【加筆】「文学博士」渡辺錠太郎

年末といえば・・・
シスター渡辺和子さんが亡くなられて一年がたちました。
早いものです。
昨年年明けの岡山で執り行われたお葬式に行きたかったけど残念でした。

というわけで

久しぶりに渡邉錠太郎大将ネタです。

EPSON MFP image

以前のブログで、少し書いていたのですが、躓いてしまいました。

文学博士。

その文章に加筆修正したいと思います。

先日、私のTwitter友のねがらく(@etaenaldoutei)さんが
旭川に旅行に行かれました。
その時のTweetです。


私は、ねがらくさんが旭川に旅行に行かれたのが羨ましくてなりませんでした。
私も旭川に行けたら、絶対に「北鎮記念館」に行くぞと
新たに行きたい場所に加えました。

ねがらく(@etaenaldoutei)さんからの教示です。

それでよかったのか・・・。
いや、もしかしたらあの渡辺錠太郎大将のこと、もっと深い意味があったのではないか?
と思いましたが、まあ、ここでは置いておきます。
おそらくそんな意味かというところまでは、なんとか私も理解はできました。
渡辺錠太郎大将についていくのは難しいことです。

ところで、渡辺大将は、「文学博士」とあだ名されていました・・・。

これは褒め言葉と思いますか?

私は、渡辺さんが、陸軍部内で「敬遠」されていたことを示すエピソードではないかと思っています。

渡辺さんは、とにかく「学ぶことが大好き」でした。
強制されて学ぶということがなかったようです。

軍人としての俸給の何割かを、丸善への支払いに充てていたといわれるのは
有名なエピソードであります。

ふつうは、飲み会でのネタだったりするほうが、人間として魅力があるように
とらえられがちなのですが、その辺のネタはあまりないようです。

それよりも、どのような環境の中においても並外れた学習意欲を生涯持ちづづけた「天才」という意味で
「文学博士」とあだ名されるに至ったようです。

多分、こんなニュアンスで・・・。

勉強なんてするよりも大切なことだってあるしぃー
ただでさえ、堅苦しい軍人生活から離れてもまだ、勉強するってエライよねー
でもマネしたくないし、あまり近寄りたくない・・・

私も、無理に勉強して知識を誇示するのは嫌だと思っています。

好きなことが勉強で、ある分野を(誰が何と言おうと)追求している姿は好きです。

渡辺大将の場合は、本当に趣味が勉強と言える人だったのだと思います。

渡辺大将は、本当の学者のような勉強はしていなかったと思いますが、
戦史や航空、気象、ドイツ、国際関係に関して、マスコミのいう事をうのみにせず
関係書籍を丸善で探しまくり、いつでも勉強するという体制をとっておられたようです。
その縁で、学者の友人も多かったようです。

渡辺大将に関する勉強ネタは、このようなものがあります

  • 4歳の頃、菅原道真の話を聞いて感動し、家中に「天神」の文字を書きつらねて
    家族を困らせた
  • 農家兼タバコ屋に生まれたため、家業の手伝いが終わった夜に勉強してたら夜更かししてしまった。
  • 家業のため、中学に進学できなかった渡辺さんは、
     中学に進学した友達の教科書を一年遅れで全部貰い、それをマスターした。
  • 大好きな勉強を続けるためにどうしたらよいか考えた結果、陸軍士官学校に合格することだと思い立った。
  • 徴兵適齢(20歳)を迎えた渡辺さんは、陸軍士官学校の願書を提出しにいったところ、役所の担当者から
    「中学も出ていない者が、陸軍士官学校を受験するなどとんでもない!」
    と言われ、(愛知県岩倉町)町長からじきじきに訓戒を受けた。

    それでもあきらめず受験したら、第三師団(在名古屋)の受験者中トップ合格だった!

