「子どもを何とかしろ」という声が聞こえた(坂本弁護士一家殺害事件)

中川智正被告が一番語るのが辛かった事件が、坂本弁護士一家殺害事件と思います。
中川智正さんにとっては、
オウム真理教に出家して2か月後に加担した殺人事件だったのだから。
坂本弁護士一家殺害事件について法廷で証言をし始めたのが、
2000年7月の自身の公判でした。
(「朝日新聞」2000年7月28日朝刊)

坂本弁護士一家殺害の謀議の場で、教祖の指示は何という言葉だったのでしょう。
例えば、岡﨑一明さんは「ポア」という言葉を教祖が使ったといい、
それに対して、教祖は「ポアなんて言ってません!」と言い返していました。
※この件に関する動画は、青沼陽一郎氏作成の動画が詳しいです。



中川智正被告の証言によると
殺害を意味する宗教用語の「ポア」ではなく
「やる」などという直接的な言葉で指示した
ということでした。
これは他の被告とは異なることでした。

さらに、坂本弁護士の息子さんだけではなく、妻の都子(さとこ)さんを殺害したことも
認めました。

事件については、
「二日前に実行犯らが松本被告の部屋に集められ、
教団を批判する記事を掲載していた週刊誌『サンデー毎日』の当時の編集長を
教祖と村井秀夫幹部が話し合った結果殺害する計画になった」

しかし、編集長が家に帰らないという話が出た時に
教祖が突然「坂本弁護士はどうだ」と言ったことで
殺害対象が坂本弁護士に変わったと主張しました。

坂本弁護士の名前が出た理由については
「説明がなかった」とのこと。

犯行の状況については、村井秀夫幹部が都子さんの首を絞めていたのを見て
「けい動脈を押さえなければ」と自分から言い、
村井秀夫が「代わってくれ」と答えたため
柔道の絞め技を使って首を絞めたと供述。
「私が絞めている間に奥さんが亡くなった可能性が高いと思う」と。

この2000年7月の公判の時以上に中川智正被告自身が落ち着きを失ってしまったのが
2001年3月9日の麻原第187回公判でした。
(「朝日新聞」2001年3月28日朝刊)

殺害場面に関する尋問の際、異様に興奮し、何度も証言台に突っ伏してしまいました。
法廷イラストはこちら。

証言によれば、共犯者の一番後ろから寝室に入った中川智正被告は、
他の共犯者が一斉に坂本弁護士に攻撃するのを
しばらく室内でぼうぜんと立ったまま眺めていたと。

すると、足元で、幼児が泣き始めました。
そのとき、中川智正被告には「子供を何とかしろ
という声が聞こえたといいます。
それは仲間の誰かが叫んだのではなく、
自分の心臓の中からの声」だと思ったと。
その後、隣で奥さんを攻撃していた「村井さん」の首の絞め方が十分ではないのが
分かったので、思わず「けい動脈!けい動脈!」と口走りました。
自分が過去世で『麻原尊師』にけい動脈を絞められて殺された記憶が
あり、それには宗教的意味合いがあると考え

「村井さん」に代わって柔道の技で奥さんの首を絞めたーーーというのでした。

この話は捜査段階ではなかったと検察側が追及

「そう主張するのは、自分の責任能力を争って軽くしようと考えているからではないか?」

それを言われてますます中川智正被告は興奮。
「たしかに書いてない。
検事さんはその話をしたとき、
笑って聞いてくれなかったじゃありませんか


そう言って、それまでも何度もメガネを外して、
証言台に顔を伏せるようにしていた中川智正被告は
そこに突っ伏して、長い時間、何も話そうとはしなかったとのことでした

さらに「朝日新聞」2002年4月20日朝刊。

この前日19日に、自身の公判において坂本弁護士事件関係の最後の被告人質問がありました。
その時にも「おわびのしようがない」と証言台に突っ伏して泣きだしました。

「自分の中には『教祖』松本智津夫(麻原彰晃)被告の想念が入り込んで来て、
自分は教祖と一緒にいるいう
笑い出したいような歓喜を感じた』」とまで供述。

なぜ事件に関与したのかの問いには

「一言で言えば、麻原氏の意識と自分の区別ができなかったから

「自首という発想はなかったが、
麻原氏がしろといったらしたし、死ねといったら死んでいた」と語りました。
この日の供述中、中川智正被告はずっと泣き続け、興奮し続けていたようですが、
たった一度、涙で途切れたのは。

オウム真理教被害者の会の一員として活動していた自分の母親が
事件後も息子の関与を知らずに、坂本弁護士一家の墓参りをしていることを
最後に語ったとき、ただ一度だけでした。

「遺族ははりつけにしてほしい、言っているというが、返す言葉はない」と
謝罪の言葉を語ってしばらく泣いた後、

それでも以後教祖の側近でいて事件に関与し続けた心境を聞かれると
中川被告は
怒られるのは嫌だったが、そばにいることが無条件にうれしかった
と「教祖」への思いを繰り返して泣き続けるという様子でした。

