、教団が崩壊に瀕している。お前、何とかしろ、責任を取らせようとしているのではないかと」

    弁護人:「(教祖が自分で)武装化を指示しているにもかかわらず、責任をとらせるのか」
    中川:「教義でもあるが、弟子のカルマによって失敗したんだと。
    やっている人が村井さんでなければ、別の人であれば成功した、ということです。」

    弁護人:「何が悪いと」
    中川:「心がけとか運命とかいうことになってしまいますが、
    要するに関与したお前が悪い。運が悪いのもお前が悪いと。
    それで村井さんが追いつめられているのかな、と。
    その時でなく、しばらく暮らしているうちにそう思いました。」
    (裁判長)
    「それは教団内の責任は、それとも社会的、刑事的責任についてもか」
    中川:「事件を起こすことについての刑事責任も含まれていたが、
        宗教的に、事件を起こして自決しろ、というようなことだと思いました。」
    (弁護人に戻る)
    「くどいようだが、事件を起こしたのは麻原さんの指示だが、
     窮地に陥ったのは村井さんの責任、カルマだから、それで事態を打開するのか」
    中川:「打開しようのない状況だったから、打開できるようにしろ、そのくらいのことをしろ、
        と突きつけられているんじゃないかな、と思いました。」

    (その後、地下鉄サリン事件後、村井元幹部が4月12日に井上嘉浩被告に、
    自衛隊員の信徒を使ってクーデターを起こせと指示してきたことについての質問があり、
    中川被告は「あまりにも突拍子のない話」だとし、次のように答えています)

    「普通なら、四・五人でクーデターといって殴り込んだら、死んでしまうと思う。
    井上君は死ね、と言っているのかと村井さんに反論したと聞いているが、
    実際は井上君に死ねといっているのではなくて、
    仮谷事件を実行したことを麻原氏は怒っていた
    教団がこんなになってしまったのに、お前はどう責任をとるのか
    その責任の取り方として、クーデターで突っ込んでいって死ねと、
    そういう責任の取り方があるということで言っていたと思った。」

    弁護人:「中川さん自身は、(そのころ)教団の先行きをどう思っていたか」

    中川:「極めて厳しいと思った。近々潰れると思っていました。(そのことは)麻原氏もわかっているだろうと。
    私は、90年のインド旅行のとき、麻原氏からいずれ教団はつぶれると言われている
    私のベースはそこなんです。
    武装化しても教団の天下がくるとは思っていなくて、どんどんじり貧になっていく。
    時々麻原氏がそういうことを漏らしたので、そういうことだ、と思っていました。」

    やっぱりあのう・・・責任を取らせるとか、要するに弟子のせいだと、
     弟子が至らないためにそうなった。運が悪いというのも至らないためだと。


    弁護人:「だとしたら、結果がでないのはお前たちのせいだというのには反発の気持ちが起きなかったのか」
    中川:「そこまで行くと、普通は反発するかと思うが、それはなかったです。
    やはり自分たちが悪い、と思っていた。多分
    (当時いっしょに行動していた)豊田(亨)君はそう思っている。
    富永君はわからないが、林泰男さんはそうだったと、井上君もそういう言動があった)
    ※5月15日までは、井上、中川、豊田、林泰男、高橋克也は一緒に行動していた。この日井上、豊田が八王子で逮捕されている。
    それからは別行動になり、中川、林、富永たちは杉並に逃亡したのか?
    中川さんは17日に杉並区内で逮捕、林、富永はその後もしばらく逃亡。

    教祖から「弟子の心がけが悪いから教団が崩壊するので責任を取れ」という言動を受けていたと話した後、
    村井秀夫刺殺事件の所感について弁護人から問われました。

    「4月23日に村井さんが殺害された。殺させたのは教団だと思ったのか」
    中川:「当時の気持ちを言えば、(教団は)関係ない。
    ただし、ちょっと思ったのは、村井さんであれば、自分で自分の口封じをしかねない。
    俺を殺してくれと頼んで刺してもらう。そういうことでもしかねないと思いました。」

    弁護人:「どうして知ったか」
    中川:「刺された瞬間をテレビで見ていました。ちょっと瞑想したが、もう助からないという声が聞こえました。
    その旨を井上君らに伝えた。音声だが、他の人には聞こえなかったと思います。」