    これで、華々しく「郷土の誇り」として、陸軍士官学校に入学できると思いきや、
    家族からも親戚からも「家業を見捨てるのか!」と言われ、
    送別会さえも開いてもらえなかったとか。

    能力ある故に、「はみだし者」とされる苦しみに直面していたのでした。

    同様な苦しみは、形を変えて、娘の和子さんもご経験なさったとのこと。

    によると・・・

    昭和20年代に、当時の女性としては珍しく、
    上智大学に勤務しながら、上智大学大学院を卒業なさった和子さんは、
    思うことがあって、修道女になられました。(30歳ぐらいの時)

    多分、修道院側も、大学などを経営しているので、和子さんのような方を
    将来の経営者兼教育者として頑張ってもらいたいと期待し、
    修道院に入ってからすぐに、アメリカに派遣され、そこでなんと
    博士号を取得して岡山にあるノートルダム清心女子大学教授要員として戻ったところ、

    誰一人として喜んで迎えてくれる人がいなかったとか!

    「博士さんのくせに、ふきんのたたみ方もわからないのですか!」
    と嫌みを言う姉妹(修道女)はあっても。

    修道院も、軍隊もなんだか「人間の集う場」なのだと考えさせられました!

深大寺参拝中にはじめて知った陸軍大臣

本日、久しぶりにパワースポット巡りに行きました。
明日以降寒くなるらしいということと、明日がまだ休みだからというところで

「今行かなきゃ、いつ行く?」となったからです。

本当にお金のない私は、新幹線にのってどこかいくというのが難しかったのと
定期が都内23区まであるので、
深大寺ぐらいだったら片道数百円で行けるかも、と思い行先に選びました。

私はこれまで、深大寺には行ったことありませんでした。

深大寺へ向かうには、京王線調布か、三鷹からバスに乗る必要があります。
調べてみると、三鷹から出ているバス(小田急)は本数が少ないです。
調布から乗る方が本数多いです。
(あと吉祥寺というのもある)

行きは京王線調布から京王バスにて行きました。

参道を歩くと、水車がありました。

なんだかワクワクしてきました。

お蕎麦とお土産店もたくさんありました。
このあたりから、なんだか混雑してきました。
おそらく、私と同じように、「今日ならまだ温かいから」という理由でしょう。
なぜか犬を連れている人たちもいました(地元?)

本堂はこんな感じ。

近くに佛具がありました。
蓮の形をしています。

すごく秋を感じました。

と、その時、「忠魂碑」というのが目に入りました。

見ると、「陸軍大臣楠瀬幸彦」という揮毫
(左の碑です)

誰それ・・・

いつぐらいの方・・・?

お隣の「日露戦争戦捷」の山県有朋さん(長州)はおなじみですが・・・。

誰だろう、今まで本当に聞いたことない方だ。

調べてみると

楠瀬幸彦
(1858年4月28日(安政5年 3月15日) – 1927年3月20日)は、日本陸軍の軍人、陸軍大臣。最終階級は陸軍中将

とありました。

土佐藩士の子供として生まれ、海南学校→陸軍幼年学校→陸軍士官学校というルートで
陸軍軍人となられたかた。

これって山下奉文大将と同じじゃないか!

ただし山下大将は、「四国の小村の平民の子」だから、おそらく楠瀬幸彦(くすのせ ゆきひこ)さんの方が
出自が高かったと思います。

この楠瀬幸彦さん。
なぜ陸軍大臣にまで出世できたのか。
大臣にまでなられたのに、あまり知られていない(私だけかも?)のか?

楠瀬幸彦さんが陸軍大臣になられたのは
1913年の第一次山本権兵衛内閣(海軍)において、
軍部大臣現役武官制がいったん廃止なり、今後は予備役まで軍部大臣(陸軍大臣と海軍大臣)になれるようにし、
政党の軍部に対する影響力を強めようとしたときでした。
当時は、大日本帝国憲法があっても事実上元老と言われる人たちが政治に大きな影響を与えていたことに対して不満が増大し
第一次護憲運動まで発展したのでした。

この第一次憲政擁護運動の時の立役者だった尾崎行雄は

「彼等(元老)は常に口を開けば、直ちに忠愛を唱へ、
恰も忠君愛国は自分の一手専売の如く唱へてありまするが、
其為すところを見れば、常に玉座の蔭に隠れて政敵を狙撃するが如き挙動を執って居るのである。
彼等は玉座を以て胸壁となし、詔勅を以て弾丸に代へて政敵を倒さんとするものではないか」

(『大日本憲政史』)と言っていました。

陸軍としては、山県有朋元帥など長州閥が猛反対したが
山本権兵衛内閣の陸軍大臣・木越安綱中将がそれを押し切り
内閣として軍部大臣現役武官制のいったん廃止を了承したのでした。
山本権兵衛内閣が倒閣するや、後任の陸軍大臣として白羽の矢が立ったのが
この楠瀬幸彦さんでした。