おそらく2002年の最後の被告人質問の時は、
中川さん自身がすべてありのままに語る覚悟で供述していたのだと思います。
特に神秘体験について。
言葉にするだけで自分自身何を語っているのか分からなくなるのを分かったうえで
壊れた姿を法廷で晒してまでも、神秘体験についてこだわって話していたことが
わかります。
これは、最初に新聞記事を読まなかったから、
私は分かったような気持ちになっているのだと思います。
これまで、私も中川さんの神秘体験を読んできています。



自分の母親が、自分の殺害した人物の墓参りをしているところは
泣かないで話すことが出来ていたけど、
自分の「心臓の中の声」について語るとなると
興奮状態になってしまっている姿がよくわかります。

当時の「朝日新聞」記事では、
「中川被告は自分のためにしか泣いてないのではないか」と書かれています。
それは、当然かと思います。
まさか、「巫病」「感応性精神病」「解離性精神障害」であるとは
新聞記者も、読者もわからない。
何で中川被告はこんなに興奮しているのだろうという
不思議な気持ちになったのではないでしょうか。

教祖との関わりは過去世からとも感じていたことも
宗教に疎い傍聴席の存在がないかのように
泣きながら言葉を探して語る姿。
これもまた、一つの人間の姿なのだ、と。
とりあえずでしか、理解できないです。
ここで、中川智正さんの中では
母親<教祖(過去世)と
教祖の存在が自分の中で親よりも大きいと考えていたことも
また、事実だったのでした。
坂本弁護士事件関連の新聞記事は、毎日新聞より、朝日新聞
(降幡賢一記者)の記事が詳細でした。

出典:降幡賢一『オウム法廷13』



毎日新聞社会部:『検察側立証すべて終了―オウム「教祖」法廷全記録〈7〉』

日本の歴史、世界の歴史に汚点として残ることをした

1999年に入っても
中川智正被告は相変わらず証言しようとはしませんでした。

麻原の第103回法廷(1999年1月14日)に出廷した際に
麻原弁護人側から
「世間はあなたの気持ちを理解していない。分かってもらえないのは寂しいとは思わないか」
といわれた時
中川智正さんは
それは分かっていないでしょうね
両手をひざにのせ、天井を見上げ続けたまま。

その時教祖も、口をすぼめて目を閉じて、うつむいたままでした。

なお、中川被告のあとに出廷した遠藤誠一被告は、明確に
「松本被告がサリン噴霧を指示した」と、
麻原が直接松本サリン事件時に、弟子に直接指示を出していたことを初めて証言しました。

遠藤誠一さんと中川智正さんでは、
後に、確定死刑囚になったあとも沈黙をしていた遠藤誠一さんに対して
逆に拘置所内において論文を発表したりとアクティブだった中川智正さんの姿から

中川智正さんの方が先に教祖のサリン事件関与に関して証言し始めたように思えるかもしれませんが、

裁判内においての証言は、遠藤誠一さんの方が先であったのは
意外かもしれません。

2000年2月3日の中川智正公判において、VX襲撃事件の被害者・永岡弘行さんが検察側証人として出廷しました。
自分が犯した事件について「時期が来たら話す」としか言わない中川智正被告に対して
生ある限り、今日ただいまから事実を述べていただきたい。
誰が見ても、後悔の念がにじみ出ていると思える態度でそうしてほしい。
前途ある青年が、二度とあのような大罪を犯すことのないよう
現役の信者に、それは間違っている、というひとことを中川くんが残してほしい

という言葉に対しても、

中川智正被告は、ずっとうつむいたままで、時に泣き出しそうな表情でした。

この日に、永岡弘行さんは被告に対する被害者としての処罰感情を主に聞かれました。
オウム真理教家族の会(旧・被害者の会)の会員として、ともに息子を奪回するために
活動をしてきた中川智正被告のご両親を思うと、
正直、こうしてほしいと申し上げることはできない」といい、
永岡弘行さんを襲撃するために使った注射器にVXを注入したのが中川智正被告だと判明したときに
まず、中川被告の母親から電話を貰ったが、お母さんは私が電話に出た途端
何も言えなくなり泣くばかりだったとも証言しています。

裁判の休憩が終わり、再開したときに、少し遅れて入ってきた中川智正被告を見た永岡さんは、
思わずその顔を見ると、
中川智正被告が永岡さんの目を見てそっと会釈しているのが分かったと。

なんでこの子が、この青年が」とたまらなくなったとのことでした。
(以上、「朝日新聞」2000年2月4日朝刊)