    弁護人:「麻原さんの声か」
    中川:「ではないが男の声です。その声が教えてくれたので伝えました。
    それからちょっと後、亡くなる前ごろから亡くなった時、光が降ってきた。
    亡くなったと聞いたときか、ちょっと後だが、光が降ってきました。
    それで麻原氏が村井さんをポアしたと思った
    殺したという意味ではないが、高い世界に生まれ変わったんだと私は思いました。」

    弁護人:「村井さんの件、亡くなったとわかったとき、どんな思いがしたか」

    中川:「そのときですか。
    一つは村井さんがいなくなったということで、心にぽっかり穴があいた気がした
    もう一つは高い世界にポアされてよかった、という気持ち。
    歓喜が出てくる感覚が加わった。」

    弁護人:「あなた自身と引き比べて何かあったのか」
    中川:「自分と比べてですか。あの、うらやましかった。一つは高い世界に生まれ変わった。
    あと一つは、何かあの、煩わしいことから解放されたように見えた。
    随分大変だったと思うが、解放され、全部投げ出して、こちらでやれと言って、
    何かうらやましかったですね。
    自分がああいうふうに殺されたくないとかではなく、ああいいな、と考えました」

    なお、教祖の四女は、著書の中で村井秀夫さんの死について


    父親で教祖が直接村井秀夫さんに
    お前の今生の役目は終わった。」と伝えているのを聞いています。
    その言葉が今もよみがえって来て背筋が寒くなると書いています。

    中川智正さんが、村井秀夫さんと最後にあったのは4月12日と
    『ジャム・セッション』7号(2015)に記されています。
    この文章の中では、意識的に自分の神秘体験については触れていません。

    その後10日の間、遠く離れて行動していたにもかかわらず、中川智正さんは
    自分の神秘体験をもとに、村井秀夫さんが教祖によってポアされたという証言をされました。
    教祖四女の証言と不思議に一致していることに、私も今回驚きました。
    その上、逃亡先でテレビ放送を見て、そういう神秘体験をしていることにも。
    このテレビ放送が今も、Youtubeで手軽に見られるのですが、
    当時この動画をテレビで見ていた中川智正さんの神秘体験が
    このようなものだったのかとも。

    確かに村井秀夫さんは教祖からポアを言い渡されています。
    そのポアの解釈を、村井さんは自身を誰かに殺してもらうということで、
    あの刺殺事件に至ったのであれば、
    これは裁判では不明のままの扱いにはなりますが、
    中川智正さんの神秘体験を無視できないのではないかと
    私は思いました。
    なお、村井秀夫刺殺事件について、中川智正さん自身が初めて証言したのは
    教祖の公判で、教祖の前であったということもまた注目すべき点です。
    ぶつぶついっていたのか、寝ていたのかわかりませんが・・・。

    「ため息をつくより、早く話して楽になったらどうですか」

    麻原公判の第94回目(1998年10月16日)に証人出廷した中川智正被告。
    この日は、検察官からも麻原弁護人からも、

    そしてタイトルにあるように
    阿部文洋裁判長からも



    ※イラストは、青沼陽一郎氏動画「麻原法廷物語」より

    「ため息をつくよりも、早く話して楽になったらどうですか」といわれるほど
    証言中、何度も身をよじり、傍聴席に聞こえるぐらいのため息をつき続けていました

    この日は、松本サリン事件、地下鉄サリン事件に関する尋問でした。
    「私の法廷が11月25日にあるので、そこで正確にお話したいので、今日はお話しできかねます。」
    それに対して、阿部文洋裁判長が
    その時に言えるなら、今言ったらどうですか

    検察官が呆れた様子で
    サリン生成、事件の謀議、準備、実行、実行後のほとんどすべての証言を拒絶するのか
    「あなたは、1995年6月3日、6月5日、6月6日付の3通の検察官に対する供述調書を示されたと思いますが」
    と問いただしたことに対しても

    「今日はお話できかねます。有罪判決を受ける恐れがあるからです」

    確かに、過去の新聞をたどると、逮捕されて1月立たない1995年6月には
    中川智正がサリン事件に関わっていた供述をしたという記事が出ています。
    しかし、なぜこのように頑ななのでしょう。
    これは今さらながら、過去の新聞を読み漁っている私もそうですが、
    当時、傍聴に行かれていた方は皆そのように思っていたに違いありません。

    段々いら立ちを隠さない検察官が
    「検事調書と違うと言われて、なぜと聞くのは当然だし、あなたには答える義務がある」
    「答えないのはフェアではない」
    さらに阿部文洋裁判長までもが
    いったん言ったことは、証言拒否権を放棄していることになります」とくぎをさしました。