楠瀬幸彦さんは陸軍大臣になられて1年もたたず1914年4月に辞任し休職してしまいます。
おそらく相当な陸軍部内の人間関係に疲れてしまったのでしょうか。

何だか、今日深大寺に参拝しただけなのですが、楠瀬幸彦さんというあまり目立たない大臣に出会えたことで、
第一次憲政擁護運動の頃がどういう時代だったのか、またまた勉強してみたくなり、興味の幅が増えました。

こういう小さな旅を通して、興味の幅を自分の中で広げていくような気持ちは
ずっと持ち続けたいと思います。
考え方が固定されないように。

堀栄三氏『大本営参謀の情報戦記』と一井唯史氏(元東電社員)のFacebook記事の並行読み

最近、軍組織と企業組織が似ているなと感じることが
多く(特に東京電力についてTwitterでつぶやいている)
今一度読み返してみたいと思う本がこの本です。

著者は堀栄三(1913-1995)氏。
この方は、東京陸軍幼年学校→陸軍士官学校(46期)→陸軍大学校(56期)を経て

※陸軍大学校とは、今でいう大学とは全く違うものです。
陸軍の高等教育機関で、少佐になるまでに入学できなければいけないという制限のもと
全国の部隊から優秀者が受験してくるところでした。
1回で入れた人(武藤章中将)もいれば、2回、3回受験も当たり前で
最後の受験でも失敗に終わってしまえば、
「せいぜいがんばって大佐になれればいいか」ぐらいの考えになるものらしいです。
つまりは陸大を出ていないと、中央部での勤務機会や
将官への途はほぼ閉ざされるらしいです。
失敗に終わった軍人のなかで、それなら部隊勤務に精を出そうとか
憲兵科に方向転換する人もいました。

いきなり大本営(参謀本部第二部)に配属されました(陸軍少佐・1943年)
30歳。

今の日本企業社会においては、ようやく難しい仕事も任せてみようと思われるぐらいかと
思います(もちろん大企業の正社員さまや、中央官庁の官僚という前提)。

当時の参謀本部では毎朝戦況報告会を行うこととなっていて
ここには、参謀総長(大将)や大臣も出席することもあったようですが
当時は次長(中将)が出席することもあったとか。
そういう偉い人が出席するとなると

「富永恭次陸軍次官が出席したときは、二重三重となってテーブルを取り巻いていた
周囲の者がさっと道をあけて、(富永)次官は地図の広げてある大テーブルの傍に立ち
あたりの周囲が一変して緊張した」

ぐらいだったことです。

堀栄三(当時少佐)は、ソ連担当の第五課に勤務してわずか二週間たらずで
いきなり有末精三第二部長(少将)から

「堀参謀は明日からソ連戦況の説明をやれ!」と無茶ぶりされました。

堀少佐はとても困惑され、
「まだソ連については詳しい地名も覚えていないので、もう少し暇をくれませんか」

恐る恐る正直な返事をした途端

「何を!そんな奴は参謀の資格はない!」というや否や、
起こった有末部長は堀の参謀懸章をひっぱった

(この写真の左側の編み込みのようなものが参謀懸章といいます。
これを上司に引っ張られたのでした)

無惨にも懸章は肩の部分の止め金が外れて、もう少しで引きちぎられそうになった。
情けないが、堀は
(※この著書内では堀栄三氏は、「堀」と称している。これはご自身でさえも客観的にみたいとする意志によるもの)
いまそれを引き受ける自信はまったくなかった。
大本営とは陸軍の俊才が集まるところであった。
俊才とはこんなときに、わかった顔をして引き受けるのだろうか。
目から鼻に抜ける人間が天下の俊才というのだろうか。
嘘でも丸めて本当のようにしゃべるのが大本営参謀であろうか。
しかし、どうもそうらしい

とにかく、じっくり型の堀は生れて初めて大勢の前で面罵された。
いずれにしても堀には、あのときあの返事しかできなかった。
出世街道をひた走りに進んできた有末部長のような幕僚型の人物とは、
こういうタイプの人物をいうのだろうか。」