その一月後、2000年3月末でした
中川智正被告の心変わりがあったのは。

地下鉄サリン事件について、いつもより詳細に語ろうとする姿勢を見せた中川智正被告に対して
どうせ自分は死刑と、なげやりになって調書の内容はどうでもいいと思った」といったあなたが
なぜ今詳細に語ろうとするのか、心境の変化があったのかと聞かれると

「自分が死刑になっても償いができる性質のものでない。
ものすごく大きな事件、
日本の歴史、世界の歴史に汚点として残ることをした、と少しずつ分かってきた。

これで自分の人生は終わり、どうでもいい、という感覚が消え
生存したい、というのではないが、残りの人生をちゃんとやらなきゃいけないと思うようになった
(以上、「朝日新聞」2000年3月31日朝刊)
おそらくこの裁判の時であったと思いますが、

青沼陽一郎『私が見た21の死刑判決』(文春新書)の中に詳細な内容もあります。



これについては、故・中川智正氏、被告時代の苦悩(その2)
でも引用していますが、
今回も再引用したいと思います。

「家族や友人から、きちんと話した方がいいというアドバイス、
あるいは法廷で証言する最後の機会がこの時であるという進言を弁護人から受けたことがあった。」
と言い、
「それと・・・私事ではあるんですが、実は最近、親戚が増えたんです」
・・・私は子供をつくれないけど、身内に子供を生んだものがいるんです。
その子は私が何をしたかを知らない。
おそらく一生会うことはないでしょう。
むしろ会わないほうがいい・・・。
だけど何十年か経って、身内の私のことを考えて
『この人はいったい何を考えてこんなことをしたのかな?』と理解されないのでは
残念な気がしたんです。
言っていること、わかってもらえます?
自分が死刑なるとわかってて、
人間の世界が終われば、別の世界に転生すればいいと思ってた。
でも私が居るいないに関係なく、
この世界は増えて、続いていくんだな。
きちんとしないといけないな、そう思ったんです。
あと、麻原氏の念というか、想念を感じることが一時あったが、
それがなくなった


中川智正被告はその後、一転して発言をするようになります。
すると教祖はどういう態度をするようになったでしょうか。

麻原第161回公判(2000年6月22日)において
麻原はこのような不規則発言をしています。

お前の大好きなブッダを」
「お前、やめろ」
「麻原彰晃、松本智津夫はお前の父親」
「脚力は強いんだ


以前であれば、黙り込んでしまっていた中川智正さんでしたが、
はっきりと不愉快な態度を見せています。

阿部文洋裁判長は、そんな中川智正さんに対して
「何も聞かなかったことにしましょう」と声をかけました。

この麻原被告の態度にも変化がありました。
これまでは「どうせ中川くんは話さないから」と思っていたから
口をすぼめていたのでしたが、
中川智正さんまで話すようになってから
必死になって止めようと、
お前の父親は俺だとか言い出すあたりは、
きっと麻原は不規則発言をしながら、法廷の内容を理解していたのではないか
と思えてなりません。

中川智正さん自身も、この2000年の心境の変化が大きかったと思います。

死刑が確定しているのに論文を拘置所から発表するなどの行為に
つながっていくのではないでしょうか。
中川智正さんのしたこと自体
「日本の歴史、世界の歴史に汚点」

自分は死刑になるけど、その後も世界は続くのだ。

だからこそ、自分は自分のしたことについて、
出来る限り正確に語っていきたいと。

中川智正さんの論文発表については賛否両論でることは
おそらく中川智正さん自身が「想定の範囲内」だったと思います。

事件の内容を語ることに意欲的だったのはなぜだったのか。
死刑執行後に出版することにこだわったのはなぜだったのか。

中川智正さんとしては
第一に、「自分が確実に死刑執行されて罪を償うこと」
第二に、「死刑執行前に自分のしたことを正確に書き残すこと」
と決めていたからではないでしょうか。
こうした自身の身の処し方をみても、2000年3月末というのは
大きな意味を持つのかと思います。
しかし、麻原の想念が入らなくなったと自覚してからも
苦悩はさらに続くこととなります。

「ため息をつくより、早く話して楽になったらどうですか」

麻原公判の第94回目(1998年10月16日)に証人出廷した中川智正被告。
この日は、検察官からも麻原弁護人からも、

そしてタイトルにあるように
阿部文洋裁判長からも



※イラストは、青沼陽一郎氏動画「麻原法廷物語」より

「ため息をつくよりも、早く話して楽になったらどうですか」といわれるほど
証言中、何度も身をよじり、傍聴席に聞こえるぐらいのため息をつき続けていました

この日は、松本サリン事件、地下鉄サリン事件に関する尋問でした。
「私の法廷が11月25日にあるので、そこで正確にお話したいので、今日はお話しできかねます。」
それに対して、阿部文洋裁判長が
その時に言えるなら、今言ったらどうですか

