「武藤は政治家にでもなる素質がある・・・」

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写真は、昭和14年、北支那方面軍参謀副長時代の武藤章少将(天津英仏租界事件の際に東京にやってきたとき
朝日新聞が撮影)

これは、停戦後、俘虜生活中(まだ戦争裁判の前)に
身の回りのお世話をしていた元参謀・一木千秋少佐に
山下大将が言っていたことです。

出典:一木千秋 著 ; 吉田勉 編 『アシンー回想の比島戦』(早稲田速記 1999)

山下さんは武藤参謀長を密かに?
「政治家にでもなる素質がある」と評価していたのだと
すごく意外に思うのではないでしょうか。

山下さんは、まず人を評価するに「あれはこうこうで、ダメなやつ」というそうです。
(おそらく「床屋漫談的」に毒舌がきつい人なんだろうなと思いますが
私はその毒舌ぶりを資料で読んでは、
ひとりほくそ笑んでいますε=ヘ( .∀・)ノ.∀・).∀・)ノ゙アヒャヒャヒャ)
同郷(高知県)の政治家濱口雄幸のことも「ダメなやつ」と連発していたとのことです。

そんな山下大将が、自分の参謀長でもあった
武藤中将をそう評価していたんだなあ・・・、と。
山下大将こそ、「総理大臣になってほしい!」という声が
特に青年将校たちからあがるぐらいではありました。
一方で武藤さんは「無徳」(ムトク)と言われるほど
人望がないという評価を下されがちであるのですが・・・。

一番武藤中将を信頼していた山下大将の武藤中将の人物評価として
こんなことを言っていたというのは
山下将軍自身の現在でも誤解されている言動の数々を考えたりするのに
役にたつのではないかなあと、以前から思っていたところです。

例えば「岡田(首相)なんてぶちぎれ!」と青年将校たちに言ったことなど・・・。

三越で品物を買うな!

この言葉
ちょうど昭和初期頃、陸軍省軍事課長(大佐)ぐらいの
山下奉文さんが、家族に言っていた言葉です。

に

山下さんは、財閥が大嫌いだったようです・・・。
そんなところが、あの二・二六事件の時に青年将校に同情的だったとして
誤解される原因でもありますが・・・。

山下さんは、自宅での夕食の時にも、よく
「栄耀栄華している大金持ちがいる一方で、今日も食べる米もない人々のいる
今の日本は、何とか改革しなければならぬ」
と話していたとか。

さらに贈り物なども、お金持ちには持っていかない人だったけど、
出入りの大工さんや職人さんを大切にしていたとは、
義妹・永山勝子さんがいうところです。

岡田啓介内閣の陸軍大臣を事務的に補佐する要職にありながら
貧富の格差問題に目を向け、財閥はもっと国のために奉仕すべきだと
いう考えを持ち、周囲に話していたのが
この人の興味深いところでもあります。

山下さん自身が、少年時代から貧乏であり(お父さんが小学校教師から医師に転職)
さらに、妻の父が陸軍少将をリストラされたことや、実の兄が海軍を辞めて開業医に
なったものの志半ばで病死するということで、自身が公務員(陸軍軍人)という
安定した職業についていながら、軍人(公務員)以外の職業の大変さを
肌で痛いほど感じていたということが大きいと思います。

→以前のエントリーはこちら

そんなことが昭和初期当時の政策に少しでも活かされていたら・・・
山下さんという人を、陸軍大将まで栄進した「勝ち組」の側面だけで
見ないで、現在にもこのような考えの方がいてくれたら・・・と思うのは
私だけではないでしょう。

財閥こそは国のためにという山下さんの考え方は
シンガポール攻略戦時の日誌にも
このようにかかれています。

「(昭和17年1月)5日 (中略)
14時頃イポーに着く、華僑の女学校に入る。これも寄付金により建てるものなりと。
彼らが公共のために資金を出すことは日本人に比して甚だ大なり。
日本の金持ち共は参考にすべきなり」

出典:

現在なら、山下さんは「三越でモノを買うな」と言われるでしょうか?
私は、言わないような気がします。
現在の三越は、伊勢丹などと合併したり、店舗をいくつも閉鎖させたり
新宿の三越のように業態変換(アルコットとして)させて、ロフトや
大規模書店を2フロアに入れたりしても、なかなか業績が振るわないらしいです。
写真は日本橋三越で、かっこいい建築物ですが
維持するのも大変だろうと案じています。