「誰が、どのような手続きをしたのか、若輩参謀には皆目わからなかったが、
その翌々日、堀は電光石火の人事で第六課(米英課)に替えられてしまった。
(中略)挙句の果てに落第のような形で第六課にきてしまった。
いよいよ、米軍と真正面に取り組む情報の舞台に立たされたのであった。
迷惑だったのは、落第生を拾った第六課長杉田一次大佐だったはずだ。
実務型というか、実践型というか、人を育てて、その能力を出させるような使い方をする課長であった。」

章姫にとってはこの堀栄三氏の書物は、何度も読み返している本でもありますが、
今回久しぶりにひも解いてみて
いろいろと考えさせられました。

最近、Twitterでつぶやくことが多くなった東京電力との共通点が
まず二つ、見出せます。

ひとつは、パワハラが常態化していること。

もっとも堀栄三氏も、陸軍幼年学校(今でいうほぼ中学生ぐらい)から陸軍生活を
しているのだから、殴られるのは当たり前だろうと思うかもしれない。
陸軍の下士官世界での暴力はいろんな本で知ることもできるから
意外に思うかもしれない。
それを知らない堀氏でもあるまいに。
(陸軍士官学校を出ると、部隊に配属されるので、
そこで少しは下士官との接触もあるはずだから)

その堀栄三氏をして、これまで受けたであろう暴力・暴言を吹き飛ばすほど
有末精三参謀本部第二部長から振るわれた暴力が心身共にこたえるものであったこと。

電通社員で過労自殺された高橋まつりさんは、女子力がないことや、仕事が遅いことなどを上司に言われ続けたことをTweetされていましたが、

大本営の参謀本部での堀栄三氏や、東電の一井唯史氏が受けたパワハラというのは
やはり電通とは違うように思います。
陸軍も東電も、安全管理が第一の組織だから。

堀栄三氏も一井唯史氏も、
安全管理第一のために正直に答えり、行動しようとしたところ、
いきなり上司からの暴力・暴言があった。
頭ごなしに怒鳴られ、「なぜわからないのか?」とさえも聴いてもらえなかったところ。

ふたつは、(当時の陸軍は戦争中というのもあるが)
適性を無視した人事異動が激しかったこと。
一井唯史氏が東京電力の「無茶ぶり」な異動、組織改編と似ているように
思うのは私だけだろうか。

おそらく堀栄三氏は、「ソ連関係の情報参謀として落第」し、めでたく米英課へ異動し
そこで、よき課長・杉田一次大佐に恵まれたようだが。
一井唯史氏(東京電力)の場合もFacebookの311関連投稿から該当箇所を引用すると。

「◯賠償の第一陣として
賠償の第一陣として「産業補償協議 第8グループ」への異動辞令をもらいました
勤務地は東京都内です。
(中略)
自分が何をするのかわかりませんでした
とにかく被災企業との協議は一般個人の賠償に比べてかなり難しい業務になるだろうと予想しました
配属先が研修所だということもあり、そこから東北や関東の賠償の事業所に出張したり、
被災企業に赴いて協議を行うのだろうかと色々な想像をしました。
自分も含めて賠償業務に出た社員は会社の中では一軍ではありませんでした
賠償担当となったからには中核者になろう、もう電気事業には戻らないで30年は続くだろう賠償に身を置こう、
定年の時に賠償がようやく一段落して良かったと思えたらいいのではないか、そう考えました」
(2011年9月のこと)

「よくわからない形ばかりの研修の後、福島に請求書の書き方の応援に行き、ほとんど見たことがない一般個人の請求書を見ながら説明しました
この手の無茶振りは東京電力ではよくある話です」

一井唯史氏(東電)も堀栄三氏(陸軍)も、ご自身の立場を「一軍落ち」と思いながらも
新しい職務に意味を見出そうとされておられます。、

賠償業務が30年以上も続くと考え、その分野の第一人者たらんとされた一井唯史氏(東電)ですが、
与えられた場所、権限は以下の通り。

「研修所となっている元東電学園(全寮制の高校)の教室には電話機が用意されていました
マネージャーから説明がありました
「皆さんにやっていただく仕事は審査結果にご納得をいただけない被災企業からの問い合わせ対応です。担当地域は全エリアです。」
「謝罪をして審査結果にご納得をしていただけるまでご説明をしていただきます。
協議グループではありますが、皆さんには審査内容や審査金額を変更する権限がありません。」