検察官が呆れた様子で
サリン生成、事件の謀議、準備、実行、実行後のほとんどすべての証言を拒絶するのか
「あなたは、1995年6月3日、6月5日、6月6日付の3通の検察官に対する供述調書を示されたと思いますが」
と問いただしたことに対しても

「今日はお話できかねます。有罪判決を受ける恐れがあるからです」

確かに、過去の新聞をたどると、逮捕されて1月立たない1995年6月には
中川智正がサリン事件に関わっていた供述をしたという記事が出ています。
しかし、なぜこのように頑ななのでしょう。
これは今さらながら、過去の新聞を読み漁っている私もそうですが、
当時、傍聴に行かれていた方は皆そのように思っていたに違いありません。

段々いら立ちを隠さない検察官が
「検事調書と違うと言われて、なぜと聞くのは当然だし、あなたには答える義務がある」
「答えないのはフェアではない」
さらに阿部文洋裁判長までもが
いったん言ったことは、証言拒否権を放棄していることになります」とくぎをさしました。

それに対して、中川智正被告は
基本的には誰にも話したくない
「新しい弁護人との間で自分の裁判の準備が進めば話す可能性があるので、待ってほしいと言っている」
(弁護人が、裁判開始後両親が雇った方から他の方に変わったころでもありました)
記憶通りに話して罪が重くなっても、それはしょうがないんじゃないでしょうか

さらに麻原弁護側からも
「なぜ、事実と違うことを供述の段階で検察官に言ったの?他人に罪を転嫁するためなのか。
自分で罪を背負うつもりなのか」
「あなたがしゃべらないことで、相当な混乱が起きていることは分かっていますか。」
中川智正被告は、「分かります。よく分かります」

こういうやりとりが一時間半続いて、この日は時間切れで終わってしまいました。
ただし、サリン原料のメチルホスホン酸ジフロライド(ジフロ)を保管していたのは、
自分といったけど、実は井上嘉浩被告であるということを言い出しました。
このことが、16年後も尾を引くことになるとは、当時は誰も考えていなかったでしょう。

阿部文洋裁判長が最後に
真実を明らかにしないといけません。真実は一つです。
苦しそうな顔をしたり、ため息をつくより、
しゃべった方が楽になるんじゃないですか。
また来てもらいますからね
」という姿を
中川智正被告は、口を一文字にきっと結んで、じっと見つめていたとのことです。

このとき、教祖はどうしていたのか。
不規則発言ではなく、居眠りをしていたということです。

逮捕後の取り調べでは、サリン事件について早くから供述をしていたのに
いざ裁判となると、なぜ沈黙するのでしょう。
この中川智正被告の沈黙がオウム真理教裁判を引き延ばしさせる結果となったのは
確かだと思います。
実行役の豊田亨・広瀬健一・林郁夫被告などはみな語りだしていたし、
教団との決別を明確にしていたのに比べて
製造役とされた中川智正・遠藤誠一被告は事件については認めるも、
裁判の場で証言を拒否する姿勢を、1998年当時は取り続けていました。
そのこともあって、サリン事件の全容が裁判の中でもつかめない状況だったのでした。

その中でも、中川智正被告は、なぜこんなにも話したがらないのでしょう・・・。
身をよじってため息をつく姿を想像するや
私は、少年犯罪を起こした高校生ぐらいの子供がふてくされている姿を
想像してしまいました。
そして、1時間半の間、証言台でため息をつき続ける姿を晒しているのも
随分な修行だなあと感じました。
青沼陽一郎氏が麻原に対して言われた「無頓着の実践」とはまた
少し違うようにも思えますが。

でもこの人、当時30代だったのですよね・・・。

さらに、両親が金銭的に苦労をして雇った弁護士を、
自分の裁判の都合ということで解任してしまったころで、
ご両親の不安、心配は、想像を絶するものであったと思います。

しかし、中川智正被告が「記憶通り話して罪が重くなっても仕方がない」と話しているあたりは
今後の裁判を見ていくうえでキーになることではないでしょうか。

なお、この日の傍聴希望者は115人とのことで
中川智正被告初公判の4158人からすると
かなり関心度が落ちたことがわかります。

「対話本」から中川智正さんに興味を持った人は、



「なぜ中川智正さんのような頭がよくて誠実な人が麻原なんかに・・・」
と強く思うはずです。

実際は、このような時期が長かったのですが、
その部分が「ないこと」となってしまっていることを改めて思いました。

だからこそですが、朝日新聞や毎日新聞社会部は、一連の書物を
再刊してほしいと強く願います。

私は都内に勤務していてそのついでに、資料に接することができますが、
Twitterから私のブログを読んでくださっている方の中には
中川智正の姿を知りたくとも
その資料に直に当たれない状況なのです。