以前なら、私自身が若かったのもあるかも!?ですが
新宿のデパートに行けるということが、楽しみで嬉しかったりしたのですが、
今では、新宿には行くものの、見慣れていた店舗が撤退してしまい
代わりに某大規模洋品店や、大型家電量販店が入るようになってしまい
寂しく思います。
それ以上に、何も東京に行かなくとも、郊外の大型スーパーでもいいやという
気持ちになります。
そう、三浦展『ファスト風土化する日本ー郊外化とその病理』のように。

そんな今の状況を、山下将軍は何と言われるのでしょう・・・。
お聞きしたいです。
「大型店のせいで商店街が潰れたと同情するのはやめにしたい」
などとは言わないと、勝手に思います。

私自身も値段とか利便さを求めて郊外大型店についつい
行ってしまうんですが・・・。
同情以上の深刻さが背景にあるように思えてならないのです・・・。
商店街にノスタルジーとかは私自身感じません。
シャッターが次々降ろされたあとに、少ない資金で
カフェなどを持たれて、バイトを雇い、地域新聞に広告を出して
いつも綱渡りで頑張っている商店街の新しい店舗を見ると
すごいと思いますが、それでも私自身がゆとりがないため
立ち寄る、というより覗くぐらいが関の山です。

また、大型店に関しては、確かに外観はきれいだし、便利ではあるけど業績が悪ければいつでも撤退するよ
という建物のような感じを持っています。そう、以前グアムで買い物をした免税店のように。

新年のご挨拶

あけましておめでとうございます。

本年も拙ブログをよろしくお願い申し上げます(m。_。)m

「軍人の道は一本道」のブログを開設したのは平成21年2月でした。

振り返ると

あるテーマに取り組み始めて行き詰まったり
生活のための仕事に追われていたり

ブログの更新が滞ることが多かったです。

それでも自分のただ一つの
自由な勉強の場として
続けてこられて良かったと思います。

リアルに人に会うと、「よく思われたい」という気持ちから
「空気を読もうと頑張って」合わせてしまうことが多い私ですから

顔が見えない、ブログという場を大切にしていきたいと思っております。

今後とも、よろしくお願い申し上げます。

本年は、これまでよりも意識的に更新頻度を上げてみたいと
思っております。
それは、現在は歴史とは全く関係のない仕事をしていて
自分のライフワークである歴史の勉強を
おろそかにしたくないと思うからです。
(だからこそ、「自由」に歴史に取り組めるとも思っています。)

ということで、新年は私の「院号」の方にご登場願いましょう!

山下将軍

山下奉文将軍(昭和18年1月撮影・第1方面軍司令官・陸軍中将)です。

牡丹江は当時は雪が降っていなかったのでしょうか?
将軍の方々も、正月などの写真を撮るときは
勲章などもつけていらっしゃるようです。

この勲章のついた軍服は、かなり重いものらしいです。

この翌年に山下さんがフィリピンに転任になる際に
一時帰国し、天皇陛下に拝謁を許された時には
親友でもあった阿南惟幾陸相のところに連絡をして
足りない勲章を「借りた」ということです。

養子の九三夫氏が挨拶に行った時
山下さんから、勲章のたくさんついた
軍服を着るように促されてきてみたところ
とても重かったとのことです。

ちなみにこの養子の九三夫氏は職業軍人になることを
山下さんから期待されていたけれど、
視力が悪くて試験が受けられず
山下さんがものすごく落胆したとか。

その報を受けたあと、山下さんと車に乗っていたところ
いきなり
「お前はここから、歩いて帰れ!」と怒鳴られ
車を下ろされトボトボと徒歩帰宅したとかいう逸話もあるぐらいです。

子供のいない山下さんは、せめて養子には軍人になってほしいと
強く思っていたのに、それさえ叶えられなかったので
こんな言い方(今だったら問題でしょう!)になってしまいました。

しかしこの勲章のついた軍服
そんなに重いものなんですね〜。

昭和20年8月15日前後の山下軍司令部

毎年、今の時期になると、テレビでは「終戦記念日」シリーズの番組が放映されているようです。
しかしながら、私はテレビは見ないので、もっぱらFacebookやTwitterなどで、大体どんな内容だったのかな?
とつかむだけでした。
もっとも、今年はそんなゆとりもなかったですが。
本当は「九段会館」ネタを書きたかったけれど、労働で疲労している中で、
頑張って、酷暑の中休日にまで東京に行って資料の確認するのも体力的に無理です。
よって、今回は8月15日前後の山下大将・武藤参謀長の行動について書いてみたいと思います。