その後どのように職務が変わっていったのかは、こちらに詳しいです。

「平成23年9月~平成25年6月末までの約2年の間、法人部門の賠償業務に携わりました。
2つのグループでグループを代表する役職を歴任した後、
平成25年2月18日~平成25年6月末までの約半年の間、
法人部門の賠償組織を代表し基準の責任権限を有する産業補償総括グループ基準運用チーム6名のメンバーとして、
複雑で難易度の高い賠償案件の相談を受けて賠償可否の判断や方向性の指南を行い、
法人賠償11グループ約450名を統括する重要なチームで賠償の指南役を務めました。」

研修所が新しい職場となってから、平成25年6月までの約二年間に
権限なしの謝り部隊(被災された企業様担当)
→二回のグループ変更(事実上の職務変更)
→法人賠償業務の指南役と、

この文章だけでもどれだけ東京電力が原子力事故対応だけでなく、賠償業務においてもまた
場当たり的であったかが読み取れます。

一方、陸軍は
堀栄三氏が異動となった米英課は、米英と戦争をしているのだから
さぞ、重要な職務なので、情報集めのための準備が十分にあったのでは思うのが、おそらく世界の常識だと思います。
しかし、米英課は、
「これが戦争の真正面の敵である米英に対する情報の担当課かと疑われるほど粗末であった。
杉田大佐は、(中略)泥縄式という言葉をあちらこちらで使っているが、
この人事や第二部の改編の目まぐるしさは、泥縄の見本のようなもので、(中略)
底流を見つめると、日本の国策を決定するための基礎となる最重要な世界情勢判断の甘さが大本営自身をも翻弄していたことがわかる。
その挙句、大本営は周章狼狽する。打つ手が後手後手になっていく。
そのツケは当然ながら、第一線部隊が血をもって払わなければならなくなる。」

この文章は、本当に、戦争に負けたあと、原子力の事故まで起こした21世紀の我が国において、
失敗の本質はいまだ変わっていないし、それにさえ気づかないふりをしようと
していることを、深く、深く教えてくれます。

今回は、Facebookなどで記事を拝見している一井唯史氏(元東電社員・原子力事故賠償)の文章と並行しながら、
堀栄三氏の『大本営参謀の情報戦記』の一部を読んでみました。
改めて、堀栄三氏の言われていることは、現在日本においてもまだ「新しい」ことに
残念ながら気づかされました。

武藤章中将著「山下奉文小伝」

山下奉文大将に関する伝記で最も古いものは
おそらく沖修二『山下奉文』(山下奉文記念会編 1958)だと思います。

しかし、その元となった伝記があることは
あまり知られてないかもしれません。

フランク・リール『山下裁判〈上〉』 (1952年)に掲載されている
武藤章中将が山下裁判の時に弁護団(フランク・リール大尉たち)のために書いた短い伝記が一番古いものだと思います。
※書物になった時の文章は、武藤が書いた文章が英訳されて、フランク・リール大尉が書物にしたものとなり、
その後日本で許されて出版される際に訳者となった下島連氏が和訳したものです。
よって武藤章中将が裁判の時に書いた時の文言とは相違もあるかもしれません。
けれど、文章が上手いと評判の武藤中将らしさ?が私には伝わるように思います。

武藤章中将の「山下奉文小伝」には、少年時代の山下さんに関する記述があります。

私はこの文章を読んでいたので、「杉の大杉」に行く時に、この文章が頭に浮かんできて、目にする風景を重ね合わせて楽しんでいました。

例えばJR大杉駅前の川を見ながら、こんなところで少年時代の山下さんは水遊びしていたのかな?とか。

JR大杉駅(土讃線)駅舎です。

大杉駅舎

すぐに穴内川(あないがわ)が流れてます。澄んでます。

穴井川

ここが旧邸跡です。

山下奉文旧邸跡

旧邸跡を見ながら、お祖父さんとの菊作りのやりとりはここだったのか?とか妄想していました。

杉の大杉(八坂神社)近くの美空ひばりの碑

美空ひばりの碑

その文章はこんな書き出しでした。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 山下奉文は、1885年12月8日四国のある小村の質朴な田舎医者の子として平民の家に生まれた。
その村は吉野川の上流の盆地にあって、四国の背骨として島の中央を走っている峨々たる山に取り囲まれていた。
 げに幼児こそは大人の父である。
誕生の場所と幼年時代は、未来の将軍の人格と性格の形成に大きな関係を持った。
近代文明の騒音から遮断された山間地方の孤立した静けさに抱かれて、少年奉文はのびのびした、健康な平和的な若者に成長した。
ー青竹を割ったような気質、開け放し、率直、勤勉、直情径行、これらは彼の今日の性格の基礎をなすものである。
 