地方では図書館にオウム真理教関連の書物がないのです。
おそらく古い書籍は廃棄やリサイクルされてしまって
ないのでしょう。

テレビ放送では不十分です。
あくまで当時の裁判記録に近いこれら書物の再刊を
強く求めます。

オウム真理教裁判がどのようなものであったのか。
そして中川智正さんという人を深く知りたいという人のために。

中川智正さんがどのような姿であったとしても
読者は、いろいろと想像するでしょう。
人物を複眼的にみる機会になるでしょう。
その機会さえ失われるのはもったいないことだと思います。

参考資料:
「朝日新聞」1998年10月16日朝刊


「こっちを向いてしゃべるように」

青沼陽一郎氏の「麻原法廷物語」を見て、
オウム真理教裁判の様子に驚いた人は多かったと思います。
厳粛な裁判の場を激情のまま、「劇場」に変えてしまった。
私も驚きました。



さて、この裁判に33回(いやもっとかも。正しい数字がぱっと出てこない)
出廷した中川智正さんがこの場にいたら
どんな感じになるのでしょう。

例えば、第28回公判(1997年2月28日)

出典は



中川智正被告は麻原裁判の弁護側証人として出廷でした。
この人は、裁判中、紺色のジャケットにグレーのスラックスという
きちんとした服装をしています。

淡々と宣誓したあと、「本題」
検察官:「あなたは坂本弁護士殺害に関与しましたか」
中川:「今日それについてはお答えできません」
検察官:「その理由は」
中川:「自己の裁判で有罪判決を受ける恐れがあるからです」
検察官:「将来もするつもりがないということですか」
(中川、少し考えこみ)「もう一度お願いします」。
中川:「ええと、全くないというわけではありません。弁護士に相談の上」
検察側がここで、1995年9月26日から10月11日までに取られた検察官調書8通を1通ずつ示す
検察官:「末尾の署名、指印は証人がしたものですか」
中川:「それも今日は確認できません。」
※これを8通あるため、8回くりかえした。

麻原の主任弁護人:「このまえはいくつか話してくれたんですか。今日は話してもらえないんですか」
麻原:「話せばいいんだよ」
(中川、下を向いて困ったように黙り込む)


弁護人:「今日は、証言するのをやめようと思って法廷に見えたんですか」
麻原:「弁護人がそんなこと効くのがおかしいんだよ」
(法廷に失笑がもれる)

弁護人:「証言するかどうか、葛藤があるのですか」
中川:「それは常にあるんですけど」
(ここで、弁護人からいろいろ問い詰められる中川)

「地下鉄サリン事件についてもそうだったが、すべてを話したわけではない。
坂本事件に関してもどうしようかとおもっているところがある」
2時20分、「あなたがたは・・・・何を・・・」麻原がつぶやく、
テーブルを手のひらでバンバンたたく。絶え間なく動いている・・・。

その間も弁護人の説得が続いている・・・。

弁護人:「取り調べで検事が質問するしつこさと、私が質問するのとでは、
どちらがしつこいかなあ」
中川:「それはもう、比べ物にならないくらい・・・」
弁護人:「私の方がしつこい」
(と、言葉を引き取ると、法廷内に爆笑が起きた)
弁護人:「でもね、あなたには本当のことを証言してほしいんだよ。
ここは取調室よりは自由に話せると思うが」
中川:「それは、話しやすいと思う」と吐息交じりに応じる。
麻原:「何を聞いているのか。私は意見陳述したいんだ」
阿部裁判長:「弁護人の質問が続いているのだから」
麻原:「私が弁護人だ。私が麻原彰晃ですから」
尋問がおわり、ほっとした表情を見せる中川被告に、主任弁護人が
「ちょっと一つだけ」と申し出る。
座りなおす中川
弁護人:「この前も今日も、何か書き物を持ってきているけど、何に使うの?」
中川:「記憶が混乱しないように」

阿部裁判長:「ついでに聞くけど、さっきメモとっていたのは、何を書いていたの」
中川:「さっきはあの、時期を思い出すため。
それから弁護人が『こっちをむいてしゃべるように』といったのを、メモ取るつもりもなく
書いてしまいました。


法廷にどっと笑いが起きて休廷。(その後新実被告の証言になる)
—————————————————————————————–
青沼陽一郎さんの動画で中川智正があまり登場しないので
麻原法廷に中川智正が出廷した時、どんな雰囲気になるのかと
その一つを毎日新聞の第28回法廷から引用してみました。

当時中川智正さんが書いたんじゃないかな?というメモを、
本人の書いた字を想像しながら昨日、復元してみました。



教祖は、中川が出てきたとき、明らかに意識しています。
中川に圧力をかけているのがわかります。
中川には圧力かければ、黙り込むのがわかるから。井上嘉浩とは違って。
おそらく中川が知っていることを話されるのが怖いから。
不規則発言も、「私が弁護人だ。私が麻原彰晃だ」と
まだ中川に対して、「教祖」であることを誇示するような態度をして
発言させないようにしているのがうかがえます。