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この写真は、バギオ(フィリピンの観光地であるけど、もう野戦生活に入ったころで
二人ともゴルフクラブを杖かわりにして持っているところから、戦況の厳しさが伝わってきます。
当初の司令部があったマニラ郊外の豪奢な司令部を率先して離れることで、
隷下部隊に、戦況の厳しさを示す意図もありました)での一コマでありますが、
二人とも、厳しい戦況の中でも穏やかな表情で、互いを信頼し合っている雰囲気が
伝わってきます。私個人は、このツーショットも好きな写真の一つであります。

参考文献は以下になります。

山下大将・武藤参謀長が、停戦を知ったのは、8月14日のことでした。
海軍側からの情報でした。当時の海軍は、陸軍とともに行動していました。

武藤参謀長たちは、ポツダム宣言なるものを受諾したことは承知したが、
ではそのポツダム宣言とは何か、ということはまったく理解していなかったとのことでした。
その数日前から、アメリカ軍の飛行機からは日本の降伏を知らせるビラが落ちてきたとのことでしたが、
武藤さん自身は、その情報を信じたくなかったとのこと。

武藤さんの理性では、一年前にサイパンが奪われたときに負けを確信していたが、
この8月15日フィリピンの山奥での感情では、
「敗戦を信じたくなかった
この日のフィリピン・プログ山の大和基地では、秋雨が降っていたと。
それを武藤さん自身は生涯忘れることがない、と書かれています。

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この地図を見ると、全ての方面より敵の米軍から包囲されていることが
よくわかります。
米軍は山が苦手だということを理解していた山下軍司令官は、とにかく高い山へと登って
何とか戦うことしかできなかった。
日本側も戦死よりはむしろ餓死者、戦病死者を多数だしながらも、
十分な医薬も食糧もなかったこと。
兵隊が死んでいるのを毎日目にするのはどんなにつらかったことだろうと
思いました。

停戦の情報をいち早く入手してきたのが、
『運命の山下兵団』を著した栗原賀久(よしひさ)中佐でした。
栗原参謀自身は、その情報を伝えたあとのことをこんなふうに書かれています。

「気持ちも身体も泥のように疲れて、そのままそこへへたばってしまいたい気持ちであった。
負けた。負けた・・・。たちまち血汐が沸き上がってくるのを感じた。
しかし、その後で何よりも一番本心らしいものは、
なんといってもほっとした気持であった。
恥ずかしいかもしれないが、実感であった」と

その気持ちのまま、まずは武藤参謀長に申告に行った。
武藤さん自身も実は気持ちの動揺が沸き上がってきながらも、
部下の参謀からみた限りでは、平然としていつもと同じだったとのこと。
幕僚たちに、自分の心中を見せまいと努力していたと思います。

武藤参謀長は、まず宇都宮直賢参謀副長(少将)らを呼び、
次のことをとりあえず決められました。

●全比島にある日本軍に、命令を徹底せしむること
●軍紀・風紀を厳粛にして、皇軍最後の面目を発揮
●患者・一般邦人をもれなく山岳地から救出する
●兵器・弾薬・機密文書の処置
●停戦期間中における食糧の処置

このあと、各参謀たちは自分たちの寝所に戻ったが、
武藤参謀長と山下大将は、深夜までいろいろ話し合ったとのこと。

こうなった上は、一人でも多く生還させることが、我々に課せられた
責務で最後のご奉公だということに一致したそうです。

そのあと、栗原参謀の手記には興味深いことが書かれています。

武藤参謀長が山下大将の小屋をでると、そこには山下大将の専属副官・樺沢大尉が歩哨をしていた。
その樺沢大尉にむかって

「おい、樺沢。今晩は気をつけてくれよ」
「はい、わかっています。」

「分かってる?何が分かっているんだ?」
「はい、これでしょう?」

樺沢副官は真剣な面持ちで、手で腹を切るしぐさをしてみせた。
すると、武藤参謀長は、はじめてにっこり笑い
「うん、そうだ。よろしく頼むぞ!」
そしてくるりと背を向けると、足の短い蟹股で自分の小屋に帰っていったと。