 周囲の山は濃い緑の草木におおわれ、その間を無数の水晶のように澄んだきらきら輝く小川が縫っていた。
村人たちは世間擦れのした、金銭慾旺盛な都市住民のずるさやたくらみが全くなく、素朴で親切な、満足しきった人々だった。
実に奉文はその形成期をこの自然美と調和の環境、平和と満足の中ですごしたのである。
 山下奉文はのんきな、健康な、肉体的にも精神的にも敏活な少年だった。
彼はひまさえあれば、山や野原を歩きまわっていた。そのために両親と教師、特に教師はいくぶん心配したほどだった。
 
   彼の祖父は、素晴らしい菊を作っていて、毎年適当な季節に、最も優秀な品種の芽をつんで、よく地ならしした苗床に丁寧に植えた。
毎朝、自分で若芽に水をやり、細心に観察するのが、老人の仕事だった。ある年例によって芽を摘んで植えたが、根がつかなかった。

・・・不思議なことに、さし芽は次から次へと枯れた。
菊作りの名人は途方にくれてある朝、早く出て行くと、
孫が立入禁止の畑で、残っている芽を一つ一つ引っこ抜いては根を調べ、植えなおしているではないか。

 物も言えないほど驚いた老人は、すぐそれをやめさせ、この乱暴な行為を厳しく叱責した。ところが返事はこうだった。

「お爺さんは芽に水をやると根が出るとおっしゃいました。僕は毎朝根が出るのを待っていたのです」

  祖父は孫の澄んだ、ビクともしない目を見つめた。
それから、おだやかな態度で気に入っている品種の芽を彼に与えて、この自然児に、実験を続けさせた。
この公明正大さと知的好奇心はいつも同僚や競争者から際立っている彼の特徴だった。
 
  少年奉文は、自然を愛することを学び、自然も、また彼に多くのことを教えたとは言え、
彼は勉強を顧みなかったので、村の小学校で好成績をあげることができなかった。
彼の優しい母親は非常に心配した。
そして、祖母は時々少年を自分の室へ呼んで長々といましめた。しかし、その効果はなかった。
奉文は落第したことはなかったが、一度も優等賞をもらえなかった。
しかし、この田舎少年が、村から四十二キロ離れた町の中学校へやられると、成績が急に良くなって、
学年が終わった時、彼は誇らしげに帽子に優等生のメダルをつけて家へ帰った。
母親は非常に安心した。祖母はかわいい孫をうれし涙で迎えた。
(中略)
山下奉文大将の人柄と性格は、彼の天性、彼の教育と鍛錬、彼の軍人としての閲歴の綜合的産物である。

山下大将の性格を分析するにあたって自然の基本的法則であり、
彼の少年時代、青年時代の山と川と林に示されている調和と秩序を見逃すことはできない。
不和と貪慾は大将が最も憎んだ人性であり、
彼の同胞の中で、彼ほど飾り気や気取りがなく、世俗的野心にわずらわされなかった者は少ない。
・・・人間に対する深い信頼感は純粋で善良な人のみが持つ特質で、
この人物の広い心と高潔な性格に触れる幸運な機会を持った者は、たちまち、この真理を発見する。」

裁判中で、かつ抑留中なのに、武藤章中将はよくこの文章(中略部分は山下大将の軍歴)をかけたなあと思います。
ただでさえ裁判で疲れているのに、文章を書くというのは・・・。どれだけメンタル強い人なのだと
改めて思います。
そして、この内容をきちんと山下大将本人から聞き出して物語にするという文章力、
当時52歳だった武藤章中将の仕事力はすごいものだったと思います。