毎日新聞の記者は、証言をしない中川被告に対して
「自分自身に対する有罪判決への恐怖感から証言しない」と書きました。
私も当時読んだなら、このあとに大阪府警の隠語である、「戒名」(罪名のこと)
が中川被告に与えられるのは無理だと思いました。

しかし、この人には「戒名」以上の何かがあるとは、当時はまだ感づいている人も
いなかったのではないか・・・。

故・中川智正氏、被告時代の苦悩(その2)

中川智正さん自身が被告時代、どのように裁判を受けていたのだろう・・・。

とりあえずは手に入りそうな本を探したところ、Amazon でこの本を見つけました。

オウム裁判傍笑記 青沼陽一郎

私が見た21の死刑判決 (文春新書) 青沼陽一郎



上の本では中川智正裁判関連よりも、元教祖の裁判中の態度について
当時新聞では知りえなかった内容が書かれています。
もしかしたら、オウム裁判傍笑記の書籍よりも、ほぼ同内容のYoutubeがあるので
そちらを見る方がお金がかからないでしょう。
3本目の動画には、早川喜代秀さんが教祖の命令により女装して普通列車で熊本から仙台まで
逃亡した話があります。不謹慎ながら電車の中でこの箇所を読み、涙を流して笑ってしまいました。
面白い話をありがとうございます。
女装組には、村井秀夫もいたことになります。









ただし動画中には、中川智正、土谷正実はあまり出てきていません。

そこで、下の「私が見た21の死刑判決 (文春新書) 青沼陽一郎」

それによると、中川智正は、裁判に臨んで、事件の事実関係について証言することをずっと拒んでいたと。
教祖はもとより、誰の公判に呼び出されても、一切を黙秘して語ろうとはしなかったらしいです。
しかし、いっしょにサリン生成中に事故で死にかけた土谷正実とは仲がよかったらしく
互いの法廷に証人として呼び出されていくと
満面の笑みで無言のうちに再会を喜んでいた
でもふたりは事件について一切を語らなかったと。

そんなある日中川の法廷に一人の弁護士が証人として出廷しました。
その弁護士は、滝本太郎さんでした。
これで有名かと思います。



空中浮揚をされた方です。

淡々とした裁判が終わろうとしたところ
滝本太郎弁護士は
「あ、あの!被害感情は聞かないんですか」
一瞬にして、傍聴席からドッと笑いが起きました。
滝本太郎弁護士もまたサリンの被害を受けているということを法廷中の誰もが
忘れていました。
「裁判所にも聞いてほしいことがあるのですが」
それを見て、証言を引き取ったのは、中川の弁護人だった。
中川の背後から立ち上がって、「それじゃあ、どうぞ」と反対尋問の延長として促しました。
滝本太郎弁護士は、それからおもむろにズボンのポケットからメモを取り出し、それを証言台の前に開いておいて
静かに語り始めました。

それ以下のことは、こちらのサイトに詳しいです。
http://www.cnet-sc.ne.jp/canarium/siryou1.html#資料1
滝本太郎弁護士関連資料サイトらしいですが
このサイト内のエピソードで、中川智正さんが逮捕2日前ぐらいに
杉並・永福町のアジトにて林泰男さん(この人も確定死刑囚)の前で
耐えられない。これ以上悪業を積みたくない」と泣いていたというのは初めて知りました。
中川智正が逮捕されたのは杉並の路上ということだから、泣き続け、放心状態になって
路上をふらついていたところだったのかとも思いました。
ここからは章姫の想像ですが、中川智正さんは逮捕されて、「ほっと」したのではないかとも
思いますが、その後の法廷で4年沈黙を続けられたのは、私には理解できない部分です。
—————————————————————–

「結論から言うと、中川智正被告について、厳正な処罰を望みます。
しかし、死刑にはしないよう、強く望みます。

 理由は少し長くなります。
 私は、元々死刑廃止論者ではありません。
むしろ何人かを残虐に殺したとき、原則として死刑にすべきものと思っています。
中川被告は極悪非道の行為をした。
浜口さん殺人事件、假谷さん事件、多くの殺人未遂事件、松本サリン、地下鉄サリン
そして八九年の坂本一家殺人事件。あなたは多くの人を殺した。多くの人を苦しませた。
松本サリンで殺された七人、地下鉄サリンで殺された一二人、一人ひとりの人生があった。
あなたはその命を奪い、多くの人を苦しめてきた、今も二人の人が重態のままです。
しかも、私の事件での一件記録からも明らかなとおり、あなたはいわば遊び半分で事件を起こしたこともあります。