それから樺沢副官が山下大将の小屋に入って、黙って隅の腰掛に腰を下ろしました。
山下大将は、じろりと見ただけで、何も言わなかった
毛布をかぶりかけた大将が、副官を振り返り

「おい、もう帰って寝ていいよ」

といったが、樺沢副官は少しも離れようとはしなかった。

「閣下、今晩はここにおかしてください!」

「おい樺沢、心配するな。俺は決して自分一人で行きやせんから。
ルソンにいる兵隊を内地に返す大任が、まだ俺には残っているんだ
今更俺一人が死んだって、どうにもならんよ。
いいから、安心して、寝ろ寝ろ」

山下大将は、世間的には「マレーの虎」と渾名され
剛将と見られているけれど、
実は、感情的になる部分があることを、最も身近にいる
専属副官や、参謀長にはお見通しであったのではないでしょうか?

武藤参謀長は、長年の山下大将との付き合いで、
山下大将の責任感は強いけど、感情的に脆い部分を
しっかりとありのまま受け止めていたと思います。

山下さんは「俺が死ねばいいのだろう?」ぐらいのことを武藤さんに
話していたのかもしれません。
だから武藤さんは、万が一、山下司令官が一人で切腹されたらと心配して
念には念をいれて、山下大将の専属副官にもしっかり言い含めていたのではないか。

一方山下大将も、自分の弱さを見せられるのは武藤参謀長と信頼していたので、
樺沢副官が小屋に入って寝ずの番を決め込んだのも
武藤参謀長が言い含めたことも、自分の専属副官が自らの直感より
山下大将が自決しないように見張りにきたことを察知していたと
思います。
そこで、「ルソンにいる兵隊たちを内地に返す大任がある」と副官にいうことで
安心させたのではないでしょうか。

私は、ここで自決をしなかった山下大将は、すごい人だと思います。
こういうのって、敗軍の将の言動だったりするので、あまり顧みられることは
ないように思うのですが。

さらば、九段会館

ついに九段会館の取り壊しが決まりました。

いつかこの日がくるのではないかとは思っていましたが・・・。

東京新聞より

>東日本大震災による天井崩落事故で多数の死傷者を出し、閉館した東京都千代田区の九段会館が取り壊されることになった。
一九三四年に軍人会館として建設され、三六年の二・二六事件では戒厳司令部が置かれた歴史を持つ会館だった。
老朽化もあって震災後の営業再開はできず、
「帝冠様式」と呼ばれる特徴ある建物が姿を消す。
取り壊し後は、民間資本による新たなビル建築が予定されている。 (新開浩)
 会館は鉄筋コンクリートづくり地上四階、地下一階。「帝冠様式」の外観は、洋館ながら日本の城のような屋根が特徴だった。戦後は一時、連合国軍総司令部(GHQ)に接収された。
土地と建物が国に返還された後、五三年から日本遺族会に無償で貸し出され、同会がホテルや事務所を運営してきた。

東日本大震災による事故で多数の犠牲者を出してしまい
そのまま営業再開もされないまま、ついに取り壊しになってしまうのは
予想できたこととはいえ、さびしいです。
震災当時、九段会館で天井が崩落し、多数の死傷者が出るほどだったということを
知った時、私も東京某所(別の区の築40年のビル)にいたこともあって
恐ろしい気持ちになったことを思い出します。
この天井事故にて亡くなられた方々の御冥福を今一度祈るとともに
昭和初期の建築がこれでまた、一つ姿を消すということで
これまで、私自身が写していた写真を出してみたいと思います。

まずは全体を

九段会館

上部には「ガンダムのような飾りが」
何の意味があるのでしょう?

九段会館の「ガンダム」

参考:お台場のガンダム
ガンダムお台場

最後に「おそらく山下奉文大将がフィリピンに赴任する前夜を過ごされた部屋」(外から)

山下奉文大将日本最後の日

この部屋については、震災よりずっと前に写真を撮りに行った時に
駐車場にいらした方に聞いてみました。
「山下将軍が日本最後の日を過ごした部屋ってあの辺りでしょうか?」と。

「よくわかりませんが、偉い方の宿泊された部屋はあの辺りだったとは思うんですがね」
と言われました。

この駐車場にいらした方、とても九段会館に詳しく
いろんなお話をしてくださったことを思い出します。
震災後にこの職場を離れていると思いますが
どこかで元気にしていてくださいと遠くより念じております。