    それに対して、中川智正被告は
    基本的には誰にも話したくない
    「新しい弁護人との間で自分の裁判の準備が進めば話す可能性があるので、待ってほしいと言っている」
    (弁護人が、裁判開始後両親が雇った方から他の方に変わったころでもありました)
    記憶通りに話して罪が重くなっても、それはしょうがないんじゃないでしょうか

    さらに麻原弁護側からも
    「なぜ、事実と違うことを供述の段階で検察官に言ったの?他人に罪を転嫁するためなのか。
    自分で罪を背負うつもりなのか」
    「あなたがしゃべらないことで、相当な混乱が起きていることは分かっていますか。」
    中川智正被告は、「分かります。よく分かります」

    こういうやりとりが一時間半続いて、この日は時間切れで終わってしまいました。
    ただし、サリン原料のメチルホスホン酸ジフロライド(ジフロ)を保管していたのは、
    自分といったけど、実は井上嘉浩被告であるということを言い出しました。
    このことが、16年後も尾を引くことになるとは、当時は誰も考えていなかったでしょう。

    阿部文洋裁判長が最後に
    真実を明らかにしないといけません。真実は一つです。
    苦しそうな顔をしたり、ため息をつくより、
    しゃべった方が楽になるんじゃないですか。
    また来てもらいますからね
    」という姿を
    中川智正被告は、口を一文字にきっと結んで、じっと見つめていたとのことです。

    このとき、教祖はどうしていたのか。
    不規則発言ではなく、居眠りをしていたということです。

    逮捕後の取り調べでは、サリン事件について早くから供述をしていたのに
    いざ裁判となると、なぜ沈黙するのでしょう。
    この中川智正被告の沈黙がオウム真理教裁判を引き延ばしさせる結果となったのは
    確かだと思います。
    実行役の豊田亨・広瀬健一・林郁夫被告などはみな語りだしていたし、
    教団との決別を明確にしていたのに比べて
    製造役とされた中川智正・遠藤誠一被告は事件については認めるも、
    裁判の場で証言を拒否する姿勢を、1998年当時は取り続けていました。
    そのこともあって、サリン事件の全容が裁判の中でもつかめない状況だったのでした。

    その中でも、中川智正被告は、なぜこんなにも話したがらないのでしょう・・・。
    身をよじってため息をつく姿を想像するや
    私は、少年犯罪を起こした高校生ぐらいの子供がふてくされている姿を
    想像してしまいました。
    そして、1時間半の間、証言台でため息をつき続ける姿を晒しているのも
    随分な修行だなあと感じました。
    青沼陽一郎氏が麻原に対して言われた「無頓着の実践」とはまた
    少し違うようにも思えますが。

    でもこの人、当時30代だったのですよね・・・。

    さらに、両親が金銭的に苦労をして雇った弁護士を、
    自分の裁判の都合ということで解任してしまったころで、
    ご両親の不安、心配は、想像を絶するものであったと思います。

    しかし、中川智正被告が「記憶通り話して罪が重くなっても仕方がない」と話しているあたりは
    今後の裁判を見ていくうえでキーになることではないでしょうか。

    なお、この日の傍聴希望者は115人とのことで
    中川智正被告初公判の4158人からすると
    かなり関心度が落ちたことがわかります。

    「対話本」から中川智正さんに興味を持った人は、



    「なぜ中川智正さんのような頭がよくて誠実な人が麻原なんかに・・・」
    と強く思うはずです。

    実際は、このような時期が長かったのですが、
    その部分が「ないこと」となってしまっていることを改めて思いました。

    だからこそですが、朝日新聞や毎日新聞社会部は、一連の書物を
    再刊してほしいと強く願います。

    私は都内に勤務していてそのついでに、資料に接することができますが、
    Twitterから私のブログを読んでくださっている方の中には
    中川智正の姿を知りたくとも
    その資料に直に当たれない状況なのです。

    地方では図書館にオウム真理教関連の書物がないのです。
    おそらく古い書籍は廃棄やリサイクルされてしまって
    ないのでしょう。

    テレビ放送では不十分です。
    あくまで当時の裁判記録に近いこれら書物の再刊を
    強く求めます。

    オウム真理教裁判がどのようなものであったのか。
    そして中川智正さんという人を深く知りたいという人のために。

    中川智正さんがどのような姿であったとしても
    読者は、いろいろと想像するでしょう。
    人物を複眼的にみる機会になるでしょう。
    その機会さえ失われるのはもったいないことだと思います。

    参考資料:
    「朝日新聞」1998年10月16日朝刊