 あなたの手をみせて下さい。あなたはその手で多くの犯罪を犯した。
あなたは、一九八九年十一月四日未明、その手で坂本龍彦ちゃんの鼻をふさいで殺した。 
龍ぼう おばあちゃんがお歌をうたってあげるね 
トンボのメガネは水色メガネ 
青い空をみてたから 
みてたから 
もう一つね 
メェーメェー 
森の仔山羊 森の仔山羊 
仔山羊走れば小石にあたる 
あたりゃあんよがあーいたい 
そこで仔山羊はメェーと鳴く 
龍ぼう 元気で早く帰っておいで 
おばあちゃんがだっこして 
又、何回でも何回でも 君の大好きなこの歌 うたってあげるから

 あなたはなぜ坂本堤を殺したんですか。なぜああも簡単に殺したんですか。
坂本は、池で溺れているあなたたちを助けたいと活動していたのです。
なぜ都子さんを殺したんですか。なぜその手で龍彦ちゃんを殺したんですか。
なぜサリンまで作ったのですか。
 私はあなたをほんの少しも許しません。
現世だけではなく、もし来世というものがあるなら、あなたの来世でも、そのまた来世でも許さない。
オウムでいうならば、何カルパでも、何万カルパでもあなたを許しません。

 でもそれでも、私はあなたを死刑にしたいとは思わない。
オウム真理教を知れば知るほど、そのマインド・コントロールと洗脳の実態を知れば知るほど、あなたを死刑にしたくはない。
 オウム真理教は強烈な破壊的カルトでした。
破壊的カルトとは
「教祖または特定の主義主張に絶対的に服従させるべく、
メンバーの思考能力を停止ないし著しく減退させ、
目的のためには違法行為も繰り返してする集団」を言うと思います。
 思考力を停止させるために使われたのは、マインド・コントロールと洗脳です。
マインド・コントロールとは
「対象者の思考能力を減退させるべく集積されシステム化された意識・思想・感情の操作手法の総体のうち洗脳を除いたもの」
を言うと思います。
 松本智津夫は、[豊かな社会」で生き甲斐と現実感を失った若者を引き付ける方法を知っていました。
 第1には、自分が絶対者だと称することです。
それも現世においてだけ絶対者であるというのではなく、
来世そのまた来世でも、それ以外のアストラル世界とかコーザル世界と言われる世界をも乗り越えた絶対者であり、
そんな「真理」を知る最終解脱者と称します。
通例の神という概念よりも、より高度な存在だと主張します。
この主張は、極めて魅力的なものです。
人は、支配されたい欲望、時にマゾヒスティックにまで絶対的に服従してしまいたいという欲望を特つものです。
この欲望を刺激されたとき、松本智津夫は強烈に魅力的な存在になります。
 第2には、様々なマインド・コントロールの手法を駆使します。
松本智津夫は極めて巧妙に、さまざまな手法を集積しシステム化してきました。
自己を権威化する手法、ダライラマや阿呆な知識人など外的な権威を利用し、賞賛手法、
赤ずきんテクニック、催眠・暗示テクニック、フットインザドアテクニック、ローボールテクニック、
人・物・時間の限定テクニック、
一本釣りテクニックを使い、報恩性の原理、同調性の原理を利用し、
ハルマゲドンや無間地獄などの強烈な恐怖説得、更に集団催眠の手法、秘密の共有という優越感の利用法、
そしてルビコンの川手法など使いました。
説明すれぱきりがありませんが、ここまでの手法が使われたとき、
どんな人が松本智津夫にはまってしまってもなんら不思議はありません。
 第3には、神秘体験という魅力あるフックがありました。
以前は、空気を大量に吸うことによるつまり、過換気症候群や、呼吸を止めることによる低酸素性脳症を狙って神秘体験をさせました。
勿論、監禁部屋に長くいれておいて変性した意識状態にさせ、神秘体験もさせました。
後にLSDや覚醒剤まで使用しました。
神秘な体験は脳生理学的には説明がつきますが、
体験をした本人にとっては、まさに「現実」であり、薬物と分かっている者であっても現世の方が「幻」になってしまいます。
その体験をさせてくれるのが、松本智津夫であり、彼が造ったシステムなのです。
 破壊的カルトにおいては、組織は教祖のおもいのままになります。
松本智津夫は、決して精神病者でも宗教家でもありません。
彼は、権力欲と社会への恨みと、強烈な破壊願望という煩悩に支配された人でした。
勿論誰でも、私も煩悩に悩まされる存在です。
私も、松本とともに輪廻の大海に浮沈する生き物です。
しかし、松本ほどに強烈な煩悩にさいなまれている人間はまずいませんでした。
ですから、彼がこの煩悩を実現するためにオウム真理教を作ったとき、行き着くところは見えていました。
タントラ・ヴァジラヤーナの思想は、松本の思想が凝縮されたものであり、信徒は彼の手足だったのです。
 そして中川被告のように幹部ともなれば、松本の破壊願望が伝染しているものであり、
二人組精神病の二人目と類似した状態になっていたと思います。
幹部は、いわば松本智津夫の手によって新しい人格をつけられ、
歪んだ自己実現をはかったということになると思います。
その結果、松本は、オウム真理教のメンバーの能力に応じて物理的に可能なことは、すべてできたのです。
言い替えれば、松本の代わりはいないが、中川被告の代わりは、いくらでもいたのです
 そんなあなたを、死刑にしたいとは思いません。たとえ本人が死刑を望んでも止めたいと思います。