オステルン祭

本当に久しぶりの更新となってしまいました。

ところで本日は、キリスト教圏ではご復活祭りということで
各教会ではキリストのご復活を祝っていたことと思います。

私もどこかのカトリック教会のごミサに与りたかった・・・。
しかしながら、土日ともなると、日常の疲労がどっと出てしまい
なかなか教会にも行けないぐらいです。

さて、本日はその「ご復活」祭にちなんで
武藤章さんが、まだ大尉の頃
ドイツに留学していた時に、義理妹さんに宛てて書かれた手紙が
あるので

それをご紹介したいと思います。

オステルン・アイ
(画像はwikipediaより)

「豊子様 万歳!!
(※以下義理妹・豊子さんが学校に合格されたことを祝う言葉があります)

今日、当地はオステルン祭といって、
基督の磔になった日の御祭りの日です。

子供はオステルン・アイ(オステルンの卵)を両親から頂くのです。
それは昨日お母様が家の中に何処か知らんがかくして置くのです。
それを子供達は家中捜してまわるのです。
卵は真当なものもありますが、
大抵チョコレートから出来ております。
御祭りは日曜まで続きます。

二、三日前に洋服屋に参りましたら
御父様(※武藤さんの妻の父・尾野実信大将)の何時も作っていらっしゃった
服屋で、尾野大佐の寸法が六着も古い帳面にありました。
又、尾野大尉と書いたもっと古い帳面もありました。
服屋さんは大変正直者ですが、只今は随分貧乏して居るようです。

それから昨日、蓄音機を買いました。
レコードも六枚買いました。
下宿の連中大喜びで、六枚のレコードを夜の十時までかわるがわる
かけて居りました。

お終いにはダンスを教えるといって、私を廊下に引張り出しました。
そしたら私が足を踏んだので止めました。
独逸の人、大変音楽がすきで、一度ぐらいご飯を食べないでも
音楽を聞いたほうがよいというぐらいです。

もう日本は暖かになったことと思います。
伯林は一日置き位に寒い日と暖かな日とが来ます。
毎日寒暖計を見て冬と夏のマントを着て外出せねばなりません。
女学生になったら、お転婆を止めて電車にご注意!!

皆様によろしくよろしく」

出典:澤地久枝『暗い暦』(文春文庫 1982年)より

ドイツの復活祭って「オステルン(Ostern)」というのか・・・。
一つ勉強になりました!

武藤さんが独逸に留学していたのは
1923(大正12)年からです。

最初はベルリンに滞在していましたが、当時のドイツは第一次世界大戦の敗戦国。
人心は荒廃し、夜のベルリンはとても寒く、雪解け水の汚水にまみれた陰惨なものだった
と、武藤さん自身は巣鴨拘置所内で書かれた『比島から巣鴨へ』で書かれていますが、
義理妹への手紙ではそうした暗さを一切見せずに
異国での生活を伝えています。

武藤さんは軍事を学ぶためにドイツ留学したはずなのに
ドイツは当時敗戦国として軍備撤廃を国際連盟から監視されており、
日本人もドイツの軍隊を見ることができず、さらに加えて
日本人同士でつるんでしまう(当時、日本人留学生がベルリンに多くいた)のも
あり、武藤さんは意識的に彼らと離れて、この後ドレスデンにてドイツ生活を送ります。

なお、武藤さんに「ドイツに行って本当に勉強するなら、日本人のいないところがいいよ」
とアドバイスしたのが、何と山下奉文さんだったのです!
山下さんと武藤さんは、陸軍部内でのドイツ留学組というつながりでもあったのですね!

現在のように、ネットなどのSNSもない時代は、
何か人に教えをこうとき、その相手の私宅をアポイントとって訪問するというのが
普通だったのでしょう。
山下さんと武藤さんが直接若い頃から互いの顔を知っていたことは、
単なる陸軍部内の先輩後輩関係だけでない、何かがあったのかな?と
後年の生死をともにしたときの関係からみると思ってしまいます。

二人とも、同じような考え方を持ち、組織人として苦悩し、悲劇的な死を遂げたという
事実からも・・・。
なお、大切なことは、この二人とも
盲目的にドイツを礼賛していなかった、ということです。
武藤さんは、東京裁判中に「ヒットラー礼賛者」と言われていましたが、
そんなことはないです。
なぜなら、この時期、ヒトラーがミュンヘン一揆を起こし、すぐに鎮圧されており