人を使うに道あり

山下将軍

本日は、山下将軍のシンガポール戦時の日誌にかかれたことを
ご紹介したいと思います。

山下将軍は、あまり日誌を書くという習慣はなかったようです。

シンガポール戦の時に書かれたものが残っているぐらいらしいです。

その中には、今読んでも「新しい」ことが記されています。
・・・ということは、大東亜戦争以前から現在にいたるまでの
日本における労働問題にも相通じるものがあるのではないかと
思います。

1942(昭和17)年1月5日条(在イポー マレー半島)

「十時 徴用人員を集め一場の訓示をなす。
彼等自我心に駆られ、只利害関係のみに眩惑し、
この度徴用せられ、死生の地に立たしめられたることに
関し、甚だしき不平あり。千載一遇の時機、自己の腕を
国家の為に揮うというが如き、意気あるもの
一名もなし。

又陸軍当局も、彼らの身分待遇、留守宅に対する保証等一つもなく、
只一片の命令により、行先不明のまま放りだしたるにより、
不平不満、何等権能も知識もなき引率者に喰ってかかりしものなり。

人を使うに道あり
人を使うには理解の上にて用うべし。
由来陸軍の小役人には空威張りするものあり。注意を要す。」

何だかこれを読んで、私がもしこの時代に生きていたならば、
きっと山下将軍に「自我心に駆られた不平者」と判定されていた
だろうな・・・。

でも、そのあとが大切ではないでしょうか。

「陸軍も人を雇うならば、身分と待遇の保証があってしかるべきなのに、
それもない上、行先不明のまま放り出すのも問題で、
そのため、徴用された不満を直接の引率者にぶつけている。
陸軍の担当者も役人という立場に胡坐をかいて空威張りしている暇は
ないだろう」

確かに大東亜戦争に敗戦し、帝国陸軍はなくなりました。
しかし、その後高度経済成長を経て、現在はどうでしょうか。
労働者に対する待遇はよくなったのでしょうか。

私自身は、新卒主義という企業の採用を知らずして社会に出、
非正規雇用で一年で切られてくることを繰り返し、
あげくに正規雇用になったと思いきや、どんなに頑張っても
評価されず、自分自身が病気になってしまい退職となりました。
そのことを恨んでもしかたはないですが・・・。

現在、派遣切りだけでなく、正社員・契約社員という身分の下、
長時間労働せざるを得ない労働者がどれだけいるのか?

また経営者は、労働者が働きやすい環境を用意するよりも
いかに安く雇い、スーパーマンのように働かせるかということに
目が言っているのではないでしょうか。

正直、今は日本は、大東亜戦争のような戦時中ではないけれど、
もしかしたら、戦時中よりも酷い状況で労働者を酷使しているのでは
ないでしょうか。
長時間働いた末に体調を崩して退職しても、保証はないに等しいです。
再就職も厳しいです。
派遣という働き方においても、当初の約束とは違っていたり、
様々な理由をつけて契約終了で生活の糧が簡単に奪われてしまうのです。
そんな中で、「自己の能力を発揮」するのは難しいのが人情です。

そこを何とかせよ、と山下将軍はシンガポール作戦中、何度も
思っていたようです。

私はここの部分を読んだとき、山下さんは身分が安定している
「公務員」なのに、ここまで考えられるのがすごいと思いました。
徴用された人たちの立場と気持ちがわかっている・・・。

きっとこの人は、意外に苦労していたのではないかなあーーーー。

山下大将の妻の父は、大正期に陸軍少将という立場をリストラされました。
その後は自営となったけれど、事業がうまくいかず、自殺寸前まで
追い込まれたのです。軍人という職業も決して安定しているわけではない。
さらに将官だったのもあってか、今の自衛隊出身の将官とは違って、
大企業に顧問として迎え入れられたのでもないのです。
むしろ、将官だったゆえに、社会から排除されてしまっていたといえます。
そのような妻の父の苦しみに寄り添っていたのが山下さんだったと言えます。

山下さんのような方が経営者だったら、どんなに頑張れただろうか。
空威張りせずに、労働者の気持ちが分かっている方だから、
厳しいことを言われたとしても、
「この人についていきたい」と思わせる何かがあるに違いありません。

現在の我が国のブラック企業の経営者と、それを容認する政治家
私立学校などの学校経営者(兼教育者)には、
山下大将のような考えををもって人を使う人がどれだけいるのだろう・・・。

参考文献