 あなたとしては、今できることが2つあります。
1つはあなたの知る限りすべての真相を明らかにすることです。たとえ元の法友に迷惑をかけようと話す義務があります。
2つは、松本智津夫と自分自身について思索し尽くし、すべてを話すことです。
迷う時は迷うなりに、心の動きを正直にすべてメッセージにして下さい。
 その2つによって、今も残る「尊師には深い考えがある」と誤解している現役信徒の、
たとえ一人でも松本智津夫の桎梏から解き放つことができます。
殺された人、苦しんでいる被害者が、少しですけれど癒されます。
そしてこんな悲劇を二度と起こさない力になります。
あなたも一つの命を与えられた者として、その義務があります。
 それをしたときにのみ、あなたは、懺悔し、謝罪する資格があります。
つらいからといって話すことをやめてしまうとき、
あなたはざんげする資格も謝罪する資格もありません。
あなたは松本智津夫ではありません。あなたは、必ずや話してくれると思っています。
 以上の理由から、中川智正被告について、厳正な処罰を望みます。
しかし、死刑にはしないよう、たとえ本人が望んでも死刑にはしないよう強く望みます。』  

「手を出しなさい」と言われたときの中川智正は、自分の手を目で確認してから、少しおどけたように体の前に構えてみせたと。 
ぐっと顎を引いたまま、真っ赤な顔になっており、身の置きどころを失ってしまったらしいです。

これだけいわれても、この頃はまだ、話そうとはしなかったのでした。
この滝本太郎弁護士の語りは1997年頃。
さらに二年たっても相変わらず中川智正は、事件について語ることが
なかったのでした。
このころには、地下鉄サリン事件や坂本堤弁護士一家殺人事件の実行犯に、相次いで死刑求刑がでるように
なったこともあり、なぜか弁護側の立証に入ったときに
口を割らなかった中川智正が語り始めました。

「どうせ死刑だとあって、なげやりになっていたはずのあなたが、どうして
今ここで事実関係を話そうというつもりになったのですか」

「とりとめもない話です」と前置きしてから
「ひとつには今でも死刑になると思っているし、それは変わりありません。
そういう意味の責任から逃れる気もありません。
ー責任という言葉を使ってしまいましたが、それで責任がとれるとも思っていません。
私が死刑になった、だからといって何が変わるかといったら
なにも変わらない。
ご遺族、被害者、何も変わらない。
関係のないところで私が死んでいくだけのことです。
プラスになることでもなければ、私が死んでも、償いになることではないことが
少しずつ分かってきた。・・・」
そこへ、家族や友人から、きちんと話した方がいいというアドバイス、
あるいは法廷で証言する最後の機会がこの時であるという進言を弁護人から受けたことがあった、
と言ったそうです。
「それと・・・私事ではあるんですが、実は最近、親戚が増えたんです」
「・・・私は子供をつくれないけど、身内に子供を生んだものがいるんです。
その子は私が何をしたかを知らない。
おそらく一生会うことはないでしょう。
むしろ会わないほうがいい・・・。
だけど何十年か経って、身内の私のことを考えて
『この人はいったい何を考えてこんなことをしたのかな?』と理解されないのでは
残念な気がしたんです。
言っていること、わかってもらえます?
自分が死刑なるとわかってて、
人間の世界が終われば、別の世界に転生すればいいと思ってた。
でも私が居るいないに関係なく、
この世界は増えて、続いていくんだな。
きちんとしないといけないな、そう思ったんです。
あと、麻原氏の念というか、想念を感じることが一時あったが、
それがなくなった」

この頃に出版された書物がこちらですが
現在私が借りられる図書館では見つかりませんでした。
国立国会図書館しかない・・・。
文庫本なのに。
Amazonで見たら、7000円!
高い!
おそらく7月26日発売の「中川智正との対話」にあたり比べ読みで
目をつけている人が沢山いるという事かと思いました。


多分、中川智正さんだけは死刑ではなく無期懲役にしてほしいという人が多いのも
その後、彼が多く語るようになったからだと思います。
滝本太郎弁護士の言葉がどれほど響いたのかはわかりませんが

確定死刑囚になる前に、アンソニー・トゥ名誉教授と会いたいと申し出たのも
語るチャンスを失いたくないという強烈な思いに突き動かされたのか、とも
思いました。
この人からもっと多くの言葉が聞きたかったのに、死刑執行は残念でなりません。