”Hitler ist verrückt”(ヒトラーは狂気だ)
とドイツ国民が口々に評していたのを直に感じる機会があったことが
とても大きいのではと思います。

武藤さん自身はヒトラーを「成金は信用できない」という思いをずっと持っていたのです。
それは、ヒトラーが無謀な行為をして失敗しても、ドイツにおいては
一代の英雄として一時名をはせるぐらいであろうと。

・・・キリストのご復活のことを書くつもりが
こんな話になってしまいました。

武藤さんという人は、なぜかヒトラーを評価してないのに、ヒトラー礼賛者とされてしまったり、
ドイツを過大評価しすぎた当事者(陸軍省軍務局長)とされてしまうなんて
本当に悲劇な立場だったのだと思うのと、
武藤さん的立場の人の、自分を殺して組織として動くときの冷静さは
すごいと思うけれど、相当なストレスだったと思います。
これに耐えられる人ってなかなかいないと思います。

武藤章中将はインパール作戦をどう思っていたか?

武藤章中将は、昭和17年4月に、「栄転」と称されて
近衛師団長(在スマトラ・メダン)に赴任しました。

実際の着任は、5月11日だったようです。
(4月20日付ですが、それ以後、武藤さん自身が熊本に寄り
お墓参りなどしてから出発された)

武藤さん自身が陸軍省軍務局長という、陸軍大臣の補佐という立場を
離れるにあたっては、いろいろと噂もあったし、武藤さん自身も
いいたいことがたくさんありましたが、これはここでは触れません。

武藤さん自身は、支那事変の時は拡大論者で、陸軍部内での多数派代表だったけれど、
その後かなり反省をして、「支那事変を収束させ、アメリカなどとの戦争は絶対避けるべし」
という、当時としては「マイノリティ」な立場の中で、いろんな方面からバッシングを
受けていました。

そのような武藤さんが、実際初めて、シンガポール戦でも功績をあげた
近衛師団の長になって赴任し、驚いたこととは何でしょう?

軍隊一般はもう(大東亜)戦争には勝ったと信じている者が多かった」ということ
です。
さらに、スマトラの日系農園経営者なども、戦争によって更に利益が増えると考え
利益の分け前争いをやっていたということも。

そういう人たちに
戦争の将来は予測を許さぬから、戦力強化を第一に」というのは
相当な反発を買ったと思います。

比島から巣鴨へ―日本軍部の歩んだ道と一軍人の運命 (中公文庫)

耳障りのよいことをいうのは簡単だけど、
自分の思うところが、相手にとって耳障りのよくないことでも
きちんと伝えるのが、武藤さん流だったりします。
おそらく、山下大将は、武藤さんのそういう正直なところを
すごく信頼していたのではないかと思います。

武藤さんの近衛師団長時代からの副官・稲垣忠弘中尉によると、
武藤さん着任後3ヶ月かかってようやく、スマトラ島の空気が
戦勝気分ではなくなったとか。
これは武藤さん自身が、師団司令部にこもっておらず、
隷下部隊を視察し、指揮官たちに自分の意志を伝えるということを
何度もやったからだと思います。
これはかなり地味なことで、忍耐が強くないとできないことです。

その頃、近衛師団参謀長であった(武藤さんの参謀長)小畑信良大佐(陸士30期)が
少将に進級し、第15軍参謀長に栄転が決まりました。
小畑信良少将

稲垣副官によると、
武藤師団長の宿舎に挨拶にやってきた小畑少将と、随分長く話していたようで、
時々、武藤師団長の大声が聞こえてくるという
珍しいことがあったようです。

★武藤章さんは、よく怒鳴りそうに思われるかもしれませんが、
そんなことはなかった人だとは、近くに仕えた人の評価なのが
意外に思う方も多いと思います。

「インパール作戦」が計画されていたことに対する大反対<(`^´)>
だったようです。(副官の立場ではそれが精いっぱいだと思います)

何とか参謀長として赴任するにあたり、作戦を実行せぬよう
司令官を説得しろ!!!!

という様子だったとか。

それからひと月後、小畑少将が突然武藤師団長の宿舎を
訪ねてきて、
閣下!!力及ばず。クビになって帰ってきました
と無念そうに報告されたとのことです。

その後しばらくして、「死の行軍」インパール作戦が開始されました。